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2012年8月 3日 (金)

 《184次直快至"上海" 1993年》

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 1993年といえばもう20年近く前、その頃と現在とは随分と中国もその雰囲気や佇まい、そして人々の様相も変わってしまったろう。その一昔前の嘗ての中国のバックパッカーたる筆者の旅からの帰路という一コマを辿ってみるのも一興かも。

 新彊ウイグル自治区の省都ウルムチから敦煌、ゴルムド、西寧、洛陽そして上海というコースを辿った。季節は夏。朝、古都・洛陽駅で上海行硬座(42元)184次直快(成都→上海)13時39分発のチケットを買う。ここは、当日券のみの販売。
 定刻通り列車は出発。中途駅なので最初から混んでいて、5時間立ちっぱなして漸く坐れた。荷物棚も隙間なく二人掛けの座席の下にリュックを放り込んでいたのが、後ろの席の母親が幼児に廊下で小便をさせ、それが列車の振動でだんだんリュックの方へ流れてきて、慌ててリュックを他のシートの下に移した。
 さすがに現在ではもうないだろうが、当時は列車の床で大小便を垂れ流すのは(勿論子供だけ)慣例で、三人掛けのシートの下には人が潜り込むのも普通に行われていた。勿論流れてきた大小便の被害に遭うリスク込みってやつだろうが。高目の軟座(ソフト・シート)の方ではまずあり得なかった慣例だろう。
 翌年に乗った時には、ともかく中国人客の驚くほどに沢山に飲食物を持ち込み、更に車内販売や各駅頭の売店であれこれ買い込んで、とにかく喰いまくり飲みまくる様には驚いてしまった。この辺りから中国の改革開放的躍進が始まったのだろう。そのダイナミズムやそれまで永い間一方的に後進国の搾取の上にあぐらをかいてきた欧米先進国の住民達を震撼なさしめるものにすら発展していった。同じ頃発売になった中国のフォーク・ロック・スター的存在らしい張楚のアルバムの中の《上蒼保佑吃完了飯的人民》という曲なんて正にそんな時代の中国を端的に現している。

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     南京東路

 断続的に廻る扇風機に辛うじて暑さを凌ぎ、徐州あたりから窓の向こうに河や水路が覗けるようになって、先端の大きく曲がった独特の屋根ばかりが連なった水郷然とした景観に変わり始めた。朝、定刻より少し遅れて上海站(駅)に到着。
 南口から出ると、64路のバスがすぐ来たので乗り込む(1元)。ラッシュ時なので遅々として進まなかったものの、北京東路の江西路で降り、先ず和平飯店のCITSで"蘇州号"のチケットを買う。1010元FEC。(尚、CITSは翌'94年からは外灘沿いの中山東一路の先の"光明大厦"に移る)。
 さっそく、定宿"浦江飯店"へ直行。ウェイティング・リストに名を連ね、"13"番目。昼まで待ってやっとチェック・イン。5階のドミトリーの508号室(5×2の10人部屋)30元FEC。5階のフロントで更にキーのデポジット10元。
 テレビは備わっていたが、蒸し暑い上海なのに、エアコンも扇風機もない。窓のすぐ向こうに"上海大厦"が聳え、外灘からの自然風のみが唯一の涼。シャワーなしのバスタブ故に3階まで降りシャワーを浴びなければならないし、トイレもバス・ルームの中にあって面倒でもあった。(バスタブを使う奴って余り居なかった。)
 入口の脇に棚があって、その上にテレビと湯の入ったポット2つ、グラスが本来は10個なのだろうが6、7個並べてあって、窓際には机と椅子が1セット置いてあった。窓からは結構涼しい風と河を通ってゆく小舟の音が聞こえてきて旧い佇まいと雰囲気は悪くない。

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 南京東路(まだまだ人民中国的上海的服装の上海人たち。この独特の雰囲気が新鮮だった )


 この時は、"預園商場"の《 湖心亭茶室 》と、南京東路の一つ下った九江路にある《 人民大舞台 》の京劇観覧に些かハマった。
 《 湖心亭茶室 》は作家の芥川龍之介すらも訪れた老舗茶館で、ここの伝票には《 上海老城隍廟 湖心亭茶楼 》となっている。チャイ屋・チャイハネ・茶館とパッカー達の一つの定番で、ここは団体観光客も大挙押し寄せてくる観光名所でもある。彼等に遭遇しないためには早朝(開店時)か夕方。2階席は5時頃に閉まってしまう。10時頃点心のウィンドウの中に饅頭なんかが並べられる。
 潮州名産と銘打った二つの饅頭を注文。どちらも包装紙に"源誠"と大きく書かれ、小豆色の包装の方には"双仁細沙"、もう一つの紅と黄の包装の方は"精制老婆餅"と印刷されていた。2個一皿で4元。近くの商場で買った月餅の方が美味かった。只6元のチマキだけは高いだけあって悪くない。ゆったりと烏龍茶でもチビリ、チビリと飲みながら、池の向こうの預園の景色でも眺め、芥川やも少し前の、"上海小刀會"の義起(蜂起)の頃なんぞに想いを馳せるなんてのも旅の醍醐味。芥川の"小便譚"なんか出色。

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  横丁の人民食堂 (この頃は、まだ割り箸なし。褐色の"肝炎"箸ばかり。新彊の方にはあったのだが)
 
 夕方、ふと南京東路から一つ下った九江路にある年代物の建物を発見。《 人民大舞台 》とあった。テレビ局のバスも止まり、人だかりもしていて、大きな看板に京劇の演目と日付が記してあった。傍で演目に見入っていた人に「この劇場でこれが上演されるのか?」と尋ねると、「そうだ」と答えた。すると、ダフ屋が現れ、バスのチケットのような小さな紙切れを示した。余りにもチャチな代物なので半信半疑で、さっきの親父さんに確認をとると、「これだ」と肯ったので、大丈夫だろうとそのチケットを買った。7元。そのチケットにも7元と印刷されていた。他の日にも同額で売っていて、一体どうやってダフ屋としての利益を得るんだろうと不思議だが、そこは蛇の道は蛇ってところだろう。
 夜の7時15分から開演ということで、7時頃に劇場にやってくるともう客が入り始めていて、入口でチケットを渡し、少しちぎって、シート・ナンバーを記した部分を返してくれた。
  "楼下前座 16排26座"
 この劇場は二階建てで、一階の前から16番目の列の左から26番目の席であった。舞台に向かって右側の真ん中ぐらいの位置で十分舞台の人物の表情が確認できる場所であった。只、テレビカメラが左右の通路と中央後方の計3台設置してあって、右側のカメラが舞台中央を見るのに些か支障をきたした。
 時間になると、観客のざわめきの只中で、突如幕が開き、ドンジャン、ドンジャンと賑やかに前奏が始まり、やがて、役者が現れる。それでも、客は後から後からひっきりなしに入って来るし、あっちこっちで雑談が交わされていて落ち着かない。どうも京劇の観劇の仕方ってこんなものだというのが分かり始めた。
 持参の茶や売店で買ってきたコーラやミネラル・ウォーター、アイス・クリームなんかを飲み食いしながら、扇子をパタパタしあの役者はなんだかんだとと談じ合いながらの観劇のようだった。この劇場は大きさがころ合いで、役者が存分に動き回れる広さであった。但し、京劇専門の舞台ではないのか、スピーカーが備わっていた。最初の演目は"伐子都"という武将物で、背に何本もの旗を挿した武将の立ち回りが多く、最後は高いところから真下にトンボを切って飛び降り死ぬというもの。何しろ衣装が派手というより煌びやかで、派手な隈取りと相まってすばらしいものであった。本場の迫力満点というところだ。(日本公演だと大きな劇場で演ってしまうのでその生なダイナミック感ってものがかなり薄らいでしまうのは言をまたない。)
 最後の演目" 将相和 "が終わったのはもう11時を過ぎていて、演目の途中で客の少なからずは退席していた。途中で買い物し、浦江に戻ったのは12時ちょっと前。

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    人民的旅遊船

 ダフ屋からばかり買うのも能がないと、ある日、早朝八時に起き、急いで《 人民大舞台 》へ向かう。すぐ前の売店でパンとスプライトを買い込み、劇場の玄関口の階段に坐って朝食にしながら、チケット売り場が開くのを待ち続けた。早朝からでも、時折看板やチケット売り場の方を確かめたり、ダフ屋と話をする親父さん達の姿があった。ダフ屋のチケットを窺うと、6元。チケットにも6元と印刷されていて、一体そこからどうやって"利益"を得るのだろうと小首を傾げる。9時になるとチケット売り場が開き、一番のりで、5排の33座。6元。「前の方をくれ」とは一応言ってみたが、恐らくそれ以上前は予約席か何かであるのだろう。その昼の部の公演の最後の演目が" 西遊記 "だったので、是非前の方でかぶりつきで観たかったのだが。
 午後1時過ぎに劇場に行くともう通りにいっぱい人垣が出来ていて、すぐ中に入る。席は大部左側であったものの、迫力十分で、役者の表情も実にはっきりと見て取れた。最後のポピュラーな演目"悟空、天宮を騒がす"はやはり白眉で、幕開きと同時に、舞台いっぱいに出演役者が勢揃いした様は圧巻であった。残念ながら、まだ三蔵法師と出会う前の設定なので、西遊記一行の他のメンバーの姿はない。次から次へと繰り出すアクロバティックな立ち回りは面白く、孫悟空・斉天大聖の面目躍如。翌年には、もうこの《 人民大舞台 》ではなく、《 天蟾京劇中心・逸夫舞台 》という本家有名京劇院に移った。(続く)

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