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2012年5月26日 (土)

希代の吸血鬼との対話  《死刑執行人》 ウィン・リョウワーリン

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 国内で出版されたタイ小説、本屋の店頭で見かけるってことは先ずない。最近は、所謂"文学"ものではないエンターテイメントのものも出始めているらしいが。図書館も余り頼りにならないし、そうなると、もうネット販売に頼るしかない。で、何年も前に入手したこのウィン・リョウワーリンの《インモラル・アンリアル》(2002年)、九十年代にタイで出版された彼の三冊の短編集から翻訳者が選び構成したアンソロジーらしい。当時、作者のリョウワーリンは、94年の《平行線上の民主主義》で一躍タイ中に知られることとなった、かなり実験的な手法を駆使する異端的存在のようだ。学校を出てから内外の広告業界でコピーライターとして働いていたという。コピーは文章を練るには好い訓練になるのだろう。日本でも、開高健がそうだったし、広告業界から映画の世界に移り活躍している監督なんかも結構多い。

 《インモラル・アンリアル》の中の『死刑執行人』、98年に発表された短編集《人間と呼ばれる生き物》の内の一編だが、結構面白い。一番興味を持ったのが、このタイトルにもなっている執行官たる主人公が射殺する死刑囚が、どうもかつてタイ全土を震え上がらせたといわれる子供たち数人を殺害し内蔵を喰らったと噂された"シー・ウィー"ではないかと思われたからだ。小説中では、吸血鬼ドラキュラ伯爵をもじって"伯爵"と呼ばれている。シー・ウィーについては以前(『シーウィー : 死に至る病の生薬』)認めたから省くが、"肉団子"や"手鉤に吊された肉"なんてタイのポップ・シンガー=マイの主演したスプラッター・ホラー映画《ミート・グラインダー : 人肉クォッティヨ(オリジナルタイトル)》(邦題『人肉ラーメン』)の象徴的シーンがダブってくる。あれもタイの民主化運動が弾圧される最中に起きた出来事であり、マイの演じた人肉クォッテイヨ(タイ風米麺)屋の娘が、この執行官に射殺される猟奇殺人犯の死刑囚に相似している。監督&脚本のティワ・モエイサイソン、このリョウワーリンの短編から着想したのではないだろうか。

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 タイ中を震撼させた希代の猟奇殺人犯の"ドラキュラ伯爵"、社会の底辺で喰わんがため不本意ながらも殺戮と鮮血にまみれた屠殺という生業に鬱々と明け暮れていたある日、ふと衝動に駆られその店の老爺の喉を屠殺刀で抉ってしまう。返り血を浴び真紅に染まりながら、彼はそれまでの日毎彼の心の奥底にどす黒く凝結しつづけてきた一切の禍々しい感情と妄念が、ふっとかき消えてゆくのを覚えた。カタルシス。やがて、ある種の麻薬のごとく、それが習い性となってしまい、あてどない衝動とカタルシスの殺人行。これは又、大正時代の一大小説《大菩薩峠》の主人公・机龍之介の殺人行と通じるものがある。
 ところが、権力の使い走りの死刑執行人たる主人公も、鶏を屠って解体し販売するのを生業(なりわい)としてきた家庭で育ち、初めて鶏の首にナイフをたて抉ろうとして失敗し半分切れ落ちた首のまま鶏に逃げられながらも何とか屠ることができた次の瞬間、激しく嘔吐してしまい、父親に"臆病者!"と罵られたのがトラウマとなっていた。後に入った軍隊でも、民主化勢力が軍政に弾圧され地方の山村に逃れ武装化し"共産軍"となって抵抗するのを制圧するため派遣された時、遠くに現れた同じタイ人の敵兵=ゲリラに照準を合わせながらも逡巡し、耳元で教官に「グズグズするな! 早く撃て!」と怒鳴られてしまう。そして死刑執行人となってからも少なからずの人間=死刑囚を屠ってきたのであった。

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 ドラキュラ伯爵の死刑執行直前になって、上から一日延期の連絡が入った。外国の研究者たちや国内のメディアがインタビューしたがっているという理由だ。結局"伯爵"はインタビューには一言も答えなかった。一室で"伯爵"と二人だけになった時、主人公があれこれ聞き質そうとすると、"伯爵"がある取引を持ち出してきた。

 「おまえさんが人を殺した話を一件、おれに聞かせてくれ。そうすれば、おれも人を殺した話をおまえさんに一件聞かせようじゃないか・・・」

 これがこの短編のネックなのだろう。
 そこにタイ人好みの仏教的"業(カルマ)"のおどろおどろしさが加味されて、さながら因果応報の曼荼羅図って趣き。

 シー・ウィーの頃からつい最近までタイの死刑はライフルによる銃殺だったらしい。youtube見ると、十字架に抱きつかせるように縛り、ある程度の距離から背中を狙って数発撃つようだ。現在はもう薬物注入による薬殺に変わったらしい。中国では、至近距離からライフルで後頭部を狙って射殺する方式で、顔半分が吹き飛んだりの惨状を呈し悪評この上ない。執行官も精神的に堪ったものではあるまい。この短編の主人公も、執行前に半時間の読経を欠かさないようだったし。  

 何処の国にあっても、まっとうな世ならいざ知らず、こうまで狡智と悪辣に病み屈折し鬱々とした社会にあってみれば、物事はそう単純にはいかない。大島渚に《絞首刑》(1968年)という作品があった。小松川事件モデルにしたフィクションで、被告人の青年R(事件当時18歳)の死刑執行に失敗し、死刑執行官たちのあれこれすったもんだを些かのブラック・ジョークを混じえての、死刑制度反対を旨とした映画だった。日本のねじれ病んだ社会の体現者でもあり又同時に被害者としてのRであり永山則夫であって、"社会"というものを真摯に立てようとすれば、彼らを"許し"その上で新たな社会=世界を創造する他ない。彼らを引き受け、(共に)乗り越えるというのでない限り、決してまっとな社会なんてあり得ようもないのは、もう余りにはっきりし尽くしてしまっている。空論ではなく誤魔化しようもない現実として。自民党半世紀支配でとっくに終焉した社会・国であり、資本主義なのだから。亡国国家、つまりゾンビー国家でしかない。米国しかり。(後はなし崩し的に、文字通りのジョージ・オーウェル的"1984"世界って訳だろう。)ゾンビー映画が世界的に流行るゆえんだ。つまり、ゾンビーって我々自身の投影でもあったのだ。

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 それにしても、元自民党・麻生太郎政権下、彼の選挙区で起きた《飯塚事件》→《久間三千年さん冤罪殺人事件》、あれだけ内外から批判・反対されたにもかかわらず、麻生とその配下、自民党法務大臣・森英介が強引に検察・裁判所・法務省とつるんで"死刑"を強行した理由って一体何だったのだろう。
 選挙間近だった麻生の側の理由なのだろうか、それとも法相・森英介の側の栄達の上での理由、あるいは警察・検察・裁判所・法務省つまり司法の側の隠蔽と栄達のための問題でしかなかったのだろうか。久間さんの無罪は既に明瞭なので、"死刑"ではなく、殺害・殺人と呼ぶべきで、元々警察・検察の証拠ねつ造も見え見えで、無辜の一住民を"拉致・監禁"したってことでもあって、だとしたら麻生・森英介は共に同時進行的に"北朝鮮拉致問題"関係の団体に参加もしていたのだから、彼らの言う「拉致」問題って一体何を指していたんだろう。こんなのは、矛盾とは言わない。虚偽という。
 民主党政権に移っても、今だこの問題一指だにされていない。否、あろうことか、以前は死刑反対を唱えていた民主党弁護士議員・千葉景子などは法相になった途端、件の《久間三千年さん冤罪殺人事件》を立件化するどころか完全に封殺し、三人もの死刑執行を認可した。その三人の捜査・裁判の検証をちゃんと逐一やった上での認可だったろうか? まず否であろう。こんな風で、自民党半世紀支配の頃って、警察・司法によって一体どれほど多くの人々が冤罪に陥れられてきたろう。想像に余りある。タイとて事情はそう変わるまい。

《インモラル・アンリアル》ウィン・リョウワーリン 訳・宇戸清治(サンマーク出版)
                            

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