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2012年11月 2日 (金)

 ポスト9.11的黙示録《テイク・シェルター》

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 9・11から十年過ぎた米国の状況って本当のところどうなんだろう。
 2005年米国南部を襲った"ハリケーン・カトリーナ"、"東北大震災・つなみ&フクシマ東京電力原発爆発事件"と同様、半分は自然災害であってももう半分は人災でしかなく、"事件"と呼ぶべき性格の代物であったが、それは又、彼らが自身喧伝して憚らなかった"最先進国"・"最強国"って金看板が単なるプロパガンダ=イデオロギー的デマでしかなかったことが露見してしまって世界に"さもしさ"ばかりを覚えさせた墓穴堀的椿事でもあった。今だにニューオールリンズなんかは廃墟然としたままという話もあるようで、何故に歴代の米国権力が"戦争"に狂奔してきたか証して余りある。

 そんな鬱々としたものが一つの心象風景として固着化したポスト"9・11"的状況が、しかし、この2011年初頭制作の米国映画《テイク・シェルター》では、希薄化し、過去の産物と化してしまうどころか、いよいよ病的にまで深化し、"抑鬱的状況"の感すら呈している。昨年春・東北ののいわゆる"3・11"より以前に作られ、"3・11"の極めつけ"フクシマ"の底なしの権力(企業)犯罪性と無能更に致命的とも言える"無責任性"そしてそれを支えてきた住民・国民という度し難い現実をあらかじめ包含したように、"ノアの箱船"をその象徴とする旧約聖書的な終末世界としての具象化・・・それゆえに、抑鬱的な雰囲気の下に、淡々と一人の男を中心にその家族、さらに隣人たちの姿が描かれてゆく。確かに、ポップ・コーンのバレルやコーラ片手にカップルや家族連れが団らんのひとときを過ごすのにはちょっと違和感のある作風で、当然興行的には今一のようであったのが、あっちこっちで賞は貰ったらしい。

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 舞台は何処までも平原が拡がっている米国中西部の小さな町。地面を掘削する仕事に従事するカーティスは、まだ小さな一人娘のハンナが耳を患って聴覚障害に陥っている以外、特に問題もない平凡な生活に満足していた。いつも見慣れた何処までも遠く続く広大な平原、とある日、その遙か遠い地平線上いっぱいに濛々と不安を予兆させるような暗雲が忽ち拡がってゆき、巨大な竜巻と激しい閃光と雷鳴を轟かせ、どんどんとこちら側に押し寄せてくる驚倒すべき光景に出遭った。澎湃として沸き起こった恐るべきその異常現象にすべてが呑み込まれてゆくのを、一人震撼として唯だ見遣るばかりの自分、否、それは実は夢の中での出来事で、なす術もなく呑み込まれ思わず叫び声をあげてしまったに過ぎなかったのか・・・その睡醒定かならぬ"悪夢"が、やがて飼い犬に噛まれたり、妻のサマンサに包丁で襲われたり、職場の仲の良い同僚に殴りかかられたりの身近な存在が突然自分に牙を剥いて襲いかかってくる暴力と苦痛を伴う悪夢をすら派生させ、次第にそれまでのつましいながらも平穏な毎日に破綻が生じ始める。
 その"夢"と片づけるには余りにリアルで、最愛の家族の意志すら顧みることなくカーティスは逐一対処するようになる。娘が可愛がっていた犬を家の外に作った犬小屋に隔離したり、裏庭にあったハリケーン用のコンクリート製の小さな一時待避壕=シェルターをもう少し本格的にするため、念願の娘の耳の疾患を治すための手術を間近に控えていたにもかかわらず、自宅改造ローンを勝手に申し込んで費用を捻出してしまったり。そのシェルター造りのために会社の重機なんかを無断で同僚のデワートと一緒に借り出して使用したのが、後々たたり、会社を首になってしまい、あげくデワートにまで恨まれる機縁となってしまう。

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 それまでは愛妻と共に苦楽を分かち合っていたのが、突如、相談することなくすべて独断で対処するようになってしまったというのは、それだけ危機感が圧倒的だったのと、尋常ではないその不安に家族を晒させたくないという愛情からであったのだろうか。あるいはそれらも含めての一種の"使命感"に囚われてしまい、何としても己が一身にのみ引き受け、外見には自滅の一途としか映らない行状にひた走ってしまったのか。
 画面には、日曜毎、嫁さんの家族が訪れ会食する慣わしで、決して敬虔ではないクリスチャンのカーティスに、義父が偶に日曜教会に列席しなかったことを咎めたりする典型的な保守的で閉鎖的な米国の何処にでもあるような小さな田舎町の住民の平均的な家庭以上の要素は見出せず、唯一、かつて突然家族の目の前から姿を消し大部過って遠いよその町で発見されたカーティスの母親が、統合失調症患者として今でも精神病院に入ったままということぐらい。ところが、その母親の病歴が、次第に彼の心の内に重い負荷としてのしかかりはじめ、常に画面上にゆらめき続ける鬱々とした"不安"の機縁となり、更に同時に"幻視"の真実性を常に足下から突き崩そうとするファクターとして不安と緊張を煽り立てる。これと似た手法って、以前このブログでも紹介した《フレイリティー》でも使われ画面をドラマチック且つ一層スリリングなものに仕立てることに成功していたが、カーティスの場合は、もっと現実的な切実さってところで鬱々とゆらめくばかり。

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 言葉として"幻視"が、旧約聖書以来、とりわけ西洋キリスト教世界で流布してきた数多の"幻視"="予言"として語られることはない。むしろ単純な"予知"と"統合失調症"の狭間で揺れ動く不安として、通奏低音の如く、画面上に鬱々とゆらめきつづける。幾つか"予知"としての真実性を画面上に散りばめ、普通人々が"安易"に慣習的にそう決めつけてしまうやり方(否、むしろ処世というべきか)を踏襲するように、それらを反射的に病的心理の産物として閉じこめてしまおうとする。結局、最後に、バカンスに訪れた海沿いの避暑地で、ふと見ると地平線の彼方に件の暗雲が濛々とたちこめ、互いに顔を見合わせ慌てて家の中に待避する。そして、遙か向こうからどんどん押し寄せてくる巨大な嵐の方を呆然として眺めるしかないカーティス一家。映画はそこで終わるが、待避壕などある訳もない海沿いのホテルか別荘なんかじゃ当然一たまりもない。あの"幻視"はやはり本当に"予知"だったにしても、医者に"統合失調症"と断定され闘病生活を言い渡された故での入院前の家族団らんのバカンス行故に、もはや何の意味もなく、専らカーティス(および彼の家族)の"殉教"ばかりが最後までうち続いたという何とも惨憺たる顛末。尤も、実際は、たちまち"統合失調症"的妄想の類として条件反射的に処理されてしまう"慣性"が働いてしまう(ように設えられている)。

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 主人公カーティスは、やはり、幻視者というべきであろう。
 林立する摩天楼=バベルの塔の下、底なしに虚偽と悪辣の蔓延し跋扈するもはや如何とも度し難い禍土と化してしまったソドムとゴモラ、一気にこの地上のありとあらゆる災厄の塔を怒涛の如く押し流し洗い流してゆく大洪水、ノア(時代は前後するが)はそれを幻視した。
 神? 
 神なんてそんなところに立ち現れようもない。何よりも、神こそが、そんなソドムやゴモラを、彼の本質と論理で作り出したのだから。彼、つまり神の聖所も神像も悪辣も一挙に拭いようのない汚濁として、"罪"そのものとして、洗い流されて然るべき先ず最初のものであったろう。正直者(つまり別段特に何が秀でていることもない、周りの者が白と決めこんだとしても、赤を赤と普通"に見、受け取れる人)ノアは、だから"幻視"したのだ。近隣の多くの者達は、ひたすら病人や異常者として嘲笑し、指弾しただろう。決してノアの言葉に真摯に耳を傾けることもせず。
 彼、カーティスが幻視するのは、その元凶たる神なんかの姿なんかではなく"大洪水"であり、この世のありとあらゆる虚偽と悪辣の純粋培養器たるソドム=バベルの塔が逆巻く怒涛に倒壊し跡形もなく押し流されてゆく光景=ヴィジョンに違いない。そして、それは彼と同時代を生きる我々も、忽然と、脳裏ではなく眼前のものとして、予兆的イメージ=ある光景を幻視するやも知れぬということであろう。3.11的災厄が、遙か向こうの地平線上に、あるいは拡がる峰峯の稜線上に、禍々しさばかりを含んだひょっとして眼には見えない暗雲として濛々鬱々としてその姿を現したのを。


 監督 ジェフ・ニコルズ
 脚本 ジェフ・ニコルズ
 撮影 アダム・ストーン
 音楽 デイヴィッド・ウィンゴ

 カーティス   マイケル・シャノン
 サマンサ    ラフォーシュ: ジェシカ・チャステイン
 ハンナ     トヴァ・ステュアート  
 制作 米国(2011年)


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