屍鬼的猛駆 ワールド・ウォーZ(2013)
封切り土曜日(10日)の初回に観にいった。
昼前の初回上映で、客はマアマアの入りだったけど、子供の姿が全くなくて、あれ? この映画って子供が観れない"レート"なのかと思い、ああやっぱりゾンビー映画でエグイ場面もあるからなのかって勝手に納得して、後でネットで調べてみたら、" G 指定 "、つまり" 制限無し "ってことだった。同じ映画コンプレックス内には親子連れで溢れていたけれど、単にこの" ワールド・ウォーZ "の上映館には入ってなかったというだけ。ぼくが観たのは"2D"と"3D"の内、普通の上映形式の"2D"だったからかも知れないが、三百円も高い方に皆流れるってのも考えられない。他の上映館で"パシフィック・リム"や"ローン・レンジャー"なんかも上映してたので、そっちに流れたのかも知れない。" ワールド・ウォーZ "の客の年齢・性別は種々雑多だった。

やはり大きな劇場の画面で観ると迫力と臨場感が違う。
国内の普通の映画館じゃスクリーンの大きさ知れてるけど、嘗て、その場所は忘れてしまったが、インドのある映画館、どちらかといえば些かの旧さすら感じさせる佇まいで、ともかく、スクリーンを目一杯広く取っていた。上映映画は《 テルマ & イズー 》、アメリカの広い曠野が、本当に迫力もって拡がっていた。国内の映画館ではまず覚えたことのない迫力に、感動すら覚えた。スクリーンの大きさで、こうも違うものなのかってつくづく感心させられ、家のテレビやワイド型のパソコン・モニターじゃ、幾ら高精度画面であっても
その迫力と臨場感は知れている。そこが映画館で観るのと、ビデオで観るのとの決定的な違いだろう。だから、ビデオだけ観て、その映画をあれこれ評したり論じたりするのも限界がある。
この映画も、しかり。
ビデオじゃ面白さ半減。後は、ストーリーとかシナリオとか彩度ってところで、喋々するしかないのだろう。かと言って、南西辺境州辺りじゃ、上映される映画って知れているし、結局レンタルってことになってしまう。
(クリック拡大)
予告編は観たが、殆ど事前情報なしに劇場で観て、やっぱし街中や都市を俯瞰したスペクタクル・シーンは中々のもので、感心させられた。つまり、専らアクション・シーンってことで、それ以外は、皆、何処かで見覚えのある断片ばかりで、もはや《 ゾンビー映画 》の定番ともいうべき標準的要素=記号のオン・パレード。只、それを巧く独自の粉飾を施し、演出していて陳腐感はない。
唯一、終幕のシークエンスが難点。
" 続編 "をこれ見よがしに臭わせているのだろうけど、余りに中途半端。続編に続けたいのなら、それはそれでちゃんとけじめをつけて完結してほしいものだ。昨今の、結末造りの面倒臭さをそれで誤魔化そうとする傾向が、もはやハリウッドの定番と化してしまってるのだろうか。
それにしても、原作じゃオーソドックスな鈍い足取りのゾンビーたちのようだけど、この映画じゃ、疾駆し、集団暴走し、高い塀すら怒涛の如くよじ登ってゆくそのダイナミズムには、もはや人間性を失った" 集団狂気 " =" 狂犬の大軍 "って意味ありげな表象ともども、暗い座席で思わず固唾を呑んでしまった。人によっては狂駆するゾンビーたちに我が身を仮託する者も居るのだろうが、ぼくは専らスピード系の悪夢の如く、押し寄せるゾンビーたちに追われまくるブラッド・ピットの背に自身を投影してしまった。
このゾンビーの大軍が高い塀の上を波状に乗り越えを試行錯誤する場面って、南インド映画の雄"スーパー・スター"ラジーニ・カントの《 ロボット 》(2010年)を想起したのは、ぼくだけじゃあるまい。あの荒唐無稽さ、そしてその執拗さには感心させられてしまったけど、あれをもう少しハリウッド的に洗練したのが、狂えるゾンビーの大軍の、マス・ゲームを一歩も二歩も発展させた狂躁ってところだろう。

ブラッド・ピッド扮する元国連職員の主人公ジェリーが、国連次官に緊急招聘されることになっての活躍だけど、ソダーバーグのパンデミット・ホラー《 コンテイジョン 》でのWHOと似たり寄ったりの設定。ゾンビー映画って、元祖ロメロの《 ゾンビー : ドーン・オブ・ザ・デッド 》(1978年)からして正にそうだったように元々パンデミック( 世界的感染 )映画でもあった。
医学者でもない元・国連職員、それもパージされていたジェリーが、国連指定の青年医学者が原因究明のため韓国に向かうのに同行し、彼をサポートする、かなり重要な任務に強制的につかされてしまう。ゾンビーの群れから逃げ延びた先の海上の空母から彼の家族が陸地に戻されてしまうと脅迫され、しぶしぶに。
が、韓国に航空機で着いた途端、頼みの医学者は頓死。もはや戻る時間的余裕もなく、ジェリーがそのまま任務を続行する。韓国から更にあっちこっち世界を駆け巡り、その過程でゾンビーたちに" 襲われない人間 "の存在に気づき、それが既に致死性つまり" 死に至る病 "に罹っているために、ゾンビーたちに嫌われ襲われずに済んでいるのではないかと推論し、様々な致死性の疾病の病原体をゾンビーと化していない人間たちに注入するという手立てを考える。生き残った医学者たちも賛同し、事の成り行きで、ジェリー自身にその病原体を注入することとなる。で、結果は、つい先っきまで憎悪剥き出しに吠え立てていたゾンビーたちが、するりと彼の脇を通り抜けてゆくばかり。とりあえず、人類は、終末的災厄を免れることができた・・・
「これで終わったわけではない・・・」
と、ジェリーが意味ありげに呟いて後、何が何だか急に曖昧になり、不消化なまま映画は終わる。幾ら続編をほのめかしたいからといって、せっかく面白くできていたものを。肝心の最後がどうも・・・って作品、続編がらみでなくとも決して少なくない。
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