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2012年1月26日 (木)

 宿業的南溟あるいは南進譚《森三千代 鈔》

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 金子光晴といえば、やはり前世からのカルマ的因縁によって真紅な糸で結ばれでもいるかのような、生涯の伴侶だった詩人であり作家でもある森三千代であろう。戦前の上海や東南アジア、ヨーロッパなどを、泥縄式の、薄氷を踏むような、それも決して容易ではなかったはずの手管を駆使し、旅し続けた二人の正に青春の蹉跌と彷徨。現在の旅人(バック・パッカー)達にも、それぞれの青春あるいは人生の蹉跌と軌跡があるはずだけど、戦前のそれは今読み返しても、も一つその苦味と境涯に、人間の深奥に根ざした実存的"深み"とでもいったものを覚えてしまう。
 金子の方は神話といっていいくらいに既に余りに流布しているものの、同じ一枚のメタルの裏表でしかないはずが、森三千代の方は、嘗てはともかく、現在殆ど知られていない。中公文庫で出ている牧羊子の《金子光晴と森三千代》だけでは、正鵠を穿ってはいても到底その全体像を計ることはできず、今では古書の類として入手するしかない昭和52年発行のアンソロジー《森三千代 鈔》(濤書房)で辛うじてそのおおよその輪郭に触れることができるのみ。

                     
 昭和17年といえば、前年末の"真珠湾攻撃"で米英と太平洋戦争に突入し、その"闇討ち開戦"の余勢をかって、東南アジアを次々に席捲しつづけている最中、秋に林芙美子はじめ、女流作家達が陸軍報道部の一員としてジャワ・ボルネオ等の東南アジアを歴訪した。その同じ年の初頭、森三千代は外務省文化使節として仏印(インドシナ)・東南アジアを訪れ、同年に小説集《 国違い 》(日本文林社)を発表した。この小説集にはタイトルの『国違い』と『帰去来』が収められていて、馬来(マライ)=マレーシアのジャングル奥深く、一万エーカーものゴム園開墾のためにやってきた日本企業のための現地人労働者の手配師ガンボ、そして彼の日本人妻・園子というそれぞれ異なった国の男女の、(帝国主義的な)搾取=被搾取を基軸に、複雑・微妙な人間模様を、『国違い』では日本企業技師・宮崎の視点から、『帰去来』では日本から頼ってやってきた園子の親戚の娘・ゆきとその自堕落な夫・吉三も加わっての俯瞰的視点から描いている。

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 日本人旦那(トアン・ジッポン)と馬来人(オラン・マレー)という力学的図式の下に、技師・宮崎と容貌魁偉な巨漢ガンボとの長年の交友、そして日本で失踪した許嫁の後を追って、遙々単身南洋=東南アジアのこの奥地まで辿り着いたところで地元の誘拐団に囚われ、そこでガンボに大金を払って引き取られ妻となった園子。"大国日本"という"一等国"の国民として、"劣った"南洋の現地民たるガンボに対して抱く優越感が、園子という流転し、あろうことか現地民に金で買われ女房にまで転落してしまった零落した同じ日本人女=同胞のため、いやでも屈折した心理的起伏を抱懐させられてしまう。それが、三千代の狙いでもあって、金子同様、なまなかに御用作家を決め込んだ訳ではなかった。

 周辺の日本人達は皆一様にガンボに冷たく卑しみの眼差しを向け、園子には同情的で、園子が不本意なガンボとの夫婦関係を廃棄し無事日本へ帰国できるようにとその資金をすら出し合っていた。園子も周辺の執拗な勧めに遂にガンボの下から決死の逃避行を実行し、帰国することができる。しかし、そこで待っていたものは・・・
 それにしても、ゴム園の労働者の手配師で金回りも良く現地民相手に金貸しまでやり厳しく取り立てていたガンボ、実は園子にぞっこんで、且つ日本人女を妻にしていることが誇りであった。商才も長けた園子に日本人相手の商売すら任せ、むしろ園子の方が強い立場にあったとは、宮崎以外の誰にも知られない事実であった。

 
 『帰去来』は、この物語の続編で、次のような冒頭から始まる。

 「雨季のかかりごろ、ゴム栽培薗事務所や現場の日本人達が、船着場のガンボの雑貨店に、半年前日本にかえった筈の園子の姿を再び見かけた。
 わずか五六ヶ月のあいだに、彼女の相貌は十歳以上も老けこんで戻って来た。日本人と出会うと、彼女は、おもてを合わせるのがいかにも辛そうに、慌てて視線をそらし、身をちぢめ、こそこそとかくれた。」

 久し振りに戻った日本は、しかし、到底園子の住める国ではなくなっていて、逃げるようにあのゆったりしたリズムの南洋の国、奥深いジャングルのガンボの下へ舞い戻ってきてしまった。それから幾らも過ってないある日、園子の親戚の娘・ゆきが元菓子職人の夫とともに、逼迫した日本に見切りをつけ、海外に、それも東南アジアに活路を求めようとする気運に乗じるようにふらりと姿を現した。

 「九州地方一帯に南洋帰りが好況時代の話に尾鰭をつけて語りひろげられ、南洋にさえ行けばうまいことがあるように思いなされていたためでもあった。」

 園子はゆきに同情的で献身的に尽くし、ガンボもあからさまに自分を蔑すむ吉三と折り合いが良くはなかったが園子の手前いやいやながら協力はしたものの、如何せん吉三が一層自堕落に拍車がかかり、園子達の下から比較的大きな町バトパハに移ってしまう。園子はガンボを責めた。その内、ゆきが身籠もったと知らせてきて、博打にうつつをぬかすばかりの吉三のことを思うと、矢も楯もたまらずガンボの隠し金をごっそりくすねてゆきに渡しに赴く。ガンボは、一言もなく突然隠しておいた大金とともに園子が姿をくらましてしまったのを、またぞろ自分を捨てて逃げたのだと思い込みすっかり生きる気力を失ってしまう。見かねて園子を連れ戻しにバトパハへ向かった宮崎と入れ違いに園子の乗った船がガンボの居るジャングルの奥地へと川をゆっくりと遡行していくのであった。

Photo

 金子も戦後若い女流詩人と浮き名を流したらしいが、三千代の方の金子以外の男との関係を素描した短編も二点入っている。《青春の放浪》昭和26年『新潮』、《新宿に雨降る》昭和28年『小説新潮』。

 「 天長く地久しけれど尽くる時あり
   この恨み綿々として尽くることなし
 これは、人も知る白楽天の《長恨歌》の末句である。
 柳剣鳴は、この文句を紙に書いて見せて、
 『これが、僕の心を代弁してくれている。八年間も日本と中国が戦争したことが、二人の恋愛を台なしにしてしまった。中日は再び結んで、昨日の敵は今日の友となったけれど、流れ去った年月は、もはや取り戻すすべがない』
 と、言った。」

 で始まる《新宿に雨降る》。20年ぶりに再開した台湾軍少将・柳剣鳴が三千代に示した感慨であった。20年前、三千代が5年にも及ぶヨーロッパ滞在から戻ってきてすぐ、彼とはじめて会ったのも新宿であった。当時住んでいたアパートに、少尉だった彼と彼の夫人がある人物の紹介で訪れたのだった。それが機縁で急速に親しくなってゆく。「三年の間に、かならず、あなたを迎えに来ます」と約して去った柳剣鳴。南京陥落の頃、三千代は単身玄界灘を越えて天津に向かった。しかし、行き違いで彼とは再会できなかった。それから随分と年月が過ぎ、突如の再会・・・

 のっけから学生アナーキストの若い愛人・土方定一との愛の巣に、詩人の草野心平が、上海から戻ってきたばかりの金子を連れて現れる場面から始まる《青春の放浪》。戦後、美術評論家として活躍し始める土方であったが、戦前の事柄とはいえ、皆実名で登場する、もう典型的な暴露小説的私小説そのもの。
 三千代の狼狽と困惑そして居直り、土方の不機嫌が生々しく、それにフィード・バックした金子の悲喜こもごもに内包されたコキュ的反応。そしてヨーロッパ行の提案。遙か遠い大陸の反対側に三千代を幽閉しようという魂胆が見え透いているにもかかわらず、現実の力学から、詮方なしに了承してしまう三千代。

 「『定ちゃんと私を、それで引き離そうというのね。この問題を、それで世間からうやむやにしてしまうというの? それじゃ、あなただけが一番得じゃないの』金子は苦笑した。
 『まあ、よく考えてごらん。君にだってヨーロッパ行は一石二鳥だと思うがな。長崎のお父さんは、絶対に君のこんどの事件はゆるさないといっていられるよ。よけいなおしゃべりをしたようだが、俺だってしかたがなかったので、まずお父さんに君の話を疑念程度に話して打診してみたんだ。ヨーロッパ行ということにすれば、掛声だけでお父さんも世間の奴らもおどかしてしまえる。ほんとうにヨーロッパへ行かれれば君も日頃の望み通り飛躍できる・・・』」

 しかし、そう決定してしまっても、三千代は若い燕の土方から容易に離れられず、うじうじと出発の間際まで幾度となく逢瀬を重ね続ける。正に燃えさかる煩悩の業火。金子も自身の著書に認めてはいるが、ジリジリと紅蓮の炎に己が身を焼き続ける女の生々しい呻きの前には、些か色褪せてみえる。これが長編だったら、微細に入った描写で何とも酸鼻を極めた地獄絵が展開されたのではないか、とすら思えてしまう。

  《 森三千代 鈔 》(濤書房)昭和52年発行

 インターネットの古書サイトから、意外と手に入れ易い。

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