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2014年1月の2件の記事

2014年1月18日 (土)

 1997年蒼惶的回帰 ( 昆明→上海 )

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 《 97 香港 回帰祖国 》、1997年、大理か昆明で買った手帳の表紙には金文字でそう刻印されていた。
 日記帳として使い、ビニール・カバーの裏側に、幾種類かのチケットが挿し込まれたままになっている。当時、昆明から上海に戻る際に利用した80次特快の乗車票( チケット )と新鑑真号( 上海→神戸 )に乗船する際にカスタムの待合室で買わされた保険票( 10元 保険金=10万元 )だ。3元の"鉄路人身保険"の方は最高3万元と記してあって、中国も随分と変わったものだと、この時感心したものであった。

 この年の七月に長年大英帝国に不法占拠されたままの香港がようやく返還され、その前から中国中沸いていたけど、香港住民たちにとってはともかく、中国人たちにとっては喜ばしいものであったろう。『 犬と中国人は入るべからず 』的屈辱が晴れたということにもなるのだろうが、中国政府が独立後も一貫してその不法条約を遵守した裏には、一層植民地・香港と大陸・人民中国との格差が拡がっていて、無理強いして返還させた後に当然生起するであろう矛盾・軋轢によるトラブルに鑑みれば、このまま放っておいた方が得策と読んだからだろう。


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 返還された七月の一週間、昆明にとどまり、環城南路のCITSでの上海までの列車のチケット予約と、北京路裏の公安事務所でのビザ延長に毎日のように通った。定宿の北京路にある昆湖飯店に泊まり、旧市街が国際博覧会のためにきれいさっぱりと更地にされ尽くし、その跡に真っ白い高級マンション群が林立してしまって取り付くしまもなく、中心街のあっちこっちに建ち並んだ真新しい百貨店巡りや新市街をほっつき歩く他なかった。昆明最大のデパートらしい西南商業大廈の、街角の小さなゲーム屋だと1コイン=5角なのが2元のゲーム・コーナーでシューティング・ゲームに勤しんだりしたもんだ。娘たちはカー・ゲームが好きなようだったが、鉄拳なんかに興じたりしている母児二人連れが何組もいたのには、日本じゃ余り見ない光景なので驚いてしまった。

 まだ残日数が多すぎると断られ、数日過って赴いた公安の出入境管理局で申請用紙一枚に記入し、125元払って、一ヶ月の延長。スタンプの朱印が中々乾かずしばらくソファーに坐って待たされる。

 以前から一度、【 上海→長崎 】航路に乗ってみたいと思っていて、今回可能ならばと
CITSに打診してみたもののさっぱり要領を得ず、やはり上海でアプローチするしかなくなった。只、所持金が底をつき始め、ギリギリで、下手すると日本から送金して貰わねばならなくなってしまいかねない。勿論それならそれでゆったり構え、念願の魯迅の故地・紹興でも訪れるというプランも立てられたが、何としても上海行きのチケットが取れず、ズルズルと旧市街亡き後の改革開放的街路をほっつき歩くしかなかった。北京路周辺に出没する按摩小姐の黄色い声に、昆明中の壁という壁、電柱という電柱に貼り巡らされた【梅毒】【淋病】のポスターを思い浮かべ、思わず身竦み、撥ねのけ、はねのけしながら。


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 ようやく取れたチケットは、23日夜11時発の80次 硬座特快臥の14車017号下舗で、320元。朝9時頃上海站( 駅 )に到着するという。土曜日の朝。

 当日、雨が降ったり止んだり。雨季のせいで大理は雨多く、昆明の方がやや増しなくらい。この時点で、所持金1万円TC三枚。100元札二枚。6ドル。ポケットに約70元。
 10時20分頃、昆明駅に着き、荷物をX線検査した後、待合室に入ると広いフロアーにもうめいっぱい乗客が待っていて、10時半前にはもう改札をはじめた。
 何とか所定のシートに辿りつけたと思ったら、勘違いをした中国人がチケットを見せながらやってきて早口の中国語でまくし立てはじめた。ごった返した只中で、その親爺さんも勝手分からず往生してるのだろうが、“ チン・プー・トン ”( さっぱり分かりません )を連発する他なく、あきらめて去っていった。
 ベッドはビニール張りのシートの上にゴザを敷いてあり、その上に枕とタオルケットが置いてあった。タオルケット?
 やっぱり夜は冷えたけど、皆タオルケット一枚で我慢したようだ。朝6時に蛍光灯が点り、厭でも起こされてしまい、ゴソゴソしはじめ、7時頃にはもう皆朝食を食べ始めた。以前と違うのは清掃が徹底していて、床も綺麗にしてあった。昨夜、若い娘がランプータンの皮を廊下の床に捨てるところを係員に見つかり、文句を言われていた。
 8時35分、那玉という小さな駅に停まる。
 ぼくの乗っている14車は後ろの方なので、ブラット・ホームから外れていて、駅の背後に小さな黄土色に濁った川がうねって流れ、その向こうにアスファルト道路が走り、小高い岩山が連なっている。川の両側や山の斜面にはトウモロコシ畑が拡がっていた。
 25日10時30分頃、大きな河近くの駅から列車の向きが変わり、風下になってしまった。涼しくなったけど、髪が乱れる。8時5分頃、杭州東駅に到着。プラット・ホームの反対側に二階立て( 双層旅游列車 )の豪華な感じの《 西子号 》という真新しい列車が停まっていた。ボードに【 無錫→杭州 】とあった。エアコン付きなんだろう。10分ぐらいして《 西子号 》の後に出発。ぼくの周辺の客はあらかた降りてしまい、ぼくと蘇州で降りる中年夫婦だけになってしまった。係員が最初は枕の上に敷いていたタオル、次にタオルケット、テーブルの上に置いてあったゴミ捨てを回収していった。上海着は明朝なのに皆慌ただしい。降りてゆく客ばかりで、乗ってくる客は僅か。
 夜の11時に大きな駅に到着。
 向いの蘇州夫婦が「サヨナラ、再見!」と別れの挨拶をして長い降車の列の中に混じっていった。よく見ると、殆どの客が降りているではないか。ふと車両の中を確かめてみたら誰も残っていないではないか!
 エッ? と思ったものの、こんなもんかと思い直してそのまま坐っていると、車掌が声をかけてきて、「降りないと駄目だ」といわんばかりの身振りに、慌てて傍へゆき、チケットを見せ、「上海!」と言うと、手でホームの方を指差し、更に左に曲げて見せた。この列車は蘇州止まりで、上海行の列車に乗り換えなのか ── CITSの連中に怒り心頭にたっしたが、それどころか、さっさと乗り換えないと上海行が出てしまいかねない。慌てて荷物を抱えサンダル履きで降り、ホームの階段を走り降り、隣のホームに上ってみると、【 杭州→上海 】のプレートのある列車の前に客が並んで待っていた。女性係員にチケットを見せ、何処のホームに行けば良いのか尋ねようとしたが、さっぱり要領を得ず、再び地下通路へ戻って先まで歩くと、向こうに改札口が見えた。その横に駅員室があったので、チケットを見せて尋ねてみると、
 『 ここが上海だ!』
 と答えた。
  一瞬、ぼくは狐につままれたようになり、怒りも焦燥もいっぺんに吹き飛んでしまった。礼を言い、呆然としながら改札口を出た。
 一体どうなってるんだ。
 が、今日は金曜日で、二泊三日で上海に着いたことになる。
 CITSの言った三泊四日というのは何なのだったんだろう。そこの女事務員が教えた、朝9時頃着というのは?
 ようするに、ガセだったのだ。すっかり真に受けてしまった。
 CITSめ・・・
 
 上海の駅前には、多くの人間が新聞やゴザ、毛布を敷いて寝っ転がっていた。
 夜中の11時過ぎにでもバスはあるようだったけど、浦江飯店が開いているとは思えず、駅前で夜を明かす他なかった。この頃中国のあっちこっちで頻(よ)く見かけるようになった加州(カルフォルニア)牛肉麺の看板があり、普通なら安くないので先ず喰わないが、験(げん)直しに試食してみた。牛肉とレバーの角切り、小ネギ、パクチーそして麺は醤油味でけっこう美味かった。

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 上海駅前からバスで延安中路まで行き、そこから南京東路まで歩き、7時頃やっと浦江飯店に到着。8時頃、ドミトリーはフルのようで、一階の奥の5人部屋にチェック・イン。(77元)。バングラディッシュのビジネス・マンと白人二人。
 急いで、川沿いの中山南路を歩き、東方飯店2階の国内船のチケット売場の奥の一室で、念願の長崎行のチケットを求めた。ところが、上海長崎の航路は一年ほど休業という。仕方なく、その日の午後2時発、神戸行の新鑑真号に乗ることになってしまった。
 
 335次 7月26日 14時発
 等級 二W 房間号 406-5 ( 1400元 )
  
 急いでオートリキシャに乗って上海駅まで行き、預けていた荷物を受け出し、別のオートリキシャで浦江飯店まで戻った。リキシャ代=15元。( どっちも運転していたのは定年退職したような老人だった。)浦江からフェリー乗場の外虹橋(太平路)は近いので、南京東路まで買物に赴き、船内で食べるパンやセンベイを買う。
 ゆっくりと福州路の古書店街を巡ったり京劇観劇あるいは湖心亭茶館で中国饅頭を喰うなんて上海必須要項をすべて不履行のまま帰国と相成ってしまった・・・。

 たった4時間の滞在・・・12時にチェック・アウトし、鍵のデポジット100元を返して貰い、途中太平路のスーパーで久し振りのリッチー( 茘枝 )1パック=16元を買う。フェリー乗場の待合室で保険料と税金計32元を払う。狭い待合室に人影はまばら。
 2時丁度に出航。部屋は洋間の8人部屋で、窓側の下。シャワーを浴び、ガラーンとした食堂で一人、あたふたとしたこの一週間を顧みることなく、もっぱら窓外の黄浦江の光景を眺めながら、リッチーを一粒一粒美味しくいただく。
 午後4時過ぎても、水はまだ紅く濁り、東シナ海に出るのはもう少し先のようだった。
 船内で両替し、確かめてみたら残金1万と185円・・・

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2014年1月11日 (土)

つげ義春的消息 2014 

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 決してつまらくはなかったが、やはり3Dを前提として作られたスペクタクル・アクション映画《 ゼロ・グラビティー 》、背景に巨大に迫った地球の姿が例えば太陽系から遙か彼方の惑星に接近した宇宙船を舞台にした同じジョージ・クルーニー主演の《 ソラリス 》なんかの宇宙的孤絶感みたいなものを随分と希薄なものとしていて、単なる航空機的トラブルって趣きの感なきにしもあらず。観たのが正月2日で、封切り上映されて2週目に入っていて、比較的こじんまりした劇場に移されていて、もし巨大なスクリーンで観たらまた見えようもかなり変わっていたかも知れない。この手のスペクタクルものは、スクリーンの大きさで凄く印象が異なってくるからだ。
 その帰り、本屋に寄ってみると何処かで見覚えのある独特の絵柄が眼に入ってきた。つげ義春の《 ねじ式 》であった。手に取ってみると、《 芸術新潮 》1月号で、つげ義春特集とあった。


 嫁さんの元《 状況劇場 》の女優・藤原マキの方は既に亡くなっていたのは知っていたけど、さっぱり姿を見なくなって久しい当のつげはまだ健在だった。但し、もうマンガ作品を描く気はないようだ。
 この特集の売りは、“ 原画で読む ”で、《 紅い花 》と《 外のふくらみ 》の2作品が原画で掲載されていた。特に《 紅い花 》の方は、アミ指定の色鉛筆塗りのままで、ふきだしも写植を貼っているのがそのまま見えてしまって、普通では中々見られないリアルな仕様。
 つげの近影と併せた《 つげ義春 、語る 》なる美術評論家の山下裕二が聞き手になったつげのインタビューが興味を惹いた。

 
『 ともかくリアリズムが好きなんですね。
 自分の主観による意味付けを排して、あるがままの現実に即して描くのが・・・。』

 
『 禅の道元は修行をするのは「 自己 」を忘れ無我になるためだと言ってます。無我になって主観が消えると、世界はあるがまま現成すると。
 だけど修行をするヒマなどない普通の凡人でも夢の中では無我を経験できますね。』


 『 夢は眠ることによって目覚めているときの自己が消えて無我の状態ですね。すると文字通りの「 無我夢中 」になり、夢の中での状況を対象化したり意味付けや解釈をする余裕がなくなる。そのためすべてをモロに真に受けてしまい強烈なリアル感を覚えるのでしょう。』


 『 そういう意味で、自分で一番よく出来たと思っているのは「 夢の散歩 」(72年)という作品なんだけど、注目する人がほとんどいませんね。・・・・・・
 「 夢の散歩 」は偶然出会った男女が泥のぬかるみの中でいきなり性交をする話ですが、そうなるまでの二人の関係や必然的な理由などはぶいて、ただ唐突な場面を即物的に描写しただけなので意味がないんです。そうすると意味を排除したシュルレアリスムのように夢の世界に似た印象になりますね。現実もあるがままに直視すると無意味になりますが、夢はさらに無意味を実感させてくれるので、リアリティとは無意味によってもたらされるのではないかと考えているのです。
 この作品のタイトルは「 夢の 」としていますけれど、こんな夢を見たわけではなく、リアリズムから発展してこんな風に・・・。でも駄目ですね、説明するのが難しくて。
 ところがその後カフカを読むようになったら、やはり出来事の描写だけで意味がなく、同じ方法をやっていたんですね。でも自分はカフカ流のマンガでは食っていくことはできないので、結局この虚構世界を超える意味でのリアリティから後退して、もとの私小説風に戻ってしまったんです。』

  
  真夏の強い灼光にまばゆくデティールが飛んだ白黒世界って趣きの《 夢の散歩 》は確かに汗ばんだ真夏の白昼夢ってところだけど、人気も車影の気配もないだだっ広い道路を自転車を引く主人公の男と偶然に居合わせた中年太りした母親と小さな娘親子が渡ろうとして突如現れた警官に注意され、ガードトンネルを渡るように警告を受け、遠くにあるそのガードトンネルに近道して空地を通ろうとするのだが、その造成途中なのかたちまちにして泥濘と化し、ズルズルと滑って容易に越えられず四苦八苦。と、男の前で泥濘の坂を這いつくばって昇ろうとしていた親子連れの母親の、どういう訳か脱げ落ちて何とか引き上げようとして手も届かぬパンティーの上に丸出しになった豊満な尻、たちまち男は発情し、背後から犯すという単純なそれこそ寝覚め間際の束の間のリビドー的くすぶり=性夢って趣きの筋立てで、“ ( どういう訳か )ずりおちたパンティー”って題材、つげの作品に時々見かけ、男的欲望がそれに至る手続きを蹴飛ばし端的に充足に走った御都合主義的な発露って正に夢的世界の典型。 


 『 だけどぼくは小学校を出るとすぐ働きに出るようになり、現実世界を知ってしまったので、子供がピストルを振り回したり大人を投げ飛ばしたりする手塚マンガになじめなくなり、デビューから3年後の21歳のときマンガでは前例のないリアリズムの「 おばけ煙突 」(58年)を描いてしまい、子供の夢を壊すのかと編集者に叱られてしまった(笑)。』


 『 ぼくが14歳の頃2回家出をしているのは劣悪な家庭だったせいですが、その後も何かにつけて逃げることばかり考えていましたね。修道院に憧れたのもそのひとつでした。「ねじ式」を描いた頃には短期間で失敗したのですが九州へ蒸発したこともありました。蒸発は自分の過去を消して別人になって生き直す行為ですが、過去によって形成された自己がすぐ消えるわけではなく、蒸発先の自己もすぐ再生されるものでもないので、その感覚はどこの誰でもないといった「 いながらいない 」ような軽さになりますね。おかげで宗教的な「回生」の意味が理解できるようになりました。』


 同じ蒸発者として、幕末の俳人・井上井月の『何処やらに鶴(たず)の声聞く霞かな』に蒸発者的心理の本質を衝いているとかなり感銘のほどを吐露し、実際、以前の彼の作品にも井月を題材にしたタイトルもそのまま《 蒸発 》がある。
 蒸発・放浪の果て、長野の伊那谷に住み着いた落魄の俳人が、文化人として当初は村人にそれなりに厚遇されていたもののやがて泥酔的醜態も老齢的惚けとともに加速されてきてすっかり持て余しモノと化してしまい、ある日遥か遠い地に捨てられてしまう。が、ほどなくして再び舞い戻って来てしまい、甚だ厄介な存在として行き倒れてしまう無惨。
 つげが自身を投影して描いたものでもあるのだろうが、大正・昭和の流浪者・辻潤なんかもこれに近い無惨的最後を迎えていて、同じ系譜に属しているのだろう。

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