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2013年11月の3件の記事

2013年11月23日 (土)

維新的凋落の町 下関

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 ( 六連島行きの連絡船桟橋  クリック拡大)

 対岸の門司港と違って、江戸時代に北前船の寄港地・拠点として一世を風靡した商業都市・下関、今じゃ、門司港ともどもすっかり凋落の一途を辿っているようだ。維新(革命)のはずが保守の権化のような自民党半世紀支配を象徴するような岸信介・佐藤栄作・安部晋三という亡国的魑魅魍魎の拠点的地盤の故でもあるかのように、宿業・宿縁の劫火に焼かれ、今だまともな態すら呈し得ていない仄暗いJR下関駅舎が全てを語って余りある・・・寒々とした駅西口に佇んでみるとついそんな沈鬱な思念に囚われてしまった。
 これが山口県最大の人口三十万の都市なのか、と駅の周囲を一巡りしてみて、たった一軒の合同商業コンプレックス以外はパチンコ屋ばかりが目立ち、往年はもっと繁華だったのだろうが、これといった商店街すら見られない場末った佇まいの不可解さに思わず小首を傾げてしまう。確か、戦後も捕鯨や水産加工業で一時代を築き、球団すら持っていたはずが、この繁華なき中心地のくすんだ佇まい。地元の住民たちって、さほど大きいとも思えぬたった一つのこの商業コンプレックスで総て事足りるのだろうか。まさか、スーパーとコンビニがその間の穴埋めを一手に引き受けているんじゃあるまい。

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    ( 伊崎町の入口 )


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    ( 伊崎町の民家 )   


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        ( 関門海峡から響灘に抜ける水路「小瀬戸」 六連島に向う連絡船 )

  西口から漁港沿いに進んでゆくと、かつての漁師町《 伊崎町 》が下関本土と彦島との間の水路・小瀬戸に沿って、迫った丘陵と岸壁との間の狭い平地にへばりつくように一本の細路の両側に連なっている。ちょうど対岸・門司の漁師町・田野浦と同様、かつての面影を残して雰囲気のある小さな漁師町だ。さすがに小綺麗に改修が施されてはいるものの、元の原型が透かし見える家も少なくなく、昼尚静寂に包まれひっそりと佇んでいる。かつての商店の名残を留めた土間のある硝子戸の建物も風情を誘う。

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         ( 新地西 横丁から路地へ )


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    ( レトロなタバコ屋の風情。ショーウィンドーも今風のデコレーション )


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( この佇いはかつての医院? それともビリヤード場? ひょっとして娼館? )


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    ( 典型的な仕舞屋風の長屋 )


 それが背後の丘陵の向こうに縦横に拡がった細路(ろじ)街に更に一歩踏み入れると、かつての猖獗を極めた昭和の雰囲気がそこかしこ色褪せ朽ちた町並みの窓や庇、板壁や屋根から滲み出し、さながら異空間に迷い込んだような蠱惑を覚えてしまう。この上新地、新地西町の結構広い一角は、第二次世界大戦で、対岸の門司と合わせた軍事拠点として、関門海峡に全国の港湾に落とされた機雷の半分近くを投下されたりの米軍の猛爆にあい、戦災ですっかり焼け野が原になってしまった老舗遊郭街=稲荷町・裏町に取って代わるように当地の一大歓楽街として一世を風靡した由。カメラなんぞを片手にしてしまうと、シャッターを切る指を押し留めるのが難しい。対岸の門司港には求むべくもない空間的拡がりがあって、歴史の痕跡の濃度も異なる。路地裏風の映画の撮影場所にはうってつけ。

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 一昔前この下関の町を舞台にした唐十郎の映画《 任侠外伝・玄界灘 》じゃ、この界隈は使われてなかった記憶があるがどうだったろう。釜山( 韓国 )=下関( 日本 )を密航往復し釜山で女( 李礼仙 )を犯して身籠もらせたヤクザ( 安藤昇 )とその女そしてその女の分身としての娘の神話的因縁譚を、状況劇場風とまではいかなかったもののドロドロ世界に仕上げたもので、当時流行っていた東映の実録ヤクザ映画風味とそれ以前の高倉健主演の任侠映画の美学を唐十郎的土着的情念の混淆したような世界はそれなりに面白くはあった。又、松田優作が鬱々悶々とした少年時代を送った地でもあった。朝鮮通信使時代にはむしろ誉れ高かったはずが、維新以降は何ともさもしい暴虐・惨澹たる扱いに変転していった維新=ニッポン近代史ではある。


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           ( 新地西 クリック拡大)


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             ( 新地西 クリック拡大)

 『 遊郭地は此処彼処に散在して、至る処歌妓娼妓の姿を認むれば、或は馬関全市街を挙げて一大遊郭なり 』                              
                         《 下関案内記 》明治33年


 『 人口五万二十余町より六花街を取り除けば市街の大部分を失う如く 』
                   
                         《 硯海集 》明治39年


 『 下関の社会的実力の一部勢力たるを生ぜり、即ち下関の半面は統計の意味に於て、遊郭が説明し尽くす処なり 』
 
                         《 硯海集 》明治39年


 『 長州下関は赤間関なり。古代よりの湊(みなと)ながら遊郭を定め来る事、豊臣太閤に訴て是をひらけり 』
                    
                         《 色道大観 》延宝6年(1678年)


『 文治元年(1185年)平氏が壇之浦で滅亡した折、建礼門院の官女が芦商の家に寄食し生活のために遊女となり、さらに芦商が屋号苫屋と称し、後に鞆屋と称して稲荷町に遊郭を開いたという伝承 』

                          《 赤間宮由緒書 》


『 下関の中世における都市の性格も遊里形成の一要因であった。下関は城下町が持っていた権力の規制からは埒外にあり、流通経済の繁栄を背景にした自由都市的性格を有していた。各地の商人が海陸の要路としていてこの地に集まり、さらに職人達もこの地に終結した。 』
                   
                          《 下関市史 》

    (注)  馬関=赤間関=下関

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  ( 駅前から伸びる幹道191号線に面した如何にも風格のある建物。新地西 クリック拡大 )


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2013年11月16日 (土)

ゆらめきのオリオン座

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 最近、夜明け前に夜空を見る機会があって、こんな時間帯だと星々も意外とくっきりと視て取れ、南の夜空に真ん中のくびれた和楽器の鼓(つづみ)あるいは砂時計型のオリオン座がすぐに眼についた。本当のところ、北斗七星とオリオン座しか知らないだけなのだが、真ん中のくびれた部分に三つ並んだ連星が特徴で見つけ易く、鼓の下側右端のリゲル、上側の左端のベテルギウスが明るく、とりわけベテルギウスは赤々と大きく輝いている。真ん中の少し斜めになってくびれた部分の三連星の下がった先をちょっと辿ってゆくと、青々と妖しく輝く隣の星座=大犬座のシリウスが眼に入る。

 そんな慣れ親しんだオリオン座だけど、その一番のネックたるベテルギウスが、ある日突如太陽なみに燦然と光り輝きやがて漆黒の闇となってしまって、オリオン座の基本である鼓型が崩れてしまう可能性が高くなってきたらしい。
 そもそもベテルギウスは質量が太陽の約20倍もある赤色超巨星ということで、その種の恒星の常として、星としての寿命がつきると、超新星爆発を起こすようだ。それを示唆する顕著な変化=収縮がずっと観測され続けての推論らしい。ひょっとすると既に超新星爆発しているかも知れず、何しろ地球との距離が642光年なので、超新星爆発しても我々がそれを視認できるのは642年後ということで、視えた時がその現象を確認とれた時という訳だ。つまり、今夜視るオリオン座で一番明るく輝いてベテルギウスは、共時的には、既に超新星爆発を起こしてしまって( 地球から視ると )闇と化している可能性もあるってことで、見えているモノが、実は見えているモノとは別様の、あるいはもはや存在してないモノってことで、『認識論』的には面白い。
 因みに超新星爆発の後、半径10キロメートル(質量は太陽と同じくらい)の中性子星になりそうで、ブラック・ホールにはならいようだ。


 旅先での夜空といえば、やはりヒマラヤ山脈の西端、パキスタンの高地、フンザやチトラールに尽きる。ともに冬だったこともあって、正に満天の星って奴だった。特にチトラール=カラシュ渓谷では雪が積もり、そこから見上げる夜空は格別のものがあった。満天の星々が燦然と輝いている中じゃ、星座を捜すのは結構面倒なことだったに違いないが、その頃は、情けないことにまだ北斗七星ぐらいしか知らなかった。只、流れ星だけは頻繁に視れた。稀に定速で飛ぶ人工衛星も。地元じゃ、視えてる星の数年々減ってゆき、今じゃオリオン座なんてもうそれしか輝いてないかの如く、他に紛れようもなく、実に簡単に見て取れてしまう。

 そういえば、マレーシアや南インドで出遭った日本人旅行者たちって、決まって《 南十字星 》を口にし、夜空に瞬く星々の一角を指差して、あれがそれだと教えてくれるのだったが、只指差す星が皆違っていて、ある時複数の旅行者が互いに指差したはいいが、別々の異なる星を指し示して、暫し互いに問答が続いたのだけど決着はつかず。結局、一体どれが本当の南十字星なのか今ださっぱり。

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2013年11月 1日 (金)

門司港の一番長く熱い夜  大正7年「 米騒動 」

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       (大正当時の門司港 クリック拡大)


  【 門司市の掠奪  朝鮮労働者群衆に混ず 】

 十六日、白昼の騒擾は意外に激しく各所に掠奪行われ、東中町久野米穀店の如きは貯蔵米千数百俵を掠奪され又は一俵四五円にて持ち去られ二万円位の損害となりたり。剰(あまつ)さえ金庫を破られ庫中の重要書類を奪われたり。又東神倉庫の持ち去られし米二百俵内外なりと日の出町の中島商店は米其他一切を奪われ、明治屋支店はビール一本五銭ブランデー一本十銭位にて強買されたり。掠奪者中甚だしきは馬車を引き来り二十俵位の米を積み悠々引去りしもあり。又之に朝鮮労働者多数混じ居れり。興業物遊廓等は勿論市中一般業を休み、戸を鎖し不安の中に夜を徹したり。軍隊並に警察側は依然警戒し、十七日夜は市内各戸早くより戸を閉ぢて警戒せるも何等騒擾なかりき。( 門司特電 )

                                              東京朝日新聞 1918.8.19 ( 大正7 )


 嘗て日本中を震撼させた、いわゆる大正七年の《 米騒動 》だ。
 あんな有名な騒擾事件=社会運動が、中央から遥か遠い地方の、それも、多分に閉鎖的な門司港のような小さな町でも起こっていたってことに些かの驚きを覚えた。しかしながら、大正7年頃といえば、明治政府肝いりの国策としての八幡製鉄=門司港もいよいよ脂が乗ってきていた発展途上で、日本全国( 朝鮮半島からすら )から大勢の少しでも利の好い仕事にありつこうと、あるいは一攫千金を夢見て労働者やら商店主・事業家らが集まって来ていた頃。ゴールド・ラッシュ然としたその辺の感じは林芙美子が幼少時代を過ごした石炭の町=筑豊の回想に見ることができるし、藤原新也の旅館を営んでいた父親の回想にも見て取れる。
 只、大正という、幕末・維新の匂りの残る明治と、閉鎖的な軍国主義一色に傾いていった昭和との間で、大正デモクラシー=大正ロマンという些か曖昧なキャッチ・フレーズばかりが先行していよいよつかみ辛い時代ではあるけれど、第一次世界大戦も終結していたにもかかわらず、何故に一大騒乱たる米騒動が富山に端を発し列島中に燎原の火のごとく燃え拡がっていったのか、そして九州の北端の小さな港町・門司なんぞですら勃発するに至ったであろうか。

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   ( 大阪か何処かの米騒動写真 )

 
 勿論、門司(港)といえども、他の地方とそう極端に変わるはずもなく、独自的に異世界を形作っていたわけもないので、国内動向の一環としての米騒動に過ぎないのは言を待たない。で、次のような記述があった。


 『大正六年三月、ロシア革命が勃発して、帝政ロシアは崩壊し、同十月にはソビエト政権が樹立された。ウラジオストックからの定期便は途絶え、帝政最後の白系ロシア人の軍人と家族を満載したモギロフ号が、年の瀬も迫った十二月の末に、門司港へと入港してきた。彼らは革命に追われて逃亡してきたので、帝政ロシアの旧紙幣しかもっていなかった。飲料水と食料を買い入れただけで、焚料炭の積み込みもできない状態だった。約一ヶ月間沖どまりしていたが、宝石類を処分して金に換え、翌年一月、どこへともなく出航していった。』
   
                                 《 海峡の女たち  関門港沖仲仕の社会史》 林えいだい(葦書房)


 ロシアにおける社会主義革命、つまりロシア革命の成功の裏話の一つとしての革命派に敗残した白系ロシア的末路って奴で、金子光晴の著書にも記されている上海なんかに大挙してやってきた顛末なんかでも有名。そして、それは又、資本主義国、とりわけ列強が自国内でそれに同調・呼応して社会主義革命が席巻することを恐れ、共謀して、革命ロシアを亡きものにしようと干渉( 戦争 )を策謀するに至らしめた。いわゆる《 シベリア出兵 》って奴だ。
 他国の内政に対する手前勝手な侵略戦争だけど、しかし、後日有名になった、日・米をはじめ欧米列強が、帝政ロシアに揺さぶりをかけるため、革命勢力、とりわけレーニン率いるボルシェヴィキたちにした資金援助。レーニンたちは、あくまで、革命達成のための資金獲得として、その前提でのみ受け取ったに過ぎないのだろうし、それ以外に列強に何か特別な見返りを約した訳でもなかろう。帝政ロシアを内部崩壊させることに成功はしたが、今度はその当の革命が自国に波及するのを恐れ、その革命自体の圧殺を企み、あれこれ口実を設けて侵略戦争をしかけるって、もう正義もモラルもあったもんじやない。徹頭徹尾の我利我利亡者的悪辣以外の何ものでもない。
 この手口って、ベトナム戦争で米国なんかがフランスの植民地支配を揺るがすために駆使したのでも有名で、米国の最下等国家ぶりを自ら証してしまった典型だけど、イラク・アフガンはいうまでもなく、昨今の中東はじめ民主化蜂起でも彼らの姿が見え隠れして胡散臭い限り。彼らと結んだ革命・民主勢力が必ずしも純粋な者たちばかりとは限らず、むしろ傀儡や工作員の類であることも少なくない。ポーランド民主化の際の連帯=ワレサたちの近辺には、勿論ワレサをその筆頭として、CIAの工作員・協力者たちの数って膨大な数に及んでいたって話しもあるぐらい。今じゃポーランドって、すっかり米国の衛星国ってところらしい論理的帰結。
 


 『 ロシアに於ける社会主義革命の成功は、他の資本主義国に大きな影響を与え、イギリスとフランスを中心に干渉への動きが始まった。大正七年六月、イギリスから正式に日米両国にシベリア出兵の要請があった。八月二日、日本は出兵を宣告し、ウラジオストックに米・英と共同出兵を行なうとともに、単独で北満州からザバイカル方面へ大軍を送り、その兵士は七万三千人に達した。』         


 これって、昨今のシリア情勢における欧米先進国や米国の最追随国=日本と殆ど相似。
つまり、あれだけの多大な犠牲を払った第二次世界大戦に対して、一片だに反省の念もなかったってことだ。おまけに、日本は他の国に較べて、他が一万人以下の派兵なのに、七万という膨大な人数を派兵し、ウラジオストックまでという協定をも破って遙か遠くバイカル湖近辺まで進軍し、とっくに他の国々が引き上げた後も、ウジウジと既得権の如く占領地に居座りしがみつき続けた。絵に描いたような、欧米列強の対革命ロシア干渉に便乗した、派兵軍の統治を既成事実化し植民地化を企図した侵略戦争という訳で、当然、他国からもその見え見えの日本の領土的野心を非難されたりもしたという。
 
 
 『 第一世界大戦中のインフレ政策と日本資本主義の急速な発展は物価を騰貴させ、人々の生活を圧迫した。軍用備蓄米をめぐる投機が米価を一層刺激し、特に米価の騰貴はいちじるしく、昨日の一升十五銭が、今日は三十銭に、さらに八月に入って市内の小売値は五十銭にはね上がった。
 内地米の輸出増と外地米の輸入制限で、急激に国内の在庫が少なくなり、これが大地主や米商人の投機と結びついた。民衆の間に生活不安が高まってきた。』   

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 この辺は、明治二年の小倉藩=企救郡の農民たちの、役人(長州)や庄屋たちによる年貢米がらみの不正に対する猜疑と怒りに端を発した" 百姓一揆 "とも状況が似ている。
 そして、七月頃、富山あたりからから始まったといわれる米騒動、最初は嘆願の類だったのが、一向に埒のあかぬ状況に業を煮やすようにエスカレートし、実力行使にまで発展して、瞬く間に全国に連動・波及したようだ。


 『 門司港の沖仲仕たちは、米価がうなぎのぼりに上がるというのに、何故米を移出しなければならないのかと、荷役をしながら強い疑問を持つようになった。米を移出すれば、それだけ米の保有量が少なくなり、それが直接米価に影響することを肌で感じとったわけだ。 』                               

 
 米騒動の震源地といわれている富山でも、米の移出に対する抗議がネックになっていた。


 『 八月十一日付けの《 門司新報 》は、次のように伝えている。

 【 時局以来、諸物価高騰の為め、門司市内に於ける職工の労働賃金は、非常の勢ひを以て増率し、その停止する処を知らざる有様なり。元来、労働者賃金の標準は米価なるに、昨今の白米小売相場は一升四十七銭の高値なるを以て、如何にも安く米二升代の要求を為すが例なり、従って九十銭以下の日給に応ずる者は壮者にあらずして、少年か老人かの弱者のみなり 】

 この頃の労働者の日給は、平均九十二銭。門司港の沖仲仕たちは、石炭商組合に対して賃上げを要求しようとした。』                                 


 『 悪質な米屋は、米の値上がりを待って一儲けしようと、市民に米を売ることを控えた。米問屋の久野商会や中島米店では、五、六千俵も倉庫にありながら、一升一円に値上がりするのを待っているという噂が流れた。
 日雇仲仕たちは、一升五十銭になると、完全にネをあげてしまった。中でも朝鮮人の沖仲仕は日雇いが多く、日本人の沖仲仕の八割の賃金であるため、その影響をもろに受けた。
 八月十四日、アサノセメント門司工場では、朝鮮人臨時工が中心になってストライキに突入、賃上げを会社側に要求した。
 【アサノセメントがストライキに入ったぞ!】
 その噂が、たちまち門司全体に広がった。
 門司署長の淀川良之助は、緊急に市内の米穀商を集め、事情を説明して米の値下げを要請した。米屋は一升三十五銭で売り出したが、たちまち売り切れてしまった。』

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   ( 当時に近い門司港市街図  クリック拡大 )


 『翌十五日、前日の様子から察して、市内の米屋が協定して一升二十五銭で売り出した。
 米はあっという間に売り切れてしまった。
 昼の間に売り出されては、沖に働きに出ている者は買いに行けるはずがない。
 米大安売りの貼紙を見た沖仲仕の女房たちが、
 【今まで五十銭で売りながら、二十五銭とは半値以下ではないか。いくらでも安くなるということじゃないか】といって、怒り出した。』


 『 夕方、稲荷座での芝居見物から帰る市民が、米屋の前の貼紙を見て騒ぎ出し、突然、中島米店の前に集まり集団で抗議を始めた。
 一方、沖仲仕は、石炭商組合と小頭( 注・元請けの荷役請負業者の下請け責任者)との間で三割賃上げの交渉が不調に終わって、外浜の倉庫前で報告集会を開いていた。小頭の代表から報告をきいた沖仲仕たちは、ストライキをする以外にはないではないかと言って、小頭の弱腰を追及した。その場は、再度石炭商組合と交渉することで解散した。
 中島米店の前で騒いでいる市民を見て、沖仲仕たちがそれに合流した。いつの間にか数千人の群衆が集まって、中島米店へ向かって投石を始めた。
 老松公園にあった憲兵屯所から憲兵が五、六人と、門司署の巡査が四、五十人駆けつけたが、群衆の勢いに手がつけられず、遠巻きにして眺めるだけだった。憲兵と巡査の姿を見た群衆は一層怒り狂った。
 沖仲仕たちは、所属する組の提灯や旗を持ち出してきて、先頭に立って中島米店の扉を叩きこわし始めた。頑丈につくられた扉はなかなか破れず、彼らは納屋からハンマーやツルハシを持ち出して倉庫を打ち破り、中の米俵を片っ端から前の道路に放り投げた。
 【 ワアーッ 】、【 ワアーッ 】そのどよめきが町中に伝わった。暴動を知った市民たちがどっと押し寄せ、米俵を担いで家に持って帰った。
 火見櫓の半鐘が乱打されて、門司市内はただならぬ戦場のような騒ぎになった。その時集まった群衆は二万人といわれる。』


 『 群衆は中島米店に侵入して、家財道具を叩き壊し、着物や布団まで持って逃げた。
 続いて、米の卸問屋である仲町の久野商店のほうへ移動を始めた。そこから数百人づつ分れて、白木崎方面、田野浦方面、旧門司方面へと散っていった。彼らは片っ端から市内の商店を破壊し、店の商品を略奪した。驚いた店の方は、取るものも取りあえず逃げ出した。
 市民はがっちりと表戸を閉めて、蒸し暑い夏の夜を恐怖におののいて過ごした。
 激昂した群衆は、酒屋を襲撃すると、酒樽を道に運び出して鏡をぬいて飲んだ。小頭の櫟(くぬぎ)惣吉は、群衆の先頭に立って、【 安売りに協力しない店は叩き壊してしまえ! 】と、大声でアジった。
 久野商店の前には、数百俵の米俵が並べられ、その上に群衆が乗って面白がって躍ね回った。
 こうした市内の騒動をよそに、シベリア出兵の兵士は門司港から送り出された。
 夜半になって、小倉の第十二師団から戦時編制の一個中隊が、電車三台に分乗して派遣された。
 その時はすでに暴れ回った後で、軍隊はそのまま小倉へ引き返した。』


 『 翌十六日、午前中は平穏であったが、午後になると暴動が再燃し、一般市民も加わって市内は再び無警察状態に陥った。
 交通機関はすべてストップした。群衆は電柱によじのぼると、電線と電話線をずたずたに切って、外部との連絡を絶った。
 門司で一番大きいといわれた東神倉庫と三菱倉庫、大里の澁澤倉庫が襲撃された。東神倉庫の扉は、頑丈な金属製であったが、群衆はノコで電柱を切り倒すと、二十数人が横抱きにして突撃を繰り返して破った。一部が壊れると、大きなナタを振りかざして、鉄板を叩き切って中へ侵入した。
 集まってきた三千数百人の群衆は、酒樽と焼酎瓶を担いで外浜の倉庫前に据えた。酒は飲み放題で、酔いが暴動を更にあおり、市内の商店はことごとく襲撃された。 』  
                          

 
 電線と電話線がズタズタに切られたというのは凄い。
 半島の先端に位置する門司故に完全に陸の孤島と化してしまったということで、前日の経験から群衆が早速知恵を絞ったってところなのか、一般市民が思いも至らぬ軍略的行動なら軍人たちの仕業であったろうか。切り倒した電柱を群衆が横抱きにして、鉄扉に突撃を加えるなんて、もうジャンヌ・ダルク率いるフランス軍が英軍の占拠した城砦の門を攻撃する図ではないか。つもり積もった鬱憤と不正への怒りが騒然とした門司市内に黒煙の如く渦巻いたのであろう。それでも、死者は出ていないようだ。

 門司では、この事件で約300人が検挙され、検挙された首謀者の中には、元巡査や元憲兵もいたという。四日間の暴動による被害は、米屋が46戸、酒屋が34戸、諸式屋(その他諸々の商店)が83戸。一番被害が大きかったのが、中島米店と久野商店で、久野商店の米俵1,000俵近くの半分が略奪されたらしい。
 港湾都市という場所柄、荷役労働者=沖仲仕が多く、それも大半が遠方から出稼ぎにやってきた者達で、地縁的なしがらみが薄く、余計に先鋭化したのであろう。沖仲仕・陸仲仕たちの中には女仲仕たちも少なくなかったようで、この騒動にも参加していたということだ。早ければ十二、三歳くらいから女仲仕をやっていたといわれる。
  因みに、女沖仲仕の中には、からゆきさん出身者も大勢いたらしい。
 明治時代の中頃まで、石炭の外国輸出は長崎港と口之津港が主で、両方が"からゆきさん"の本拠地だった。が、外国船が門司港に寄港するようになってからは、門司港が人身輸出港として有名になり、悪質な斡旋業者に騙されて門司へ送られてきた娘たちが、深夜こっそりと石炭船に積み込まれたようだ。その数は、毎月四、五百人にのぼったといわれる。
 警察による摘発で助けられた娘たちの内、国元へ戻らなかった娘たちなんかが、そのまま門司に残って沖仲仕になったようだ。
 彼女たちのことを、門司の仲仕たちは、"からゆきさん崩れ"と呼んだという。
 

                      引用 ;《 海峡の女たち  関門港沖仲仕の社会史》 林えいだい(葦書房)


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