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2013年11月23日 (土)

維新的凋落の町 下関

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 ( 六連島行きの連絡船桟橋  クリック拡大)

 対岸の門司港と違って、江戸時代に北前船の寄港地・拠点として一世を風靡した商業都市・下関、今じゃ、門司港ともどもすっかり凋落の一途を辿っているようだ。維新(革命)のはずが保守の権化のような自民党半世紀支配を象徴するような岸信介・佐藤栄作・安部晋三という亡国的魑魅魍魎の拠点的地盤の故でもあるかのように、宿業・宿縁の劫火に焼かれ、今だまともな態すら呈し得ていない仄暗いJR下関駅舎が全てを語って余りある・・・寒々とした駅西口に佇んでみるとついそんな沈鬱な思念に囚われてしまった。
 これが山口県最大の人口三十万の都市なのか、と駅の周囲を一巡りしてみて、たった一軒の合同商業コンプレックス以外はパチンコ屋ばかりが目立ち、往年はもっと繁華だったのだろうが、これといった商店街すら見られない場末った佇まいの不可解さに思わず小首を傾げてしまう。確か、戦後も捕鯨や水産加工業で一時代を築き、球団すら持っていたはずが、この繁華なき中心地のくすんだ佇まい。地元の住民たちって、さほど大きいとも思えぬたった一つのこの商業コンプレックスで総て事足りるのだろうか。まさか、スーパーとコンビニがその間の穴埋めを一手に引き受けているんじゃあるまい。

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    ( 伊崎町の入口 )


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    ( 伊崎町の民家 )   


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        ( 関門海峡から響灘に抜ける水路「小瀬戸」 六連島に向う連絡船 )

  西口から漁港沿いに進んでゆくと、かつての漁師町《 伊崎町 》が下関本土と彦島との間の水路・小瀬戸に沿って、迫った丘陵と岸壁との間の狭い平地にへばりつくように一本の細路の両側に連なっている。ちょうど対岸・門司の漁師町・田野浦と同様、かつての面影を残して雰囲気のある小さな漁師町だ。さすがに小綺麗に改修が施されてはいるものの、元の原型が透かし見える家も少なくなく、昼尚静寂に包まれひっそりと佇んでいる。かつての商店の名残を留めた土間のある硝子戸の建物も風情を誘う。

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         ( 新地西 横丁から路地へ )


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    ( レトロなタバコ屋の風情。ショーウィンドーも今風のデコレーション )


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( この佇いはかつての医院? それともビリヤード場? ひょっとして娼館? )


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    ( 典型的な仕舞屋風の長屋 )


 それが背後の丘陵の向こうに縦横に拡がった細路(ろじ)街に更に一歩踏み入れると、かつての猖獗を極めた昭和の雰囲気がそこかしこ色褪せ朽ちた町並みの窓や庇、板壁や屋根から滲み出し、さながら異空間に迷い込んだような蠱惑を覚えてしまう。この上新地、新地西町の結構広い一角は、第二次世界大戦で、対岸の門司と合わせた軍事拠点として、関門海峡に全国の港湾に落とされた機雷の半分近くを投下されたりの米軍の猛爆にあい、戦災ですっかり焼け野が原になってしまった老舗遊郭街=稲荷町・裏町に取って代わるように当地の一大歓楽街として一世を風靡した由。カメラなんぞを片手にしてしまうと、シャッターを切る指を押し留めるのが難しい。対岸の門司港には求むべくもない空間的拡がりがあって、歴史の痕跡の濃度も異なる。路地裏風の映画の撮影場所にはうってつけ。

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 一昔前この下関の町を舞台にした唐十郎の映画《 任侠外伝・玄界灘 》じゃ、この界隈は使われてなかった記憶があるがどうだったろう。釜山( 韓国 )=下関( 日本 )を密航往復し釜山で女( 李礼仙 )を犯して身籠もらせたヤクザ( 安藤昇 )とその女そしてその女の分身としての娘の神話的因縁譚を、状況劇場風とまではいかなかったもののドロドロ世界に仕上げたもので、当時流行っていた東映の実録ヤクザ映画風味とそれ以前の高倉健主演の任侠映画の美学を唐十郎的土着的情念の混淆したような世界はそれなりに面白くはあった。又、松田優作が鬱々悶々とした少年時代を送った地でもあった。朝鮮通信使時代にはむしろ誉れ高かったはずが、維新以降は何ともさもしい暴虐・惨澹たる扱いに変転していった維新=ニッポン近代史ではある。


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           ( 新地西 クリック拡大)


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             ( 新地西 クリック拡大)

 『 遊郭地は此処彼処に散在して、至る処歌妓娼妓の姿を認むれば、或は馬関全市街を挙げて一大遊郭なり 』                              
                         《 下関案内記 》明治33年


 『 人口五万二十余町より六花街を取り除けば市街の大部分を失う如く 』
                   
                         《 硯海集 》明治39年


 『 下関の社会的実力の一部勢力たるを生ぜり、即ち下関の半面は統計の意味に於て、遊郭が説明し尽くす処なり 』
 
                         《 硯海集 》明治39年


 『 長州下関は赤間関なり。古代よりの湊(みなと)ながら遊郭を定め来る事、豊臣太閤に訴て是をひらけり 』
                    
                         《 色道大観 》延宝6年(1678年)


『 文治元年(1185年)平氏が壇之浦で滅亡した折、建礼門院の官女が芦商の家に寄食し生活のために遊女となり、さらに芦商が屋号苫屋と称し、後に鞆屋と称して稲荷町に遊郭を開いたという伝承 』

                          《 赤間宮由緒書 》


『 下関の中世における都市の性格も遊里形成の一要因であった。下関は城下町が持っていた権力の規制からは埒外にあり、流通経済の繁栄を背景にした自由都市的性格を有していた。各地の商人が海陸の要路としていてこの地に集まり、さらに職人達もこの地に終結した。 』
                   
                          《 下関市史 》

    (注)  馬関=赤間関=下関

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  ( 駅前から伸びる幹道191号線に面した如何にも風格のある建物。新地西 クリック拡大 )


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            ( クリック拡大 )


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