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2013年12月21日 (土)

 ペシャワール日記 ( 3月1994年 )

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 ( ペシャワールのトライバル・テリトリーの手前のアフガン・バザールのレストランで食事中のアフガン人一家。並んだ料理は定番。) 


 1994年3月18日、インドのダラムサラからパキスタンに入国する。
 金曜日でイスラム国の休日。10時にカスタムが開き、ラホールからフライング・コーチ(バン)で一気に古都ペシャワールへ。( 勿論パキのこと、すんなりではない )
 バス発着所から新市街の“ KHANI'S Hotel ”まで( オート )リキシャで。相場の6Rs( ルピー )払う。運転手、25ルピーだと言い張り、ホテルの中まで追いかけてきて騒ぎだす。ホテルの若い従業員まで一緒になって『 25ルピー 』コールを連呼するも鼻も引っかけずに無視。


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 ( カニス・ホテル。左端にホテルの入口。二階はレストランで、右端の朱色の板塀の上で以前はカバーブをアフガン人の親爺さんが焼いて売っていたいた。この時はもう塗りつぶされ壁になっていた。)


 屋上のドミトリー( 多人房 )で40ルピー。
 以前、ベッドなんかをいっぱい置いてあった倉庫に移っていて、元のドミトリーはスタッフたちの宿舎になっていた。一階の通りに面したカバーブの売店も閉じられていた。隣の“ カイバル・ホテル ”がまだ営っていた頃に、頻く買いに行ったものだったが。

 例の肥えたアフガン人の闇屋のオヤジさんが居たので、邪魔になっていたミニ三脚とカメラ用のリモコンを売りつける。250ルピー。( 呉れてやったようなものだけど )。オヤジさん、“ カイバル・ホテル ”時代からの外人旅行者御用達で、アフガン行もムジャヒディーン経由で仲介したりしていた。

 昨夜遅く小雨が降っていたが、今日は朝から曇りがち。薄ら寒く、下はシャルワール( パキスタンの薄い生地のゆったりしたズボン )、上はTシャツ、そして寒くなるとトレーナー。夕方からトレーナーを脱ぎ、フィールド・ジャケット。結局一日中、雨が降ったり止んだり。夜は停電。


 
 20日 ; 朝7時頃起床。上空には灰色の雲が拡がっているが、アフガン方面の空は青く晴れ間が見えた。さすがに、山々にはもう白い積雪は見られない。
 角のチャイ屋で、ナーンとチャイで朝食。但し、ナーンは少し冷え気味で今ひとつ。4ルピー。
 道端で、少年たちが学校の宿題の紙粘土で作ったような小さな壺に絵具で着色していた。こっちの少年は、中学生くらいになるともう鼻の下に髭を生やしオッサン面で、大人か子供か全く区別がつかなくなる。

 昼食を比較的近い小さなアフガン・バザールにあるアフガン・レストランで食べる。
 カバーブ9本、ナーン2枚、カフワ・チャイ( 砂糖入り )1ポツト。計24ルピー。
 二階の窓から下の通りを眺めながらカフワを飲む。カフワには砂糖が入っていて、入らないのがチャーイ・エ・サブズ( 緑茶 )のようだ。ここではカフワは少し大きめのグラスがついてきた。
 さまざまな相貌、髪・瞳の色、服装のアフガン人たちが二日前の雨でぬかるんだままの泥濘と化した道路をそそくさと歩いてゆく。狭い一角だけど、実に多勢のアフガン人で溢れている。ぼくの横にも、中央アジア風とでもいうのか、ロシア風になまった(?)ファルシー( ペルシャ語≒ダーリー語 )を喋るタジクがウズベキの金髪・薄い灰青色の瞳のアフガン人がカバーブを頬張りながら窓の下を眺めていた。


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 ( カニス・ホテルの屋上。ここにドミトリーや廉価の個室が並んでいた。突き当たりのテラスから下のサダル通りが見下ろせ、斜め向かいにG・P・Oがあって便利な場所であった。)

 別のアフガン人客がスープを注文し、大きめの羊の肉片が二つ浮かんだのが運ばれてきた。やがてその中にナーンをちぎって放り込みはじめた。スープにナーンを浸しながら食べるとか、スープの中に数片入れてスプーンやなんかで食べるというのではなく、少し大きめのアルミの碗いっぱいにちぎったやつを放り込み、手でナーンを押しつけスープを吸わせ、それから指で口の中に掻き込むのであった。グチャ、グチャで、見ているだけで気持ち悪くなってきたものの、イランでも似たようなタブリーズの潰して食べるシチュー=アーブグーシュトなんてあるけど、如何にもイラン人らしく品のある食べ方であった。ひょっとしてこのアフガン人の方が原型なのかもしれず、まあ、アフガン風の茶漬けってところだろうか。

 22日 ; ちょうど一年前、クエッタからイランへ向かうボーダーへ行の列車で一緒になったオーストリア人が屋上のツインに入る。下階のちゃんとしたツインではなく、ドミではないというだけの廉価版。一見オーストリアの石畳の路地裏に棲む貧乏芸術家って趣きで、いわゆるヒッピー世代の生き残り。
 そういえば、場所は何処だったかもう忘れてしまったが、その頃の年代の走りのような老夫婦カップルを見かけたことがあった。禿げた頭に腰まで伸ばした白髪の長髪に、しぼみたるんで皺だらけの上半身を剥き出し、ラジカセから流れるロックに合わせてよれたジーンズに包んだ脚で妙な仕方でリズムをとった歩調で歩いて見せていた。背後のテーブルに彼の嫁さんらしい質素な感じの小柄な老婆が端座していた。七十代って感じで、そのも一つしっくりこないステップの踏み方が、あの時代のヒッピーの生き残りの一つの矜持なのかイキがりなのか即断しかねたものの、微笑ましく思わず苦笑してしまったことがあった。
 ベッドの上にすり切れたキリムが敷いてあって20年も使っているという。ソ連が侵攻する前のアフガンにも旅したことがあり、北部都市マザル・シャーリフや観光地バンディ・アミールも訪れたらしい。
 大きなラジカセを持っていて、聞けばタイで買ったという。リュック一つ分はあるような大型で、案の定、ラジカセ専用のリュックを別に持ち、リュック二つでの移動という。どう見ても重そうで、「アイム・ストロング」と、痩せてひょろんとした身体を伸ばして見せたが、何処かで上側の入歯を落とし、それを犬がくわえて逃げていってしまったので、このペシャワールで作って貰う予定とか。
 
 23日 ; 前日日本人がフンザに、今朝は英国人が発って、ドミトリーはぼく一人。
 今日は水曜日だけど、パキスタンは休日でGPO( 中央郵便局 )も休み。
 路上で布を拡げものを売っている者も多く、日曜バザールというところ。アフガンの地図や本を売っている店があり、薄いハードカバーの“ A Collection of Afghan Legends ”というアムリトサルで印刷された本があった。100と記してあって、それとアフガンのポストカード三枚で計80ルピーで買った。

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 ( オールド・バザールの路地の両側に高く聳えたインドからパキスタンが独立する以前の旧い建物。中々面白く気に入っていたが、イスラム世界では異形。)

 
 以前カイバル・ホテルの屋上からも見えていた、このカニス・ホテルの屋上の壁から少し顔を出して背後を振り向くと、煉瓦造りの建物に混じってポツンと些か色褪せてはいるものの白いストゥーパらしき先端が金色に輝やいていた。目印になる建物をマークしてその辺に赴いてみると、門は閉まっていたが、何やら門の上にヒンディー語で刻印されていた。表側からはストゥーパらしきものは見えない。ちょっと先に路地があり、そこを入って
行くとストゥーパの裏に出た。上方にドォーム型のストゥーパらしきものが二つ上方に覗けていたが、ヒンディーのストゥーパかどうか定かではない。この近くの民家はベンガル地方からやってきた人達らしい。カルカッタの方かと尋ねたら、バングラディッシュと答えた。
バングラディッシュならイスラムのはず・・・パキスタンとインドが別れる以前から在ったヒンディーの建物なのだろうか。この路地の入口の門の上にもヒンディー語と英語でベンガル・・・と記してあって、そのに奥は廃墟になっていて、大きな柱の跡があった。こんなちょっとした路地裏にも、歴史的痕跡と消息が潜んでいた。


 
 


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