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2013年9月の2件の記事

2013年9月18日 (水)

維新のゆらぎ  門司&企救半島的騒擾

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 ちょっと前の《 幕末海峡外伝 田野浦 》で、長州と欧米の四国連合艦隊との戦、長州藩と小笠原(小倉)藩の戦なんかの舞台にもなった下関の対岸=門司・田野浦に関して記してみたけど、その数年後、明治維新を経た明治二年にその門司・田野浦側で、その余波とも言うべき騒擾的事態が勃発した。
 
 サイトだったか書籍でだったかで書き写したメモがノートの間から出てきて、明治維新の余燼燻り続けているはずの翌二年に、もうこんな事件が起こっていたのかと驚き、同時にかなり断片的で曖昧なその記述に小首を傾げながらも妙に興味を覚えてしまった。


 『 百姓数千人が門司・楠原に押し寄せ、庄司庄屋・四宮正兵衛宅焼き払い、井戸・畑田の役持二戸を打崩し、本村を荒らし、田野浦庄屋・豊田重蔵宅外二戸を打ち破り、
楠原庄屋・城井柳太郎宅を破り、昼九ツ時(正午)大積村中村宅を破り、黒川庄屋八木田宅に火をかけ、小森江に出て庄屋を破壊し大里に引き上げた。 』(明治二年十一月)


 いわゆる百姓一揆であった。
 門司なんて小さな半島でしかない狭隘な場所で、それを縦横に舐め尽くすような百姓農民たちの怒りの劫火の軌跡。この一揆集団の破壊し焼き尽くしていった大まかなルートは、その数年前、対岸の長州軍が門司側の田野浦・大久保に上陸し、目的地である小笠原藩の居城・小倉城を目指して進軍していったのと真逆のルートでもあった。
 地図で確かめてみると、かなり広範囲に及んでいて、道路も整備された現在のルートでも結構しんどく、その怒涛のような強行軍を成り立さしめた一揆衆の怒りの程が推して知れよう。それでも、人的な被害に関しては一言も触れてないので、あくまで物的な破壊ということなのだろうし、一揆農民たちの怒りの炸裂であっても決して人的攻撃はしないというストイシズムの発露でもあったのだろう。

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( 田野浦の町並み )


 この記述には、「百姓数千人」としか記されてなくて、一体彼らがどんな素性の、というより、一体何処の住民=農民たちであったのかが定かでない。
 何処からともなく、関門海峡に面した門司・楠原村に、突如棍棒や鎌なんかで武装しムシロ旗を掲げた数千もの一団が、庄屋宅に襲いかかり焼き払い、門司半島をジクザグに巡って庄屋や関係宅を打ち毀し続け、再び元来たらしい小倉に通じる大里方面に悠然と去っていったってことらしい。
 それ以上に、何故に、彼らは、つまりこの半島の先の門司エリアにわざわざ遠出してきてまで、一揆的行動を起こしたのであろうか?

 その記述には、その一揆行動に、それぞれ地元の農民たちが呼応して参加したとは一言も触れてない。ふつうに考えれば、地元の農民たちは係わっていないってことになる。 でも、それだと打ち毀しを蒙った庄屋とその農民たちとの関係ってそんなに切迫したものではなかった、あるいは農民たちの生活がそれほど逼迫したものでもなかったのじゃないかという推論も成り立ちかねない。いよいよ、その一揆集団の行動が不可解なものとなってしまう。
 それで、ぼくは、当時の一揆って、自分達のエリアの庄屋に対して直接行動はせず、申し渡しでもしているかのように、余り正体を知られていない隣村や遠村に遠征するのが慣わしだったのか、なんて仮説を立ててみたりした。しかし、百姓一揆って、既に過去のものとなっていたとはいえ幕藩体制下では重罪で、正に自分達の家族一族村全体のもう後のない、生きるか死ぬかの決死の直接行動だったはずで、そんな曖昧で詐術的な手口など駆使できるような質のものじゃない。となると、やはり、わざわざ他地域からやって来て狼藉の限りを尽くしたってのは、一体何だったのだろうと、改めて小首を傾げざるをえなくなる。

 《 近代デジタル・ライブラリー 》なるサイトに、《 新聞集成明治編年史 》があって、明治二年頃を確かめてみると、例えば米国大統領リンカーンの暗殺記事《 人道の偉人 リンコルン暗殺さる》や《贋金禁止》とか《日本人は滅多矢鱈に人を斬る》という『中外新聞』の記事や、函館戦争の首魁=榎本武揚と大鳥圭介が死一等を永禁錮に減刑された《榎本大鳥は永禁錮》、《位階官等制定さる》"希望によっては米で月俸支給"なる記事なんか当時のリアル・タイムな時代を反映した事件=記事が満載されていて面白い。
 そんな中で、前述の百姓一揆と連動するような記事が眼についた。

X


 明治二年七月《 奸曲無頼の徒取締 》(太政官日誌)と題した記事に、「近年来、奸曲無頼之徒、所々徘徊し・・・」と記され、とりわけ上州(高崎)で起こった百姓一揆などを指弾し、その取り締まりを求める布告書の類があって、外にも《国内大不作》(八月)の詔勅、《信州上田騒擾》"君公出馬鎮撫し得ず"なる百姓一揆の記事、《米穀管理》、《上州農民騒擾》(十月)、《勢州にも農民蜂起》、そしてそれと関連して前後するが米事情悪化で海外への米輸出禁止という《越後米の積出禁止》(6月)、更に翌三年一月の記事《サイゴン米輸入》"内地米凶作の為"として「日本に於いて、米の欠乏は甚だしきあり、今年の悪しき天気によりし事なり、しかしながら、政府にては、サイゴンより大分に米を取りよせ、すべて貧民の給助のため、十分に此土に充てられし」等々。

 つまり、当時は幕末・維新の激動の時代で、うち続く内乱と天候不順、それぞれの藩権力から様々な苦役・徴収(貢米)、商人・藩権力等の米買い占めによる米価高騰等で完全に日常性が破綻してしまっていたようだ。( 維新後も状況はそう大して変わっていなかったのだろう )
 それにしても、明治元年から既に、ベトナムやタイあたりから米を輸入していたとは驚いた。現在のように加工素材としてじゃなくて、あくまで米不足故の飯米としての輸入で、明治三年には元年の四十倍近くの輸入量に達していた。それだけ社会不安・騒擾が澎湃として列島中をゆるがせ様々な軋轢・争闘が瀰漫していたってことだろう。


 それで当時の日本の騒擾的な一般的状況ってものは了解できた。
 特別に、九州の一番北端の小さな僻地=門司でだけ勃発した異常事態って訳ではないのは分かったものの、他地域から降って湧いたように襲ってきた一揆集団ってものの正体が依然として詳(つまび)らかではない。

 先のメモ、その出自を記しておくのを忘れていたため、資料はないかと図書館に赴き、書棚を漁っていると《 義民・九右衛門と企救郡百姓一揆  著・田郷利雄 JF 》なる薄っぺらい小冊子が眼に入った。
 企救郡というのは、門司と小倉がすっぽり入ったエリアで、小笠原藩の領地でもあったが、長州と譜代・小笠原藩(実際は、幕府連合軍)が戦った長倉戦争で、居城たる小倉城に自ら火を放って香春に敗走した小笠原藩の後を受け、長州藩がこの企救郡を維新後も支配していたようだ。


 「このようにして、企救郡の農民たちの間に、年貢と諸雑税が長州藩小倉出張所の役人と新旧の庄屋の結託で私物化しているのではないか、という疑惑の念が蔓延していきました。その風潮の中で、不審疑惑を問い糺(ただ)そうとして、庄屋・小兵衛宅へ姿を現したのが、新道寺村で組頭を務める九右衛門でした。」
 
 
 更に、古老・内山円治の綴った《 小倉藩政時状記 》に、次のくだりがある。


 「山口藩、小倉町に政庁を開庁して政務につくや、上下一般、賄賂盛んにおこなわれ、万事万端金次第・・・・と化せり。即ち、庄屋役を任命する場合には、大村は金二十両、中村は十五両、小村は十両、・・・・以下、これにならう。かくして風紀自然と乱れ、民心おだやかならず。」


 うち続く凶作などもあって年貢に汲々としている農民たちにとって、もはや庄屋や役人たちって猜疑と怨嗟の的なっていたようで、そこに、企救郡の民心安定をはかるためと称して長州藩が出した『年貢量は半分とし、残り半分は、しばらく徴収を見合わせる』(八月)という姑息策が、却って更なる揣摩憶測・邪推暗鬼を産み、いよいよのっぴきならざる騒然たる状況を作り出してしまったようだ。
 新道寺村とは、地図で見ると小倉の奥深い農村のようで、そこの組頭の九右衛門が、村人に請われ、長州藩出先役人に訴え出て、同村の庄屋宅で役人二人同席の上、庄屋・山本小兵衛と対峙した。
 「大日堂修理費として追加米を消費したと取立帳に記載されている、その米の行方について」「当年に限らず、近来、大日堂を葺替へたる事無し」と、その矛盾をつき、庄屋に納得できる返答を求めたものの、杳として庄屋、筋の通った返答できず、深夜に及んだ。その間、近郷の村々からも次々と農民たちが集まり、その余りの埒のあかぬ"談判"にとうとう堪忍袋の緒を切らし、数百が庄屋宅になだれ込むと、役人と庄屋は脱兎の如く闇夜に遁走してしまった。

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( 田野浦の町並み )

 
 十一月十八日の早朝、新道寺村にある天疫神社に近郷の村々から集まってきた農民たちは、九右衛門も加わって、鎌や棍棒で武装し、一揆のムシロ旗を高く掲げることとなった。小倉の村々を得巡って打ち毀し焼き打ちし、あっちこっちから参集した農民たちも合流して、数百から数千、真夜中に企救半島の付け値たりの横代に至った時には一万以上もの大一揆集団と化していたという。
 その後、数年前長州軍と小笠原・幕軍が激しい戦闘を繰り広げた海岸近くの富野で、城下町中心部を大きく迂回するように西漸する本隊とは別に、数千が東方に大里方面を経て門司側に向かった。その一団が、件の百姓一揆集団であったのだ。
 やがて門司側に向かった一団と本隊が再び合流した城野という処で、赤坂村に駐屯していた谷干城(たにたてき)が、彼の二個小隊を率いて、九右衛門らと談合することになった。そこで、


 「谷は、次のことを約束して、一揆勢の気持ちを鎮めました。
   
  ☆ 一揆衆の中から犠牲者を出さぬよう、一揆の責任を不問にすべく、山口藩庁に働きかける。
  ☆ 一揆衆が言いたいこと・訴えたいことがあれば文書に差し出すように。それを藩庁に必ず届けて、不満が残らないように私が努力する。」

 
 その後、一揆集団は解散しそれぞれ自分たちの村に戻ったらしいけど、翌二十日、九右衛門等一揆代表者六名に長州藩小倉本陣への出頭命令が出て、農民代表として九右衛門が役人・庄屋の不義・詐取の疑惑を列挙し、きちんと取り調べるようにという訴状を認めた。
 結局、六人は逮捕され、投獄されてしまう。
 庄屋も何人かが逮捕されたらしいが、大した罪にもならず申し訳程度に茶を濁した始末。翌三年一揆代表者たちの刑が確定した。一人は獄中で既に病死していて、

 徒刑三年二人。
 徒刑十年二人。
 主犯格の原口九右衛門は絞首刑。

 谷の確約したものと随分と開きのある結末で、維新政府=長州の《四民平等》を掲げた新時代的感覚ってものが如何なるものだったか証して余りあった。この一揆の後、長州藩は企救郡から撤退した。
 これは穿った見方をすれば、侵略支配って形の長州支配に対しての叛旗と考えられないこともなく、そうなると、長州に占拠された企救郡以外の小笠原藩所領では一揆は起こってないという事実から、香春に遁走した旧小笠原藩が影で糸を引いた一種の攪乱工作って陰謀論まで行き着くことになる。

 因みに、この谷干城なる人物、てっきり長州の軍官かと思っていたら、ブログ見ると、元・土佐藩士で、坂本龍馬にいたく傾倒していて、京都・近江屋で龍馬と中岡慎太郎が殺害されたとき、まっ先に駆けつけたという。新撰組の局長・近藤勇が捕らわれた際、薩摩藩と真っ向対立してまで近藤を拷問にかけても真相を聞き質そうとし、あげく斬首・獄門に追いやったほどらしい。

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    ( 維新の肖像 明治初期 )


 尚、この小冊子に、門司・和布刈(めかり)神社の宮司が記した《高瀬日記》が引用されていて、その明治二年十一月の条に、
 「朝五つ時(八時)頃、百姓蜂起して、数千人、門司楠原に押寄せ・・・」
 等とあって、冒頭の門司の百姓一揆の記述と殆ど同じ。これが出典だったという訳だ。
それにしても、肝心の門司の所々村々を席巻した百姓一揆に、地元の門司の農民たちが呼応して参加したのかどうか、地元の宮司が記した日記にも記述されてないようで、不明なまま。小倉エリアの農民たちが、一万数千人も参加した行動であるのなら、普通、門司側の農民も加わっていて当然。
 その謎にかかわるものが、笹田太郎・著の《田野浦の歴史》の中の、慶應三年(明治維新の前年)の門司・大里エリアの庄屋たち八名の連名で提出された嘆願書にあった。

 小笠原(幕府連合軍)・長州の長倉戦争で、田野浦はじめ、長州軍が小倉城まで進軍していって双方が激戦を繰り返した関門海峡海岸沿いの村々や町が甚大な被害を受け、その復興に関する嘆願であった。上陸地の田野浦が壊滅的であったらしく、楠原も218軒も焼失してしまったらしい。
 長州藩支配に媚びて私的利潤追求に走ったのは専ら、甚大な被害を受けていない小倉エリアの庄屋たちであろうし、漸く再建の途についたばかりの門司エリアで果たして一揆のムシロ旗をかかげる余力と論理が成り立つであろうか・・・。
 ともあれ、それを証す決定的な一言が見つからない以上、保留せざるを得ない。

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2013年9月 8日 (日)

殆ど廃港"門司港・国際フェリー岸壁"の向こうに、外国貨物船

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 ( 停泊中の白亜の巨船 飛鳥 Ⅱ号 クリック拡大)


 今だに門司港に行ってみると、【 国際港 】という大きな表示板がこれみよがしに掛けられていて、仰々しいフェンスとその思い入れの程を絵に描いたようなプレハブ・カスタム( これって、何時でも解体できる、つまりそもそもが最初からちゃんと、少なくとも対岸の下関の国際港並に常態化しようなんておくびにも思ってなかったってことなのだろうか、と常にここに来る毎に勘ぐってしまう )の奥の全く人の気配のない岸壁が、正に自民党半世紀支配の賜物=慢性不況の不滅の金字塔の如く白々と横たわっているばかり。

 フェンスの手前の一般岸壁には、外航大型クルーズ客船《 飛鳥 Ⅱ 》やなんかが稀に停泊し、偶然見る機会があって、それが元々のやり方なのかも知れないけど、ブラス・バンドなんかも参加したセレモニーなんかをやっていて驚いてしまった。
 確かに、韓国フェリーよりも二回りくらいでかい、五万トン級の白亜の巨船は、見上げねばならないくらいの海上のマンションって赴きで、決して優雅なシルエットではない。昨今の一億総ベンチャー時代宜しくの利益追求型の典型で、嘗て鑑真号に乗って初めて上海に赴く途中、黄濁した揚子江を下る中国の鑑真号よりはるかに小さな客船とすれ違ったことがあった。小さな割には三層か四層もあって、そのデッキいっぱいに鈴なりになった乗客の凄さに、これぞ八億人民中国といわんばかりで感心してしまった覚えがあって、ふとその時の、見栄えも余裕もへったくれもない、ともかく詰め込み式の即物性と異質同臭を思い出してしまった。。

Photo

 先日、そこへ赴いた際、【 国際港 】の向こう側の民間企業の岸壁があって、その奥まったところに、かなり大きな黒塗りの船影が望め、何だろうと思って32℃の白日に晒されながらテクテク歩いてゆくと、貨物船であった。それが只の国産貨物船だったら、そのまま引き返したであろうが、船尾に見覚えのあるタイ文字が記されていた。
 
《 KIRANA NAREE 》
 
 英字ではそう記されていて、余りに大きな貨物船なので何を運んできたのだろうと思ってふと陸側に振り向くと、巨大なサイロが連なっていた。比較的最近できた建物で、《 門司港サイロ 》と記され、地場の企業と兼松や協同飼料が合資して造った一万六千トンのトウモロコシ他の飼料サイロという。元々門司港はタイ最大の国際貿易港レムチャバン港と友好姉妹都市宣言をしていて、一昨年、それまでの香港経由ではなく、" タイへのダイレクト混載サービス "をも始めていたらしく、その一環としての《 KIRANA NAREE 》号の寄港なのだろう。" Marine Traffic.com "で調べると、三万七千トンの" バルク・キャリアー"つまり" ばら積み混載貨物船 "とある。ばら積みとは、梱包などされてない剥き出しの原料なんかを指すらしい。だからか、サイロ側から巨大なクレーンで掴(つか)みあげていた。これは結構大変な作業らしく、一日二日では終われない長期の接岸が必要のようだ。

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  ( 旧大連航路上屋二階での旧大連写真展 )

 一週間ぐらい過って、" Marine Traffic.com "で、現在地のチェックをしてみたら、もう岸壁を離れ、玄界灘の途中でプツリと航跡が途絶えていた。以降の通信をしてないのか、カバー・エリアを過ぎてしまったからなのか、事情に疎いので詳びらかではないが、タイに戻ったのだろう。

 この" Marine Traffic.com "は、国際的な船舶関係のサイトで、船名が分かれば大体チェックできる。現在あるいは最近の位置・航跡も大まかに知ることが出来る。勿論その精度の程は定かではないが、一般の者には、遊び程度に、気に入った船を岸壁で見つけたりしたら、そのサイトでチェックすればその位置が分かるし、ああ今はあそこを航行しているのかとか、あの港に停泊しているのかとか確認でき、あれこれと想像力を掻き立てることもできる。更に、グーグル・マップで、その場所がどんな場所なのかも、写真が登録されていれば景観も知ることができる。尤も、ぼくはそこまで好事家ではないが。

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  ( 現在の門司港駅  完全に補修作業用足場構築物に蔽われてしまった。)

 以前、このブログの《 〔門司港=釜山フェリー〕リバイバル 》という記事で、同じ場所に接岸していたプノンペンの表示のあったカンボジア船籍の《 RICH QUEEN》号( 1500トン )にちょっと触れたことがあった。偶々岸壁で見つけたに過ぎないのだけど、破損していて、その修繕中だった。カンボジア船にしては、乗組員の殆どが中国系( カンボジアにも中国系はいっぱいいるけど、明らかに彼らとは異なる中国そのものの風貌であった。 )だったので、カンボジアンにこんなところで会えるのか一縷の期待を抱いたため、ちょっと驚いてしまった。船籍と乗組員の国籍が違うのはよくあること。で、ついでに、久し振りに思い出したので、チェックしてみると、果たして、マップに日本語表記の地名がずらり並んでいて、何処だろうと拡大してみたら、大阪と兵庫の先辺りを行ったり来たりしているようだった。小さな一般貨物でなの、小回りの利く仕事をこなしているのだろう。

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 (Rich Qeen号 先週は大阪港あたりを行ったり来たりしていたようだが、8日現在、東シナ海・寧波の沖辺りを北上中。日本にやって来るのだろう。)


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