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2013年5月 4日 (土)

 至上の愛と死『シベールの日曜日』(1962年)

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 ベトナム戦争以来、反戦映画は後を絶たないようだけど、それに少女が絡んでくると又一種独特の艶めかしさと抒情性が加味され結構有名な作品が生まれるようだ。《 タクシー・ドライバー 》なんかそのいい例で、もう一時代前の、米国=ベトナムじゃなくて、フランス=ベトナムの所謂"インドシナ戦争"の頃のものだと、《 シベールの日曜日 》ってことになるのだろう。

 《 タクシー・ドライバー 》のトラビスがベトナム帰還海兵隊員だったのに対して、この映画では、空軍か海軍かはつまびらかでないがピエールは戦闘機パイロットとしてベトナム=インドシナで戦って、どうも、現地の村を攻撃中、撃墜されたのか、誤って墜落したのか、負傷し、記憶喪失になってしまったようだ。拡がる水田が時折太陽を反射する現地の村を上空から攻撃している最中、巨大なガジュマルの根元に立った一人の少女が上空から急降下してくる彼の方を見上げ大声をあげて叫ぶシーンで画面は途切れる。
 そのあたりは曖昧なまま、場面は変わり、パリ近郊の小さな町ヴィル=ダヴレーの駅のプラットホームに一人佇み、胡乱な眼差しで周囲を見廻す。と、防寒用の大きな白い帽子に襟巻きをまとった少女を連れた父親が道を尋ねてくる。その少女を預けるカトリック系の寄宿学校だった。少女と視線が会った刹那、ピエールは知らず例のインドシナの村を攻撃した際絶叫をあげた少女を重ね合わせ、自意識=記憶の回路の上っ面をスルリと滑り落ちたまま、父親にそんな処に行きたくないと泣きじゃり拒絶する少女に胸を締めつけられ、少女に対するトラウマ=固着を引きずって、更に一層深みにはまってゆくことになってゆく。
 
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 実は少女は父親に捨てられたのだった。ピエールはそんな少女が不憫でしかたなく、少女にことの真相を告げ、毎日曜少女を連れ出す約束をする。薄幸なその12歳の少女は、本名すら寄宿学校のシスターに"キリスト教徒らしくない名"だからとフランソワーズという名にされてしまう。少女の祖母がギリシャ人で、古い異教的な由来の名だったらしい。
 ピエールは以前の恋人・看護婦マドレーヌに彼女の部屋に一緒に住み面倒をみて貰っていた。マドレーヌは献身的で、ピエールの記憶が戻るのを辛抱強く待っていた。只、彼女の部屋に転がり込んできてどのくらい過っているのかは不明。彼、ピエールの胡乱な意識を基準にストーリーが組み立てられているってことなんだろう。インドシナ戦争が終結したのは1954年で、画面でその年のクリスマスが月曜日と特定されているので、時代設定は1961年でしかなく、墜落してからの成り行きは定かでないものの、長くて7年近く記憶喪失の男の面倒をみてきたことになる。少々の苦労ではなかったろう。マドレーヌのひたむきな献身ぶりが知れようというもの。
 ところが、当のピエール、そんなことは意にも介さぬとばかりに、一目視線を交わしあった瞬間から、すっかり彼の脳裏の内には、自分の名前すら大人達の勝手で変えられ凡庸なフランソワなんて名前を押しつけられてしまう薄幸な少女ばかりが、いよいよその存在性を増してゆくばかり。幾らマドレーヌが献身的であろうと、以前の恋人であっても、彼の意識にはあくまで所詮"外在者"でしかないのであって、不確かな意識の間隙の底に今尚インドシナ戦争の体験、否、今だもって戦争は進行中かも知れない陰惨がとぐろを巻き、それがインドシナ娘とオーバーラップするその少女に対して本源的(リビドー)発露を求めさせるのだ。

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 当時人口が5、6千人程度だった小さな町ヴィル=ダヴレーには、"コローの池"と呼ばれる画家コローが好んで題材にしたらしい湖があって、風光明媚な公園となっていた。ピエールと少女はいつもここを散策し戯れていた。何しろ小さな町なので、親子にしては恋人同士のような濃密なじゃれ合い方に、地元民たちが訝し気な眼差しを送っていたとしても不思議はない。
 薄幸だった故にか少女は大人び、ませていた。公園の林の歩道を白馬に跨った青年が二人の傍を走り抜けていった時、「彼ってハンサムね!」「かっこいいー」なんて子供っぽくピエールに語りかけると、ピエールが黙ったまま答えようとしなかったのをよく覚えていて、後日湖畔で二人で戯れていると向こうから子供の一団が笑いながら現れ、ピエールの許可を得て彼等と一緒に少女が遊技をして無邪気に遊んでいる内、少女と木の後ろに隠れた一人の年かさの男の子のふとした挙動に敏感に反応し、少年の頬を叩いてしまう。少女は走り去り、追いついたピエールに涙を流し怒ってみせる。と、その時例の白馬の男が駆け抜けてゆき、少女は騎士の後姿をいつまでも見送った。すると、何故そんなにあいつの方を見てるんだい、とピエールが呟く。

 「きっとあの人が小さな子を叩いたりしないからよ」
 「でも、あいつは君のことなんか知っちゃあいないぜ」

 途端それまで泣いていた少女の顔に笑みが零れた。

 「ピエール! ひょっとして妬いてるの?」

 少女はピエールに抱きつき頬にキスをし、抱き上げてくれとねだる。
 まったくもって大人としてピエールは形無しだけど、少女の気持ちが氷解してピエールはそれだけですっかりご満悦とばかりに抱き上げてやる。

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 公園の脇のレストランの暖炉の前で、ピエールがカーニバルの占い師の処からくすねた儀式用の短剣を見た瞬間、少女の眼は子供のように輝き、さっそく抜き身を手にして燃えさかる暖炉の前で愛撫するように自分の頬や首にあてがって弄び始める。

 「ね、もしあなたがもう会いに来てくれなくなったら、私はきっと死んでしまうわ」
 「両眼を閉じ、すっかり冷たくなって・・・棺の中に納められるの。蓋に釘も打たれて。墓石には名前もないの。なぜなら、誰もわたしの本当の名前を知らないから」
 「・・・もし、わたしが死んだら、あなたも死ぬ?」
 「それとも忘れてしまう? ・・・教えて」
 「あなた、死ぬ?」
 「勿論!」

 少女( 趣味 )的感傷の極みって処だろう。その( 自分の )世界にどっぷり浸かり、ピエールはそこに巻き込まれた哀れな生贄の子羊。
 「神様ありがとう! パパのかわりにピエールを下さって!」
 以前少女は公園でピエールにも知られないようにそう神に感謝していた。
 "タクシー・ドライバー"トラビスや"殺し屋"レオンの血塗られたラスト・シーンともどもに、ピエールも聖"少女"に捧げられた犠牲(いけにえ)として血塗られた最期が待っていた。トラビスが一命を取り留めたのは、ジョディー・フォスター演じる少女娼婦アイリスとの関係が恋愛まで高められた熱情=パッションが欠けていたからだろう。

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 イヴの夜、ピエールはカトリーヌと共に彼を理解しようとしてくれる友人の芸術家カルロスの部屋から勝手にくすねてきた大きなクリスマス・ツリーを公園に運んできた。少女もそのクリスマス・ツリーに小さなマッチ箱のプレゼントを吊り下げ、ピエールに告げる。ピエールが開けてみると中に一枚の紙が入っていて、開いてみたら、「シベール」とだけ可愛い筆致(今風にいえばマンガ文字)で認められていた。それが少女の祖母がつけてくれた古代ギリシャの樹と地球の女神と同じ少女の本名であった。そのささやかな、しかし、何とも名状しがたいまごころに、ピエールは感激し、暫し、シベールとの融合的至福に酔いしれた。そして今度はピエールの番であった。ちょっと待ってくれと、例の風見鶏を取りに向かう・・・
 その頃、姿をくらませたピエールを心配したマドレーヌが、ピエールと仲の良いカルロスや友人の医師ベルナードに連絡し居所を確かめようとした。医師ベルナードは前々からピエールの様々な粗暴な振る舞いに疑念を抱き、いつも日曜毎に公園を恋人のように親しくデートしている少女との関係にもやがて暴力性が剥き出されると危惧し、早速警察にその旨連絡した。慌てて警官が公園に駆けつけ、遠くから二人に近づいて行った時、正にピエールが短剣をいたいけな少女の方にかざすその瞬間であった。警官の激しい銃声が、聖夜の帳に包まれた公園一帯に響き渡った。
 駆けつけたマドレーヌとカルロスの眼の前の地面に、血飛沫にまみれたピエールが両の眼をカッ!と見開いたまま倒れていた。ピエールも少女と同年代の少年の頃に戻ってしまった純粋無垢な時間=関係なのを、ピエールの後をつけていって自分の眼で確かめていたカトリーヌは、余計やりきれぬ想いにむせび泣くばかり。眼を醒ましたシベールが、傍らに血塗られた死体と化したピエールを発見し、孤絶の奈落に叩き落とされたのを理解し、警官に名前を聞かれて、
 「わたしにはもう名前なんてないの! もう誰でもないわ!」
と、絶望的に嗚咽する。

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 このラスト・シーン、ぼくの観たYOUTUBE版の『シベールの日曜日』では、ぼくの記憶にあるレストランの暖炉のシーンと同様、シベールが短剣を自己陶酔的に弄びピエールにも押しつけて、それを陰に隠れていた警官たちが勘違いして射殺するという些かスリリングなシーンだったはずが、そっくり抜け落ちていて、レ?、レ?、レ? 
 で、ネットでチェックしてみたら、果たして昨今のこの映画のDVDは皆ここの部分はカットされていた。余りに唐突過ぎて体をなしてない。ディレクターズ・カットというより業者・映画会社の利潤追求・都合でカットしたのだろう。一番映画を盛り上げるシークエンスなのに、その肝心のところをカットするなんて普通監督がやるはずもない。だから尻切れトンボになってしまっているんだと憤慨していたら、ネットのカットされた部分の内容がぼくの記憶していたのとかなり違っていて、風見鶏を持って戻ったピエールが、待ちくたびれて寝てしまったシベールの傍に短剣を持って近づいたのを警官たちが勘違いして射殺した、という意外とつまらない展開だったらしい。記憶が勝手に編集してしまったって訳だけど、これだと元のオリジナルよりぼくの記憶が作り出した夢制版の方がスリリングで、遙かに耽美的且つ官能的ですらあった。無意識の内に今一のラストの展開を記憶回路の方で面白く再構成していたということだろうか?

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 当時13歳だったシベール役のパトリシア・ゴッジ、可愛らしいが決して美少女という訳でもないジョディー・フォスター同じポジションか、むしろクロエ・グレース・モレッツほどではないにしてもファニー・フェイスのカテゴリーに入るのではないだろうか。時代的にもモダンな顔立ちってところでビートニックな"ニュー・シング"だったのだろう。
 けど、シベールって少女、身よりもないのか捨てられまいとピエールに必死にしがみつこうとするいたいけない悲哀が滲み出ているけれど、こどもこどもした娘ではなく、今じゃ珍しくもないけれど、増せていて、もう青年とは言えなくなった30歳のピエールを手玉にとり、弄びすらするすっかり一人前の"女"以外の何ものでもない。それはやっぱり、物心ついた頃から色々と苦労してきた薄幸な生い立ちのせいだろう。苦境にねじ曲げられスレるってことがなかった強さと知恵を持っていたのだろうし、ギリシャ人の祖母のお陰かもしれない。普通の相貌だからこそ、そんな部分が生き生きとして画面に映え、余計耽美的であり得たのかも知れない。

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 この映画を"ロリ・コン"映画と断じる者たちがいるらしく、それこそ正にこの映画で批判された当のもの。旧態依然とした差別と貧困。自由と平等(友愛)って近代=デモクラシーの基本にすら今だ至れていない。フランスって、フランス革命・パリコミューンを経たにもかかわらず、カトリックが主勢を占めているらしいのもあってか、保守的で、戦後幾らも過ってない頃にもそんな映画を作らなければならなかったのだろう。それから幾年かして、世界的な革新運動が起こり、フランスでもD・コーン=バンディーたちの"五月革命"が起こってはいるが、現在もフランスはどう斟酌してみても、英米と並ぶ札付きの保守主義者の常道=侵略主義(者)以外の何ものでもない。それ故に、この映画も今もって十分に存在価値があるってことだろう。
 差別って多重的で多層的、人種差別も性差別も根は同根。所謂"ロリ・コン"(差別)って、古の魔女狩りの頃と寸分も変わらぬ精神構造=社会の産物。昔から日本でも有名な言葉=警句がある。

 「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んでしまえ」

 都々逸の文句だったと思うけど、江戸時代の馬って今日の乗用車・トラックの類。当時も疾走する馬に撥ねられて死んだ者数知れずを前提とした文句。ゆめゆめ優雅な錦絵巻きの中の乗り物とばかり決めつける事なかれ。
 
監督 セルジュ・ブールギニョン
脚本 セルジュ・ブールギニョン、アントワーヌ・チュダル
原作 ベルナール・エシャスリオー『ビル・ダヴレイの日曜日』
撮影 アンリ・ドカエ
美術 ベルナール・エヴァン
音楽 モーリス・ジャール

ピエール   ハーディ・クリューガー
少女シベール パトリシア・ゴッジ
マドレーヌ    ニコール・クールセル
制作       1962年(フランス)

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