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2013年5月31日 (金)

幕末・海峡外伝 田野浦

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 幕末的転回の一つの始源として外せないのが長州藩、およびその対面からじっと睨めつけてきた江戸幕府・譜代の小笠原=小倉藩の角逐(かくちく)だろうが、源平の戦以来、河と見間違うくらいに狭い関門海峡は、しかし、潮の流れが速く、自然の要害として容易に相手を寄せつけないものがあった。
 清国や他のアジアの国々を武力と奸智で蹂躙し、悪辣な経済的搾取とキリスト教による精神的籠絡で悉く実質的植民地と化してきた欧米列強、ペリーの浦賀沖来航以来、今度は日本をその俎上に乗せようと、1860年小倉藩=楠原(門司)にイギリス人が上陸し大騒ぎ、翌1861年(文久元年)にはイギリス船四隻が門司沖に関門海峡を調査測量のため停泊するなど関門海峡を挟んだ長州・小倉両藩の人心騒擾とし、"尊皇攘夷"運動に後押しされすっかりその気になった孝明天皇の強い意志を受けて幕府が"攘夷決行"を発した。

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 (ちょっといびつなパノラマ合成になってるけど、関門海峡のこのあたりの臨場感は出ていると思う。対岸中央やや右側が前田(砲台)、左側が壇ノ浦(砲台)。クリック拡大)

 自分達の目と鼻の先をこれ見よがしに航行する黒船に我慢ならなかった尊皇攘夷=倒幕派の急先鋒・長州藩、早速1863年五月、商船・軍艦の区別なく関門海峡を航行する夷敵=欧米列強の黒船に片っ端から砲撃を加え始めた。が、少なからずの損傷を与えはしたもののさっさと逃げ終えられてしまい、憤懣やるかたなく、関門両方から挟撃したなら効果はもっと得られたはずと、対岸で静観を決め込み続ける小倉藩に噛みついた。
 けれど"攻撃"があった場合のみの"攘夷決行"=黒船に対する軍事行動という基本を貫いただけと譜代・小倉藩ににべもなく撥ねつけられ、すっかり切れてしまった長州藩、朝廷に小倉藩の"攘夷決行"拒否を訴え、同時に強引に対岸の小倉藩領の門司・田野浦に上陸し、自分達の砲台を設置する挙に出た。

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(四国連合艦隊との戦闘や長倉戦争の際も海峡は白煙に包まれ視界がかなり悪かったという。クリック拡大 )

 元々、"攘夷決行"の命が下った頃から、小倉藩も自藩の百姓・町民のある程度のレベルの者達千数百人に苗字・帯刀を許し兵士として召し上げ、藩内各所、長州の真向かいの田野浦・楠原(門司)・小森江・大里などに配置したり、第二次世界大戦の時のように、寺社の梵鐘やなんかを徴収して精錬し大砲や弾の材料にしたりの総動員態勢には入っていたようだ。そんな状況の田野浦・門司に無断上陸しての強行だったにもかかわらず、小倉藩、長州藩の大砲・最新式銃なんかの軍備に比しての自藩の火縄式銃や槍・刀程度の貧弱さを自覚していた故なのかどうかは定かでないが、ともかく腫れ物に触るように優柔不断。
 その折りの長州藩、田野浦の民・百姓達に対してかなり暴力的で、家畜は盗む、田畑・作物は荒らす、住居も奪うはで所謂"略奪"を恣(ほしい)ままにし、更に砲撃練習で漁にすら支障をきたすはで住民達の生活を破壊してしまって、すっかり田野浦の住民達の怨嗟の的になってしまったようだ。後、薩長軍の略奪が喧伝されるようになったらしいけど、地元で既に先例があったと言う訳だ。

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 (現在はもうすっかりシルバー・タウンと化してしまって、往事の面影は希薄)

 この数ヶ月後、公武合体派=会津藩・薩摩藩が、尊皇攘夷派=長州藩を京都から追放した事件、所謂"八月十八日の政変"が起こり、幕府からの命もあって、田野浦・門司に造られた長州藩の砲台は撤去され、長州の守備隊も撤退し、ようやく田野浦の住民達も元の生活が取り戻せるようになった。
 この翌年1864年(元治元年)八月五日午後、欧米列強四カ国の艦隊(17隻)が一斉に長州藩の下関沿岸部に設えられた砲台に猛攻を加えあっさり殲滅。
 この戦いの様子を対岸の門司側から、小倉藩の侍や門司・田野浦の住民達が、一大スペクタクル巨編とばかり、積み重なった恨みもあってか物見遊山を決め込み、長州側砲台に黒船の砲弾が炸裂する毎に大声援を挙げたという逸話も残ってるらしい。束の間の溜飲を下げたのはいいが、更に二年後、今度は小倉藩自体との戦いのために長州・奇兵隊以下の大軍(?)が砲撃しながらの再上陸、田野浦海岸につながれた船や陣屋ばかりか一般住民達の家屋にも放火して、何しろ小さな寒村で全焼したという話しもあるようだ。

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 (人気のない田野浦の通りから一歩春日神社へ到る石段下の一角に入ると・・・クリック拡大)

 それにしても日本の辺境ともいうべき関門海峡を挟んで内外の熾烈な戦いが繰り広げられたもので、この幅一番狭いところで600メートルしかなく、黒船は門司側最大接近150~200メートルぐらい沖合で留まりながら下関側砲台を攻撃したのだろうから、砲撃の轟音たるや門司側住民には凄まじいものだっに違いない。田野浦は些か南に下りちょっと奥まった入り江の砂浜が拡がった漁港だったらしく、海峡最短部に臨んだ古城山近辺や大久保より若干その轟音の衝撃は薄まってはいたろうか。でも田野浦沖に留まって長州攻撃した黒船も多いらしく、やっぱりそう大差ないか。それに、数年後には、ノルマンディーのDデイよろしく、夜明けにいきなり長州船から雨あられと砲弾が撃ち込まれ、上陸してきた長州軍の鉄砲弾も唸りをあげて飛んできて、仕上げは刀での肉弾戦という正に戦場そのもの。老若男女、漁民も遊女達も逃げまどう他なかったろう。
 もう幾年も前、関門海峡で関門橋よりやや四国側寄りの海域で、第七管区の海上保安庁の指令ミス(今だに頑なにその責任を認めようとはしていないらしい)で、海自の護衛鑑"くらま"と韓国のコンテナ船が深夜に衝突した事件があった際も、その衝撃音が古城山越しに門司側内陸部にも轟いたという。いわんや旧式大砲の轟音をやだ。同様に大砲から噴き出る白煙も凄かったらしい。海峡全体に白煙が煙幕の如く漂い、暫く砲撃の手を止めて白煙が薄らぎ視界が回復するのをまたねばならなかったほどという。現在でも、時折濃い靄が発生した時なんか関門橋すら見えなくなってしまうくらいで、海峡の両方の海岸にまで迫った山稜という地形のせいなのだろう。
 他の多くの日本人が体験することの無かった歴史的転換点、こんな歴史的大事件の逐一を眼の当たりに目撃=見物を否応なく体験させられた田野浦・門司の住民達、一体どんな現実感覚あるいは歴史感覚を抱くに至ったであろう。 

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 (昼尚薄暗く森閑とした常住"逢魔刻"として観光名所にしたい雰囲気満点の景観なんだけど。何しろ、山腹につづく危なげな石段がいい。クリック拡大)


 田野浦は源平合戦の頃、九州に進軍していた義経の異母兄弟=源範頼が陣を置いていたとか、後は室町時代の応永27年(1420年)三月二十三日から三十日まで朝鮮通信使(回礼使)一行が留まったという故事があるらしい。一体何故に対岸の赤間関(下関=大内氏)でなく、当時は北前船での繁栄以前のいよいよ小さな漁村だったはずの田野浦なんかに一週間も滞在したろうか? そもそも通信使はその接待が大変で藩を挙げての一大事業だったはず。"回礼使"の場合はそうでもなかったのだろうか。
 説話の類なら、平氏滅亡の後、平氏のある女官が、壇ノ浦の合戦の場である関門海峡を一望できる聖山(日尻山)の頂きに尼僧になって一門の菩提を弔うために庵を結んだと言われる伝承もあるという。

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 (誰顧みることもなく野晒しのまま幾歳・・・往古の人々の祈りや悲哀の痕跡が剥き出しのまま累々と横たわって無惨。クリック拡大)

 江戸時代に入って"北前船"が盛んになり始めて、ようやく、対面の以前から有名だった赤間関(下関)が西端(本州)の拠点港としていよいよ脚光を浴びるようになり、そのお陰を蒙る形で、謂わば"サブ"として、田野浦はそれなりに繁栄を享受できるようになった。
 流れの速い海峡なので下関側にすべて係留するのが困難なのか、更に潮流関係や、船体の補修なんかのために比較的条件の良いらしかった田野浦におはちが廻ってきたようだ。元々漁港だったせいもあって船数が多くなるにつれ需要を満たすのが困難になってきて、天保6年(1835年)に新港を完成させたとのこと。全盛期で1000隻近い北前船が寄港したという。
 客があって金も落ちるとなると、対岸の大店の集まった下関には到底及ばないにしても、身分相応に、たった三軒とのことだけど、料亭を兼ねた遊郭の類も建ち、宿屋の類も建ったからだろう造り酒屋が漁村の割にはこれまた三軒もできた由。その内の一軒"三原屋"は近隣でも一、二を到底争うほどの生産高だったという。

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 (小寺でありながら石仏の類がやたら多く、人気の殆どうかがえぬ静寂の中で観るそれは一興のもの。真ん中に、遠く玄界灘につらなる海峡を向いて遊女達の墓石が並んでいる。)

 当時の田野浦の住民は700人前後だったというが、外から出稼ぎに来ていた者達ってその内に含まれているのかどうか。漁もやれば農もやってたりして、更に大忙しの北前船関係の仕事をこなすとなると殆ど村民総動員って感じのはずが、実際は如何だったろう。
 700年前に平氏の女官の庵があったはずの聖山の頂から眼下に拡がる関門海峡が一望でき、遊郭の女達はここに昇って、こちら田野浦側に入ってくる船影を見つけると、ダダッ!と駆け下り、鐘・太鼓で囃し立て、降りてくる客を奪わんと我先がちに駆け寄っていったという。すぐに想い出されたのが、同じ門司で旅館を営んでいた旅行写真家・藤原新也の父親が、港に船が入ってくると、他の旅館の者達と先を争って我先がちに客取りにはやったという光景。結構ヤクザな気風の親父さんだったようだけど、彼も遠方から、明治権力の国策としての八幡製鉄的展開の一環としての門司港に、地元ではチマチマとしか獲られない一攫千金を狙って遣ってきた一人であったようで、時代は違っても田野浦の遊女達もその口だったろう。着物の裾を惜しげもなくはだけ、小山を駆け下りてくる女達の姿って何とも野性的でバイタリティーに溢れている。
 わずか三軒といっても、決して場末の飯盛り女郎的な存在ではなく、例えば、この田野浦の村に神社や鳥居を寄贈するぐらいの財力を一遊女が、あるいは遊郭が持っていたことからも推測できよう。一介の士分の者すらちょっと無理な相談に違いない。又、子供達に読み書きや歌を教えてたって話しもあるようだ。

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 (田野浦遊女達の墓石・・・いかにも北前船以降の刻まれた天保、安政、明和の年号が、何とも無常を漂わす)

 遊女達、明治になって早速御法度になり、何処かへ皆去って行った由。只、田野浦で亡くなった女達は、いつも駆け下りていた聖山の麓の墓地に立派な墓石を立てて貰い葬られていたらしい。有為転変の激しい世の中、彼女たちの墓石も例外ではなく、現在では、田野浦とはまったく反対の小高い丘の中腹に建てられた高野山・地蔵寺の人気も疎らなコンクリート境内の一角で、遠く玄界灘に連なる海峡を向いたまま、浮薄な人間達の業(カルマ)を見据えるように静かに佇んでいる。
 北前船で一時の繁華をみた田野浦も明治になりやがて船に替わって鉄道が主力になり始めると次第に凋落してゆき、元の単なる漁村に戻ってしまった。それ以降、昭和から平成に到るに及んで、自民党半世紀支配のたまもの、"慢性不況"によって、いよいよ過疎化の進行も加速され留まるところを知らぬ勢い。
 この町の真ん中あたりから裏山につづく些かくたびれた石段を昇ってゆくと、春日神社の境内に到る。雑草樹木が伸び昼尚薄暗く、奥の社殿に近づいて呆然、社殿の表の一歩裏はごそりと崩落して地面に築材が無惨な姿を晒したまま。一見打ち壊しにでもあったのか思われるぐらいに破砕され尽くしていた。崩落してもう既に幾年もの歳月を経ているという。過疎化し続けるばかりでそれを補修し、いわんや再建する余力もない平成の田野浦であった。かつての遊女達の粋な気心が如何なるものであったのか、"アベノミクス"とかいう子供だましにもならぬ痴戯(自滅)に浮かれるばかりの平成末の世が、底なしに証して限りない。


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