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2013年7月の4件の記事

2013年7月27日 (土)

 川の向こうはもうミャンマー タイ北部 "メー・サイ"( 2 )

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 ( アランヤプラテートの乗り物 )


 川沿いの" Northern G.H "(現在でも健在らしい)には一週間ほど滞在したが、オフ・シーズンってことで、バックパッカーの姿は殆どなかった。丘の斜面側は風も強く、そこに泊まっていたパッカーの話では、同じ60バーツで、24時間ホット・シャワーが使えはするけど、ともかく"寒い!"の一言に尽きるようだった。確かに、一目見ただけで、寒々と凍てついてしまいそうだったのを覚えている。
 " Northern G.H "には、大きなテーブルが六つ並んだ高床式のレストランもあって、そこで朝食も食べれた。只、朝は冷え、注文だけして部屋まで運んで貰えた。繁忙期はともかく、年齢不詳の痩せて小柄な従業員が一人で切り盛りしているようだった。あと一匹、老いたムク犬が一匹飼われていて、のっそり通る毎に、その床が軋みをたてた。タイには木造のゲスト・ハウスが少なくないが、先ず軋み音が騒さい。中国の大理でも、カンボジアのシェムリ・アプでも同様で、余り泊まりたくない式の建物だ。その点、この個室バンガローは、軋んでも自分の作る軋みだけなので助かった。


 宿から、橋とは逆方向に歩いて行くと、川縁にバンガロースタイルのゲスト・ハウスが二軒建っていた。どっちも貧乏旅行者とは無縁の瀟洒な佇まい。ところが、この辺りの対岸(ミャンマー)は、川に民家が迫っていて、住民たちの生活ぶりが手に取るように観察できる立地で、川に面したそのゲストハウスのレストラン"リバーサイド・ゲストハウス・レストラン"に足繁く通うことになった。その頃は、いつもリュックに小型の双眼鏡を潜ませていて、存分に活用させて貰った。
 このゲストハウスの入口近くに船着場があり、対岸のミャンマー側と小船が往復していた。向かいの川岸で女が太い棒でトン、トン叩きながら洗濯をし、子供たちは水遊びに余念がない。のんびりとした風景だ。それでも背後には、真新しい立派な建物がポツ、ポツたち始めていて、ホテルなのか屋上に水タンクのあるところもあった。その川に面した奥の丘の斜面や麓に、川葺きの高床式民家の集落があり、丘の上にも何軒か立っていた。日本にもある茅葺きと同様のかなり急な角度の茅葺き屋根であった。

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 ( メーサイ川沿いのバックパッカー宿 クリック拡大 )


 そのレストランから赤土の集落が角度的に見づらくて、ちゃんと正面から見てみたいと思って、レストランを出、川沿いの細い路をどんどん進んで行ってると、いつの間にか疎らな藪が点々とした一角に至り、その細い径の両側に拡がった草地に地元民らしい男女があっちこっちにしゃがみ込んでいた。何か雰囲気が妙なのに気づいて、周囲をゆっくり見廻すと、ぼくの方に厳しい視線や訝しげな眼差しを向けている男女やまるで意にも介さずいる男女たちが、皆一様に、小さな細長い箱をもどかしそうに破り開けている最中なのが分かった。何かと思って眼を凝らすと、何と彼らの腕に注射器が刺さっているではないか。

 ヤバイ !!

 とんでもない場面に出くわしてしまった。
 よりによって麻薬の注入現場に迷い込んでしまったのだ。
 表通りから幾らも離れてないこんな場所で白昼堂々と原っぱにしゃがみ込んで麻薬注入とは大胆というより、もう殆ど公認といっても過言ではない常態化を意味している。
 まさかすぐ引き返すには、もう大部中まで入り込んでいて、" ままよ "とばかり、そのまま前を向いて進み続けた。周囲から刺すような視線を感じつつ、同じ歩調で歩き続けた。
 と、前に黒革のジャケットに細身を包んだ如何にもって感じの眼付きの鋭い三十前くらいの男が現れた。懐から、いくら何でも場所柄拳銃はないだろうが、切っ先鋭いナイフを取り出しかねない雰囲気で、思わず背に冷たいものが走った。

 万事休す!!

 と、一人のもっと先の畑の所有者らしき年配の親爺さんが現れ、強面(こわもて)兄ちゃんに何か云い、ぼくにも相づちをうってきて、ぼくは頷き、踵を返してスタコラと、そのジャンキー・フィールドから逃げるように立ち去った。途中ちらりとしゃがみ込んだ男女を盗み見ると、すわって酩酊したような眼差しの色黒の中年男がふらふらと覚束ない足取りで歩きだしたと思ったら傍らの藪の影にへたりこんでしまった。腕に注射器を刺したまま小肥りした女が、いつまでもぼくの方をじっと胡散臭げな眼付きで見送り続けた。・・・たくっ。考えたら、ゴールデン・トライアングルは目と鼻の先だった。あぶない、危ない。


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2013年7月20日 (土)

 川の向こうはもうミャンマー タイ北部 "メー・サイ"( 1 )

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 ( メーサイではカメラが壊れてて写真なし。 メーホンソンの定番寺院。 クリック拡大)
 
 ぼくにとってタイとは、タイ=バンコクで、隣国カンボジアへ抜けるため以外は余りタイ国内を旅したことがなかった。それじゃ幾ら何でもって訳で、タイ最北メー・サイまで脚を伸ばしてみたことがあった。
 ミレニアム直前、1999年の1月頃で、昼間は30℃前後あるものの、朝夜は肌寒く20℃以下が普通でフィールド・ジャケットが必帯。観光的にはオフシーズン。それでも、ミャンマー=タチレク行きの橋は、いつも観光客で賑わってはいた。大抵は白人(ファラン)かタイ人の団体。
 ミャンマーの民族衣装を纏った少女たちが、いつも橋のところに屯していて、観光客と一緒に写真に収まるのが"仕事"(5バーツが相場)のようだった。そこからこっち(タイ側)には入って来れないものとばかり思い込んでたら、ある日、その橋へ到る大通りを少し戻ったところにある観光ホテル"Wang Thong Hotel"に民族衣装のまま連れだって入って行くのを見かけた。踊ったり唄ったりできるとも思えず、モデルとして観光客と一緒に写真に写るのだろう。彼女たちの小さな兄弟や彼女たち自身も私服の時は、観光客に手を差し出し、バクシーシを求めたりしてて、単なる小遣い稼ぎなのか、それともそれも本業的な生業なのか定かでなかった。時折、赤ん坊を抱いた彼女たちの母親らしき人物が現れ、彼女たちから稼いだ金を受け取ったりしていたので、ひょっとしてタイの少女乞食がそうであるように、組織だったものかも知れない。

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 メイン通りから、橋の手前を左に折れたメーサイ川に沿った通りに、パッカー御用達のゲストハウスが並んでて、丘の斜面にずらり群生したバンガローの姿が、寒々とした空の下、いよいよ底冷えした殺風景さを際立たせていた。
 ぼくは、川沿いの" Northern G.H "に泊まった。
 広い敷地内に、高床式のバンガローが点々と佇んでいて、ぼくのはベッドと小さなサイド・ボードだけの小さなバンガローで、トイレ&シャワー(時間限定で、そこそこの温水が出た)は共同。60バーツ。網戸になった大きな窓が二つあって、カーテンを上と下で張り付けてあったけど、僅かだけどすきま風が吹き込んで来て、さすが寝袋の上に貰った薄い布団を掛けて寝ざるをえなかった。
 時折、丁度ぼくのバンガローと塀を隔てたすぐ向かいに表通りに面した飲み屋"ビア・シン・ハウス"の連中が真夜中の狂騒を決め込んだりすることもあったりしたが、それすら森閑とした夜の静寂に取り込まれ寂しい響きと化してしまい、木々の葉擦れの音がばかりが一晩中、ザワザワと途切れることはなかった。
 只、川沿いの敷地なんだけど、川を渡ってからの侵入を阻止するためか、鉄条網と高い藪が続き、メーサイ川もその向こうに拡がっているはずのミャンマーの人々の暮らしぶりを望めるって当初の目論見は潰えてしまった。

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 夜七時過ぎると、昼間は屋台がかなり出ていたのが嘘みたいにガラーンとして、商店すらシャッターを降ろし、飲み物屋台だけが僅かに薄暗い灯りの下で寂しく商っているだけ。 橋の袂の"リバーサイド・レストラン"は大体いつも営っていて、頻繁に訪れた。ここは二階もあって、窓から下を流れているメーサイ川越しに対岸のミャンマーの建物や住民たちの日々の生活などが俯瞰できた。川巾は2、30メートルくらいで、" Northern G.H "のちょっと先にある船着き場はもっと川巾が拡がってて、岸辺も低く川面から50センチ位しかなかった。
 カオ・パットとコーラの夕食をとってると、眼下の真っ暗な川に何かの影が見えたのでじっと目を凝らした。上半身裸の男が投げ網をしている最中だった。その川面に、川岸の向こう、ミャンマー寺院の左側に灯っていたネオンが反映して七彩に揺らめき、束の間の感傷に浸っていると、ガヤガヤとタイ人のおばさんたちの団体が入ってきた。ぼくのすぐ後ろのテーブルに坐り、一人肥え太った親爺ガイドが川の方を指差しあれこれ解説し始めた。ふと見ると、ゲートも閉まった真っ暗な橋の上に黒い人影がうごめいていた。
 そこを出て、橋の下をくぐり、宿とは反対の方向の川沿いの通りを辿ってみた。カラフルなネオンが淡く輝き、マッサージやカラオケの店が連なっていた。更に行くと、所謂"置屋"らしき佇まいの店すら並んでいて、厚着した女たちが寒そうに入口に立ち、あるいはしゃがんで客待ちし、前を通るとさっそく声をかけてきた。これも観光と冷やかしながら更に進んで行くと、妙にだだっ広い、新興住宅および小綺麗なゲストハウスの類が点々と建ち並んだ一角に出、今夜の終点とした。

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2013年7月13日 (土)

プノンペンのパッカー御用達 "キャピトル"レストラン ( 2 )

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( オロシー・マーケットがまだ空き地の頃。雨が降ると路地は褐色の川と化し、車が通ると波が起こった。)


 ぼくは飲み食いの大半は《 キャピトル・レストラン 》で済ませ、後は油っぽい料理に飽きてくると少し高めの巷の日本料理屋や大部過ってできた元パッカーが開いた《 京都 》なんかに赴くこともあった。《 京都 》は、所詮大衆食堂の趣きでしかないにもかかわらず、現地人従業員たちが、きちっとした身なりの物腰と対応で、最初笑ってしまった。彼らにしたら、あくまで外国資本(?)の"ジャパニーズ・レストラン"へのきちっとした就職ってところだったのだろうが、次第に店側・客側の内実が分かり始めて、最初覚えていたろう違和感も薄らぎ、ああ貧乏旅行者たちの溜まり場なんだなーと理解できるようになったろう。
 当時有名だった《ミポリンの店》なんか《 キャピ2 》のすぐ階段下にあったんで幾度か入ってみたけど雰囲気が今一で馴染むことはなかった。何年か過って、《 キャピ2 》に小柄なベトナム娘と同居していた日本人パッカーが、その向かい側に店を開いたんで何回か入ってみた。そのベトナム娘も一緒に居て微笑ましいものだった。メニューはもうこの手の店の定番。変わってたのは、何故か、カウンターの上でロッテのチューインガム(クールミント)を売ってたことだ。茹だる暑熱のプノンペン故に、気分転換に、実に健康的な清涼剤として嫌いではなく、行く毎に買っていた。

 最初《 キャピトル・レストラン 》内のカウンターは一つだったのが、やがてツーリズムに本腰を入れ始めたのかツーリズム専用のカウンターも併設された。ぼくはあんまり利用することはなかったけど、若いすらりとした娘がその奥に坐るようになった。
 ある時、エジプト人の一家がテーブルについた。ところが、その内、小太りした鼻髭の親父さんが、その娘を見初めたのか、ぴたり視線を彼女に向けたまま、まじまじと凝視し始めた。端で見ていてもマジかい!って驚くほどのあけすけさ加減。娘の方は、まんざらでもないようにしきりに長い黒髪をなでたりしていた。ひょっとして、真向かいであけすけに凝視され続け、だからといってあくまでお客、邪険にもできず内心の苛立ちを紛らわすための所作だったのかも知れないが、それにしては、そんな否定的な影なんぞ微塵も感じさせず、むしろ艶(しな)をつくっていたってところだった。 
 あれがエジプト的アラブ的な男の女に対する色目の使い方なのかと感心してしまったのには、その同じデーブルに嫁さんも子供たちもちゃんと坐っていたにもかかわらずってことの傍若無人さからだ。それは男尊女卑的な横暴さなのか、それとも、その嫁さんが旦那を信じ切っていてそんな挙に出るなんて青天の霹靂で思い至りもしなかったのか、嫁さんの方がてんでそんなことに興味ない女性だったのか。

 
この《 キャピトル・レストラン 》、外人バックパッカーたちの溜まり場ってこともあって、よく朝からでもケバい化粧の私娼が屯していたりしていた。
 複数でいる時もそうだけど、一人でテーブルについて居る時も、到底一人分とは思えないくらい沢山何品もテーブルの上に注文した飲物や食物が並んでいることが多かった。アイス・コーヒー一杯なんて、"稼ぎの低さ"を証してでもいるかのようで、彼女たちのプライドを損なうものであったのか。ひょっとして、私娼婦ってことで、店から疎んじられると思って、客取りの商売に来ているんじゃなくてあくまで普通の客としてきてるんだ、ちゃんといっぱい注文もしているんだろってアピールなのかも知れない。( その上、彼女たち結構長居する傾向にあるから尚更かも知れない )尤も、元々何処の国でも、風俗関係の娘・女たちって、総じて享楽的だから、そんな一面に過ぎないのかも。
 
 そんな中に、一人年配の小柄で痩せた私娼が居た。
 以前、この《 キャピトル・レストラン 》と同じ通りにあったインド人の営ってたレストランがあって、電力事情のせいもあってエアコンが効いたり効いてなかったりしてたけど、アルコール類も豊富に並んだ、如何にもファラン好みのちょっと暗めの店で、大きなモニターで映画ビデオなんかをよく流していたんで、涼みがてらボクも時々入ったりしていた。嫁さんはカンボジア娘で、その親戚かなんかか定かでない娘たちも数人働いていた。
 そこに昼間っからすっかり出来あがり、いつもくだを巻いていたカップルがいて、その三十代くらいの痩せたファラン男の相手が件の年配私娼だった。来るのは殆ど《 キャピトル・レストラン 》の常連ファランたちで、彼もその仲間の一人だったのだろう。(このインディアン・レストランは暫くして、セントラル・マーケットやシアヌーク通りに移ってしまった。 ホーチミン(サイゴン)で、偶然、そのインド人オーナーと出遭ったことがあった。サイゴンでも、出店を企んでいたようで、華僑と並んで逞しい商魂の印橋だった。 )
 大部過って、ずっと姿を見なかったそのアル中ファラン、ある日、《 キャピトル・レストラン 》のテーブルに、他のファランたちに囲まれるように、真ん中に坐っていた。不似合いな安っぽい背広を着てて、久方ぶりのプノンペンってことでかすっかりご満悦だった。件の年配娼婦はといえば、彼との間に産まれたらしい、時折このレストランにも連れてきていた金髪の小さな男の子と一緒に、少し離れた後ろのテーブルにおとなしく坐っていたのが印象的だった。そのコンプレックスの強い痩せたファラン、再びその相方と肩を並べて、《 キャピトル・レストラン 》以外の何処か薄暗いファラン相手の店の奥で、すっかり出来上がり、朦朧とした眼差しで、彼らにしか見えない酒精の精のゆらゆらと舞う姿でも追うようになったのかどうかぼくは知らない。 

 時代も押してきて、ミレニアムを迎えた頃、《 キャピトル・レストラン 》の前に、他のツーリズム観光ミニバスに紛れるように、一台のバンが停まるようになった。東アジア系やファランの親父たちがいそいそと乗り込み始めたそのバンの窓ガラスに、くっきりと《 suvay pak 》と記してあった。娼館街"七十番"のもっと先にあるベトナム系の多い、いわゆる"スワイパー"と呼ばれるも一つ高級な娼館街だった。ベトナム人居住区と混在した小さな集落で、嘗てまだポルポトの残党があっちこっちに徘徊していた頃、クメール系に襲撃され、娘たちが何人も殺害されたりしたって話しを聴いたことがあった。中には、ベトナム系住民の子供たち相手のキリスト教系の小さな学校( 寺子屋 )もあったのが、やがて、件のバンが出現する頃には、そこの娘たちが、当時カンボジアで流行っていた"英語学校"の差し向けた送迎ミニバスに乗って、クメール系の子供たちと一緒に通い、英語の勉強に勤しみ始めたってご発展振り。(尤も、その後、当局の取り締まり締め付けが厳しくなったって話だが・・・)

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  ( トンレサップ川沿いに並んだ韓国旗と朝鮮旗。カンボジアならでは? )

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2013年7月 6日 (土)

プノンペンのパッカー御用達 "キャピトル"レストラン

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 ( キャピトル・ゲストハウスのバルコニーから見た定番光景。板塀で囲まれたまだ原っぱのオロシー・マーケット建設予定地 )


 《 キャピトル・ゲストハウス 》と同じくらいに有名なのが、表通りに面して併設された《 キャピトル・レストラン 》で、キャピトルの泊まり客以外のパッカーたちや時折一般のカンボジア人も利用していた定番の店。
 大抵店の周囲にモトサイ(バイク・タクシー)の運転手たちが屯し、外人パッカーたちからぼろうと虎視眈々と狙いをつけ待ちかまえている。だから、ぼくは、《 キャピ2 》側の角当たりに停まっているモトサイを使うようにしていた。彼らは別に外人狙いではないので、先ず現地民が腰抜かすような法外な料金を吹っかけたりしてこないからで、そこから空港まで大きなリュック付きで1ドルにも満たないリエル払いで済んだこともある。
 この店に英字日刊紙《カンボジアン・デイリー》を売りに来ていた丸顔の少年が、やがて新聞売りを卒業して、跡を彼にそっくりの妹に任せ、モトサイの運転手になってたけど、さすが《 キャピトル・レストラン 》の傍に屯した運転手たちの群れに混じったりはしてなかったようだ。けど、モトサイやシクロ( 座席が前にあるサイクル・リキシャ )なんてもうそれしかないみたいに街角に溢れていて儲けも知れてて、食べるのがやっとってところだろう。当時は、シクロの運転手たち、夜になると家族と一緒に路上にハンモックなんかを吊って寝てたりする者も少なくなかったんだけど、最近はどうなんだろう。


 そういえば、同じ新聞売りに随分と小さな男の子がいて、それがけっこう可愛い顔立ちしてて、ファラン(白人)はじめ外人女たちに可愛がられチヤホヤされてたのが、何時の間にやら、新聞すら手にしなくなって、ニヤニヤしながら、女たちの関心を買うようになっていた。それが何を意味するのか、ぼくは決定的なことは言えないけど、どうもそっちで稼ごうとするようになっていた可能性が窺えた。
 外人女たちにとっては小遣いぐらいのつもりで遣ったものであっても、彼らにしてみればそこら辺の大人が一日中汗して働いて得るもの以上の額なんだから、新聞売りなんて割に合わない商売よりもそっちの方を自然選んでしまうのが人の性ってものだろうし、合理的でもあるだろう。ところが、十歳くらいになると、店の中の少し前側に佇み、店の中をゆっくり見廻して今度は男たちを物色するようになってしまった。これには些かウンザリさせられてしまった。なまじ視線なんか会ったりするとほくそ笑まれ、傍に寄って来られかねないし、他客(はた)からその手の趣味でもあるように決めつけられかねないからだ。端っこの決まった席に陣取ったこの店の経営者も苦虫をかみつぶした表情でかの少年を睨めつけていて、偶に追い出したりすることもあった。


 今は少しは変わったのか知れないけど、カンボジア当局は、女(娘)と違って、少年の買春行為には可成り厳しい。男尊女卑的な流れなのだろうが、新聞に載ったりするのは、大抵少年をホテルに連れ込んだファラン( これは定番 )が通報され逮捕されたって記事ばかり。それもかなり重罪が科せられる犯罪として。
 隣国タイには山ほど居るらしいニューハーフ的な中・高生の男子、ぼくもマーブンクロンなんかでよくお目にかかったけど、プノンペンでも一度映画館でクラスメートの女子高生の中に混じったその手の男子高生を目撃したことがあって、あながち、庶民の間では必ずしもそんな同性愛的なものに対して一様に厳しいという訳でもないようだ。現在のカンボジアもラオスなんかと同様、文化的にタイの影響を、とりわけ若い世代はテレビ・映画から受けやすいこともあって、早晩、否、もう当時から十年以上過ぎていることもあって、とっくに似たり寄ったりの状況になってるのかも知れない。日本ではどうなのだろう。テレビやなんかでの露出度に反して、意外と陰に隠れたままの陰々鬱々って感じもしなくはないのだが。


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( 出来て間もないオロシー・マーケット。中はまだコンクリ=セメントの匂いが強く、その粉塵が舞っていて息苦しくて長居はできなかった。)

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