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2011年9月 2日 (金)

昏い時代の盲者達《按摩と女》1938年

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 主に戦前一世風靡したらしい清水宏の作品はまったく未見で、この昭和13年の《按摩と女》が初見。モノクロで、も一つ映像が曖昧だけど、時折、シャロー・フォーカス(浅い被写界深度 : 対象にピントを合わせバックをボカす手法)を駆使したりしてモダンな映像センスを覗かせている。旧いテレビや映画の時代劇なんかで時折顔を見せていた徳大寺伸、この作品では殆ど主役級で、当時流行であったろういきな帽子をかぶって、最近の青年群像作品に負けず劣らずのナウい青年振りを発揮していて瞠目させられてしまった。

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 アンマ=盲目のマッサージ師というと、座頭市やなんかの手には杖、坊主頭に裾をはしょった着物姿という江戸時代から抜け出てきたようなイメージしかないけど、ここでは、彼、徳さん一人だけが、シュールなくらいに他の燻(くす)んだ温泉町の街並みや福さん等のアンマ仲間と異質なくらいに浮き上がって洒落てモダーン(当時風に云えば"モボ")なのである。翌年には男の長髪・女のパーマが禁止になる時代風潮に鑑みてみれば、これは一種の意地あるいは"抵抗"の類と見て取れなくはない。当時は、現在のごとくマッサージ=整体=カイロプラクティス的な(社会的)ステイタスを得てなくて底辺的存在と見下されていた者を、敢えて、舶来一色の"モボ"に仕立て、"色即是空"的に目の見える者達に見えないものが見えてしまう、一種"業"めいた優越性に愉悦すら覚えていて、ひょっとしてこの徳さん、洒落者だったらしい監督・清水宏の分身やも知れぬ。

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 舞台は山間のある小さな温泉町。
 のっけから徳さん、福さん二人の整地された山道をトボトボと杖をつきながら延々とかけ合い漫才宜しく丁々発止のセリフを連発しながら昇ってくる光景から始まる。山肌を切り開いて地面をならしただけの道路だけど、谷側に落下防止用の分厚いコンクリートの低い塀が何とも無骨で、も一つ情緒を妨げているものの、その跛行(はこう)性が、又、"軍国化"された日本そのものとして感得され穿ち見的に捉え返すことも出来なくはない。そこで洒落た帽子に洋服の徳さんに、着物の裾をはしょってカンカン帽の福さんがこう呟く。
 「この頃の眼明きは、ことにぼんやりしている」
 確かにこのフレーズ、もっと前の時代でも、昨今でも使われる常套句ではある。けど、この益々ただならぬ昏い方途にひた走り続けている時代相の中で敢えて発せられたものであるからには、かけ合い漫才に託(かこつ)けたにしても、いやでもメッセージ性を孕まざるを得まい。

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 そこへ荷台に客を乗せた馬車が走りより去ってゆく。
 自動車も既に走っていたろうが、こんな山間の温泉町なんかには無縁で、観光的側面もあったろうが専ら一頭立ての馬車に温泉客を乗せて行き来していていたのだろう。尤もバスってのもあったと思うのだが、既にガソリン節約に入っていたのかも知れない。ふとその馬車に、こんな僻地とは異質の涼やかな香水の匂いが徳さんの鼻腔をくすぐり、清々しい若い女の気配に思わず走り去ってゆく馬車の方を見送ってしまう。東京の女だな、と直観する。
 それが、この映画のヒロイン、高峰三枝子演じる美千穂であった。まだデビューして間もない二十歳頃の高峰なのだが、どこぞの色情過多な偉いさんの処から逃げ出してきた二号という設定。若い二号妾なんて珍しくもないけど、どうも二十歳にしては老けた感じで、高峰自身の二十歳のイメージとチグハグ。けれど、映画的には問題ない。温泉町の通りで徳さんと出遭うカット、カットで繋ぎ、シャロー・フォーカスで二人それぞれに決めたシーンは面白い。清水の面目躍如ってところなのだろう。

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 美千穂に一目惚れ(?)し片想いの徳さんが、宿泥棒の噂に、美千穂の姿のあった先々で宿泥棒が発生しているからと、美千穂を宿泥棒と勘違いし、警察の手が入るという情報を知って、慌てて美千穂を町から脱出させようとするコミカルな純愛ロマンを縦軸として、佐分利信と爆弾小僧なんかの登場人物それぞれのエピソードを絡ませた、ユーモラスなセリフのやりとりが真骨頂の軽妙な秀作。

 劇中、女のアンマの出現に困惑する徳さんはじめアンマ達。やはり、温泉町のこともあって、"女"であることは強い。勿論どんな種類の女アンマか定かではないが、女達の進出によって自分達の職域が侵される危機感に、男の盲目のアンマ達が悲観的なセリフを吐露し続ける。当時一般的には女性進出は唄われていても知れたものであったろうが、何しろ温泉町という特殊な小さな場でのパイの取り合いじゃ、どうにも徳さん達に勝ち目が見込めない不安が、あからさまに描かれることのない"現実相"とダブるようにどんよりと滲み出す。昨今の日本の情況と同致するところだ。

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 昭和13年(1938年)というと、成瀬巳喜夫の《まごころ》の前年で、国家総動員法の公布・施行、日本軍の中国・徐州占領、左翼教授グループ30人近く検挙とか、満州で李香蘭(17歳)が満映《蜜月快車》でデビュー等時代はいよいよ全面戦争・総力戦体勢へと加速し始める最中。翌年の《まごころ》に較べまだ楽天的な雰囲気に満ちている。この年の秋に有名な作家達が従軍作家として大挙現地に赴いている時節柄であってみれば、監督の清水や松竹の意向ってところだろうか。
 翌年には清水の代表作の一つらしい《子供の四季》が撮られ、40年代に入るとさすがに御上の意向に逆らえず、朝鮮で『ともだち』(1940年)、台湾で『サヨンの鐘』(1943年)を撮ることとなってしまったようだ。

徳市      徳大寺伸
福市      日守新一
美千穂     高峰三枝子
真太郎     佐分利信
研一      爆弾小僧
鯨屋主人    坂本武
お菊      春日英子

監督:清水宏
脚本:清水宏
撮影:斎藤正夫
美術:江坂実
音楽:伊藤宣二
制作 : 松竹映画1938年(13年) 

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