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2013年7月13日 (土)

プノンペンのパッカー御用達 "キャピトル"レストラン ( 2 )

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( オロシー・マーケットがまだ空き地の頃。雨が降ると路地は褐色の川と化し、車が通ると波が起こった。)


 ぼくは飲み食いの大半は《 キャピトル・レストラン 》で済ませ、後は油っぽい料理に飽きてくると少し高めの巷の日本料理屋や大部過ってできた元パッカーが開いた《 京都 》なんかに赴くこともあった。《 京都 》は、所詮大衆食堂の趣きでしかないにもかかわらず、現地人従業員たちが、きちっとした身なりの物腰と対応で、最初笑ってしまった。彼らにしたら、あくまで外国資本(?)の"ジャパニーズ・レストラン"へのきちっとした就職ってところだったのだろうが、次第に店側・客側の内実が分かり始めて、最初覚えていたろう違和感も薄らぎ、ああ貧乏旅行者たちの溜まり場なんだなーと理解できるようになったろう。
 当時有名だった《ミポリンの店》なんか《 キャピ2 》のすぐ階段下にあったんで幾度か入ってみたけど雰囲気が今一で馴染むことはなかった。何年か過って、《 キャピ2 》に小柄なベトナム娘と同居していた日本人パッカーが、その向かい側に店を開いたんで何回か入ってみた。そのベトナム娘も一緒に居て微笑ましいものだった。メニューはもうこの手の店の定番。変わってたのは、何故か、カウンターの上でロッテのチューインガム(クールミント)を売ってたことだ。茹だる暑熱のプノンペン故に、気分転換に、実に健康的な清涼剤として嫌いではなく、行く毎に買っていた。

 最初《 キャピトル・レストラン 》内のカウンターは一つだったのが、やがてツーリズムに本腰を入れ始めたのかツーリズム専用のカウンターも併設された。ぼくはあんまり利用することはなかったけど、若いすらりとした娘がその奥に坐るようになった。
 ある時、エジプト人の一家がテーブルについた。ところが、その内、小太りした鼻髭の親父さんが、その娘を見初めたのか、ぴたり視線を彼女に向けたまま、まじまじと凝視し始めた。端で見ていてもマジかい!って驚くほどのあけすけさ加減。娘の方は、まんざらでもないようにしきりに長い黒髪をなでたりしていた。ひょっとして、真向かいであけすけに凝視され続け、だからといってあくまでお客、邪険にもできず内心の苛立ちを紛らわすための所作だったのかも知れないが、それにしては、そんな否定的な影なんぞ微塵も感じさせず、むしろ艶(しな)をつくっていたってところだった。 
 あれがエジプト的アラブ的な男の女に対する色目の使い方なのかと感心してしまったのには、その同じデーブルに嫁さんも子供たちもちゃんと坐っていたにもかかわらずってことの傍若無人さからだ。それは男尊女卑的な横暴さなのか、それとも、その嫁さんが旦那を信じ切っていてそんな挙に出るなんて青天の霹靂で思い至りもしなかったのか、嫁さんの方がてんでそんなことに興味ない女性だったのか。

 
この《 キャピトル・レストラン 》、外人バックパッカーたちの溜まり場ってこともあって、よく朝からでもケバい化粧の私娼が屯していたりしていた。
 複数でいる時もそうだけど、一人でテーブルについて居る時も、到底一人分とは思えないくらい沢山何品もテーブルの上に注文した飲物や食物が並んでいることが多かった。アイス・コーヒー一杯なんて、"稼ぎの低さ"を証してでもいるかのようで、彼女たちのプライドを損なうものであったのか。ひょっとして、私娼婦ってことで、店から疎んじられると思って、客取りの商売に来ているんじゃなくてあくまで普通の客としてきてるんだ、ちゃんといっぱい注文もしているんだろってアピールなのかも知れない。( その上、彼女たち結構長居する傾向にあるから尚更かも知れない )尤も、元々何処の国でも、風俗関係の娘・女たちって、総じて享楽的だから、そんな一面に過ぎないのかも。
 
 そんな中に、一人年配の小柄で痩せた私娼が居た。
 以前、この《 キャピトル・レストラン 》と同じ通りにあったインド人の営ってたレストランがあって、電力事情のせいもあってエアコンが効いたり効いてなかったりしてたけど、アルコール類も豊富に並んだ、如何にもファラン好みのちょっと暗めの店で、大きなモニターで映画ビデオなんかをよく流していたんで、涼みがてらボクも時々入ったりしていた。嫁さんはカンボジア娘で、その親戚かなんかか定かでない娘たちも数人働いていた。
 そこに昼間っからすっかり出来あがり、いつもくだを巻いていたカップルがいて、その三十代くらいの痩せたファラン男の相手が件の年配私娼だった。来るのは殆ど《 キャピトル・レストラン 》の常連ファランたちで、彼もその仲間の一人だったのだろう。(このインディアン・レストランは暫くして、セントラル・マーケットやシアヌーク通りに移ってしまった。 ホーチミン(サイゴン)で、偶然、そのインド人オーナーと出遭ったことがあった。サイゴンでも、出店を企んでいたようで、華僑と並んで逞しい商魂の印橋だった。 )
 大部過って、ずっと姿を見なかったそのアル中ファラン、ある日、《 キャピトル・レストラン 》のテーブルに、他のファランたちに囲まれるように、真ん中に坐っていた。不似合いな安っぽい背広を着てて、久方ぶりのプノンペンってことでかすっかりご満悦だった。件の年配娼婦はといえば、彼との間に産まれたらしい、時折このレストランにも連れてきていた金髪の小さな男の子と一緒に、少し離れた後ろのテーブルにおとなしく坐っていたのが印象的だった。そのコンプレックスの強い痩せたファラン、再びその相方と肩を並べて、《 キャピトル・レストラン 》以外の何処か薄暗いファラン相手の店の奥で、すっかり出来上がり、朦朧とした眼差しで、彼らにしか見えない酒精の精のゆらゆらと舞う姿でも追うようになったのかどうかぼくは知らない。 

 時代も押してきて、ミレニアムを迎えた頃、《 キャピトル・レストラン 》の前に、他のツーリズム観光ミニバスに紛れるように、一台のバンが停まるようになった。東アジア系やファランの親父たちがいそいそと乗り込み始めたそのバンの窓ガラスに、くっきりと《 suvay pak 》と記してあった。娼館街"七十番"のもっと先にあるベトナム系の多い、いわゆる"スワイパー"と呼ばれるも一つ高級な娼館街だった。ベトナム人居住区と混在した小さな集落で、嘗てまだポルポトの残党があっちこっちに徘徊していた頃、クメール系に襲撃され、娘たちが何人も殺害されたりしたって話しを聴いたことがあった。中には、ベトナム系住民の子供たち相手のキリスト教系の小さな学校( 寺子屋 )もあったのが、やがて、件のバンが出現する頃には、そこの娘たちが、当時カンボジアで流行っていた"英語学校"の差し向けた送迎ミニバスに乗って、クメール系の子供たちと一緒に通い、英語の勉強に勤しみ始めたってご発展振り。(尤も、その後、当局の取り締まり締め付けが厳しくなったって話だが・・・)

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  ( トンレサップ川沿いに並んだ韓国旗と朝鮮旗。カンボジアならでは? )

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