« 《ソイレント・グリーン》 2022年ディストピア | トップページ | 玉龍雪山の望めるナシ族の町《麗江古城》 »

2011年7月 3日 (日)

アブラハムの聖地 《 シャンル-ウルファ 》トルコ

Sanliurfa_1

 旧約聖書のアブラハムが一人息子イサクを、神ヤハウェの命によってモリヤの丘で生贄として正に屠ろうとした瞬間、信仰の証を得たヤハウェの使いが早速止めさせたという説話は有名だけど、( 無神論者のぼくには、神ヤハウェの何とも尊大・姑息且つ無能さの極みのような説話としか思えない )、そのアブラハム=イブラヒームの生誕の窟がある聖地シャンル-ウルファに1995年の暮訪れた。
 比較的最近「栄光」という意味のシャンルという冠詞を頂いたウルファの町は、しかし、仲の悪いイラクからはカルデアのウルこそが聖書に記されたアブラハムの生誕の地と謗られ、今一つ旗色が悪いようだ。それでも、近隣のイスラム教国からも聖地巡礼の団体客のバスが毎日乗りつけていた。

Sanliurfa_4s

         イブ゛ラヒーム聖窟

  すぐ南にはもうシリアの砂礫地帯が拡がり、近郊に古代都市ハランも控えた嘗てはエデッサと呼ばれたウルファの町には、まずイスタンブールのハイダルパシャ駅から鉄路で三十時間かけてガジアンテップまで行き、そこからバスに乗り換え、二時間後に漸く到着。列車TOROS Ekspresiはリクライニング式のシッターとベッドが備わっていて、僕はシッターで700,000TL(トルコ・リラ)。乗り心地は悪くなかったものの、食堂車もついてなかった。イスタンブールから長距離バスで行った方が早かったけれど、まだトルコで列車に乗ったことがなく敢えて挑戦してみた次第。

 それにしても、南回りはのんびりとしたものであった。
 エキスプレスとは名ばかりで、各駅停車に近かく、インドと違って駅のホームにチャイ屋があるでもなければ、食事の注文を取りに来る訳でもなく、さりとてトルコの定番の丸いドーナッツ型のゴマ・パンや御菓子、パック・ジュース、缶コーラの物売りも偶にしかやってこず、食事は予め自分で用意してこなければならいようであった。
 イスタンブールは冷雨や雪が舞っていて、列車にも当然スチームが通っているのだけど、段々陽が暮れるに従って寒くなり、スチームに手を遣っても微かに暖かみが残っているだけ。けどそれにしても妙に冷えるので窓のカーテンを開けると窓が真っ白。雪? よく確かめるとびっしりと霜柱が立っていた。それも外側じゃなくて、内側に。トイレの便器にも小便の跡らしきものが凍りつき、一条の透明な波状の線になっていた。

Sanliurfa_5s 

      手配師待ちの早朝のクルドのオヤジさんたち

 一番安い《ipek palas》に泊まった。
 それなりの広さのある、肌寒く、薄暗いホテルで、共同シャワーの2ベッド・ルーム(250,000TL)。部屋にもスチームが通っているけど薄ら寒い。夜九時頃からホット・シャワーが出、おまけに部屋の洗面台の蛇口からも出るので洗濯には助かった。同じ二階の仄暗いリビング・ルームにテレビが置いてあり、ソファーに坐って地元の番組が観られた。恰度、女性歌手Guler Dumanがトルコの弦楽器サズを奏でながら熱唱し、その横で中年の男性司会者が感極まったのか涙を流し、客席でも何人かが涙を見せていた。曲自体はそれほど落涙するようなものじゃなく、歌詞かトルコの錯綜した文化に起因した何かなんだろうと了解する他なかった。
 仄暗く旧めかしい佇まいは本を読むにはちょっとしんどいが、仲々に得も言われぬものがあって、一週間近く滞在してその雰囲気を満喫できた。

Guler_duman

          若きG・デュマン

 この町は、現在は人口50万人の中規模都市で、すぐ南はシリア。シタデルと呼ばれる古い城砦跡からシリア方面に低い砂礫の丘陵が連なっている光景が望め、ウルファの町も一望できる。僕は毎日、朝早くから宿から歩いてイブラヒームの聖窟通いのついでに昇った。

 イブラヒームの聖窟はモスクの中にあるというより、聖窟を囲むようにモスクが後代に建てられたに決まっていようが、あっちこっちから巡礼や観光客を乗せたバスが乗り付けてくる。黒やプリント地のチャドルを被った女性も少なくはなく、隣国イランからも、例のトルコのとは違って一昔前の旧いタイプのイラン・ベンツに乗ってやって来ていた。ともかくイラン人は写真好きで、ファテイマの聖域でも、あのホメイニーの聖廟の中でもホメイニーの聖棺をバックに臆することなくフラッシュをたき家族写真を撮りまくるほど、当然イブラヒームの聖窟でも撮りまくっていた。この時とばかり、僕も便乗させて貰った。勿論、建物の入口には大きく「カメラ持ち込み禁止」の看板があるのだが。

Sanliurfa_3s 

      ウルファの旧市街

 "Hz ibrahim Peygamberin"の看板のあるイブラヒームの聖窟は母親の聖窟と隣り合わせて並んでいて、聖窟の中は低く狭い。イスラム故、特に何がある訳でもなく、隣の母親の聖窟との境の壁にそこの地下水を引いた水道の蛇口が二つあって、参拝客達はそこに配されたコップでその聖なる水を飲んだり、持参したポリタンクに容れて持って帰っていた。
 聖窟の奥に、モスクによく見られる聖処のドーム型の凹みが作られていて、入出時、そちら側に尻を向けてはならないようで、全員ではなかったけど、入る折はともかく、出る際にも前を向いたまま後退っていた。
 暗い岩窟って確かに旧約聖書時代の秘蹟めいた雰囲気を醸しだしはするけど、事の真実はともかく、まあこんなものかと、この周辺は岩窟が多く当時はそれが普通の住居だったのだろうと了解する他なかった。イブラヒームがそこで修行したって話は聞かなかった。

Sanliurfa_2s
 
             聖なる魚の池

 ウルファの町で一番通ったのが、このイブラヒームの聖窟の近くにあるやはり秘蹟の一つらしい《聖なる魚の池》バルックル・ギョルで、旧約聖書では、方舟で有名なノアのひ孫であるバベルの塔の発起人・偶像崇拝王ニムロドによって偶像崇拝否定のアブラハム=イブラヒームが炎の中に放り込まれ、その刹那、炎が突然水に変わったという秘蹟の場所という。中世に建てられたモスクの中にあって、一見只の小綺麗な池にすぎないけど、灰青色の鯉が群れを成している。
 ここの七番目のテーブルが一番陽当たり(朝九時半頃で13℃)がよく定席になってしまい、坐っただけで大きめのグラスになみなみ注がれたチャイが運ばれてきた。飲みながら持参の胡麻パンやなんかを食べたり客達が池の鯉にパンなんかを遣っている光景を飽きずに眺めてるのだけど、トルコの人々は屈託なく、若い娘や顔にイレズミをしたおばさんまでもが、東洋人が珍しいようで、やたら話しかけてきた。こっちには、異邦のあるいは旅人に赤ん坊を抱いて貰うと幸運があるという風習があるようで、パッカー然としたなりの僕であっても年配のスカーフ姿の女性に抱かされてしまった。家族は大喜び。こんな罪深い僕で良かったのかな・・・

 '95年当時 : 1$=54,400 TL

|

« 《ソイレント・グリーン》 2022年ディストピア | トップページ | 玉龍雪山の望めるナシ族の町《麗江古城》 »

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事