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2011年10月の3件の記事

2011年10月26日 (水)

《アメリカン・クライム》 普遍的アメリカ的閉塞

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 ちょうど今から46年前の今日、米国中部インディアナ州の州都インディアナ・ポリス、イースト・ニューヨーク通り3850、ガートルード・バニシェフスキー宅で、16歳の娘シルビア・マリー・ライケンスが殺害された。 
 この年、米国はベトナム戦争の真っ最中で、泥沼に足を突っ込む端緒となった北爆を開始し、同じ頃、国内では過激派黒人運動指導者と目されたマルコムXが殺害され、夏にはロスのワッツ黒人地区を始め全米で黒人暴動が炎をあげた。又、被害者シルビア・ライケンスもファンだったビートルズが世界を席巻し、ビートニックからヒッピー・ゼネレーションへとアメリカ・カルチャーがシフトし始めた時代でもあり、正に激動の真っ只中で、日曜毎に近くのキリスト教会に家族そろって通う保守的で閉鎖的な町の、その典型のような家庭で起きた何ともおぞましい、その町や国、社会が透けて見えるような構造的な犯罪であった。

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    シルビア・ライケンス

 そもそもインディアナとは、インディアン(アメリカ先住民)の土地って意味らしい。そしてその名称とは裏腹に、もうこれ以上ないくらいに米国そのものを象徴するかのように、先住民達を徹底して搾取・略奪し殲滅し排除してきた州であったらしい。その米国的悪辣さの業炎も尽くされた僅か三十年後ぐらいに起きたこの《アメリカン・クライム》、つまりガートルード・バニシェフスキー一家と近所の子供達によるシルビア・ライケンスに対する延々四ヶ月にも及ぶ暴力と陵辱を、地元当局が『インディアナの犯罪史上で最も恐ろしい犯罪』と呼んだことの余りの欺瞞性・偽善性には、事件の救いようのなさとは別に言葉を失ってしまう。

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 ガートルード・バニシェフスキー(公判中: 逮捕直後と違って意識明瞭)

 
 
 シルビア・ライケンスは、あれこれ様々な商売や仕事を転々としてきた(当時は巡回カーニバルでの仕事に就いていた)夫婦を両親に持ったために、幼い頃から「定住」とは無縁な、親の都合であっちこっちたらい回しにされて育ち、ベビーシッターやアイロンかけのアルバイトなどもこなす結構自立的な面も備えた娘ではあったらしい。小児麻痺の後遺症で脚の悪かった一つ年下の妹のジェニーと一緒に、1965年7月、バニシェフスキーの家に下宿することとなった。それも、日々の糧にも困っていたガートルード・バニシェフスキーが、ライケンス夫妻の事情を知って自らが持ちかけた話であった。が、週払い(20ドル)という些か無理のある支払い方を選んだため ── 恐らくはすぐにも金の欲しいガートルードが持ち出したのだろう ── 、さっそく最初の週で遅延し、ガートルードの逆鱗に触れ、シルビアとジェニーは暴力をふるわれた。この時点で既に常軌を逸していて、これはもう、のっけから、ガートルードが人格崩壊していたとみて間違いないだろう。

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ステファニー、リッキー・ホッブス、ポーラ(後ろ向き)、ジョン、 コーイ・ハバート、ガートルード

 ガートルード・バニシェフスキーは、同じ16歳の時、親の反対を押し切って、二歳年上の保安官補ジョン・バニシェフスキーと結婚し、彼が癇癪持ちだったりして十年くらいで離婚。更に別の男と結婚したり、更に十一歳年下のDV青年と同棲し子供が生まれるや青年は蒸発。最初の保安官補、「癇癪持ち」ってのが「暴力」を意味するのかどうか定かでない。彼女がまだ小学生の頃、目の前で心筋梗塞で死んだ父親は如何だったのだろう。この辺が今一つ曖昧ではっきりしない。そして子供だけはばっちり7人も産んでしまって、これといった生活の術をもっていなかった彼女にとって重荷以外の何ものでもなかったろう。男運が悪いっていえばそうなのかも知れないが、今じゃそのくらいの男遍歴は当たり前になってきている。それにしても育ち盛りの子供7人は多過ぎて、女手一つじゃ、日々の糧を獲るだけで四苦八苦する困窮生活は必定。特に魅力的でもなかった彼女の周辺には貧しさばかりが浮き出たような男達あるいはその眷属しかいなかったのだろう。貧しさが更なる貧しさを呼ぶような、およそアメリカン・ドリームとは無縁な、否、そんな構造故に、《 成功 》という擬制=イデオロギーとプロパガンダが不可分なものとして成り立つ。

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      ジェニー・ライケンスと姉たち(公判廷)

 姉でもあり可愛く自立性もあったシルビアは、小児麻痺を患って内気な妹のジェニーと相違して、困窮し鬱屈しきったガートルードにとってはいまいましい存在であったろう。勢い、むしろ憐憫すら抱いて優越感を持てるジェニーにではなく、男好きのするらしいシルビアに対してガートルードの憎悪と怒り、生活的不安と焦燥のない混ぜになった攻撃的暴力が向けられる。自分の中・高生の娘や息子に、そして二番目の娘ステファニーの恋人コイ・ハバート、そしてシルビアを一人慕っていたリッキー・ホッブス、さらに近所の子供達にすら、シルビアに対して種種様々な陵辱的暴力を加えさせ続けることとなった。
 殴る、蹴る(ガートルードは何とシルビアの女性器を狙って幾度も蹴ったという)、階段から突き落とし、タバコの火を身体中に押しつけ、熱湯を浴びせ、火傷させた後で塩を塗りつけ、コーラ瓶をシルビアの女性器に突っ込み(ガートルード)、焼けた大針でシルビアの腹部に"I'm a prostitute and proud of it!"と刻み(ガートルードとリッキー・ホッブス)等の拷問的暴力を死ぬまでの四ヶ月間延々と繰り広げたのであった。
 日本でも、市販の電気コードを使っての通電による拷問でセンセーションをまき起こした、犯人の松永太、緒方純子によって肉親も含む子供から老人までの6人(別に傷害致死1人)が殺害された2002年発覚の《 小倉・監禁殺害事件 》が有名。

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ガートルード・バニシェフスキーとステファニー(次女)

 
 シルビアもジェニーも何故逃げようとしなかったのか?
 恐らくまだ二人とも学生という若さと環境による視界狭窄、閉鎖的共同体(暴力を内包する)特有の閉塞的マインド・コントロールってところだろうか。上記の《 小倉・監禁殺害事件 》でも、共犯性によるマインド・コントロールを主犯の松永太が巧妙に駆使していた。
 
 ガートルードはこの頃、生活的に逼迫していてか可成り鬱状態で、痩せていたという。確かに、写真(逮捕直後)見てもげっそりと痩(こ)け眼差しも朦朧としている。シルビア達に対する陵辱と暴力にはけ口を見出しながらも、相乗的に一層のストレスを内奥深く溜め込んだのだろう。それゆえ、確かに一種の「心神喪失」状態にはあったのだろうが、事件の犯罪性を無化することにはならない。むしろ、端的に困窮的生活とか社会構造的な問題として持ち出してこそ情状酌量の余地も出てこようというもの。そして、問題は、一向に解決どころか、そんな気すらないような米国そして日本始め閉塞的国家群ってところだろう。

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  リッキー・ホッブスとジョン・バニシェフスキー

 映画の方は、そんな題材だからか、残虐性を削いで、むしろ淡々と云っていいくらいに描いている。抉るってほどのラディカルさもない。だから、盛り上がりに欠け、面白さも希薄。それでも、こんな事件が、かつてベトナムに米国があれこれ口実を設けて侵略し戦争をしかけ残虐の限りを尽くしていた頃、米国国内ではあったのですよ、と呈示してくれてはいる。

 監督: トミー・オヘイヴァー
 キャサリン・キーナー    (ガートルード・バニシェウスキ)
 エレン・ペイジ       (シルヴィア・ライケンズ)
 ヘイリー・マクファーランド (ジェニー・ライケンズ
 2007年(米国)

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2011年10月18日 (火)

赤塵舞うニュー・フロンティア  ポイペット&シソフォン

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                シソフォン駅

 '98年春に始めて、タイのアランヤ・プラテートからカンボジアのボーダーの町ポイペットに入った。バスの方が便利なようだったけど、タイで列車に乗るのって、ドン・ムアン空港からファランポーンまでの間しかなかったので、敢えて鉄路でファランポーン駅から六時間かけて東端のアランヤ・プラテートまで乗ってみた。途中で殆ど客も降り車内はガラーンとして侘びしいものだった。何しろ辺境貿易ラッシュの町ってことで、小さいながらも開発ラッシュらしく町全体が建設・改装ラッシュで埃っぽく、も一つ落ち着けなかった。セヴン・イレヴンも真新しく、それなりに活気に満ちていた。
 が、一旦国境を越えて、カンボジア側、ポイペットの町に入ると、様相はガラリと変わり、もう南のコ・コン以上に黄塵舞う、正に交易ラッシュ=ニュー・フロンティアって感じであった。現在は定かでないけど、当時タイ側のイミグレを出るともう難民かと思われるような風体のどう見てもカンボジア人のオヤジさんが近寄ってきて自分の大八車でカンボジア側のイミグレまで5バーツで運ぶと迫ってきた。似たような風体の人々が皆一様に肩に背に何かを担いで運んでいて、南のコ・コンの方ではまず見かけなかった風景に、これこそ草の根ボーダー・エリア交易ラッシュなんだろうと感心してしまった。

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         シソフォンの町並

 今回の旅に出発する際、関西空港のテレビで、ちょうどタイ=カンボジア間の自動車密輸(窃盗)団の報道番組をやっていて、アランヤ・プラテート=ポイペットのボーダーで、タイ軍ではないかと思われる装備のタイ当局が、林の向こうのカンボジア密輸団と激しい銃撃戦を展開していて、タイ軍がロケット・ランチャーすら使っていたのには驚いてしまった。今回行く予定の場所だったので、凄いところなんだなーと飛行機の中で勝手にあれこれ空想を逞しくしてしまった。しかし、所詮ふつうの旅行者には関わることのないエリアであり事件でしかなく、もう少し時代が早ければ、例えばシャムリアプでも賊の手にかかる可能性ももあったろうが。

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           マーケット近辺

 
 ポイペットの町は、通過するだけで、ゆっくり留まることもなかった。ともかく、ゴチャゴチャとし埃っぽいばかりで、一瞥的光景しか記憶にない。ここも、コ・コンと同様カジノがあるようだけど、小金を持ったタイ人や中国人御用達で、バック・パッカーには無縁。それでも国境の町、ゆっくり見て回ればそれなりの面白さもあるのだろうが。
 走り寄ってくるバイク・タクシーやピックアップ(ハイエース)の攻勢に合って忙しなくそそくさとシソポンの町に追い立てられるように出立。ハイエースのエアコンの利いた座席に坐らせられ30バーツ。ポイペット=シェムリアプの悪路の噂を聞いていたのが、デコボコもあったものの存外快適で、いつの間にか向こうにシソポンの象徴ともいえる独特の形をした山影が見えてきた。現在では、ポイペット=シェムリアプは完全舗装され飛ばしまくりであっという間らしい。
 
 シソポンの町も、発展途上を絵に描いたように建設中の建物が多かった。ちょっと先にバッタンバン行きのタクシー(ピックアップ・トラック)乗場がある名もないゲストハウス(シングル100バーツ)に泊まった。カンボジアの置屋と同じスペースと造り調度の部屋で、ひょっとして娼館も兼ねているようなゲストハウスだった。それらしい女達が何人も居たけど、ふつうの年配の人なんかも"生活"していて、そこに住んでいるまだ三十歳台のオーナーは教師をしているらしかった。確かに教師って雰囲気で、好意的に接してくれた。学校教師と置屋風の混在あるいは共生ってのも、如何にも発展途上国らしくて好い。シャワーはなく、水槽の水を手桶で浴びるタイプ。

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 走っている列車には客がいっぱいで、その後ろに繋いだ屋根のない貨物車両にも人々が満載されていて、カンボジアで列車が走っているのを初めて見た。シソポンの駅に行ってみるとガラーンとした駅舎に人影はまばら。ホームの端にコンドームの広告看板があるのには笑わせた。土を固めた道路の上を小さなポニーみたいな馬にひかせた馬車やバイクが竹篭に入れた豚なんかを運んでいたりして、活気のある町ではあった。夜にはあっちこっちに露店が出てか細い灯りで店を開いていた。カンボジア独特のフルーツ・サラダの店なんかもあって、フルーツ・シェイクなんかを飲みながら、カンボジアの地方の夜景(殆ど闇)を眺めたりしたものであった。それこそ、この時期のカンボジアの風物詩って奴で、今・現在ではプノンペン並に煌々とした灯りの下での営業だろうと思ってたら、ブログ見ると、最近でも街灯の類が殆どないという。

 それにしても、かつては走っていたアランヤ・プラテート=プノンペンの列車って何時になったら再開するのだろう。

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  タイ国鉄東端アランヤ・プラテート駅

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2011年10月 2日 (日)

カンボジアのニュー・フロンティア  チャム・イェム=コ・コン

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 もう何年も前になるけど、タイの某女優がアンコールワットはタイの物なんて、タイ王国文部省選定教科書的発言をしたというニュースが、カンボジア側の逆鱗に触れ、プノンペンのタイ大使館等が焼き討ちに会う事件にまで発展してしまったことがあった。アランヤプラテートとハート・レックの国境も閉鎖され、確かどっちかのボーダーでカンボジア人がタイの官憲に殺害された事件も付随していたと記憶している。又最近も、何とも胡散臭いプレアビヒア遺跡を巡っての、銃撃戦まで交えた国境紛争が再発している。犬猿の仲的な随分と血腥い事件・紛争だけれど、実際は可成り政治的陰謀の匂いが強いものらしかった。日本や近隣国との関係も、似たり寄ったりでその例に洩れないが。

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    コ・コンのエキスプレス・フェリー乗場

 
 以前はタイ南部からカンボジアへ抜けるには、バンコクからまずトラートまでバスで行き、そこからクロン・ヤイ、ハート・レックのボーダーへとそれぞれの乗り物で向かっていた。 タイ側は今も同じだろうが、カンボシア側のイミグレ(チャム・イェム)からは、カオ・パオ湾の岸までバイタク(バイク・タクシー)で行き、そこから雲助ボートに乗り替えるか、イミグレ事務所の裏手にある船着場から岬を迂回してコ・コンの船着場まで直接向かう目一杯ぼってくるボートに乗るかして、シハヌーク・ビル行きの中型エキスプレス・フェリーに乗船するために、対岸のコ・コンの港まで向かうというのが定番のコースであった。

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     カルダモン山脈の川を渡るフェリー(ほとんどイカダ)

 これが、2002年に、国道48号線に組み込まれたカオ・パオ湾に架けられた長い橋が完成し、イミグレからダイレクトにプノンペン行きのバスが出るようになったらしい。2003年に訪れた折には、イミグレ事務所にサファリ・パークの巨大な広告看板とそのチヤム・イェム発プノンペン行バスの貼紙がしてあった。ボクはコ・コンからプノンペン行のミニ・バス(15$≒600バーツ)を予約したけれど、実際はバンで、それもシハヌークビル近くから他のミニ・バスに乗り替えたインチキ物だった。何しろカルダモン山脈を横切ろうとすると4回も川をフェリーで渡らねばならずともかく時間がかかった。それでも、2000年にコ・コン=シハヌークビルのエキスプレス・フェリーの料金が500バーツ(帰りに乗った時は600バーツに値上がりしていた)だったので、マアマアの価格であったろう。

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   原始的なフェリーに乗ったピックアップの荷台は常に満パイ

 カルダモン山脈を通る国道48号線を遮っていた川にすべて橋が架けられ、最近では、コ・コン=プノンペン間は、8ドルで5時間らしい。プノンペン以外の、シェムリ・アプやバッタンボンどころか、ベトナムのフーコック島やラオス行の便すらあるという。本当に隔絶の感すらある。因みにコ・コン=シハヌークのエキスプレス・フェリーは廃止になったようだ。燃料費の問題だろうか。
 僕は試みたことはないけど、嘗て国道48号線がまだ舗装されてない頃は、一雨降れば泥濘と化す道を通って、カルダモン山脈を抜けていたパッカー達も少数だろうが居たらしい。山間の地元民宿に泊まって、情況が回復するのを待ちながらの日和旅って訳だ。景色も悪くないので、最期の秘境の旅の片鱗を味わうには手頃だったろう。

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   フェリー乗場の売店兼レストラン

 コ・コンの町は、タイとの交易の一方の拠点となり、"ゴールド・ラッシュ"ならぬ"ニュー・フロンティア"って訳で、殆どが貧しいカンボジアの人々か゜、一攫千金、あるいはそこまで行かなくても他所では獲られない利得に、淡い夢を抱いて参集した開拓村の趣きが濃厚だった。特にボーダー近辺のバイ・タクやらボートなんかの運送関係なんてもう"雲助"以外の何者でもなく、濡れ手に泡を決め込んでいた。
 初めの頃は、埃っぽい燻(くす)んだ板張りの粗屋が多かった。それがカオ・パオ湾に橋が架かった頃から、段々と道路も街並みも小綺麗になってきて、プノンペンと変わらないくらいの装いの店すら出現し始めた。そのちょっと前、2000年に訪れた折にも既に、イミグレ事務所の向こうで客待ちしていたバイ・タクが、それまでの中古の燻すんだ"ホンダ・カブ"なんかではなく、目にも鮮やかなタイ並にカラフルでピカピカの"ホンダ・ドリーム"等で、思わず眼を疑ってしまった。夜ともなるとビデオ・カフェの店先にまで並んだテーブルにびっしりと男達や子供達が坐って、ドリンクをチビチビ飲みながらビデオ鑑賞に余念がなく、まだまだ貧しさから抜け出れないものの、それなりに生活に余裕が見え始めたようには想える昨今のカンボジアの辺境のニュー・フロンティアではあった。

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