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2012年10月20日 (土)

輪廻転生的 《 誕生日 》 カルロス・フエンテス

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今春83歳で亡くなったカルロス・フエンテスの作品の中でも最も難解といわれているらしいこの《 誕生日 》(1969年)、「シャーリー・マックレーンへ」の献辞があって、ハリウッド女優時代のものなのか、その後"輪廻転生"を信じる精神世界的チャネラーとして有名になってからものなのか定かでなはい。'69年当時既にあった献辞なら、その頃からマックレーンはそんな世界に傾斜していたのだろう。フエンテス自身、「小説家の役割のひとつとして、知覚できる現実に平行する、もうひとつの現実を描くことがある」( 『カルロス・フエンテス《アウラ》にみる幻想性のモチーフ』成田瑞穂 )と述べていたらしく、正にそのようなパラレルな世界を俎上にした小説なのだから。

 《 アウラ 》、《 誕生日 》等の特定の自身の作品について、フエンテスはこうも述べていたらしい。「わたしの抱いている時間概念が線的なものではない、ということを知って欲しい。それはときには円環的であり、ときには永劫回帰的であり、また螺旋的でもあるのだ。わたしの考える時間とは、現在のなかに過去を、そして未来を恒久的に取り出すことである」( 同上 成田瑞穂 )
 冒頭のプロローグはこう始まる。

 「飾り気のないむき出しの部屋、そのまんなかで老人が椅子に座っている。陰鬱な空気が流れているのは、窓という窓がレンガでふさがれているからだ。素足のままの老人の足下を、ときおり猫がすり抜けていく。薄闇に沈む部屋の隅では、身重の女が髪を振り乱し、靴を脱ぎ棄て、ほつれたスカートの裾をもてあそんでは、どこかの村の夏祭りで耳にしたであろう歌を口ずさんでいる。・・・老人は青白い額を輝かせて、全神経を思いに集中させる。修道服を身にまとい、微動だにせず、肘掛けを握る両手に渾身の力を込めて」

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 如何にも思わせぶりな、しかし、些かの緊張を孕んだ沈鬱なモノクロ世界を想起させる導入部分は何かその底に鬱勃としたものを予感させる。この作品は、節あるいは章というのかパラグラフを、数行にわたる点線で構成していて、続くパラグラフでは、明らかに別の舞台=時空が開示される。場所はイギリスはロンドン郊外。息子ジョージの十回目の誕生日の当日の朝の目覚めから始まり、妻エミリーに必ず誕生会の時間までには帰宅するように厳命され、夏のバカンスをユーゴスラビアの沿岸部で過ごすための家族旅行のチケットを買ってくることも念をおされる。そして、再び、最初の修道服の老人の世界に戻るのだけど、最後の短いエピローグも、同じ老人の蟄居した部屋。そのエピローグで老人の正体が最終的に明らかにされる。

 「パリ大学で教鞭を執っていた神学者ブラバンのシゲルスは、エティエンヌ・タンピエとトマス・アクィナスに訴えられ、イタリアに逃亡した。ダルマチア沿岸を正面に臨むアドリア海沿いにある町、黄金色の平原に囲まれ、付近にはロマネスク様式の城塞や寺院が点在するトラーニ郊外の家にみずから閉じこもった。その場所で一二八一年に気の狂った使用人に刺し殺されたとされているが、その真偽については歴史家のあいだでも議論となっており・・・」(終)

 老人とは、実は、十三世紀の異端派神学者シゲルスであった。尤も、この作品世界では、誰といわず如何様にも変容してしまうパラレルで有機的な存在として設定されている。"異端"の烙印を押され、命からがら東イタリアに逃れアドリア海に面した小さな港町トラーニの郊外の館に外部との接触を断って隠棲したということらしいけど、そのアドリア海に面した対岸が、現在のロンドンの息子ジョージのいる家族がバカンスを過ごすはずの場所=ユーゴスラヴィア(当時)。この構図、偶然ではなく、恐らくキリスト教史的なニュアンスが含まれているのだろうが、無知な当方には不詳。
 プロローグとエピローグが同じ位相で、逐一のキャラクターが時空を越えて交互的に変容するってのは、円環というより輪廻転生的螺旋構造というべきか。その隠棲生活の一端が、先述のロンドン郊外のパラグラフに続く修道服を纏った老人の部屋の件で、描写されている。

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 「部屋のドアを叩くノックの音がした。老人が目を開ける。ぴくっとした女は目にかかった前髪を払い上げ、一声うなると、慌てて泥だらけの古い布靴をつっかける。ドア下の隙間から真鍮製の皿が差し入れられる。再び目を閉じ、ため息をつくと、老人は立ち上がり、重い足取りで戸口へと向かう。身をかがめ、脂でべたつく皿を取り、冷めた子羊の煮込み料理をつれなく見やると、肉をひとかけら口に含み、残りは床に置く。まずは猫が皿に駆け寄り、料理を食べ始め、それを見ていた女も四つん這いで近づき、口を皿に直接つけて、猫と一緒になって料理を貪る。」

 実に映画的な、昏いトーンのゴシックなヨーロッパ映画に出てきそうな情景で、デ・ジャヴでも起こしたように脳内スクリーンにその光景がありありと浮かんできそうだ。外界との接触をできるだけ遮断するために窓という窓をレンガで塞いでしまった館の一室。この沈鬱な閉塞した部屋の中。

 「教皇インノケンティウス三世は、ブラガ、トレド両公会議での決定を追認する形で、次のような信仰宣言をワルドー派の者たちに強いた。《 別の肉体ではなく、今持っている肉体の甦りを心から信じ(また、そのことを声高に宣言し)ます 》。
 わたしは、・・・部屋に閉じこもり孤独に耐えながら、われわれが従来の時間の概念を捨て、今所有している肉体を永久に手放すときにのみ、甦りが可能なのだと考えた。教会が拒絶したものをわたしは肯定したわけだ。」

 "今持っている肉体"ってのが、仏教やヒンドゥー教の火葬と対峙するキリスト教の根本"屍体のまま"埋める土葬制の根拠。将来、キリストが再臨した折り、善行者は以前の肉体のまま甦るという教理らしい。僕的にはゾンビー映画と大差ない理屈に思えるのだが。( 勿論ゾンビー映画ってそんな宗教的文明的なところに根をもってはいる。)
 「この作品(《 アウラ 》)はオクタビオ・パスが中篇《 誕生日 》とともに『不気味で完璧な作品』であると評し、また、『すべての一文一句に物語の展開上重要な役割があるという指摘』」(同上成田瑞穂)というように、見知らぬ異郷の町に分け入り、探求する己が聖杯に辿りつくためにいかなる兆し、隠された矢印を見逃さぬよう、存分に堪能すべきして解読してゆく書物なのだろう。
  因みに、主人公らしいジョージって名前、あの"龍退治"で有名な"聖ジョージ"からきているのだろうか。異端派ブラバンのシゲルスって、当時隆盛を誇っていたイスラム文化に相当影響をうけていたとか。その中東の、エジプト(コプト教)やイランなんかのチャイ屋(茶店)で、イスラムのポスターやなんかと並んで、額縁に入ったその"聖ジョージの龍退治"の絵なんかが掲げられているのを見た覚えがある。

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メキシコ映画 [ 黄金の軍鶏 ]

 フエンテス、映画好きだったようで、1964年にロベルト・ガヴァルドン監督の《黄金の軍鶏 the Golden Cockerel 》でガルシア・マルケスと共同脚本し、翌1965年にも同じくガルシア・マルケスと共同で脚本を書いた《死の時 Time to Die 》を若干21歳だったアルトゥーロ・リプスタインの監督で映画化していた。メキシコ出身のリプスタイン、当時メキシコで映画を撮っていたシュールレアリズム映画作家・ルイス・ブニュエルの《ナサリン》に衝撃を受け、彼の下で働くようになっていたらしい。フエンテスもルイス・ブニュエルに関した《自由としての映画ルイス・ブニュエル》なる一文があるという。
 その翌年には、フエンテスの《アウラ》('62)を、イタリアのダミアーノ・ダミアーニが《The Witch (魔女) 》として映画化している。原作は未読だけど、例えば時間概念なんかが直線的ではなく円環的・螺旋的であったりして、この《 誕生日 》と共通するところも少なくないようだけど、ダミアーノの映画では可成り改変されている。それでも独特のゴシック・ホラー風な雰囲気は醸し出されてはいる。

 今年の春亡くなったばかりのフエンテスの一番の難書であったらしいこの《 誕生日 》、奇しくも今秋、八重樫夫妻の訳で作品社から出版された。結果的とはいえ、グット・タイミングではあったのだろうが、時間的余裕あまりない中での難解な翻訳作業は正に難行だったろう。その故にか、八重樫氏、闘病生活を余儀なくされたとか。有名作家がこれ見よがしにやる翻訳とは違って、一般的翻訳業って、印刷機並みの機械装置程度の認定しかされてなく、創造的営為なんかとは無縁の裏方的ニュアンスが強いようで、扱いもぞんざいなのだろう。これがこの国のお寒い"文化"的状況と謂うわけだ。
 

 《 誕生日 》カルロス・フエンテス 訳・八重樫克彦・由貴子 (作品社)


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