« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »

2011年4月の3件の記事

2011年4月29日 (金)

《 もう一人の孫悟空 》 李 馮

Photo

 そもそも異国=世界に想いを馳せるという衝動を醸成するに至った第一のものが、東アジア的にとりわけ子供達にとって悪戯心と好奇心(冒険)の権化たる《西遊記》であった。東の果ての細長い列島の住人、つまり日本人の異国情緒、異郷・秘境的あるいは怪異的冒険心を幼少より刻み込まれ、ことある毎に掻き立てられつづけてきた能動的情念(パッション)の震源地。勿論中国(支那)趣味的な色彩も帯び、更に西域・天竺(インド)の原色的絢爛も。それは又、空想(イマジネーション)的官能の距離比ともいえよう。( 尤もそれは一昔前の話で、テレビ・ゲーム以降の世代では又別様 )

 中国は明の時代に、呉承恩(号・斜陽山人)によって作られたという定説も最近は怪しくなってきたようだけど、それ以前から陋巷で膾炙(かいしゃ)していた「西天取経」的な説話が、この時代に一つのものに編纂されまとめられたのには変わりはない。
 荒唐無稽・天衣無縫な空想譚《西遊記》には、《西遊記》自体にも異同な版本があり、更に後に出た別伝あるいは続編的なものもかなりあるようで、国内でも何編か翻訳され紹介されている。明末・清初の薹若雨《西遊補》邦題:鏡の国の孫悟空(東洋文庫)なんかは有名だけど、この1993年に『北京文学』に発表された李 馮(リー・フォン)の短編《もう一人の孫悟空》は、取経後の唐朝時代から現代までのかなり長いスパンで物語は展開されている。

Photo_2

 後に張芸謀監督(チャン・イーモー)の《十面埋伏》邦題:ラバーズ、《英雄》邦題:ヒーロー、そして于仁泰監督《霍元甲》邦題:スピリットの原作や脚本を手がけすっかり有名になってしまうが、1989年の所謂《天安門事件》世代で、束の間の高揚から一転奈落の鬱々とした閉塞情況に業を煮やした如くこの短編が発表されたようだ。
 原題は《別一種声音》、直訳すると「もう一つの声」the other voice。
 '89年当時に出版されたメキシコの詩人・批評家のオクタビオ・パスの論文集のタイトルらしく、事件後亡命した詩人・北島(ベイ・ダオ)等の潮流の詩人・作家達の間でもてはやされていたようだ。事件の三年後だと、まだほとぼりは冷めてなく、些か挑発的なタイトルということになるけど、内容が孫悟空、それも「西天取経」後の随分と疲れ果てた正にポスト・モダンな孫悟空異伝って訳で、当局にスルッと肩透かしを喰らわせた、のかどうか定かではない。

 主人公・悟空の痛快さは神々・神軍を相手に愛用の如意棒を振り回し天宮を騒がす、「サル丸だし」と言ってしまえばそれまでだろうが、権威に媚を売るってことのないその不逞さかげん。観音菩薩・お釈迦様にも、権威としてではなく、物理的(超)能力で縛(いまし)められてるに過ぎない。須菩提祖師に仙術を習い、天宮で西王母の蟠桃と太上老君の金丹をたらふく喰って不死身の身体となってしまい、竜宮でせしめた如意棒ですっかり天上天下無敵となった東勝神州・傲来国・花果山・水簾洞の美猴王こと孫悟空=孫行者。

 「悟空は觔斗雲に乗って花果山に帰ると、水簾洞にもぐり込み、ゴロリと横になって寝てしまった。目が覚めてみると、どれほどの時が経過したものか。洞窟の中はひっそりとしていた。午後の陽光が入口の水簾を透して差し込み、目の前の酒の並んだテーブルをまだらに照らしている。それは悟空帰還の日に、弟子や孫弟子のサルどもが長旅をねぎらって設けた宴席だったが、いまはもう饐えて冷たくなっていた。悟空は呆然として、そのまま夕方まですわっていた。」
 「時の移り変わりは、まさに光陰矢のごとし。・・・杭州の地に南宋を打ち立てた。
 北宋時代の顧客も何人か現われた。『怡紅院』という看板が、彼らの望郷の念をかきたてたのだろう。彼らは、かつて都に名を轟かせた何翠花という妓女を思い出し、昔の甘い夢の再現を期待した。しかし、『やりて』の花二娘は丁重に断っり、こう話した。『怡紅院』の女将は逃避先の途上で病没し、いまは何翠花が後を継いでいる。何翠花はすでに年をとり色香も褪せたので、奥の院に引きこもり接客はしていない、と。
 『なに、あの翠花も年をとるのか? まったく世も末だ、世も末だ。』」

2_2

 何を隠そう、この何翠花(かすいか)こそかの斉天大聖=孫悟空のなれの果ての姿であった。猪八戒の住処・高老荘で、八戒に押しつけられた女達と一晩を過ごしてしまったからか、天神・神軍を手玉に取ってきた持ち前の神通力も情けないくらいに萎え落ちて、変幻不如意に娘姿のまま何世紀も世の波に籠絡され続け妓楼にまで流れ落ちてきた次第。けど、幾ら化けたって本質は男、否サルだと雄。宦官の如く一物を処理したゲイってところが、ここではそんな気配は感じられず、男性・女性の性別すらも「空」性故に本来同一物って訳なのだろう。それにしても、あのサルの帝王=孫行者と床を一つにし肌すりあわせるとは・・・
 やがて、元末の大乱で杭州が廃墟と化して『怡紅院』も焼け落ち、物乞いをしながら一人何翠花はあてどなく流浪の身。精魂尽き果てて倒れた処が射陽の地。一人の老郷紳(官位を得た地方の有力者のはずが、この老郷紳はすっかり零落れてしまっているようだ)に助けられる。そしてそこでその老郷神が死ぬ直前まで長々と居座り続け、その老郷神、つまり呉承恩が《西遊記》を延々書き連ねてゆく場に居合わせるという縁(えにし)。
 
 「ある日の夕方、彼は森を抜けて道に出た。道の一端は別の道に通じ、一端は灯火まばゆい、ビルの林立する都会に通じていた。道行く人影を目にして、彼は初めて親近感を覚えた。彼は思わず、自分の格好を見た。暮色の中で、彼は自分がスーツを身につけていることに気付いた。道を行く人たちとまったく同じだ。彼は足を止め、思いに耽った。
 一台のタクシーが音もなく走ってきて、彼の前で止まった。若い運転手が身を乗り出して、声をかけた。
 『お客さん、町へ行きますか?』
 車の屋根の『タクシー』という標示灯が、オレンジ色の光りを放っていた。運転手はドアを開けて彼を乗せると同時に、さりげなく聞いた。
 『ねえ、外貨券持ってます? 米ドルは?』」

3_2

 これが書かれた時代、九十年代初頭って、まだ外幣(ワイ・ビー)、つまり外匯兌換券が全盛の頃だったはず。貧乏旅行者にすら、ほんのちょっとの上乗せ人民元での交換を求めてきたものだ。当然怪しげな詐欺師達も跋扈していた。落魄したゲイならぬ妓女からようやく颯爽とスーツ(これがも一つ曖昧で、一般中国スーツなら埃舞う田舎町でも小さな木造商店の店先にいっぱい並んでいて、サングラスともどもに値札やステッカーもどきまでも付けたまま得意気に着ていたものだ)に身を包んだ青年に甦った孫悟空も、案外香港人か日本人、ひょっとして大きな両の眼と茶髪がヨーロッパ人に見えたのかも知れぬ。そして、その行く先は? 

 
【注】須菩提祖師って、長年てっきり道教系の仙人とばかり思い込んでいたら、何とブッダの弟子の一人だったとはつい最近知って驚いてしまった。彼は「空」というものに対する把握に優れていて、その弟子ってことで「悟空」の名を拝受したという設定のようだ。空、色即是空、つまり悟空の変幻自在、物語自体の荒唐無稽とは、正にこの空性にあるらしい。

  《もう一人の孫悟空》 李 馮  訳・飯塚容(中央公論社)

| | コメント (0)

2011年4月15日 (金)

軍国(タナトス)と少女(エロス) 《まごころ》監督・成瀬巳喜男(1939年)

9

  名子役ジョディー・フォスターやナタリー・ポートマン(《レオン》の少女マチルダ役)って今じゃ第一線で活躍中のバリバリの名女優ってところだけど、日本にも戦前から名子役って居たようで、突貫小僧や高峰秀子とならんで獅子文六の同名の小説を映画化した《悦ちゃん》の主役に抜擢された悦ちゃん( 本名・江島 瑠美 )なんか和製シャーリー・テンプルと呼ばれ主演級の扱いだったのが終戦の年にキッカリと映画界から去ってしまった。

Photo

 1939年(昭和14年)といえば、太平洋戦争突入二年前の既に戦時色濃い時代で、この年、大陸の方ではノモンハンを日本軍が攻撃し、満映の二代目理事長に甘粕正彦が就任し、国内では、国民徴用令が公布されたり、男は長髪、女はパーマが禁止になっていた。そんなますます閉塞し始めた世相にあって、クリクリ眼(まなこ)のぽっちゃりしたモダンな今風の風貌の悦ちゃん、この映画では、パーマでもかけているような変わったナウい髪型で明るく屈託ない性格、もう一人の相手子役・控えめで細眼の加藤照子とは対照的。
 おまけに、小学六年生とはいえ、水着姿すら披露し、加藤照子の方は現在とそう変わらぬ地味な学校選定水着なのが、悦ちゃんのは背中がバックリ開いた些か挑発的な代物。二人とも戦前の小学生といえどもう六年生、思春の頃で、少女=女的エロスも微かに漂よわせている。それでも、「この非常時を何と心得ておるか!」なんて罵倒されカットされることもなかったのだから、人気者の悦ちゃんということもあってか子供扱いで検閲を通過できたのだろう。抑圧的な体制にあって、比較的融通の利く子供の世界を題材に選ぶ方法って現在でもイランなんかでも使われる常套手段。

7

4

5

 成瀬巳喜男の戦時中の佳作とも秀作ともいわれている七十分弱の小作で、当時人気が高かったらしい入江若葉・高田稔の美男美女コンビも、戦時色濃くなった時代であってみれば、些か窮屈な役柄を余儀なくされてしまうようだ。成瀬にしてみれば、軍や会社から押しつけられる"戦争"色や"愛国"色なんて一つの時代的風景として、例えば「愛国婦人会」や「日本刀」を振り回してみせたりの国策ラベルを貼り付けていれば好く、あとは親=大人の三角関係的確執を基軸に娘=少女達の心の揺らぎ、そして更にそれが親達にフィードバックしてゆくのを描けば事足りた。"非常時"という枷に縛られざるをえない大人達の間隙を縫うように、"純真"なはずの少女達の思春的エロスが屈託なくモノクロ画面に瀰漫している。当時の抑鬱的情況の最中、暗い映画館の片隅で覗き見るそれは、情報局選定的体裁を越えて、如何様なものとして感得され解釈されたのであろう?

8

10

 映画は、内陸部の小さな町(山梨の甲府)の駅頭から、ゾロゾロと「大日本愛国婦人会」のタスキを掛けた女達の行進の列が蛇行する場面から始まる。屋外ロケを余り好まなかったといわれる成瀬ではあるが、戦前はそれ程でもなかったのか、結構屋外シーンが多い作品で、二年後には高峰秀子主演《秀子の車掌さん》なんてモロ屋外ロケ映画も作っている。
 主人公といってもいい二人の少女故にのんびりとした田園風景、それもじっとりと汗ばむ程度の高原の夏の陽光に白々と照らし出された世界、そこでは主婦達の白い前掛けすら白日に淡く照り返り、その蛇行は気怠いくらいに安閑としている。その愛国婦人会のリーダーが悦ちゃんの母親( 村瀬幸子 )であった。お決まりの教育ママでもある。夫( 高田稔 )は入り婿で、銀行のお偉いさん。悦ちゃんの親友・富子( 加藤照子 )の母親・蔦子と恋仲だったのが、故あって今の嫁の実家に入り婿することとなり、蔦子も諦め、酒飲みの亭主と一緒になってしまった。ところが暴力を揮い出し、蔦子の親達が連れ戻したものの、置いてきた幼い富子が不憫で、暴力を承知で再び夫の元に戻っていった。やがて、その夫とも死に別れ、細腕一本の裁縫で何とか祖母と富子の家族三人仲良くつつましやかに生きてきた。

11

12

 長い間会うこともなく、専ら子供達がのみ、互いのそんな経緯・事情などお構いなく仲の好い親友で、ふとしたことから、悦ちゃんの両親が悦ちゃんの通信簿の評価で揉めている最中、富子の母親と父親が以前一緒になるはずだったことを知ってしまう。学校で富子にそのことを知らせるが、大人っぽい現代っ子風の悦ちゃんと相違して富子は思わず泣き出してしまう。家に戻って頼まれ物の裁縫に余念のない母親にそのことを尋ねると、曖昧に逃げようし、祖母が富子に父親が如何に乱暴な酒飲みで母親に暴力を揮ったか、まだ幼なかった富子を守るため敢えて酒乱の父親の処に戻ってきたのかを説いて聞かせた。
 そして涙を拭きながら近くの河原に水浴びに行くと、悦ちゃんが釣り目的の父親と連れだって来ていて、一緒に川に入ろうとした矢先、悦ちゃんが足に怪我をしてしまう。慌てて富子が家に戻り母親と薬箱を持って河原に駆けつけ、十数年ぶりに、嘗ての恋人、つまり悦ちゃんの父親と再会する羽目に。
 翌日悦ちゃんの父親は御礼に富子に高価なフランス人形を送る。しかし、富子は大喜びしても、蔦子はそうはいかなかった。悦ちゃんの怪我の応急処置をしただけの当たり前の行為に対する礼にしては、余りに高価過ぎ、その過剰さに蔦子は不安を覚え、祖母に可否のゲタを預けるが、結局母親蔦子が困っているのを察し、富子は人形に自分の手紙を添えて返しにいく。 夫が蔦子と会った事とそれを隠した事で嫁はなじるが逆に理を説かれすっかり自身の非を悟り悄然としたところに、夫はすっと先っき届いた召集令状を見せる。思わず嫁が涙ぐむと、女中が現れ、悦ちゃんがフランス人形の入った箱ごと手に持って、まだ治ってない足をひきずりながら外に出ていったと告げる。富子の処へ戻しに行ったのに間違いなく、嫁は蔦子に会って謝りたいこともあるからと悦ちゃんの後を追いかける。
 そして、日の丸小旗ひしめく駅のプラットホーム。件のフランス人形を抱えた富子と悦ちゃん、それぞれの母親が笑顔で、将校服に身を包んだ悦ちゃんの父親を見送るラストシーン。

2

 甲府は未訪の町でさっぱりだけど、旧い町屋(写し方もあるのか皆大きく見える)の連なった遠くに洋塔も覗けた佇まいは独特で、しかし、これは当時まだ日本中に残っていた明治辺りの街並みであるのか。当然に金持ち家の悦ちゃんはこの町中に住まい、極貧とまではいかないけれど貧しい富子の方は郊外の田園地帯の手押しポンプのある平屋。狭い町の中で、こんな貧富の明瞭な二つの家庭の子供達の無垢な心温まる交流がやがてわだかまっていた大人達の心すら洗い流すというほのぼのとした物語・・・こう言ってしまうと随分と通俗的御用映画って趣きだが、成瀬の手にかかると一筋縄ではいかない面白さが諸処彼処に見え隠れした逸品となる。
 そもそも貧しい家の子が「富子」なんて大概にはアイロニカルな代物で、そんな貧富的対概念的図式の間で、挙国一致的な国民統合の象徴が銀行家の悦ちゃんの父親が貧民=富子に呉れた高価なフランス人形って訳で、正に戦時共産主義的懐柔。勿論富める側・持てる側から設えた体制であるから、矛盾とは捉えられず、むしろ上からのなし崩し的包含故に美談あるいは戦時共産主義的営為として位置づけられる戦時共産主義的プロパガンダそのもの。そのフランス人形を巡っての幾重にも渡るやりとりを辿ってあれこれ解釈してみるのも一興かも知れない。

13   

 駅を起点としての大日本愛国婦人会のデモストレーションに始まり、ラストの駅に参集しての出征の見送りという一つのサイクルの完結は、挙国一致的プロパガンダという戦時体制的ニーズへの必要最小限度のラベル貼りとは別に、それが偏(ひとえ)に、悦ちゃんの家庭側のものであり、その明るい富める悦ちゃん達の影に、父親がとっくに喪われひっそりと生きてきた富子(蔦子)の母子家庭が伏在していて、次には悦ちゃんの父親の欠如つまり戦死の可能性を暗示するものでもある。今度は悦ちゃんの家庭が母子家庭となる可能性の示唆。それが新たなサイクルとなってゆくのか、あるいはそれで戦時共産主義的平等という一つのサイクルの完結ということになってしまうのか。

 
 監督 成瀬巳喜男
 原作 石坂洋次郎
 脚本 成瀬巳喜男
 撮影 鈴木博
 美術 中古智
 音楽 服部正

 浅田敬吉   高田稔
 その夫人   村瀬幸子
 娘・信子   悦ちゃん
 長谷山蔦子   入江たか子 
 娘・富子    加藤照子 
  祖母      藤間房子 
 制作 東宝東京(1939年)

|

2011年4月 1日 (金)

死滅へのカタストロフ  エベリオ・ロセーロ《顔のない軍隊》

Colombia_1

  てっきりコロンビアと想ってたら隣国・中米のパナマだった悪名高き麻薬王ノエリガ将軍。パパ-ブッシュがCIA長官時代から、米州学校(パナマにあるアメリカ侵略主義の先兵養成機関)出身の配下として近隣国にありとあらゆる悪事・破壊工作を働いてきたのが、ブッシュが米国大統領になるやいなや、ブッシュの恥部・暗部を知悉したノエリガの口を封殺せんと「麻薬撲滅」の口実の下に、1989年、、少なからずのパナマ市民を犠牲にしてまでパナマ侵略・侵攻を企図して投入された最新装備の米軍によって憐れにも逮捕され米国に強制連行。お陰で侵攻以前よりパナマでの麻薬取り扱い量が倍増したという。
 昨日の傀儡・使い走りは今日の生贄(いけにえ)って、米国の十八番で、南ベトナムのゴ・ジンジェムやイラクのサダム・フセインもその類。今度の中東・北アフリカでの一連の騒擾・政府転覆騒ぎでも、果たして一体どのくらいその手の連中が関わっているのだろうか。

 そのパナマを経由して米国に麻薬(コカイン)を輸出していたのがコロンビアの麻薬組織で、メデジン・カルテルやカリ・カルテルなんて一大麻薬組織がしのぎを削ってたという。カリ・カルテルなんかは、何百機もの自家用機で直接米国に運んでたらしい。今ではその両方とも衰退してしまって新たな情況・勢力図が出来てるようだけど、依然コロンビアが世界最大の麻薬供給国であることに変わりはなく、政府と熾烈な殺戮戦を演じていたメキシコの麻薬組織も最近は政府権力に押さえ込まれつつあるようで、その隙をついてコロンビアの麻薬組織が巾をきかせ始めたという。
 
 かつて、大陸で、英仏に負けず劣らずに旧日本軍も麻薬=阿片で儲け、莫大な軍事・機密費を捻出してたのと同様、コロンビアでも、麻薬組織だけでなく、左翼ゲリラ・右翼自警団(パラミリターレス)なんかも麻薬で資金を獲得しているという。そんなおどろおどろしい情況の中で籠絡され翻弄されつづけ、必死で生き抜いている名も無き庶民達の姿を描いた作品が、このコロンビアのジャーナリスト出身のエベリオ・ロセーロ著《顔のない軍隊》。
 政府軍・左翼ゲリラ・右翼自警団・麻薬組織が互いに熾烈な争闘と虚々実々の駆け引きに明け暮れ、巻き込まれて死傷したり営利誘拐の犠牲になったりしてどんどん住民達が家を捨てて出て行く小さな村=サン・ホセを舞台に、今年七十才の元学校教師イスマエル・パソスの眼を通して、如何に一つの町が死滅していったかが現在進行形で語られる。

Colombia_2  
 
 イスマエルといっても、イスラムではなく、カトリック系のキリスト教徒。十歳年下の同じ元学校教師オティリアと長年連れそっていたが、他の町に住んでいる娘夫婦にサン・ホセは危ないからこっちに来いと散々言われてきても、やっぱり長年住み慣れたサン・ホセから出る気もなく、何を今更とズルズルを決め込んでいた。
 しかし、情況は、政府軍にすらさっさと村を捨てて出て行けと通告をうけ、とっくに村の周囲はあらゆる武装組織に包囲されて袋のネズミ状態。それでも、物語のイントロは、イスマエル爺さんの、すっかりのどかな色鮮やかな南米の田園風景の中での老人的性的発露たる「覗き」の場面から始まる。自分の家の庭になったオレンジの実をはしごに昇ってもぎながら、じっとすぐ隣のブラジル人一家の女達を覗き見るのだ。

 「次第に日がじりじりと照りつけてくる。
 ブラジル人のかみさん、スマートなヘラルディーナが、日差しを求めて素っ裸で出てきてさ。テラスに敷いた赤い花柄マットにうつぶせになって日光浴を始める。・・・
 台所じゃ、かわいいお手伝いさん──"グラシエリータ"って呼ばれている──が黄色い踏み台に乗って皿洗いをしていてさ。庭に面したガラスのはまってない窓から、後ろ姿が丸見えだ。少女はそんなのちっとも知らずに、お尻をふりふり洗いものをしている。飾り気のない真っ白なスカートのなかで体の隅々までゆさぶって、リズムに乗って休むことなく作業に専念しているよ。・・・
 そんなあの子をブラジル人の息子エウセビートが後ろからこっそりのぞていてさ。そいつをさらにおれが庭のはずれの塀越しに、こっそりのぞいているってわけだ。」

Botero_1

     Botero

  正に、ベトナム=フランスの映画監督トラン・アン・ユンの作品にも似たエロス=タナトス世界を老境的に淡く彩色した終末的カタストロフって訳だ。
 そして、早々と身代金目当ての営利誘拐の白々とした影が意味ありげにほのめかされる。皆それぞれに麻薬で十分な資金を得ているはずが、更になお利権の最後の一滴すらも貪欲に味わい尽くさんばかりに、それぞれの組織=軍隊が、それぞれの都合と論理で選び出した者達を片っ端から誘拐しつづけているのだ。コロンビアでは"5時間に一人"の割で誘拐事件が起きているという。
 四年前に資産家のマルコス・サルダリアガが誘拐され、それ以来毎年3月9日には、残った嫁さんのオルテンシア・ガリンドのところへ村の人々が見舞いに行くのが慣わしになっていた。本当は、ふるまわれる御馳走や誰気兼ねなくダンスが出来るので皆集まってくるに過ぎない。やがて、隣のブラジル人も、そしてイスマエル爺さんの嫁ヘラルディーナまでもが誘拐される。誘拐されたと分かるまで、どんどん失われていく記憶に呆然としながらもイスマエル爺さんは村中を捜しまわる。ある種の不条理劇みたいに行き違いの連続。それにしても元一介の学校教師に過ぎない年金生活者(それももう幾箇月も支払いが滞ってい)に一体どれほどの身代金が払えるというのだろうか。

Botero_2
 
      Botero       

  「今の今になって初めておれたちは知ったんだ。村の通りという通りに不気味な連中がゆっくり静かに侵入してきていることに。無表情でおぼろげな人影が崖の方角から現れて、あちこちの角で消えたり再び現れたりしながら数を次第に増している。そこでチェペを囲んでいたおれたちもその場を退散しはじめた。やはりゆっくり静かに、各自わが家を目指してね。しかも、実に奇妙極まりないことに、誰もがそれを何とも自然にやってのけていた。『全員広場へ』と兵士らしきひとりがおれたちに向かって叫んだが、聞かぬふりして黙ったまま一心不乱に進んだよ。・・・」
 「チェペと一緒にいたおれたちはすでに彼の姿が見えないほどに離れていたが、そのとき彼の声が後ろから聞こえてきたんだ。屠られる直前の豚さながらの身の毛もよだつ金切り声。甲高い叫び声になっているのは怯えているからだ。村を占拠しはじめた者たちに必死になって質している。妻と子供を誘拐したのはおまえらか、今朝彼女らの指を送りつけたのもおまえらかと。彼がそんな暴挙に出るとはとても信じがたくてさ。彼の声に休戦を告げられたかのように、逃げていたおれたちはぼ全員、その場に立ち止まったんだ。いつしか太陽は雲の連なりに覆われ、吹きすさぶ風が歩道に土埃を上げている。"雨でも降りそうな空だな"と思った。"いっそ大洪水にして何もかも沈めてくれよ、神さま"」

Botero_3

      Botero

   翻訳者の八重樫氏は、以前、アジアではなく、中・南米専門のバック・パッカーだった。それも、ハーモニカやギターなんかを携えて彼地の町々の路上で音楽を演奏する、いわゆるストリート・ミユージシャンとして。向こうでは、路上のものであれ、音楽家は尊敬されているらしく、チップもそれなりにはずんでくれるという。で、けっこう旅費の助けにはなったらしい。現地でそんな日銭が入る術を持っているのは、貧乏旅行者には強みだけど、そんなパッカーってそうそういない。
 最初はスペイン語だけだったのが、ポルトガル語なんかもやるようになったり、現地の学校で学んだりの、好奇心旺盛な好青年ってイメージだったのが、本の奥付を見るともう四十路とあった。嫁さんを貰って共同翻訳ってことでか、ここんところ矢継ぎ早に出していて、その精力には舌を巻いてしまう。
 おりからの、未曾有の東北大震災の余波くすぶる中、居地が岩手で、只それも内陸の方なので直接的被害は蒙っていないとは思ってみたものの、気になってメールを送ってみると、回線事情が悪いらしく、いまだ返信無し。
 自然災害ではあるが、半分以上は人災なのがはっきりしている故に、何とも複雑。ふと、誰も居なくなった通りを一人茫然として彷徨い続けるイスマエル爺さんの姿が、被災地の瓦礫と化した嘗ての町中の路上に重なってしまう。

   
  《 顔のない軍隊 》   エベリオ・ロセーロ
              訳・八重樫克彦・由貴子
                     (作品社) \ 2200

|

« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »