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2013年12月31日 (火)

深夜の不協和的共振  辻潤と稲垣足穂 『横寺日記』

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 《 弥勒 》で有名な大正・昭和の作家・稲垣足穂に、戦時中(昭和十八〔1943〕年頃)、東京・新宿は横寺町に住んでいた時代の星座を中心に認めた『横寺日記』がある。 家業(明石)の破産そして時節柄もあってか、足穂のかなり貧窮していた時期でもあったらしいが、【10月29日 金曜】の項に、これまた翌年には餓死してしまった落剥的漂泊者・辻潤が、突然真夜中二時頃に現れた際の記述がある。以前のあれこれの成り行きで足穂には招かざる客となっていたようだ。
 すっかり微睡んでいた頃、闖入者が辻潤と気付いて毛布を頭から被って狸寝入りを決め込もうとしたが、引っぱがされ、結局夜が明けるまで、「ミルキーウェイとは然し俗な言葉だね」などと四方山話につき合わされたらしい。その途中、ふと用足しに裏へ出ると、


 「オリオンは屋根の向う。左の木立の上に双子星。この東に作りつけたような大ぼしが出ている。こいつが木星かなと思ったが、改めて表へ出て、色が華やかだからあけの明星だと解釈された。これに較べると、シリウスも青白く神経質に顫えているとしか受け取れない。ヴィナスの上に別な大星があり、二ツ合わして不思議な天上的木の実がぶら下がっている感じである。いつかの火星はやや間隔をとって、別のどんよりした色の遊星を伴うておうしのナートに迫り、全天は壮麗な大奏楽、それとも建築的とでも云いたい諧調に置かれていた。途方途轍もない大伽藍の円蓋を内部から仰いでいるようである。」

 
 足穂はプラネタリウムなんかにも足繁く通ってたらしく、東京に出てくる以前の明石時代には天体望遠鏡すら持っていたという。尤も、この頃にはすっかり貧窮生活も馴染んでいたようで、自分の眼鏡すら質屋に入ったり出たりの繰り返し。天体望遠鏡など影もなかったろう。落剥的漂白者の辻潤すらが、見かねて、愛用の尺八一管で門付けをして得た金の幾ばくかを足穂に酒代として置いていったりしていたというから凄い。
 尤も、この日記の巻頭の【八月七日 土曜日】の項で、

 「世には本当の行き詰まりも困窮も存在しないこと、いわゆる不幸とは浅慮なまなこに映じた仮初(かりそめ)の姿に他ならず、常にその奥には深い祝福が存すること・・・」

 と記している。【祝福】という独特なニュアンスを持った言葉で分かる通り、キリスト教を通った足穂らしい思想的態度ではある。【祝福】なんて観念とは無縁の辻潤の方は、(否、彼自身も当時の先駆的新思想としてキリスト教を通過してはいたが)、この項の最後にこうある。


 「辻老は、隣合せの墓地で百舌(もず)が囀(さえず)り出したのを合図に、『こおろぎと蠅取蜘蛛はなんといっても可愛いよ』という話を中止して、私の枕辺にあった聖フランシス伝を取上げ
まことの修道僧とは四弦琴のほか
何者も己が所有とは思惟せざる者なり
 という巻頭言を繰返し読んでから、『忘れてはいかん』とそこについている固有名詞、Gioachno di Fiore を紙片に控えて、尺八を腰に差して出て行った。」


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 つまり、辻潤の定番、尺八一管と風呂敷包み一つの求道的流浪者スタイルの再確認って訳なのだろうが、これは余談だが、そのいつも大事そうに携えていた風呂敷包みの中味は、他ならぬ彼の流浪のそもそもの機縁たる無政府主義者・大杉栄のもとに去った愛妻・伊藤野枝がそれ以前に彼に寄こしたラブ・レターの類だったという。
 壮大なるコキュ的ロマンチシズムと云うべきか。それにしても、辻潤の近辺には何と似かよった苦渋と悲哀に満ちた愁いを漂わせた男たちが居並んでいるのだろう。金子光晴、武林無想庵・・・。


 「向こうは旅館の着物で別に寒くはないんだよ。元旦にね、君、梅が咲いているからね。おどろいたよ、何しろポタポタと雫が垂れるオランジュがぶら下がっているようだったな」
 
 
 以前宮崎で橙(だいだい)そっくりのヴィナスを見たという辻潤の言葉だけど、嘗てはそのくらいに澄んだ空気だったからかと、足穂も別の星を「木の実がぶら下がっている感じ」と同様に表現していてることから、感心しつつも、幾ら何でもそりゃちょっと修辞が過ぎてやしまいかと、ふと、足穂も辻潤も、名うてのアル中でもあったことが脳裏を過ぎった。尤も、アルコール中毒、今でいうアルコール依存症患者が、そんな視覚過敏的な変成意識状態に陥るのかどうか定かでないが。

 ぼくがこの短編日記で気に入ったフレーズが、

 「太古からこのような天を仰いできたろう総ての心霊達と共にある気持だった。神秘的な共感・・・」


 冒頭引用の「全天は壮麗な大奏楽」の延長線上の、「今朝はいかにも大ドームを見上げているようだった」明け方の一大光景に対する感慨で、46億年前に太陽系=地球が誕生し、数百万年前にヒト属が現れ、ついに数十万年前我々ホモ・サピエンスが出現し、
その間、夜毎頭上に燦然と輝き続ける星々を見上げてきたろう。勿論その永い日月の推移の間には我々現代人が見知らぬ様々な異変・変容もあったろう。同じ星座、星々の瞬きをそのとてつもなく永い時間を隔てながらも眺めているという共有的な一体感、確かにそれはある種の先祖返り的な、あるいは本能的内奥からの、あるいは最下層的(無)意識的な共振性ともいうべき魂を震わせるような昂奮を覚えさせる。

 因みに、戦前・戦後を生きた俳優の殿山泰司の自伝に、稲垣足穂に関するこんな記述がある。
 
 
「歓送会の座敷では、おれは離れたところから、タルホ先生の言動に神経を集中していた。それは友を戦線に送る会なのか、タルホ・パーティなのかまるで分からないようであった。
『きみ、きみ、酒はね、こんな物で飲んではいけません、いけませんよ、塗物です、塗物で飲みなさい』そういって、自分ではガブガブと鱶(ふか)のように、湯呑茶わんで冷酒を飲んでおられた。
 『こんな牛鍋なんかで酒を飲んではいけません、いけませんよ、これはメシを食うものです、牛鍋で酒というのは下品ですよ、いけません』と、いいながら自分では、スキヤキ鍋の中に箸をつっこんでは、パクパクとやっておられた。おれはその言行不一致の法則を、驚天動地のように素晴しいと思った。」
     殿山泰司《 三文役者あなあきい伝 》(講談社)1974年

《 弥勒 》稲垣足穂 ( ちくま文庫 )2005年

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