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2011年7月の3件の記事

2011年7月27日 (水)

蜃気楼的門司国際フェリー《光陽ビーチ号》 えっ 、マジ?

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 ちょっと時間が出来たので久し振りに門司港フェリー乗場まで行ってみた。
 勿論廃墟とまではいかないだろうが、それでもプレハブのイミグレの玄関口前なんかペンペン草ぐらいは生えているだろうと半分冷やかし気分。と、たまたま水曜日で、乗場の周囲のフェンスの向こうに数人の人影が見え、イミグレの玄関口の戸が開いていて、あれれ、ひょっとしてこれは機能している雰囲気? 仄明かるい奥のレセプション・カウンターで職員らしい女性が一人携帯で忙しそうに立ち働き、片側の自動販売機の前の椅子では親爺さんが一人紙コップの珈琲をちびちび飲んでいた。

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 てっきり今春の東北大震災の余波で、経済効率策的にオマケの門司港コースだけ運休して、本来の下関=韓国・光陽間フェリーだけ運行を続けていたものとばかり決めつけていた。他の所はいざ知らず、この門司港に限っては、運休=廃止を意味してきたからだ。で、光陽市のフリーの日本語の観光マップを貰い、玄界灘方面寄りの岸壁の方へ廻って、おばさん達の釣りでも眺めていると、早速狭い海峡の向こうから姿を現した。見るからに前回のセコマルよりも安っぽく如何にもカーフェリーって趣きで、玄界灘方面に船首を向けたまま、他の船が行き来する中、少しづつバックしてこちら側に接近し、更にちょっとだけ前身して再びバックし漸く接岸した。朝の九時過ぎぐらい。

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 一万六千トンものカーフェリーでも、前と後ろの二カ所でロープを波止場の繋留杭(ボラード)に繋ぐようで、前側は簡単に終わったものの、後部のが可成り手間取っていた。今時随分と原始的だなとフェンスの外から苦笑しながら眺めていると、一人のカスタムから派遣されてきたらしいヘルメットをかぶり[動物検疫]とくっきり記されたユニフォームに身を包んだ女性が現れた。肩から大きな消毒液散布器具を吊していて、透明な溶剤容器の中にピンクの液体がいっぱい詰まっていた。その内、後部側舷の巨大な車両甲板が岸壁に降りてきて、タラップを装着したリフトが走り出てきた。乗客上下船用のタラップを持参したいたのには驚いた。波止場を船首の方へ走り、出入口へ連結。動物検疫官は車両甲板の奥に消えていって、暫くして今度はタラップの上へ。そしてタラップ自体に消毒液を散布しながら降りてきた。確かに昨今、色々国内外の有害な諸々の瀰漫が喧伝されてきていて当然の処置なのだろうが、初めて見る光景であった。

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 プレハブの横の道路には、四台のすべて異なる会社のバスばかりが並んでいて、それなりの数は居るのだろう。下船客って本当に居るのか、微々たるものではないのか等と勘ぐり一応の確認はしてみた。それなりの数の人影は確かめられた。しかし、逆に帰国する韓国人を外すと、果たしてどのくらいの日本人が夜出航の折このタラップを昇ってゆくのだろう。
 この光陽ビーチ号も、前身のセコマルが数ヶ月でポシャリ、今年初めに就航したのはいいが、東北大震災で揺らぎ、門司港寄港を切り捨て、門司"国際"港は、揃いも揃ってたった数ヶ月の寿命しかない定期連絡船。
 一体全体こりゃ何なんだ、と誰でも今じゃ日本を代表する国際港たる対岸の老舗・下関港と比較し、その異常なまでの落差に、開いた口がふさがらないだろう。ところが今回、三度目ならぬ四度目の正直って奴なのだろうか、恐らく最期のチャンスが与えられたようだ。でも、しかし、・・・

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2011年7月16日 (土)

玉龍雪山の望めるナシ族の町《麗江古城》

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 前年に地震のあった翌1997年六月、大理からバスで入った。遠くに標高 5,596 メートルの白雪の玉龍雪山が聳え、周辺を丘陵に囲まれた盆地の町であるのが一目で分かった。玉龍雪山の麓には一大渓谷《虎飛峡》があり、今では、山麓に長さ3,000メートル、高低差1,000メートル以上もある氷河公園ロープウェーもあるという。一度乗ってみたいけど、富士山の頂上あたりからの乗車なので、高山病が気にかかるが如何なのだろう。

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 恰度雨季だったので大理から小雨多く、朝夜は20℃台、昼間は30℃台で、40℃の時もあった。勿論観光的にはオフで、客の姿は少ない。風光明媚さを堪能したい方なので、ごったがえすシーズンは避けたい。新市街にちょっと入った場所にあった旧めかしい典型的な人民中国風の建物《麗江貧館》のドミトリー(多人房: 12元)に泊まった。
 実際はそれなりの数の電灯設備が備わっていたのだけど、だだっ広い15、6もベッドの並んだそのドミにはたった3個しか電灯は点いてなかった。それも裸電球なので薄暗い。お決まりの、真ん中に擦り切れたようなソファーと湯の入ったポットとコップを載せた細長い会議室用のテーブルがあった。ガラーンとして殆どが空きベッド。じめついた天候なので窓際に干した洗濯物も乾きが悪かった。シャワーは雨状ではなく蛇口そのまま式。例によってトイレ(厠所)は、人民厠的惨憺。
 旧市街に民家改造式の旅社(ホテル)が多々あった。確かに雰囲気はあるんだけど、何しろ木造は足音なんかが騒さくてタイでも大理でも先ず泊まったことがない。仕方なしに泊まったカンボジアはシェムリアプの宿では、二階建てではない平屋の方の部屋を選んだ。

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 旧市街の中心に四方街と呼ばれる恰度チベットのラサの八角街(パルコル)に似た四角い広場のような地域に屋台・露店の類が並んでいて、その端に《CC's Cafe昆明角茶座》というまだ真新しい店で、雲南珈琲を飲んでみた。ドロッとしたバリ珈琲風で、ブラックで飲むのがベター。ここには、上海や昆明で薬屋の店頭で冷やして売っている烏梅湯(ウーメイタン)とは又些か違った烏梅茶という甘酸っぱい飲み物があって、梅干しとミカンの皮、白くなった蜂蜜の入ったものだけど、生温いために味も今一。烏梅湯は中国や日本でも漢方薬的飲物として有名らしい。
 ここは大理以上に疎水が縦横に走っていて、このカフェのすぐ脇にも流れている。生活の場でもあって、嘗てはともかく今じゃ冗談でも綺麗とは言い難い黒ずんだ水で洗いものをしたりしている。疎水に沿って緑の柳がづっと立ち並んでいて、川に柳とは、日中変わらぬ風流であるようだ。夏の風物詩という訳ではないけれど、川に柳とくれば、やはり怪談で、中国なら怪異譚で、雲南は昆明をはじめとして怪異の一大生産地の感があって、調べてみればこの麗江の水端でも妖異・怪異の類が犇めいているのやも知れぬ。尤も、日中は熱くて、この店の外に備わったパラソル下も、斜めから強い陽射しが差し込んできて、堪らず建物の中へ退散を余儀なくされるのではあるが。

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 麗江名物といえば、釜飯って訳で、食堂街にゆくと、どの店も戸をとっぱらって七輪を並べ、その上にアルミの手鍋や土鍋・鉄鍋を載せ、通りから中身が見えるように調理していた。米線(ミーシェン)、餌糸(アルシ)、釜飯。釜飯(6元)は、御飯の中にジャガ芋、上にエンドウ豆、ベーコンを載せたもの。塩味。小皿に唐辛子と赤い大根の唐辛子漬けが付いてくる。勿論店によって具は異なる。
 ここも大理と同様、日本食的メニューのあるレストランが少なくなく、早速新市街の《ピーターズ・カフェ》や《アリババ・カフェ》等に脚を運んでみた。カツ丼・親子丼よりも生姜焼きが好きなので、あっちこっちの店で試してみたけど、《アリババ・カフェ》は作り手、つまり嫁さん(?)か旦那かで味が違い、野菜サラダやなんかがついて8元。一番美味いと思ったのは、タワー・カフェだったか名前は忘れてしまったが、四方街の《CC's Cafe昆明角茶座》の橋を渡りちょっと昇ったところにあった店のであった。ここは地元のいつも青い民族衣装のおばさん達の溜まり場で、ナシ語で喋り、テーブルの上にカードを叩きつけ叫声・歓声飛び交うトランプ・ギャンブル三昧。

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 省都・昆明がそうであった如く、この内陸深い麗江の町にも、西洋風とは別個に、改革開放の新風とばかりに「台湾」の二文字がこれ見よがしにうやうやしく掲げられていて、宿の近くにも、真新しい《台湾式面包》の看板のあるパン屋があった。確かに、まだまだ人民中国的貧弱さから抜け出れてなかった頃の既存の中国製よりは確実に美味かった。豆沙面包(あんパン)もその典型で、頻(よ)く買って朝食や昼食にした。 

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2011年7月 3日 (日)

アブラハムの聖地 《 シャンル-ウルファ 》トルコ

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 旧約聖書のアブラハムが一人息子イサクを、神ヤハウェの命によってモリヤの丘で生贄として正に屠ろうとした瞬間、信仰の証を得たヤハウェの使いが早速止めさせたという説話は有名だけど、( 無神論者のぼくには、神ヤハウェの何とも尊大・姑息且つ無能さの極みのような説話としか思えない )、そのアブラハム=イブラヒームの生誕の窟がある聖地シャンル-ウルファに1995年の暮訪れた。
 比較的最近「栄光」という意味のシャンルという冠詞を頂いたウルファの町は、しかし、仲の悪いイラクからはカルデアのウルこそが聖書に記されたアブラハムの生誕の地と謗られ、今一つ旗色が悪いようだ。それでも、近隣のイスラム教国からも聖地巡礼の団体客のバスが毎日乗りつけていた。

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         イブ゛ラヒーム聖窟

  すぐ南にはもうシリアの砂礫地帯が拡がり、近郊に古代都市ハランも控えた嘗てはエデッサと呼ばれたウルファの町には、まずイスタンブールのハイダルパシャ駅から鉄路で三十時間かけてガジアンテップまで行き、そこからバスに乗り換え、二時間後に漸く到着。列車TOROS Ekspresiはリクライニング式のシッターとベッドが備わっていて、僕はシッターで700,000TL(トルコ・リラ)。乗り心地は悪くなかったものの、食堂車もついてなかった。イスタンブールから長距離バスで行った方が早かったけれど、まだトルコで列車に乗ったことがなく敢えて挑戦してみた次第。

 それにしても、南回りはのんびりとしたものであった。
 エキスプレスとは名ばかりで、各駅停車に近かく、インドと違って駅のホームにチャイ屋があるでもなければ、食事の注文を取りに来る訳でもなく、さりとてトルコの定番の丸いドーナッツ型のゴマ・パンや御菓子、パック・ジュース、缶コーラの物売りも偶にしかやってこず、食事は予め自分で用意してこなければならいようであった。
 イスタンブールは冷雨や雪が舞っていて、列車にも当然スチームが通っているのだけど、段々陽が暮れるに従って寒くなり、スチームに手を遣っても微かに暖かみが残っているだけ。けどそれにしても妙に冷えるので窓のカーテンを開けると窓が真っ白。雪? よく確かめるとびっしりと霜柱が立っていた。それも外側じゃなくて、内側に。トイレの便器にも小便の跡らしきものが凍りつき、一条の透明な波状の線になっていた。

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      手配師待ちの早朝のクルドのオヤジさんたち

 一番安い《ipek palas》に泊まった。
 それなりの広さのある、肌寒く、薄暗いホテルで、共同シャワーの2ベッド・ルーム(250,000TL)。部屋にもスチームが通っているけど薄ら寒い。夜九時頃からホット・シャワーが出、おまけに部屋の洗面台の蛇口からも出るので洗濯には助かった。同じ二階の仄暗いリビング・ルームにテレビが置いてあり、ソファーに坐って地元の番組が観られた。恰度、女性歌手Guler Dumanがトルコの弦楽器サズを奏でながら熱唱し、その横で中年の男性司会者が感極まったのか涙を流し、客席でも何人かが涙を見せていた。曲自体はそれほど落涙するようなものじゃなく、歌詞かトルコの錯綜した文化に起因した何かなんだろうと了解する他なかった。
 仄暗く旧めかしい佇まいは本を読むにはちょっとしんどいが、仲々に得も言われぬものがあって、一週間近く滞在してその雰囲気を満喫できた。

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          若きG・デュマン

 この町は、現在は人口50万人の中規模都市で、すぐ南はシリア。シタデルと呼ばれる古い城砦跡からシリア方面に低い砂礫の丘陵が連なっている光景が望め、ウルファの町も一望できる。僕は毎日、朝早くから宿から歩いてイブラヒームの聖窟通いのついでに昇った。

 イブラヒームの聖窟はモスクの中にあるというより、聖窟を囲むようにモスクが後代に建てられたに決まっていようが、あっちこっちから巡礼や観光客を乗せたバスが乗り付けてくる。黒やプリント地のチャドルを被った女性も少なくはなく、隣国イランからも、例のトルコのとは違って一昔前の旧いタイプのイラン・ベンツに乗ってやって来ていた。ともかくイラン人は写真好きで、ファテイマの聖域でも、あのホメイニーの聖廟の中でもホメイニーの聖棺をバックに臆することなくフラッシュをたき家族写真を撮りまくるほど、当然イブラヒームの聖窟でも撮りまくっていた。この時とばかり、僕も便乗させて貰った。勿論、建物の入口には大きく「カメラ持ち込み禁止」の看板があるのだが。

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      ウルファの旧市街

 "Hz ibrahim Peygamberin"の看板のあるイブラヒームの聖窟は母親の聖窟と隣り合わせて並んでいて、聖窟の中は低く狭い。イスラム故、特に何がある訳でもなく、隣の母親の聖窟との境の壁にそこの地下水を引いた水道の蛇口が二つあって、参拝客達はそこに配されたコップでその聖なる水を飲んだり、持参したポリタンクに容れて持って帰っていた。
 聖窟の奥に、モスクによく見られる聖処のドーム型の凹みが作られていて、入出時、そちら側に尻を向けてはならないようで、全員ではなかったけど、入る折はともかく、出る際にも前を向いたまま後退っていた。
 暗い岩窟って確かに旧約聖書時代の秘蹟めいた雰囲気を醸しだしはするけど、事の真実はともかく、まあこんなものかと、この周辺は岩窟が多く当時はそれが普通の住居だったのだろうと了解する他なかった。イブラヒームがそこで修行したって話は聞かなかった。

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             聖なる魚の池

 ウルファの町で一番通ったのが、このイブラヒームの聖窟の近くにあるやはり秘蹟の一つらしい《聖なる魚の池》バルックル・ギョルで、旧約聖書では、方舟で有名なノアのひ孫であるバベルの塔の発起人・偶像崇拝王ニムロドによって偶像崇拝否定のアブラハム=イブラヒームが炎の中に放り込まれ、その刹那、炎が突然水に変わったという秘蹟の場所という。中世に建てられたモスクの中にあって、一見只の小綺麗な池にすぎないけど、灰青色の鯉が群れを成している。
 ここの七番目のテーブルが一番陽当たり(朝九時半頃で13℃)がよく定席になってしまい、坐っただけで大きめのグラスになみなみ注がれたチャイが運ばれてきた。飲みながら持参の胡麻パンやなんかを食べたり客達が池の鯉にパンなんかを遣っている光景を飽きずに眺めてるのだけど、トルコの人々は屈託なく、若い娘や顔にイレズミをしたおばさんまでもが、東洋人が珍しいようで、やたら話しかけてきた。こっちには、異邦のあるいは旅人に赤ん坊を抱いて貰うと幸運があるという風習があるようで、パッカー然としたなりの僕であっても年配のスカーフ姿の女性に抱かされてしまった。家族は大喜び。こんな罪深い僕で良かったのかな・・・

 '95年当時 : 1$=54,400 TL

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