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2012年11月14日 (水)

 ドイツ浪漫派的陶酔《 メランコリア 》


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 ドイツ浪漫派を自称したラース・フォン・トリアー監督、確かにうねるように画面の背後に流れ続けるR・ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》の前奏曲が、刻一刻迫り続ける巨大惑星"メランコリア "との衝突="死"の恐怖と不安を、むしろロマンチックなまでに甘味な陶酔と渾然一体化し、終末論的蠱惑というべきものに仕立て上げてしまった。とりわけ、プロローグの映像と音楽(《トリスタンとイゾルデ》前奏曲)の協奏は仲々イマジネーティヴ。
 彼の2009年作品《アンチクリスト》をYOUTUBEでちょっと見てみたら、やはり、プロローグが結構凝って作ってあった。別に奇を衒(てら)う必要はないけど、一等最初の導入部分って観客の心を掴み引き入れる重要な部分。監督のトリアーはそのことに可成り拘ってもいるようだ。そのプロローグの作りで大体その映画がどんな程度の作品か分かってしまう。勿論、妙に期待して後になってコケる場合もしばしばだが。その後の展開もこの《 メランコリア 》同様、普通の撮り方になっているらしかったけど、露骨な性描写はともかく昨今のソリッド・シチュエーション・ホラーをはじめとするハードなスプラッター物を彷彿とさせる可成りサディスティック=マゾヒスティックなアプローチが眼を引いた。彼は元々新機軸の"ハードコア・ポルノ"を撮っていたらしく、スプラッター的要素をハードコア・ポルノに取り込む更なる新機軸ってところなのか。女が自分のクリトリスを切り落とすなんて" 阿部定 "の真逆ってところだが、病床の大島渚どう想うのだろう。

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 そして《 メランコリア 》のハイ・スピード・カメラ"ファントム"を駆使したスーパー・スローモーション程ではないにしても、この《アンチクリスト》でも、スロー・モーションのシーンが特徴的に使われていた。その発展形態ってことなのかも知れない《 メランコリア 》のプロローグでのスーパー・スローモーション映像は、耽美的なR・ワーグナーのプロローグ曲と相俟って実に効果的。R・ワーグナーといえば、随分と趣きは異なるけど、コッポラの《地獄の黙示録》の中の、米軍のヘリコプター部隊が発進し、ベトナム人の村を襲撃するシーンで、隊長のキルゴア中佐がスピーカーから流す勇壮な《ワルキューレの騎行》も有名で、このどちらもそのシーン(映像)とワグナーの曲が有機的に増幅しその映画を代表する印象的な名シーンとなっている。

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 先ず、自分達の結婚式会場へ、ノロノロと蛇行した田舎道を新郎・新婦のマイケルとジャスティンが真っ白いリムジンで向かうシーンから始まる。彼らの危うい行く末を暗示するように、やたら長躯の車体のため容易にカーブを曲がれず四苦八苦する。義兄の所有になるそのなだらかな高台の上のゴシックなホテル=旧い城塞では、既に招待客たちが痺れをきらせていて、漸く到着した後も、新婦のジャスティンが控え室に閉じこもり、なんだかんだと一向に皆の前に出てこない。姉のクレアがなだめ諫め、義兄が怒ってさっさとしろと罵ってみても甲斐なし。結婚式なんて封建的遺制とばかり嫌みたっぷりな母親は、ブルジョワの権化みたいな封建領主の居城=豪奢なホテルってのも気に入らない。疎遠で孤立したような父親はアルコール浸り。漸く二人でゴールにまで辿り着いた次の刹那、ジャスティンはふと虚脱と不安に囚われ、結婚=夫婦生活が何とも疎ましいものに思えてきて、今度はそれから逃げだそうと悪足掻きをはじめる。結局、幾度もなだめすかしてみた新郎のマイケルは、式を終えた後、他の招待客と一緒に去ってゆく。

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 そのままホテルに居座ったジャスティン、次第に体調を崩し、自分の力で歩けなくなってしまい、姉のクレアがかいがいしく面倒を見続ける。次第に回復してきたジャスティンではあるが、その頃には世は突如現れ段々と地球に接近してくる巨大惑星《 メランコリア 》が地球に衝突するとかしないとかで大騒ぎ。ホテルの従業員たちも皆自分達の家族の元に戻ってしまい、最後まで残っていた老執事も最後の瞬間は自分の家族と共に居たいと去ってゆく。ガラーンとしたホテルで、やがて、決して衝突はしない、通り過ぎてゆくだけだと強調していたマイケルが毒を呷って一人自殺してしまう。取り残されたジャスティンとクレアそしてその小さな息子の三人、庭園のすこしこんもりと高くなった芝生の上で三人車座になり互いに手をつなぎあって、巨大惑星が衝突する最期の瞬間を迎える。やがて巨大な衝撃が彼女たちを襲う・・・

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 歴史的運命と熱狂にまで美化されたドイツ第三帝国の勃興と滅亡の民族的ダイナミズムに、この突如現れた巨大惑星との衝突という仮構世界と相似なものを覚えての監督トリアーのドイツ浪漫主義そして"ヒトラー=ナチス"への共鳴発言だったのであろうか。
 しかし、それなら、英国でも米国でも否当のフランスでもそれぞれの国家自体に対する同様なメンタリティーと思想を持った論者と大差ない。問題は専ら"ユダヤ人に対するホロコースト"にあるのだろう。で、"反ユダヤ"という図式的レッテル貼りが自動的になされ、彼は"カンヌ"から追放されてしまったという訳だが、彼が想念したらしい己が自滅に向かってひた走る宿命の第三帝国的熱狂と陶酔に比肩するには、描き方が余りに淡々とし過ぎてはいまいか。それが、本家ドイツ(トリアーの血脈自体はドイツだったらしいが)ではなく、北欧のデンマーク的感性なのかも知れないが。彼の尊敬する同じデンマーク人監督カール・テオドア・ドライヤーの有名な作品《裁かるるジャンヌ》(1927年)のモノクロ画面で描かれたオルレアンの聖処女ジャンヌ・ダルクのひたむきさと陶酔とも、またちょっと趣きが異なるようだ。

 監督 ラース・フォン・トリアー
 脚本 ラース・フォン・トリアー 
 撮影 マヌエル・アルベルト・クラロ
 
 ジャスティン キルスティン・ダンスト
 クレア シャルロット・ゲンズブール
 マイケル アレクサンダー・スカルスガルド
 ティム ブラディ・コーベット
 ジョン キーファー・サザーランド

 制作 デンマーク(2011年)

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