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2013年5月の3件の記事

2013年5月31日 (金)

幕末・海峡外伝 田野浦

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 幕末的転回の一つの始源として外せないのが長州藩、およびその対面からじっと睨めつけてきた江戸幕府・譜代の小笠原=小倉藩の角逐(かくちく)だろうが、源平の戦以来、河と見間違うくらいに狭い関門海峡は、しかし、潮の流れが速く、自然の要害として容易に相手を寄せつけないものがあった。
 清国や他のアジアの国々を武力と奸智で蹂躙し、悪辣な経済的搾取とキリスト教による精神的籠絡で悉く実質的植民地と化してきた欧米列強、ペリーの浦賀沖来航以来、今度は日本をその俎上に乗せようと、1860年小倉藩=楠原(門司)にイギリス人が上陸し大騒ぎ、翌1861年(文久元年)にはイギリス船四隻が門司沖に関門海峡を調査測量のため停泊するなど関門海峡を挟んだ長州・小倉両藩の人心騒擾とし、"尊皇攘夷"運動に後押しされすっかりその気になった孝明天皇の強い意志を受けて幕府が"攘夷決行"を発した。

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 (ちょっといびつなパノラマ合成になってるけど、関門海峡のこのあたりの臨場感は出ていると思う。対岸中央やや右側が前田(砲台)、左側が壇ノ浦(砲台)。クリック拡大)

 自分達の目と鼻の先をこれ見よがしに航行する黒船に我慢ならなかった尊皇攘夷=倒幕派の急先鋒・長州藩、早速1863年五月、商船・軍艦の区別なく関門海峡を航行する夷敵=欧米列強の黒船に片っ端から砲撃を加え始めた。が、少なからずの損傷を与えはしたもののさっさと逃げ終えられてしまい、憤懣やるかたなく、関門両方から挟撃したなら効果はもっと得られたはずと、対岸で静観を決め込み続ける小倉藩に噛みついた。
 けれど"攻撃"があった場合のみの"攘夷決行"=黒船に対する軍事行動という基本を貫いただけと譜代・小倉藩ににべもなく撥ねつけられ、すっかり切れてしまった長州藩、朝廷に小倉藩の"攘夷決行"拒否を訴え、同時に強引に対岸の小倉藩領の門司・田野浦に上陸し、自分達の砲台を設置する挙に出た。

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(四国連合艦隊との戦闘や長倉戦争の際も海峡は白煙に包まれ視界がかなり悪かったという。クリック拡大 )

 元々、"攘夷決行"の命が下った頃から、小倉藩も自藩の百姓・町民のある程度のレベルの者達千数百人に苗字・帯刀を許し兵士として召し上げ、藩内各所、長州の真向かいの田野浦・楠原(門司)・小森江・大里などに配置したり、第二次世界大戦の時のように、寺社の梵鐘やなんかを徴収して精錬し大砲や弾の材料にしたりの総動員態勢には入っていたようだ。そんな状況の田野浦・門司に無断上陸しての強行だったにもかかわらず、小倉藩、長州藩の大砲・最新式銃なんかの軍備に比しての自藩の火縄式銃や槍・刀程度の貧弱さを自覚していた故なのかどうかは定かでないが、ともかく腫れ物に触るように優柔不断。
 その折りの長州藩、田野浦の民・百姓達に対してかなり暴力的で、家畜は盗む、田畑・作物は荒らす、住居も奪うはで所謂"略奪"を恣(ほしい)ままにし、更に砲撃練習で漁にすら支障をきたすはで住民達の生活を破壊してしまって、すっかり田野浦の住民達の怨嗟の的になってしまったようだ。後、薩長軍の略奪が喧伝されるようになったらしいけど、地元で既に先例があったと言う訳だ。

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 (現在はもうすっかりシルバー・タウンと化してしまって、往事の面影は希薄)

 この数ヶ月後、公武合体派=会津藩・薩摩藩が、尊皇攘夷派=長州藩を京都から追放した事件、所謂"八月十八日の政変"が起こり、幕府からの命もあって、田野浦・門司に造られた長州藩の砲台は撤去され、長州の守備隊も撤退し、ようやく田野浦の住民達も元の生活が取り戻せるようになった。
 この翌年1864年(元治元年)八月五日午後、欧米列強四カ国の艦隊(17隻)が一斉に長州藩の下関沿岸部に設えられた砲台に猛攻を加えあっさり殲滅。
 この戦いの様子を対岸の門司側から、小倉藩の侍や門司・田野浦の住民達が、一大スペクタクル巨編とばかり、積み重なった恨みもあってか物見遊山を決め込み、長州側砲台に黒船の砲弾が炸裂する毎に大声援を挙げたという逸話も残ってるらしい。束の間の溜飲を下げたのはいいが、更に二年後、今度は小倉藩自体との戦いのために長州・奇兵隊以下の大軍(?)が砲撃しながらの再上陸、田野浦海岸につながれた船や陣屋ばかりか一般住民達の家屋にも放火して、何しろ小さな寒村で全焼したという話しもあるようだ。

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 (人気のない田野浦の通りから一歩春日神社へ到る石段下の一角に入ると・・・クリック拡大)

 それにしても日本の辺境ともいうべき関門海峡を挟んで内外の熾烈な戦いが繰り広げられたもので、この幅一番狭いところで600メートルしかなく、黒船は門司側最大接近150~200メートルぐらい沖合で留まりながら下関側砲台を攻撃したのだろうから、砲撃の轟音たるや門司側住民には凄まじいものだっに違いない。田野浦は些か南に下りちょっと奥まった入り江の砂浜が拡がった漁港だったらしく、海峡最短部に臨んだ古城山近辺や大久保より若干その轟音の衝撃は薄まってはいたろうか。でも田野浦沖に留まって長州攻撃した黒船も多いらしく、やっぱりそう大差ないか。それに、数年後には、ノルマンディーのDデイよろしく、夜明けにいきなり長州船から雨あられと砲弾が撃ち込まれ、上陸してきた長州軍の鉄砲弾も唸りをあげて飛んできて、仕上げは刀での肉弾戦という正に戦場そのもの。老若男女、漁民も遊女達も逃げまどう他なかったろう。
 もう幾年も前、関門海峡で関門橋よりやや四国側寄りの海域で、第七管区の海上保安庁の指令ミス(今だに頑なにその責任を認めようとはしていないらしい)で、海自の護衛鑑"くらま"と韓国のコンテナ船が深夜に衝突した事件があった際も、その衝撃音が古城山越しに門司側内陸部にも轟いたという。いわんや旧式大砲の轟音をやだ。同様に大砲から噴き出る白煙も凄かったらしい。海峡全体に白煙が煙幕の如く漂い、暫く砲撃の手を止めて白煙が薄らぎ視界が回復するのをまたねばならなかったほどという。現在でも、時折濃い靄が発生した時なんか関門橋すら見えなくなってしまうくらいで、海峡の両方の海岸にまで迫った山稜という地形のせいなのだろう。
 他の多くの日本人が体験することの無かった歴史的転換点、こんな歴史的大事件の逐一を眼の当たりに目撃=見物を否応なく体験させられた田野浦・門司の住民達、一体どんな現実感覚あるいは歴史感覚を抱くに至ったであろう。 

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 (昼尚薄暗く森閑とした常住"逢魔刻"として観光名所にしたい雰囲気満点の景観なんだけど。何しろ、山腹につづく危なげな石段がいい。クリック拡大)


 田野浦は源平合戦の頃、九州に進軍していた義経の異母兄弟=源範頼が陣を置いていたとか、後は室町時代の応永27年(1420年)三月二十三日から三十日まで朝鮮通信使(回礼使)一行が留まったという故事があるらしい。一体何故に対岸の赤間関(下関=大内氏)でなく、当時は北前船での繁栄以前のいよいよ小さな漁村だったはずの田野浦なんかに一週間も滞在したろうか? そもそも通信使はその接待が大変で藩を挙げての一大事業だったはず。"回礼使"の場合はそうでもなかったのだろうか。
 説話の類なら、平氏滅亡の後、平氏のある女官が、壇ノ浦の合戦の場である関門海峡を一望できる聖山(日尻山)の頂きに尼僧になって一門の菩提を弔うために庵を結んだと言われる伝承もあるという。

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 (誰顧みることもなく野晒しのまま幾歳・・・往古の人々の祈りや悲哀の痕跡が剥き出しのまま累々と横たわって無惨。クリック拡大)

 江戸時代に入って"北前船"が盛んになり始めて、ようやく、対面の以前から有名だった赤間関(下関)が西端(本州)の拠点港としていよいよ脚光を浴びるようになり、そのお陰を蒙る形で、謂わば"サブ"として、田野浦はそれなりに繁栄を享受できるようになった。
 流れの速い海峡なので下関側にすべて係留するのが困難なのか、更に潮流関係や、船体の補修なんかのために比較的条件の良いらしかった田野浦におはちが廻ってきたようだ。元々漁港だったせいもあって船数が多くなるにつれ需要を満たすのが困難になってきて、天保6年(1835年)に新港を完成させたとのこと。全盛期で1000隻近い北前船が寄港したという。
 客があって金も落ちるとなると、対岸の大店の集まった下関には到底及ばないにしても、身分相応に、たった三軒とのことだけど、料亭を兼ねた遊郭の類も建ち、宿屋の類も建ったからだろう造り酒屋が漁村の割にはこれまた三軒もできた由。その内の一軒"三原屋"は近隣でも一、二を到底争うほどの生産高だったという。

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 (小寺でありながら石仏の類がやたら多く、人気の殆どうかがえぬ静寂の中で観るそれは一興のもの。真ん中に、遠く玄界灘につらなる海峡を向いて遊女達の墓石が並んでいる。)

 当時の田野浦の住民は700人前後だったというが、外から出稼ぎに来ていた者達ってその内に含まれているのかどうか。漁もやれば農もやってたりして、更に大忙しの北前船関係の仕事をこなすとなると殆ど村民総動員って感じのはずが、実際は如何だったろう。
 700年前に平氏の女官の庵があったはずの聖山の頂から眼下に拡がる関門海峡が一望でき、遊郭の女達はここに昇って、こちら田野浦側に入ってくる船影を見つけると、ダダッ!と駆け下り、鐘・太鼓で囃し立て、降りてくる客を奪わんと我先がちに駆け寄っていったという。すぐに想い出されたのが、同じ門司で旅館を営んでいた旅行写真家・藤原新也の父親が、港に船が入ってくると、他の旅館の者達と先を争って我先がちに客取りにはやったという光景。結構ヤクザな気風の親父さんだったようだけど、彼も遠方から、明治権力の国策としての八幡製鉄的展開の一環としての門司港に、地元ではチマチマとしか獲られない一攫千金を狙って遣ってきた一人であったようで、時代は違っても田野浦の遊女達もその口だったろう。着物の裾を惜しげもなくはだけ、小山を駆け下りてくる女達の姿って何とも野性的でバイタリティーに溢れている。
 わずか三軒といっても、決して場末の飯盛り女郎的な存在ではなく、例えば、この田野浦の村に神社や鳥居を寄贈するぐらいの財力を一遊女が、あるいは遊郭が持っていたことからも推測できよう。一介の士分の者すらちょっと無理な相談に違いない。又、子供達に読み書きや歌を教えてたって話しもあるようだ。

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 (田野浦遊女達の墓石・・・いかにも北前船以降の刻まれた天保、安政、明和の年号が、何とも無常を漂わす)

 遊女達、明治になって早速御法度になり、何処かへ皆去って行った由。只、田野浦で亡くなった女達は、いつも駆け下りていた聖山の麓の墓地に立派な墓石を立てて貰い葬られていたらしい。有為転変の激しい世の中、彼女たちの墓石も例外ではなく、現在では、田野浦とはまったく反対の小高い丘の中腹に建てられた高野山・地蔵寺の人気も疎らなコンクリート境内の一角で、遠く玄界灘に連なる海峡を向いたまま、浮薄な人間達の業(カルマ)を見据えるように静かに佇んでいる。
 北前船で一時の繁華をみた田野浦も明治になりやがて船に替わって鉄道が主力になり始めると次第に凋落してゆき、元の単なる漁村に戻ってしまった。それ以降、昭和から平成に到るに及んで、自民党半世紀支配のたまもの、"慢性不況"によって、いよいよ過疎化の進行も加速され留まるところを知らぬ勢い。
 この町の真ん中あたりから裏山につづく些かくたびれた石段を昇ってゆくと、春日神社の境内に到る。雑草樹木が伸び昼尚薄暗く、奥の社殿に近づいて呆然、社殿の表の一歩裏はごそりと崩落して地面に築材が無惨な姿を晒したまま。一見打ち壊しにでもあったのか思われるぐらいに破砕され尽くしていた。崩落してもう既に幾年もの歳月を経ているという。過疎化し続けるばかりでそれを補修し、いわんや再建する余力もない平成の田野浦であった。かつての遊女達の粋な気心が如何なるものであったのか、"アベノミクス"とかいう子供だましにもならぬ痴戯(自滅)に浮かれるばかりの平成末の世が、底なしに証して限りない。


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2013年5月18日 (土)

ホメイニ原理主義的桎梏上のゆらぎ 『ナデルとシミン 別離』

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 イランといえば、ホメイニ革命以来、イスラム原理主義的全体主義国家という昏いイメージが強い。最近はどうなってるのか定かでないけど、嘗ては、革命委員会(コミッテ)ってのがぼくら旅行者の前に常に立ちはだかって色々と鬱陶しいことしきりであった。宿に泊まるのにも、一々彼等の許可が必要だった。それでも、イラン人の家に泊まるぶんには、その本来の規則はともかく、その煩わしさから免れ、現実のイランの庶民の生活をつぶさに見聞することができた。イスラム教的規制も、一歩家の中に入ってしまうと中々いうようには機能してないようで、そのお陰でぼくらもそれほど違和感を感じることなく過ごさせて貰えた。つまり、生活様式や習慣以外は、家族愛から、親子げんか、夫婦げんか、喜怒哀楽等は、何処の国でもそう変わりはしないってことを知ることができた。
 只、ハシシやドラッグ関係のアフガン人の罪人なんかが、時折公開処刑として、クレーンに高く吊られ絞首刑になったり、例の姦通罪に問われた(ある日本人娘の場合が有名)者が地面に身体を埋められ、周辺住民に石( 小石ではなくこぶし大以上の石 )を投げられて重傷を負ったり死亡したりする石打刑など、それをイスラム的といっていいのかどうかはともかく、その前時代的な旧俗性を前にしては、さすがに言うべき言葉もない。( 勿論、だからといって、欧米先進国がそんな前時代性より一方的に優れて優位にあるってことにはならないが )
 この映画を観ていると、その登場人物の誰も彼もが、自分の立場を良くしようと相手の不可解や弱点を衝いて憚らない背後に伏在するイラン的全体主義の閉塞と陥穽ってものに考え及んでしまう。ちょうど《 覇王別姫 》での文革時代の自分の罪から免れようと他人を陥れる恐怖政治的な指弾合戦の類だ。一見何処の国でもある市井の人々のトラブルの一つのように展開しながらも、その些か常軌を逸したヒステリックというより脅迫観念的なせめぎ合いってのが、何としても全体主義的な異臭を紛々とさせている。それが、表面的には、冷徹なイスラム異端審問官剥き出しの制服の官権ではなく、慣れた手つきで事務処理をこなしてゆく温厚そうな判事なんかを定点として展開しているのでそれらしく見えないだけの話で、その背後には上記の苛烈・残虐なイラン的全体主義の軛が狙い澄ましているってことだろう。( 勿論、それはあくまで現実の庶民の実貌というより、映画的にデフォルムされたものってことだけど )

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 女主人公の旦那ナデルに押されたから転倒して死産したと訴えた家政婦ラジエーが事前に妊娠中であることをナデルにちゃんと告げたのを知っていたかどうか、 女主人公シミンの娘テルメーが通っている学校の女性教師ギャーライが証言をさせられた後、家政婦ラジエーの旦那ホッジャトが学校まで押しかけてきて、その証言した女性教師ギャーライをなじる。
 「あんたは、その女(女主人公シミン)の旦那とできているんだろう!」
 間髪をいれずギャーライはその男ホッジャトにくってかかる。
 「何んて侮辱をするの!」
これは、先のイスラム=イラン的『 姦通罪 』ってものを考えると可成り異常な、悪辣極まりない冤罪工作とすらいえる言葉・行為なのが分かる。日本の家庭裁判所あたりでやりとりされる他愛のない月並みな罵り言葉と意味合いが異なる。殺意の顕れとすらいえよう。

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 同じアスガル・ファルハーディー監督の前作《 彼女が消えた浜辺 》やバフマン・ゴバディ監督《 ペルシャ猫を誰も知らない 》なんかを観ても、イランの社会ってもう一つ理解しがたく曖昧だけど、嘗ては日本と同様サリドマイド禍で多くの被害者なんか出していたりして所詮グローバル="現代"世界の一員でしかなく、貧困・失業、離婚や家庭崩壊なんて社会的課題が錯綜し累積していることには他の国と変わらないようだ。この映画もそんな日本でも同様な様々な軋轢的要素が蜘蛛の糸のようにもつれ尽くして容易に解決の途すら見出せぬまま、なりゆき的決着がのみ与えられるだけ。

 この映画のネックは"老人介護"だろう。それを主軸にして、それぞれが抱えている種々様々な要素が絡み合い更に複雑にもつれて、現在=イランってものを浮かび上がらせようって手法なのだろうが、旧い所でいえば些か極端だが《楢山節考》なんてものもあったし、父子二人住まいの自宅で一人父親の介護に疲れ果てその鬱屈したストレスを人種差別主義にくすぶらせる警官にマット・ディロンが扮した《クラッシュ》ってのもあって、やがて人口一億になろうかというイランでも社会的テーマとなってきたのだろう。( ナデルとシミンの離別(離婚)はむしろ口実。)

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 シミンは11歳になる娘テルメーの将来をおもんばかって、つまり現行のイランじゃ何としても明るい展望が見えないということなのだろうが、国外へ移住しそこで育てたい故に、外国行きを渋る夫ナデルと別れるため裁判所で離婚の手続きをしようとするが、夫が彼のアルツハイマー病の老父の世話を理由に拒み続け、結局手続きはできず、とりあえず別居という形になる。夫ナデルは娘と老父と一緒に暮らすことになったものの、今まで老父の世話をしていた妻のシミンが居なくなったため、つてを頼って、ラジエーという家政婦を雇う。ところが、その家政婦、実は身籠もっていて、その上、彼女の旦那、元靴職人だったのが失業していて借金を抱えて裁判沙汰にすらなってるホッジャトに内緒でこの家政婦の仕事を引き受けていた。
 ところが、アルツハイマーの老爺の世話が意外と、妊婦なのもあって身体に負担がかかり過ぎるので一旦断ることになる。仕方なくナデルは新たに人を雇うことになって応募してきたのが、誰あろうラジエーの失業中の旦那ホッジャトであった。結局、ラジエーが再びやることになる。が、ある日、ナデルとテルメーが一緒に戻ってくるとラジエーの姿はなく老父がベッドに片手を縛り付けられたまま床に倒れて虫の息。何とか持ち直したもののナデルは怒り、やがて戻ってきたラジエーに攻め寄る。おまけに部屋から金が盗まれたらしくそれをもラジエーに問いつめ、ラジエーが頑なに否定しつづけるので、出て行ってくれと言い放つ。だったら今日の分の賃金を呉と懸命にすがり、ドアの外と内とでせめぎ合い、感情的になったナデルがラジエーを尚も中に入ってこようとするラジエーを突き飛ばす。

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 それが事件の起点となって、突き飛ばされ階段下に転げ落ち死産してしまったと訴えられ、それもある一定程度成長した胎児の場合一人前の人間として扱われることとなって"殺人罪"の適応を判事に宣告されるはめに陥る。万事休す。そこから、延々と双方の齟齬と疑心暗鬼のせめぎ合いが展開されてゆく。
 最後に、ラジエーがシミンにポツリと真実を洩らす。実は、ちょっとした隙に部屋から抜け出し徘徊老人と化した老爺を追いかけ通りを横切って連れ戻そうとしたした時、車に接触し、どうも胎児に異常があったようで痛みを感じ始めていたのだと。つまり、その時死産しかかっていたか死産した可能性を、信仰心の強いラジエーがいたたまれなくなってシミンに打ち明けてしまった。それは、示談成立の日、多額の慰謝料で借金をなんとか清算できそうであったのがその土壇場で一瞬にして掻き消えてしまったラジエーの夫ホッジャトのその何処にも持って行き場のない失望と怒りの絶句。《クラッシュ》とは又一味違った凄絶な現実社会的な煩悶と嗚咽ではある。

監督 アスガル・ファルハーディー
脚本 アスガル・ファルハーディー
撮影 マームード・カラリ
音楽 サッタール・オラキ

シミン   レイラ・ハタミ
ナデル   ペイマン・モアディ
テルメー   サリナ・ファルハーディー
ラジエー   サレー・バヤト
ホッジャト  シャハブ・ホセイニ
ソマイェ   キミア・ホセイニ
制作 (イラン)2011年

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2013年5月 4日 (土)

 至上の愛と死『シベールの日曜日』(1962年)

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 ベトナム戦争以来、反戦映画は後を絶たないようだけど、それに少女が絡んでくると又一種独特の艶めかしさと抒情性が加味され結構有名な作品が生まれるようだ。《 タクシー・ドライバー 》なんかそのいい例で、もう一時代前の、米国=ベトナムじゃなくて、フランス=ベトナムの所謂"インドシナ戦争"の頃のものだと、《 シベールの日曜日 》ってことになるのだろう。

 《 タクシー・ドライバー 》のトラビスがベトナム帰還海兵隊員だったのに対して、この映画では、空軍か海軍かはつまびらかでないがピエールは戦闘機パイロットとしてベトナム=インドシナで戦って、どうも、現地の村を攻撃中、撃墜されたのか、誤って墜落したのか、負傷し、記憶喪失になってしまったようだ。拡がる水田が時折太陽を反射する現地の村を上空から攻撃している最中、巨大なガジュマルの根元に立った一人の少女が上空から急降下してくる彼の方を見上げ大声をあげて叫ぶシーンで画面は途切れる。
 そのあたりは曖昧なまま、場面は変わり、パリ近郊の小さな町ヴィル=ダヴレーの駅のプラットホームに一人佇み、胡乱な眼差しで周囲を見廻す。と、防寒用の大きな白い帽子に襟巻きをまとった少女を連れた父親が道を尋ねてくる。その少女を預けるカトリック系の寄宿学校だった。少女と視線が会った刹那、ピエールは知らず例のインドシナの村を攻撃した際絶叫をあげた少女を重ね合わせ、自意識=記憶の回路の上っ面をスルリと滑り落ちたまま、父親にそんな処に行きたくないと泣きじゃり拒絶する少女に胸を締めつけられ、少女に対するトラウマ=固着を引きずって、更に一層深みにはまってゆくことになってゆく。
 
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 実は少女は父親に捨てられたのだった。ピエールはそんな少女が不憫でしかたなく、少女にことの真相を告げ、毎日曜少女を連れ出す約束をする。薄幸なその12歳の少女は、本名すら寄宿学校のシスターに"キリスト教徒らしくない名"だからとフランソワーズという名にされてしまう。少女の祖母がギリシャ人で、古い異教的な由来の名だったらしい。
 ピエールは以前の恋人・看護婦マドレーヌに彼女の部屋に一緒に住み面倒をみて貰っていた。マドレーヌは献身的で、ピエールの記憶が戻るのを辛抱強く待っていた。只、彼女の部屋に転がり込んできてどのくらい過っているのかは不明。彼、ピエールの胡乱な意識を基準にストーリーが組み立てられているってことなんだろう。インドシナ戦争が終結したのは1954年で、画面でその年のクリスマスが月曜日と特定されているので、時代設定は1961年でしかなく、墜落してからの成り行きは定かでないものの、長くて7年近く記憶喪失の男の面倒をみてきたことになる。少々の苦労ではなかったろう。マドレーヌのひたむきな献身ぶりが知れようというもの。
 ところが、当のピエール、そんなことは意にも介さぬとばかりに、一目視線を交わしあった瞬間から、すっかり彼の脳裏の内には、自分の名前すら大人達の勝手で変えられ凡庸なフランソワなんて名前を押しつけられてしまう薄幸な少女ばかりが、いよいよその存在性を増してゆくばかり。幾らマドレーヌが献身的であろうと、以前の恋人であっても、彼の意識にはあくまで所詮"外在者"でしかないのであって、不確かな意識の間隙の底に今尚インドシナ戦争の体験、否、今だもって戦争は進行中かも知れない陰惨がとぐろを巻き、それがインドシナ娘とオーバーラップするその少女に対して本源的(リビドー)発露を求めさせるのだ。

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 当時人口が5、6千人程度だった小さな町ヴィル=ダヴレーには、"コローの池"と呼ばれる画家コローが好んで題材にしたらしい湖があって、風光明媚な公園となっていた。ピエールと少女はいつもここを散策し戯れていた。何しろ小さな町なので、親子にしては恋人同士のような濃密なじゃれ合い方に、地元民たちが訝し気な眼差しを送っていたとしても不思議はない。
 薄幸だった故にか少女は大人び、ませていた。公園の林の歩道を白馬に跨った青年が二人の傍を走り抜けていった時、「彼ってハンサムね!」「かっこいいー」なんて子供っぽくピエールに語りかけると、ピエールが黙ったまま答えようとしなかったのをよく覚えていて、後日湖畔で二人で戯れていると向こうから子供の一団が笑いながら現れ、ピエールの許可を得て彼等と一緒に少女が遊技をして無邪気に遊んでいる内、少女と木の後ろに隠れた一人の年かさの男の子のふとした挙動に敏感に反応し、少年の頬を叩いてしまう。少女は走り去り、追いついたピエールに涙を流し怒ってみせる。と、その時例の白馬の男が駆け抜けてゆき、少女は騎士の後姿をいつまでも見送った。すると、何故そんなにあいつの方を見てるんだい、とピエールが呟く。

 「きっとあの人が小さな子を叩いたりしないからよ」
 「でも、あいつは君のことなんか知っちゃあいないぜ」

 途端それまで泣いていた少女の顔に笑みが零れた。

 「ピエール! ひょっとして妬いてるの?」

 少女はピエールに抱きつき頬にキスをし、抱き上げてくれとねだる。
 まったくもって大人としてピエールは形無しだけど、少女の気持ちが氷解してピエールはそれだけですっかりご満悦とばかりに抱き上げてやる。

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 公園の脇のレストランの暖炉の前で、ピエールがカーニバルの占い師の処からくすねた儀式用の短剣を見た瞬間、少女の眼は子供のように輝き、さっそく抜き身を手にして燃えさかる暖炉の前で愛撫するように自分の頬や首にあてがって弄び始める。

 「ね、もしあなたがもう会いに来てくれなくなったら、私はきっと死んでしまうわ」
 「両眼を閉じ、すっかり冷たくなって・・・棺の中に納められるの。蓋に釘も打たれて。墓石には名前もないの。なぜなら、誰もわたしの本当の名前を知らないから」
 「・・・もし、わたしが死んだら、あなたも死ぬ?」
 「それとも忘れてしまう? ・・・教えて」
 「あなた、死ぬ?」
 「勿論!」

 少女( 趣味 )的感傷の極みって処だろう。その( 自分の )世界にどっぷり浸かり、ピエールはそこに巻き込まれた哀れな生贄の子羊。
 「神様ありがとう! パパのかわりにピエールを下さって!」
 以前少女は公園でピエールにも知られないようにそう神に感謝していた。
 "タクシー・ドライバー"トラビスや"殺し屋"レオンの血塗られたラスト・シーンともどもに、ピエールも聖"少女"に捧げられた犠牲(いけにえ)として血塗られた最期が待っていた。トラビスが一命を取り留めたのは、ジョディー・フォスター演じる少女娼婦アイリスとの関係が恋愛まで高められた熱情=パッションが欠けていたからだろう。

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 イヴの夜、ピエールはカトリーヌと共に彼を理解しようとしてくれる友人の芸術家カルロスの部屋から勝手にくすねてきた大きなクリスマス・ツリーを公園に運んできた。少女もそのクリスマス・ツリーに小さなマッチ箱のプレゼントを吊り下げ、ピエールに告げる。ピエールが開けてみると中に一枚の紙が入っていて、開いてみたら、「シベール」とだけ可愛い筆致(今風にいえばマンガ文字)で認められていた。それが少女の祖母がつけてくれた古代ギリシャの樹と地球の女神と同じ少女の本名であった。そのささやかな、しかし、何とも名状しがたいまごころに、ピエールは感激し、暫し、シベールとの融合的至福に酔いしれた。そして今度はピエールの番であった。ちょっと待ってくれと、例の風見鶏を取りに向かう・・・
 その頃、姿をくらませたピエールを心配したマドレーヌが、ピエールと仲の良いカルロスや友人の医師ベルナードに連絡し居所を確かめようとした。医師ベルナードは前々からピエールの様々な粗暴な振る舞いに疑念を抱き、いつも日曜毎に公園を恋人のように親しくデートしている少女との関係にもやがて暴力性が剥き出されると危惧し、早速警察にその旨連絡した。慌てて警官が公園に駆けつけ、遠くから二人に近づいて行った時、正にピエールが短剣をいたいけな少女の方にかざすその瞬間であった。警官の激しい銃声が、聖夜の帳に包まれた公園一帯に響き渡った。
 駆けつけたマドレーヌとカルロスの眼の前の地面に、血飛沫にまみれたピエールが両の眼をカッ!と見開いたまま倒れていた。ピエールも少女と同年代の少年の頃に戻ってしまった純粋無垢な時間=関係なのを、ピエールの後をつけていって自分の眼で確かめていたカトリーヌは、余計やりきれぬ想いにむせび泣くばかり。眼を醒ましたシベールが、傍らに血塗られた死体と化したピエールを発見し、孤絶の奈落に叩き落とされたのを理解し、警官に名前を聞かれて、
 「わたしにはもう名前なんてないの! もう誰でもないわ!」
と、絶望的に嗚咽する。

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 このラスト・シーン、ぼくの観たYOUTUBE版の『シベールの日曜日』では、ぼくの記憶にあるレストランの暖炉のシーンと同様、シベールが短剣を自己陶酔的に弄びピエールにも押しつけて、それを陰に隠れていた警官たちが勘違いして射殺するという些かスリリングなシーンだったはずが、そっくり抜け落ちていて、レ?、レ?、レ? 
 で、ネットでチェックしてみたら、果たして昨今のこの映画のDVDは皆ここの部分はカットされていた。余りに唐突過ぎて体をなしてない。ディレクターズ・カットというより業者・映画会社の利潤追求・都合でカットしたのだろう。一番映画を盛り上げるシークエンスなのに、その肝心のところをカットするなんて普通監督がやるはずもない。だから尻切れトンボになってしまっているんだと憤慨していたら、ネットのカットされた部分の内容がぼくの記憶していたのとかなり違っていて、風見鶏を持って戻ったピエールが、待ちくたびれて寝てしまったシベールの傍に短剣を持って近づいたのを警官たちが勘違いして射殺した、という意外とつまらない展開だったらしい。記憶が勝手に編集してしまったって訳だけど、これだと元のオリジナルよりぼくの記憶が作り出した夢制版の方がスリリングで、遙かに耽美的且つ官能的ですらあった。無意識の内に今一のラストの展開を記憶回路の方で面白く再構成していたということだろうか?

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 当時13歳だったシベール役のパトリシア・ゴッジ、可愛らしいが決して美少女という訳でもないジョディー・フォスター同じポジションか、むしろクロエ・グレース・モレッツほどではないにしてもファニー・フェイスのカテゴリーに入るのではないだろうか。時代的にもモダンな顔立ちってところでビートニックな"ニュー・シング"だったのだろう。
 けど、シベールって少女、身よりもないのか捨てられまいとピエールに必死にしがみつこうとするいたいけない悲哀が滲み出ているけれど、こどもこどもした娘ではなく、今じゃ珍しくもないけれど、増せていて、もう青年とは言えなくなった30歳のピエールを手玉にとり、弄びすらするすっかり一人前の"女"以外の何ものでもない。それはやっぱり、物心ついた頃から色々と苦労してきた薄幸な生い立ちのせいだろう。苦境にねじ曲げられスレるってことがなかった強さと知恵を持っていたのだろうし、ギリシャ人の祖母のお陰かもしれない。普通の相貌だからこそ、そんな部分が生き生きとして画面に映え、余計耽美的であり得たのかも知れない。

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 この映画を"ロリ・コン"映画と断じる者たちがいるらしく、それこそ正にこの映画で批判された当のもの。旧態依然とした差別と貧困。自由と平等(友愛)って近代=デモクラシーの基本にすら今だ至れていない。フランスって、フランス革命・パリコミューンを経たにもかかわらず、カトリックが主勢を占めているらしいのもあってか、保守的で、戦後幾らも過ってない頃にもそんな映画を作らなければならなかったのだろう。それから幾年かして、世界的な革新運動が起こり、フランスでもD・コーン=バンディーたちの"五月革命"が起こってはいるが、現在もフランスはどう斟酌してみても、英米と並ぶ札付きの保守主義者の常道=侵略主義(者)以外の何ものでもない。それ故に、この映画も今もって十分に存在価値があるってことだろう。
 差別って多重的で多層的、人種差別も性差別も根は同根。所謂"ロリ・コン"(差別)って、古の魔女狩りの頃と寸分も変わらぬ精神構造=社会の産物。昔から日本でも有名な言葉=警句がある。

 「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んでしまえ」

 都々逸の文句だったと思うけど、江戸時代の馬って今日の乗用車・トラックの類。当時も疾走する馬に撥ねられて死んだ者数知れずを前提とした文句。ゆめゆめ優雅な錦絵巻きの中の乗り物とばかり決めつける事なかれ。
 
監督 セルジュ・ブールギニョン
脚本 セルジュ・ブールギニョン、アントワーヌ・チュダル
原作 ベルナール・エシャスリオー『ビル・ダヴレイの日曜日』
撮影 アンリ・ドカエ
美術 ベルナール・エヴァン
音楽 モーリス・ジャール

ピエール   ハーディ・クリューガー
少女シベール パトリシア・ゴッジ
マドレーヌ    ニコール・クールセル
制作       1962年(フランス)

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