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2013年5月18日 (土)

ホメイニ原理主義的桎梏上のゆらぎ 『ナデルとシミン 別離』

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 イランといえば、ホメイニ革命以来、イスラム原理主義的全体主義国家という昏いイメージが強い。最近はどうなってるのか定かでないけど、嘗ては、革命委員会(コミッテ)ってのがぼくら旅行者の前に常に立ちはだかって色々と鬱陶しいことしきりであった。宿に泊まるのにも、一々彼等の許可が必要だった。それでも、イラン人の家に泊まるぶんには、その本来の規則はともかく、その煩わしさから免れ、現実のイランの庶民の生活をつぶさに見聞することができた。イスラム教的規制も、一歩家の中に入ってしまうと中々いうようには機能してないようで、そのお陰でぼくらもそれほど違和感を感じることなく過ごさせて貰えた。つまり、生活様式や習慣以外は、家族愛から、親子げんか、夫婦げんか、喜怒哀楽等は、何処の国でもそう変わりはしないってことを知ることができた。
 只、ハシシやドラッグ関係のアフガン人の罪人なんかが、時折公開処刑として、クレーンに高く吊られ絞首刑になったり、例の姦通罪に問われた(ある日本人娘の場合が有名)者が地面に身体を埋められ、周辺住民に石( 小石ではなくこぶし大以上の石 )を投げられて重傷を負ったり死亡したりする石打刑など、それをイスラム的といっていいのかどうかはともかく、その前時代的な旧俗性を前にしては、さすがに言うべき言葉もない。( 勿論、だからといって、欧米先進国がそんな前時代性より一方的に優れて優位にあるってことにはならないが )
 この映画を観ていると、その登場人物の誰も彼もが、自分の立場を良くしようと相手の不可解や弱点を衝いて憚らない背後に伏在するイラン的全体主義の閉塞と陥穽ってものに考え及んでしまう。ちょうど《 覇王別姫 》での文革時代の自分の罪から免れようと他人を陥れる恐怖政治的な指弾合戦の類だ。一見何処の国でもある市井の人々のトラブルの一つのように展開しながらも、その些か常軌を逸したヒステリックというより脅迫観念的なせめぎ合いってのが、何としても全体主義的な異臭を紛々とさせている。それが、表面的には、冷徹なイスラム異端審問官剥き出しの制服の官権ではなく、慣れた手つきで事務処理をこなしてゆく温厚そうな判事なんかを定点として展開しているのでそれらしく見えないだけの話で、その背後には上記の苛烈・残虐なイラン的全体主義の軛が狙い澄ましているってことだろう。( 勿論、それはあくまで現実の庶民の実貌というより、映画的にデフォルムされたものってことだけど )

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 女主人公の旦那ナデルに押されたから転倒して死産したと訴えた家政婦ラジエーが事前に妊娠中であることをナデルにちゃんと告げたのを知っていたかどうか、 女主人公シミンの娘テルメーが通っている学校の女性教師ギャーライが証言をさせられた後、家政婦ラジエーの旦那ホッジャトが学校まで押しかけてきて、その証言した女性教師ギャーライをなじる。
 「あんたは、その女(女主人公シミン)の旦那とできているんだろう!」
 間髪をいれずギャーライはその男ホッジャトにくってかかる。
 「何んて侮辱をするの!」
これは、先のイスラム=イラン的『 姦通罪 』ってものを考えると可成り異常な、悪辣極まりない冤罪工作とすらいえる言葉・行為なのが分かる。日本の家庭裁判所あたりでやりとりされる他愛のない月並みな罵り言葉と意味合いが異なる。殺意の顕れとすらいえよう。

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 同じアスガル・ファルハーディー監督の前作《 彼女が消えた浜辺 》やバフマン・ゴバディ監督《 ペルシャ猫を誰も知らない 》なんかを観ても、イランの社会ってもう一つ理解しがたく曖昧だけど、嘗ては日本と同様サリドマイド禍で多くの被害者なんか出していたりして所詮グローバル="現代"世界の一員でしかなく、貧困・失業、離婚や家庭崩壊なんて社会的課題が錯綜し累積していることには他の国と変わらないようだ。この映画もそんな日本でも同様な様々な軋轢的要素が蜘蛛の糸のようにもつれ尽くして容易に解決の途すら見出せぬまま、なりゆき的決着がのみ与えられるだけ。

 この映画のネックは"老人介護"だろう。それを主軸にして、それぞれが抱えている種々様々な要素が絡み合い更に複雑にもつれて、現在=イランってものを浮かび上がらせようって手法なのだろうが、旧い所でいえば些か極端だが《楢山節考》なんてものもあったし、父子二人住まいの自宅で一人父親の介護に疲れ果てその鬱屈したストレスを人種差別主義にくすぶらせる警官にマット・ディロンが扮した《クラッシュ》ってのもあって、やがて人口一億になろうかというイランでも社会的テーマとなってきたのだろう。( ナデルとシミンの離別(離婚)はむしろ口実。)

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 シミンは11歳になる娘テルメーの将来をおもんばかって、つまり現行のイランじゃ何としても明るい展望が見えないということなのだろうが、国外へ移住しそこで育てたい故に、外国行きを渋る夫ナデルと別れるため裁判所で離婚の手続きをしようとするが、夫が彼のアルツハイマー病の老父の世話を理由に拒み続け、結局手続きはできず、とりあえず別居という形になる。夫ナデルは娘と老父と一緒に暮らすことになったものの、今まで老父の世話をしていた妻のシミンが居なくなったため、つてを頼って、ラジエーという家政婦を雇う。ところが、その家政婦、実は身籠もっていて、その上、彼女の旦那、元靴職人だったのが失業していて借金を抱えて裁判沙汰にすらなってるホッジャトに内緒でこの家政婦の仕事を引き受けていた。
 ところが、アルツハイマーの老爺の世話が意外と、妊婦なのもあって身体に負担がかかり過ぎるので一旦断ることになる。仕方なくナデルは新たに人を雇うことになって応募してきたのが、誰あろうラジエーの失業中の旦那ホッジャトであった。結局、ラジエーが再びやることになる。が、ある日、ナデルとテルメーが一緒に戻ってくるとラジエーの姿はなく老父がベッドに片手を縛り付けられたまま床に倒れて虫の息。何とか持ち直したもののナデルは怒り、やがて戻ってきたラジエーに攻め寄る。おまけに部屋から金が盗まれたらしくそれをもラジエーに問いつめ、ラジエーが頑なに否定しつづけるので、出て行ってくれと言い放つ。だったら今日の分の賃金を呉と懸命にすがり、ドアの外と内とでせめぎ合い、感情的になったナデルがラジエーを尚も中に入ってこようとするラジエーを突き飛ばす。

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 それが事件の起点となって、突き飛ばされ階段下に転げ落ち死産してしまったと訴えられ、それもある一定程度成長した胎児の場合一人前の人間として扱われることとなって"殺人罪"の適応を判事に宣告されるはめに陥る。万事休す。そこから、延々と双方の齟齬と疑心暗鬼のせめぎ合いが展開されてゆく。
 最後に、ラジエーがシミンにポツリと真実を洩らす。実は、ちょっとした隙に部屋から抜け出し徘徊老人と化した老爺を追いかけ通りを横切って連れ戻そうとしたした時、車に接触し、どうも胎児に異常があったようで痛みを感じ始めていたのだと。つまり、その時死産しかかっていたか死産した可能性を、信仰心の強いラジエーがいたたまれなくなってシミンに打ち明けてしまった。それは、示談成立の日、多額の慰謝料で借金をなんとか清算できそうであったのがその土壇場で一瞬にして掻き消えてしまったラジエーの夫ホッジャトのその何処にも持って行き場のない失望と怒りの絶句。《クラッシュ》とは又一味違った凄絶な現実社会的な煩悶と嗚咽ではある。

監督 アスガル・ファルハーディー
脚本 アスガル・ファルハーディー
撮影 マームード・カラリ
音楽 サッタール・オラキ

シミン   レイラ・ハタミ
ナデル   ペイマン・モアディ
テルメー   サリナ・ファルハーディー
ラジエー   サレー・バヤト
ホッジャト  シャハブ・ホセイニ
ソマイェ   キミア・ホセイニ
制作 (イラン)2011年

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