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2011年1月29日 (土)

雲南・大理 洋人街から博愛路へ

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雲南といえばやはり大理(大理古城)、バックパッカー達の間では既に大理は俗化し過ぎて少し北の納西族の町・麗江に、更にチベット圏の方へとどんどんと溜まり場を北上させていたけれど、ぼくは俗化したとはいえ背後に蒼山山脈が連なり前方にはアルハイ湖が拡がった風光明媚な白族の古都・大理が居心地好い憩いの場所であった。
 ぼくが訪れた頃は昆明からの長距離バスだったのが、今じゃ鉄路が開け大理から少し下ったアルハイ湖の南端の下関まで列車で向かい、そこからバスで赴けるようになったらしい。

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 真っ白い雲がゆったりと蒼山山脈の嶺峰から下方のアルハイ湖に向かって流れ、その下に白壁に黒瓦、家によっては瓦の上に青々と緑滴る雑草が繁茂していたりする長閑な光景は捨てがたい。大理の町のメイン・ロード、復興路は、市が立つ日曜ともなれば、カラフルな衣裳を纏った周辺の少数民族の女達や買物客・観光客であふれ、押し合いへし合いしながら人波の間をかいくぐって進むしかない程の賑わいだが、普段はそこまで多くはなく、一つ横町に入ればもう人影も疎らな静かな佇まいの町だ。

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 大理には二度訪れた。宿は小さなゲストハウスの類も少なくなかったものの、《紅山茶賓館》(大理市政府第二招待所:通称「二招」)の煤けた旧い建物のドミトリー(多人房)。最初の時はまだレストランや珍妙な洗濯場なんて備わっていたのが、二年後に再び訪れた折にはもう無かった。真新しい新館が建ち、そっちには改革開放的恩恵とばかりの中国人達が泊まっていて、外人やパッカー達の姿はまず見られなかった。
 ここは、玄関が決して巾の広くはない外人観光客相手の店々の建ち並んだ洋人街(護国路)のど真ん中にあり、裏口が洋人街と直角に交わる博愛路(四路)側にもあった。当時は水事情なのか、造り自体の問題なのか、建物の脇にある共同トイレが頻(よ)く詰まったりしていたのが難点であった。

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 苔ならぬ雑草の茂った瓦屋根民家に「中国工商銀行」の看板が。

 大理は標高のせいもあろうが夏頃が雨季で、結構冷える。フィールド・ジャケットを着て丁度好いくらいで、二階の奥にあったシャワーが短時間にもせよお湯が出たのは救いだった。来る日も来る日も篠つく冷雨は身も心も沈鬱にさせる。洋人街の店々も冷気を遮断しようとぴったり入口の扉を閉め、普段は誰彼と愛想の好いひょうきんなビート・タケシに似た靴の修繕屋が、商売があがったりになって次第に顔から笑みが消え更に暗い面持ちになっていったのには他人事ながら身につまされるものがあった。民族衣装に身を包んだ暢気なハンディークラフト売りの白(ペー)族のおばさん達と違って、靴直しなんて儲け巾が知れているからだろう。又その顕われ方の差違は、男と女の性向の違い、それともそれぞれが置かれた立場・情況の相違故なのかと、博愛路の《菊屋》の奥のテーブルに、フィールド・ジヤケットのジッパーを胸元まで引きあげたまま坐り、四路を篠つく細雨を眺めミルク・ティー(奶茶)でも呑みながらあれこれ思念したものであった。

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   回族の菓子屋(パン屋もある)

 十年ぶりに大理を再訪したというある旅行者によると、洋人街は当時まだ普通の民家が並んでいるだけで、ここでは老舗の《太白楼》も老板(主人)の親爺さんが自分の民家の中に客を引き入れ自ら料理を作っていたという。つまり、短時日の改革開放的飛躍的大発展って訳のようだ。共時的に、パキスタンの楽園フンザの町も同様にあっという間にホテルだらけになってしまったのと同様。
 《太白楼》はとりわけ日本人バックパッカー御用達といわんばかりであったのが、二度目に来た時にはもう親爺さんから息子の代に移り、貧乏たらしい日本人パッカーより金払いの好いファラン(白人)御用達にシフトを変えていた。正に正統派改革開放路線そのまま、毛沢東の紅衛兵ならぬ"走資派"鄧小平の申し子ってところ。
 日本人パッカー達も、洋人街に隣接した博愛路に場所を移行させていて、《菊屋》《ヤク・カフェ》《ハッピー・カフェ》《櫻華園》等に溜まっていた。とりわけ、姐妹珈琲(カフェ)たる《菊屋》がダントツに人気があり、他の店はオフ・シーズンで閑古鳥が鳴いていても、《紅山茶賓館》に泊まっていた連中がそのまま移動して来て、《菊屋》だけには常に客の姿が絶えなかった。
 
 何しろ小さな町ではあるし、互いに仲が良いらしく、《太白楼》の親爺さんの姿も見掛けたし、通りを挟んだ前の《ヤク・カフェ》や隣の《明雅閣》の小姐達も《菊屋》に来ては姉妹と長々と駄べったりしていた。そんな長閑な雰囲気が好い。
 当時、姐妹珈琲《菊屋》の前の博愛路(四路)を走っていた「4路公共汽車」の大型バスの停留所の標識が軒下に吊してあり、留め具の溶接部分が取れていつも傾いていたのを、神経質なのか世話好きなのか無聊なのかのパッカーが針金で繋いで直していた。翌日には又傾いていて、飽きもせず毎日同じ作業をそのパッカーは繰り返していた。見てると下関方面に向かうそのバスはかなり頻繁にやって来ていて、その標識の下側赤地の上に青字で「隔5分鈡発一班車」とあった。なるほど、5分おきに走っているのか、と了解はしたものの、えーっ、こんな中国の田舎町でそんなに頻繁に? 中国の辺境も、正にスピード時代なのか、と思わず感心してしまった。最近のブログの写真だと、もうその標識は無くなっていた。姉の方も、もう子供も出来て、店もすっかり洗練され小綺麗になってインターナショナルな世界中何処にでも有るような佇まいになってしまった。

 この町には回族も少なくはないらしく、モスクもあり、伝統的な回族の菓子屋も何軒かあって店の造りはともかく異国情緒溢れる雰囲気が好きで、食べようとするとポロポロと崩れ落ちる中国(回族)菓子をあれこれ選んで買った。玫瑰という四角い粉菓子風は、だけどポロポロ崩れたりはせずけっこう歯応えがあり美味かった。四個紙に包まれていて一元は安く、年寄り連中が並んで買っていただけのことはあった。真ん中の層に紅い餡(アン)が挟まっていてこの紅色が玫瑰(はまなす)の紅を想わせることからの命名なのだろう。素朴な味わいが実に好い。

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  復興路に面した回族の店。地元客向け。
 

 雲南といえば米線(ミーシェン)、特に過橋米線が有名だけど僕は余り好きではない。むしろ砂鍋米線、土鍋で煮て作った米線が唐辛子が利いてかなり辛いが気に入っている。昆明の今は無くなった旧市街の回族の店《一品軒》の小碗のが一等美味。大理にもあるが、こっちはむしろ同じ米から作ったコシのある餌絲(アルスー)が美味く、地域によって太さ色々のようだ。大理は太め。《菊屋》の本棚にあった《大理旅游度假指南》によると、アルハイ湖近辺で採れた米を使い、蒸籠(せいろ)で蒸し、石臼で細かくひいて、更に薄片になるまで圧し、細糸状に切ったもの。コシ(弾性)のあるのが特徴とある。僕の喰ったのは、上に上質の鶏肉ののった奴で少し高めだったがその価値はあった。

 雲南は広く又種種様々な少数民族が居て、廻ろうとしても到底一年や二年では巡れきれない。つまり、訪れてないないところが大半で、行き残して悔やんでいる処も少なくなく、もう随分とご無沙汰だけど、又チャンスが出来たなら是非訪れてみたい。勿論大理にも。

  Yungnang DALI  Drink Menu  1997

menu          菊屋  太白楼 yaku-cafe
緑 茶                      2:00     2:00     1:50 
紅 茶                      2:00     2:00     1:00
檸檬茶                     4:00      ー    4:00 
茉莉花茶                  2:00     2:00     1:50
奶茶(珍珠:蜂蜜入り)  5:00     4:00     5:00
姜 茶                      3:00      ー      3:50(加密)
雲南珈琲                  3:50     4:00     5:50
 〃 (牛奶)              3:50    4:00      ー
可 楽                      4:50     5:00     5:00

                             *  単位(元)

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