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2011年12月の3件の記事

2011年12月31日 (土)

 ポスト9.11的癒し映画 《 ヒア・アフター 》

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 今春(2011年)封切りになったと思ったらすぐに起こった《東北大震災・ツナミ・東電原発爆発》事件の余波ともいうべき上映打ち切りの経緯があり、当時映画館で観て、ツナミのシーンが良く出来ていたので感心したものだけど、だからといってそれが"売り"って訳でもなく、むしろ傷ついた心の癒しと回復がテーマですらあるようなのに、その不可解な打ち切りに小首を傾げざるをえなかった。この映画、例によって、前年に世界中で封切られていたものだけど、この国の因循姑息な映画産業(観客不在の徹頭徹尾な我利我利の利己利益追求のみ)の故に、今春までずれ込んでいたに過ぎない。つまり、この国の映画産業が他の国々同様に普通に公開していれば起きなかった事態ではあった。

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 この映画で描かれた"ツナミ"はいわゆる《スマトラ沖地震・ツナミ》らしく、恐らくはタイのバンド"カラバオ"が哀悼の曲を献じた2004年の東南・西南アジアを席捲したインドネシア(あるいはアンダマン)沖地震・ツナミのことだろう。文化大革命末期1976年、相次いだ周恩来と毛沢東の死の合間に起こり40万人以上の未曾有の死者をだした"唐山大地震"以来の、最高30メートルの高波が襲ってきて、各国あわせて20万人以上の死者を出した大災害であった。
 そんな一大惨事の反省・教訓なんて何処の惑星の事だといわんばかりの、この国(実質的には自民党権力であるが、民主党も所詮横並びの自民の補完物でしかなかった一蓮托生支配)の政府及び行政の馬耳東風ぶりには、まったく"亡国"の一字しかない。7年もの時間があったにもかかわらず。それもそれまで白じらしいまでに"危機管理"を声高に叫び列島の隅々にまで押しつけてきた当事者であったにもかかわらず。

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 フランスのテレビ・ジャーナリスト=マリー(セシル・ドゥ・フランス)は愛人のプロデューサーと一緒に東南アジアのあるリゾート・ビーチでバカンス中、巨大ツナミに呑み込まれ、危うく一命を取り留めた。流れてきた浮遊物に頭を強打し水中で意識が朦朧となり仮死状態になりつつあった時、ふと茫漠として不明瞭な死者達の、つまり霊達の姿が視えてしまった。死後の世界=異界を垣間視たのでは、とマリーは疑った。危うくそのとば口で引っ返すことが出来たものの、その原体験(臨死)がいつまでも彼女の心にひつかかって、テレビ局のポストを外されてしまう。結局、つなぎに自分の本を執筆することとなり、そのテーマも当初の政治的なものから、もはやのっぴきならぬものとなってしまった"臨死体験"と変容してしまう。そこから、米国の霊媒師(チャネラー)のジョージ(マット・デイモン)そして英国の双子の一方の兄弟に死なれてしまった少年マーカスとあたかも何かの糸で結ばれていたかの如くに誘われ邂逅することとなる。 

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 子供の頃に罹った脳の病が元で附加されることとなった死者を視る能力=超能力をむしろ"呪い"だと唾棄し厭って、その能力を生かした霊媒師稼業から離れ、つましく工場勤めを続けてきたのが、折からの不況でリストラされ、料理学校で仲が良くなった女性にもその能力が原因で逃げられてしまい、踏んだり蹴ったりの情況からの気分転換にロンドンに旅立った霊媒師ジョージ。好きなディケンズがらみでブックフェアー会場に辿り着くと、そこに自らの"臨死体験"本の紹介に来ていたマリーと遭遇し、更にインターネットで死んだ双子の兄を呼び出してくれる超能力者を検索してジョージのことを知ることとなったマーカスとも遭遇。そして、そのマーカスがジヨージとマリーの二人を結びつけるキューピットの役を果たしてしまう。暗転の底から一縷の希望の兆し。ここで映画は唐突に終わる。 

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 子供の頃に罹った脳の病が元で附加されることとなった死者を視る能力=超能力をむしろ"呪い"だと唾棄し厭(いと)うジョージ。その能力を生かした霊媒師稼業から離れ、つましく工場勤めを続けてきたのが、折からの不況でリストラの憂き目に遭い、料理学校で仲が良くなった女性にもその能力が原因で逃げられてしまって、踏んだり蹴ったりの土壺からのがれようと気分転換にロンドンに旅立つ。
 彼の好きな作家ディケンズがらみでブックフェアー会場に辿り着くと、そこに自らの"臨死体験"本の紹介に来ていたマリーと遭遇し、更にインターネットで死んだ双子の兄を呼び出してくれる超能力者を検索してジョージのことを知ることとなったマーカスとも遭遇。そして、そのマーカスがジヨージとマリーの二人を結びつけるキューピットの役を果たしてしまう。暗転の底から一縷の希望の兆し。ここで映画は唐突に終わる。

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 霊媒師や霊的イメージを使いながらも、霊=霊界(死後の世界)そのものに踏み込むことなく、そのとば口に敢えて踏みとどまり、いたずらに"死"を忌み、怖がったりする立場から、むしろ"死"に泥(なず)みより一層"生きよう"とする方途(スタンス)の提示ってとこだろうか。安直にストーリー展開が容易な霊界(ゴースト)物語に堕すことなく、あくまでも"現実"というものを見据えようと監督のC・イーストウッドはしている。それは彼の年齢的な現実から派生してきたものでもあろうが、やはり、どうにも行き詰まった米国的現実=ポスト"9,11"的癒し物語という訳なのだろう。

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2011年12月22日 (木)

メスカリン的錯綜世界 松田優作《 野獣死すべし 》(1980年)

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 先日、ふと通りがかりに眼にしたテレビ画面に、アップになった石橋蓮司の姿が映っていて、亡くなったばかりの原田芳雄について語っていたようだった。石橋蓮司と原田芳雄といえば、黒木和夫監督《 龍馬暗殺 》に尽きる。あの時代の寵児・桃井かおり、松田優作なんかも共演した金字塔ってことろだろうか。

 で、ビデオ屋に赴いてみると、金字塔であるはずの《 龍馬暗殺 》、幾ら探しても見つからず、結局松田優作の《 野獣死すべし 》ってことに落ち着いてしまった。《 遊戯シリーズ 》や《 蘇る金狼 》などの東映のドル箱アクション作品をコンビで撮り続けてきた村川透作品で、《 蘇る金狼 》ともどもハード・ボイルド作家・大藪春彦の原作。《 蘇る金狼 》の方は、オーソドックスな踏襲なのだろうが、大藪の処女作でもあるこの《 野獣死すべし 》は、原作者・大藪がクレームをつけたぐらいに変容・乖離したものらしい。ステレオ・タイプな通俗アクション物に飽き足らなくなった優作の、もっと別様の、もっと踏み込んだものを求め試み始めた転回点的作品で、大藪のワイルドで脂ぎった伊達邦彦とは相違して、奇矯なくらいにエキセントリックな人物像に仕上げている。 

 
 M・スコセッシ監督の《 タクシー・ドライバー 》に影響を受けていた監督の村川透、脚本家・丸山昇一と優作は、高度経済成長を象徴するようなエネルギッシュでバイタリティー溢れる大藪的伊達邦彦ではなく、ポスト・ベトナム戦争的な、病み屈折した、むしろ元ベトナム戦争従軍海兵隊員のロバート・デ・ニーロ扮するタクシー・ドライバー=トラビスを想わせる元通信社特派カメラマン、所謂"戦場カメラマン"=伊達邦彦を造り上げた。これは、監督・村川以上に、演技者=優作の意に依るところが多いようだ。この優作の試行錯誤的展開は、翌年(1981年)の鈴木清順・作品《 陽炎座 》に繋がってゆく。

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 この映画は正に"雰囲気"映画とでも謂(い)うべきもので、たかしまあきひこの音楽が相乗効果をあげていて、《 タクシー・ドライバー 》のドラッグ的幻覚・醒酔定かならぬ入眠幻想的側面からアプローチし、それなりの成果は得ているように思える。この映画の基準はそこら辺にあって、アジア・アフリカ・中東の弾丸飛び交う生な戦場を間近にその眼で視、硝煙と血飛沫、号泣と呻きをフィルムに定着し続けることによって、平和的日本との乖離、あるいは"1984"(ジョージ・オーウェルの)的世界構造的欺瞞との齟齬故に、次第に意識と感性の変容を来たした元戦場カメラマンのフラッシュ・バック的錯綜の軌跡譚として造形されている。

 冒頭、警視庁の刑事の拳銃を奪うシークエンス、早速そこからして些か論理的整合性を欠いている。ある刑事の拳銃を、人気のない公薗でナイフ片手に、如何にも慣れない手つきで襲い死闘というには随分と緩慢で、高を喰った刑事の油断が命取りってニュアンスなのだろうが、どうにも説得力に欠ける。アクション指導(擬闘)も良くない。そもそも高級マンションに住んでいて、奪った拳銃で闇ギャンブル場(カジノ)を襲った後、佐藤慶扮する闇拳銃ブローカーから別の拳銃を買うシーンもあって、だったら最初から危ない橋を渡るよりブローカーから入手すればいいとはおもうのだけど。それともブローカーから入手したのがコルト・アーミーなんて時代物の特殊な拳銃故に高価で、むしろそれを購入するためにカジノを襲ったのだろうか?

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 如何にもプログラム・ピクチャー=東映アクション映画って趣きで、余りそんなチマチマした整合性なんて気にもしてないって風。つまり何でもありで、要はその"雰囲気"なんだという了解性。その了解性で観ると、すんなりと優作の奇矯なまでに演じるエキセントリックな、あるいは精神に破綻を来してしまった戦場を駆け巡ってきた"戦場カメラマン"=伊達邦彦の錯綜とした軌跡が泥(なず)んでくる。

 
 そもそも伊達邦彦が狙っていたのは、日本橋にある東洋銀行で、そのための準備資金獲得か手慣らしって意味合いでの用心棒の守るカジノ襲撃だったのだろうか。奪った刑事の拳銃で、用心棒達を全員射殺してしまい、本命の東洋銀行でも、も一人の仲間と銀行員を次から次へと十二人も殺しまくる。(もう一人別に、偶然客として居合わせた伊達に恋をした娘も、伊達自身によって射殺される。つまり計十三人)。プロの銀行強盗がみたら腰を抜かしそうな殺戮の巷。銀行から逃走し、早くから伊達をカジノ襲撃犯としてマークしていた警視庁刑事・柏木(室田日出夫)に付きまとわれながら列車で高飛び。真夜中の車中、柏木にリップ・ヴァン・ウィンクルの話をしながら、実弾一発を残した柏木のリボルバー拳銃の銃口を柏木に向けロシアン・ルーレットを愉しんだあげく、逃げようとした柏木を背後から一発銃撃し、急に弾けたように、伊達が駈け寄り倒れた柏木をめった蹴りにする。その後車掌も射殺され、紛れ込んできて慌てて逃げ出した乗客も閉まったドア越しに自動小銃で銃撃。仲間の真田(鹿賀丈史)が必死で止め、車窓から外へと逃げ出す。山中の防空壕跡みたいな広い暗がりに逃げ込み、居合わせた男女カップルも殺害され、女をレイプし続ける真田をも射殺する。金を独り占めするためではなく、レイプの光景に、嘗ての戦場での記憶がまざまざと甦ってきからであった。

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「ベイルートから南へ十マイルの場所だ。
腹に三発の銃弾を喰らってたんだ
そいつは自分でモルヒネをうってたんだ
くい込んだ三発の銃弾を自分でかっさばいて取り出そうとしてたんだ
俺はなー、狂ったようにシャッターを切った、狂ったようにだ。
エクスタシー! エキサイト! 昂奮だった
その時、突如生き残ったゲリラの一人が出てきたんだ。
そいつはな、左足を吹っ飛ばされてたんだ

そいつは、ロシア製の銃をもってにじり寄ってきたんだ
俺はなー、とっさに恐怖を感じた・・・絶対に撃たれる
慌てて俺は傭兵の銃を握って、そいつに向かって
思わず銃を撃ったんだー!
俺はその時、いい知れない昂奮を覚えたんだ、俺は人を殺したんだと
それから三日三晩ジャングルを彷徨い歩き続けたんだ、次の獲物を選ぶために・・・」

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 嘗て伊達に惚れた娘と隣り合わせて坐ったコンサート・ホール、既にオーケストラの演奏が始まり、伊達のお決まりの席とその娘の定席たる隣席だけがポツリと空いていたまま。やがて常時のように遅れてきた伊達が席に就き、とっくに演奏も終わって誰も居なくなったホールで自分の落とした洋書の音で、ふと長い微睡みから醒め、醒睡定かならぬ朦朧状態を払い除けるように、叫び声を一つあげてみる。ホールはシーンとしたまま。やがて目映い白昼の外へと現れ、ゆっくりと長い階段を一歩づつ降りはじめる。と、突如、強烈な衝撃が伊達の細い身体に炸裂した。思わずもんどりうって転倒してしまう。何事かと、手摺りに掴まって身体を持ち上げ周囲を確かめてみると、陽炎の如く揺らめく胸の処に真紅の血痕が貼りついた白いシャツの柏木が一人佇む姿があった。と、再び衝撃が身体を貫いた。・・・

 このラスト・シーン、ブログ見ると、普通に柏木の背後の藪に隠れた狙撃部隊によって射殺されたという解釈ではなく、狙撃部隊員の姿がないから伊達の創り出した幻影だとか、更にそこからこの伊達の軌跡全体を、劇中でこれ見よがしに語られる浦島太郎的なリップ・ヴァン・ウィンクルの酔生夢死的世界そのものと逆規定したりの色々解釈する向きも多いようだ。

 銀行で、目深にかぶった帽子とマスク姿ではあっても特徴的な伊達の容姿は、客として偶然居合わせた伊達を慕っていた小林麻美扮する米国系企業の秘書娘の眼には誤魔化しようもなく、恐怖より先に、一体何故にこんな暴虐な仕業をと、その不合理故に、入口のシャッターまでノコノコと跡をつけて行き、手にかけるつもりもなかった伊達も仕方なく振り返って、マスクを外し、ゆっくりと手にした拳銃で娘に狙いをつけ引き金を引く。ここがこの映画の白眉でもあって、真っ白いドレスのエレガントな小林麻美の胸が一瞬真紅の血に染まり、スローモーションでゆっくりと倒れてゆくシーンは印象的。

 監督 村川透
 脚本 丸山昇一
 撮影 仙元誠三
 美術 今村力
 音楽 たかしまあきひこ
 制作 角川・東映 (1980年)

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2011年12月 9日 (金)

宇宙人になれなかった少年の物語 大島渚《 少年 》1969年

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 現在でも闘病生活中らしい監督・大島渚の、これは同年(1969年)の横尾忠則主演《 新宿泥棒日記 》、および翌年の《 儀式 》と続けて担当した田村孟の脚本で作られた所謂"低予算"映画。ドロドロした大人の世界ばかり撮ってきた大島作品の中にあって、少年を主人公にした異色作。出演"俳優"も父親役の渡辺文雄と母親役の小山明子の二人のみ。主人公の十歳の少年役は、孤児院に籍をおいていたらしい素人少年。そして三歳の幼児。この二人の男の子、とくに主人公役の方は仲々絶妙。"子役が大人俳優を喰う"ってよく聞くけれど、所謂"演技"ではなく、素な所作=味ってところだろうか。監督の腕の冴えって訳でもあるんだろう。
 昭和の"高度経済成長期"頃、それに乗り損ねた故に、便乗しようとした所謂"当たり屋"一家に焦点をあてた社会批判的作品で、これ見よがしではなく、少年をうまく使って情緒に満ちた作品に仕上げた秀作。

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 当たり屋って、現在では殆どいないだろうが、六十年代初期頃から既にあったらしく、この当時は列島中に蔓延っていたのだろう。走っている自動車にちょっと接触し、ぶつけられたと騒いで、示談金の幾らかをせしめる文字通り身体を張っての死線ぎりぎりの生業(なりわい)。勿論警察沙汰になる前に、恐喝にも似た手腕で治療費・示談金を出させるのだから、押しの強さも不可欠。それを、戦争で胸や片腕をやられた"傷痍軍人"たる父親がやり、母親が当たっていたのを、とうとう十歳の息子にもやらせるようになってしまう。最初は恐がり渋っていた少年も、ある日とうとう観念し、母親に欲しかった黄色い野球帽を買って貰って実行。その日以来、少年の身体に生傷の絶えることはなくなる。
 "当たり屋"をやりながら一家して列島中を巡ったという当時事件になった実在の親子を題材にしたという。"戦争"でふつうに働けなくなってしまっていた父親ってのが伏線で、一家の行く先々でやたら"日の丸"が姿をみせる。とりわけ、雪の北海道で下の三歳の男の子を避けようと道路を走ってきた乗用車が木に激突し、運転手と乗っていた少女が死亡してしまった事件のすぐ後、呆然として雪道を駅の方へ彷徨う少年を呼び寄せた一家の投宿した旅館の部屋の奥の、山をなして並んだ真新しい位牌と骨壺の背後に壁一面の巨大な日の丸が垂れ下がっているシーンがその極めつけであろう。果てしなく流されてきた血を吸ってどす黒く滑(ぬめ)ってすらいそうな日の丸は、正に、戦前もそして戦後も延々としてってアナロジーなのだろう。

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 結局、最期は大阪で逮捕されてしまい、最初は健気(けなげ)なくらいに頑なに親をかばい、犯行を否定し続けていた少年も、列車の中で刑事に窓外に拡がる寒々とした海景色のことを尋ねられ、ふと北海道での真っ白な雪景色の中での自分と同じ世代の少女の死顔が思い浮かんだ次の刹那、様々なものが交錯しめくるめき、一筋熱い涙が流れ落ちる。そしてポツリと「北海道には行ったことがある」と呟く。その出来事=事件が少年の心の内に深々と刺さった棘となっていたのだ。
 大写しになった美少女の、片側の白い額から流れ落ちた真紅の一筋の血。
 黒い学生帽を目深に被った少年の切れ長の眼から一筋の涙。
 これは定型的な"昭和"の少年・少女的イメージそのものであり、大島の情緒・美意識そのものでもあるのだろう。それは、翌年の《 儀式 》にも通じている。戦中派世代らしい美意識ではある。その黒い学帽、黒の上下の学生服に身を包んだ少年に、少女死亡事件の直後、降り積もった真っ白い雪世界の只中で雪だるまに死んだ少女の片方の赤いゴム長靴を載せ、離れた場所に坐り込んだ弟のチビに言い聞かすともなく語らせる。
 
 これはねー、只の雪だるまじゃないんじゃ。宇宙人ぜ。
 この宇宙人はアンドロメダ星雲から来たんだ。
 こいつはねー、正義の味方じゃ。
 悪いことする奴を、地球の悪人をやっつけるために来たんじゃ。
 怪獣じゃち怖わーない、鬼じゃち怖わーない、
 電車じゃち、自動車じゃち怖わーないんじゃ。
 突き当たったら、皆向こうが壊れるんじゃ。
 怪我はせんし、泣いたりせんぜー、
 はじめから涙なんてないんじゃー。
 宇宙人はねー、親はおらんし、
 一人じゃき、
 お父ちゃんも、お母ちゃんもおらんがや。
 本当に怖わーなったときは、
 星から別の宇宙人が助けに来てくれるじゃき。
 ぼくはそういう宇宙人になろうと思っちょる、
 なりたかったんじゃ。
 けんど、いかん。
 ぼくは普通の子供じゃき。
 死ぬこともうまいことできん、
 チクショウ!
 宇宙人のバカヤロー!
 
 大島が松竹を去って作った《 創造社 》の仲間でもあった田村孟、1976年には監督・長谷川和彦、水谷豊・主演の《 青春の殺人者 》、1984年の篠田正浩監督《 瀬戸内少年野球団 》等がある。

 監督 大島渚
 脚本 田村孟
 撮影 吉岡康弘、仙元誠三
 音楽 林光
 美術 戸田重昌 

 父=渡辺文雄
母=小山明子
少年=阿部哲夫
チビ=木下剛志
制作 創造社・ATG 1969年作品

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