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2014年4月の2件の記事

2014年4月19日 (土)

奇妙との遭遇

Moji_fish

 昨年の後半であったか、何のアトラクションかずらり露店の並んだ門司港レトロの岸壁から下の丁度満潮の海を覗き込んだら、ちょっと先に見慣れない生物がゆらりと海面下に覗けた。
 何だろうと思って身を乗り出すように眼下の晴天に青々とゆらめく海面に悠然と恐らく四、五十センチくらいのくすんだピンク色の、最初はタコと決めつけ、以前一度大きなエイが岸壁すれすれに泳いでいるのを目撃したことがあって、タコもこんな海面すれすれまで浮き上がってきて遊泳するものなのかと感心して暫し見惚れていた。
 が、段々海面ぎりぎりにまで身を晒して近づいてきて鮮明に見えたその姿は、ちょっとタコとは違っていて、タコのように幾本も脚が伸びているのじゃなく、足なのか尾びれなのか定かでない二本か三本の先の細くなった太い肉厚のある下半身が揺れ動いていた。その脚の間に、つまり太脚の内側に、写真では分からないが、イカの足に似た吸盤らしきものがいっぱい附いた白っぽい幾本もの細い脚が見て取れた。その上、タコ風の頭には何重ものヒダ状のものまであり、見慣れたタコのイメージとは随分かけ離れていて、興味津々に覗き込み写真を撮っていた家族連れが、「 気持ち悪いね~ 」と何とも気味悪そうにつぶやいていた。
 それから数ヶ月後、もうちょっと離れた別の岸壁でも海面すれすれにその悠然と遊泳する姿を目撃した。イカは群れたりしているようだけど、このタコもどきはいつも一匹単体のようだ。その悠揚迫らぬ姿は逍遥遊的遊子にも想え、岸壁に居並んだ釣客たちの垂れた釣り糸を見るにつけ、思わず「 生き延びろよ 」と声援を送りたくなった。
 ひょっとして流行りの《 深海生物 》なんだろうかとネットで調べても一通りのものしか載ってなくて、結局、“ タコもどき ”の海洋生物という括りで保留した。温暖化=列島トロピカル化ももう久しく、いよいよ海底に潜んでいた生物たちも変容した環境にふらふらと海面まで迷い出てくる状況に至ったってことだろうか。

Moji_a_bird_1

 
 一匹単体といえば、今年に入ってか、たまたま通りかかったレトロからほど遠いある公園の噴水の上に、ふと何かの影が見え、傍へ寄って見上げてみると、煤け薄汚れた大きな鳥が一匹じっと佇んでいた。
 青鷺( あおさぎ )であった。
 薄ら寒い冬日の下、何故か片脚一本で佇み、じっと眼下の噴水池の中を泳いでいるのだろう金魚か虫の類に狙いでもをつけていたのか身じろぎもせず、その姿は何やら群れからはぐれた一匹の落魄と孤独の流離譚の風情すら漂わせていた。
 一向に影になって見えないもう片方の脚を下ろすことをしないので、ひょっとして片脚を失っているのかと訝かられその落魄の色一層濃くなり、単にしばしの休息を決め込んでいるだけなのか、やがて現れた小さな姉弟の好奇心と歓声にも微動だにすることなく、片脚のまま佇み続けていた。
 すっかり青鷺のことなど忘れた頃、こんどはレトロ海岸の少し外れた岸壁で、疎らな釣客の間に一匹ポツンと佇んでいる青鷺に出くわした。
 この界隈には基本的に居ないはずの単体の青鷺故、まず先だって噴水で見つけた青鷺に違いなかった。只、毛繕いでもしたのかあの時みたいな落魄した放浪者のようなヨレヨレに荒んだ羽毛ではなく普通の毛並みに脚も二本すっくと岸壁の端に佇んでいた。海面下を遊泳する魚影にじっと狙いをつけているのかじっとして動こうともせず、この地に流れ棲みついているのか、寿命数十年の青鷺は毎年同じ場所に飛来するようで、ぼくが知らないだけで、地元民の知ってる者は知っている存在なのかも知れなかった。暖かくなると北海道やら大陸に戻ってゆくらしい。釣客が投げてやった小魚なんかを食べたりもするという。 数メートルくらいの距離を置いてまじまじと眺めていたら、通りかかった観光客家族の子供が傍に寄っていくと大きく羽を伸ばし海峡の海面の上を悠々と飛び去っていった。


 そういえば、更科源蔵の《 蒼鷺 》という曲の詩(詞)に、こうある。

 蒼鷺( あおさぎ )は片脚をあげ
 静かに目をとぢそして風を聴く
 風は葦を押してきて
 又何処かへ去って行く
 
 いつの時代でも、青鷺のそんな特徴を愛でられてきたのだろう。
 西洋にキリスト教が浸透する以前からの土着の宗教のドルイド僧は、青鷺のマネをして片脚で立って片側の眼を塞ぐポーズで魔術を用いたという。王貞治のフラミンゴ打法にも通じて、集中力を高める効用があるようだ。
 そもそも青鷺は、西洋ではフェニックス( 不死鳥 )のモデルともいわれ、古代エジプトでは、太陽神ラーの魂とか、死と復活=再生の象徴ともいわれ“ 聖なる鳥 ”として尊ばれてきたという。又、“ 黄金に輝く ”という特性を謳われていて、我国でも古くから、夜闇に光り輝く鳥として説話物にも記され、有名な『画図百鬼夜行』にも、《 青鷺火 》としてその図絵が載せられ、

『 青鷺の年を経しは 夜飛ときはかならず 其羽ひかるもの也  目の光に映じ嘴とがりてすさまじきと也 』
 
 と記されている。
 古狸と同様、青鷺も普通以上に歳喰ってくると妖怪になってしまうらしい。
 つまり、洋の東西、時代を問わず、青鷺って何ともミステリアスな鳥ってことだ。確かに、あの公園の噴水の上に停まっていた青鷺は、独特の雰囲気を醸し出していたし、流離したドルイド僧って風でもあった。その風貌は哲学者のそれすら想わせた。

Moji_a_bird_2_2

 夜闇に光り輝くといえば、先だって、まだ夜も明けぬ早朝、所用で天空に北斗七星が小さく輝く下、ゆるい坂道を登っていると、ふと立ち並んだ海峡方面の建物のシルエットの向こうやや上方に、何かが光り輝いていた。かなり強い光で、見続けていると眩しいくらいの菱形の白色光であった。
 最初、所謂UFO、未確認飛行物体の類かと喜んでしまった。けれど、どう両の眼を凝らしてみても、言われているような独特の動きはせず、どころか移動しているようにも思えなかった。遠い灯が、大気や風で、横や縦の菱形に見えたりするのはよくある現象だけど、大きな横菱形に発光したその光は明らかに点滅していた。光源の位置を確かめようとしても、光が強過ぎてさっぱり遠近・位置関係が特定できなかった。辛うじて、大部向こうに黒いシルエットとして覗けたビルの端の部分に光の点滅が薄い影を作っていたので、そのビルの背後ということと、かなり強い照度の光源ということが分かった。
 で、すぐ思い至ったのが、照明灯であった。
 光り方が円盤の如くクルクル回っているそれではなく、いかにも平面的な照明灯って感じなのだ。少し高い建物や塔なんかの屋上に設えられている航空灯火が点滅している光は知れていて、光り方からして違う。しかし、まだ漆黒の闇に閉ざされた夜明け前に、一体如何なる照明灯が眩く照らされる必要があるのか。用事があったのでいつまでも係わっていられずその時はそのまま先へと急いだ。
 
 その翌日か数日後、再び同じ夜明け前の未明のなだらかな坂道を歩いていると、またその菱形に輝く光に遭遇してしまった。
 只、前回と違って、菱形の光の大きさが一回り小さく、強烈なまぶしさも若干薄まり、やはり移動することもなく、何とか位置関係を絞り込もうと眼を皿のようにして確かめた。
 どうも光源は、この町というよりも海峡を越えた対岸側のようだった。
 勿論真っ暗闇の中なので確定はできないものの、同じ対岸遠くに小さく航空灯火の明滅しているモニュメント展望台からの位置関係からして、海峡に迫った低い山稜の黒い影あたりに位置しているように見受けられた。その麓あたりに立てられた灯台の可能性もあった。灯台ならかなり遠くまで強い光を照射できるだろうけど、海峡遠く隔てた高台の上まで眩しいばかりの光を送る照度だと、海峡を通過する船なんて眩し過ぎて操舵に影響すら及ぼしかねないし、海峡に渡した橋の上を走る車に対しても同様だ。マンションの住民たちからも未明の眩い光に苦情が出るだろう。それに別段、その両日が特に靄が強かったって記憶もない。
 その後、何度か同じ時間帯に歩くことがあったが、もう菱形の光に遭遇することはなかった。一度、昼間の明るい陽光の下、それらしき場所を望遠鏡で確かめてみたものの杳として確かな所在は明らかになることはなかった。結局不明なまま、正に未確認発光体として保留するしかなかった。。
 サイト見てみると、ごく僅かだけど、この海峡でも、昼夜を問わず、UFOの目撃はあるようだった。
 今時、未確認飛行物体UFO=異星人円盤なんて短絡は通じなくなってきてるけど、ならば何処の国の円盤型航空機なのかが問われる時代に既に入って久しい2000年代ミレニアムの今日この頃ではある。

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2014年4月 5日 (土)

ポア的源郷『 パドマ・サンバヴァの生涯 』

B


 そもそもぼくのアジアへの旅は、チベットが目的であったのだけど、実際に赴いたのは、五年後の1994年 の六月。それもその時一回切り。同じチベット圏のインド・ラダック、東部のシッキムには既に訪れていた。
 早朝、《 ヤク・ホテル 》までやって来たミニ・バスで、ラサ川に突き当たった角の《 西蔵長距離バス・ステーション 》まで行き、中国製の3×2シートのツェタン行のボロ・バスに乗る。空港を過ぎ、段々川幅が広くなってゆくヤルツァンポ川沿いを突っ走りつづけ、対岸のサムイエ行ボート乗場で降りる。チベット僧たちと一緒にモーター付のボートに乗舟。対岸まで1キロぐらいのはずが、水量不足のせいか浅瀬が多くかなり迂回し1時間以上かかって、真っ青な空の下、黄土色の砂礫の山々が連なる対岸の砂浜に乗り上げる。
 待機していたトラックに乗り込み、チベット密教の開祖といわれるパドマ・サンバヴァが建てたサムイエ寺の独特の形と色合いの金色の本堂・ウツェ大殿横の招待所に到着。7元のドミトリーに泊まったが、ぼくらの滞在の後、パーミッションがらみでサムイエでの宿泊が色々と面倒になったようだ。ぼくは一週間長居した。 

C
                         
 パドマ・サンバヴァが修行した場所=聖地として有名なチンプーには、朝まだ暗いうちから気の早いチベット人農夫の運転する耕耘機の荷台に乗って、散々尻を跳ね上げられながら山道を昇っていった。ふと振り返ると、遥か下方に、小さく隣村が覗け、ヤルツァンポ川やその向こうに横たわる砂礫の山々が俯瞰できた。思ったより高い位置にあったのには驚いた。チンプー渓谷は、サムイエ寺の東北7キロ離れた納瑞山の中腹にあり、海抜4300メートルという。
 千年以上前から、ここら一帯の岩陰や洞穴で修行が行われてきたらしい。パドマ・サンバヴァことグル・リンポチェが修行した洞窟も残っていた。ぼくが訪れた時は、尼僧の姿も多かった。投宿していた招待所にも一人見習い尼僧の日本人娘が居た。
 チベットに限らず、ラダックにもこのパドマ・サンバヴァ像は多く、ある寺院で観たカラフルで巨大なパドマ・サンバヴァ塑像は印象的であった。チベット人たちにも馴染みの深いこのパドマ・サンバヴァ、この伝記書を読んで初めて、オウム真理教尊師・麻原彰晃で有名な“ ポア ”が、このパドマ・サンバヴァことグル・リンポチェに起源をもっていたのが分かった。てっきり、ミラレパあたりの影響ぐらいに思い込んでいた。

E

 サンスクリット語で“ 蓮華生 ”を意味するパドマ・サンバヴァは、当時のウゲェン=ウッディヤーナ( 烏杖那国 )、現在のパキスタン・スワート渓谷のダナコーシャ湖で、阿弥陀仏の化身として、童子の姿で大輪の蓮華の上に産まれ、又、着地したその地面にたちまちにして蓮華が咲き、その中に坐ったという伝説に起源をもつ。
 スワートといえば、ペシャワールともどもかつてガンダーラ文化が花開いた地でもあったようで、現在は閑散としてガンダーラ遺跡の散在した僻地。

 そのウッディヤーナのジャトゥマティという大都の王インドラボーディの王子として迎えられ、やがて出家して王城を後にする。要するに、アジア各地を転々とし修行しながら密教的霊力を駆使し仏教の根を植え広めてゆく宣教の師=グルの一代記=伝説なのだが、密教的霊力の駆使が説話的面白さを喚起する。
 
 「 蓮華から生じた者はウギェン国のある地方へ出かけた。そこには生まれつき体中に生殖器官のある男がいた。というのも、この男は前世で僧侶でありながら娼婦と暮らし、独身の戒律を破ったからである。
 娼婦はある王の息子として生まれ変わっていた。そして蠅になりすました生殖器官の男は、その王の息子に額に止まった。
 蓮華から生じた者は満身の力を込めて小石をその蠅に投げつけると、小石は蠅を殺しただけでなく、蠅を付けたまま息子の脳を貫通し、王の息子も死んでしまった。
 蓮華から生じた者は罪を問われると、次のように説明した。
 『 前世において私はその娼婦と同じ時代を生きたガウタマという男だった。娼婦の愛人パドマツァラクは、娼婦の下女から、娼婦がハリという名の商人と密通していると教えられ、嫉妬に駆られて娼婦を殺した。そしてパドマツァラクはガウマタに殺人のぬれぎぬをきせ、ガウタマは死刑に処せられた。蠅はそのときのパドマツァラクであり、王の息子は娼婦であった。私はカルマによって、ことをなさざるをえなかったのだ。 』
 彼は『 もしそこにカルマがなければ、小石などでどうして蠅と幼児を殺すことができようか』と語り、インドラボーディ王に王国の法の裁きに従いたいと頼み、宮殿の牢に入れられた。
 すると宮殿とその町は一万もの悪霊に包囲された。悪霊は王子が偉大なる学僧になり、自分たちの魔力と威光を鎮圧されまいと現れたのだ。
 悪霊の包囲に対し、町と宮殿のすべての門は閉ざされ、厳しい警護がついたので、王子はいかにここから脱出するかを思案していた。
 すると彼は服をすべて脱ぎ捨て、人骨でできた呪術用の飾りを裸体にまとい、金剛杵と三叉戟を手に宮殿の屋上に登り、狂った者のように踊りだした。
 彼が金剛杵と三叉戟を同時に下へ落とすと、三叉戟は大臣の妻の胸に突き刺さり、心臓を貫通した。また金剛杵は彼女の幼い息子の頭を打ち貫き、二人とも死んでしまった。」
                         
 「 王子は、蠅と子供を殺した件と同じように、大臣の妻と息子を殺したことはカルマ的な理由があったからだ、と王に説明した。
 大臣の息子は前世において件の娼婦とが密通しているとパドマツァラクに密告した者であって、大臣の妻は商人ハリの生まれ変わりだったのである。 」

A


 「 ウギェン国の中の小国を治めるインドララージャ王は狭量で、宗教に対し敵意をもっており、彼の臣下たちも王に従って同じようであった。それで、パドマは忿怒尊のひとつに姿を変え、その王たちのところへ行き、不信心な王とその臣下たち全員の肉体を奪い取った。それは、彼らの肉体がさらに悪いカルマをつくる道具となるからであった。そして、神通力で全員の肉体を変容させ、その肉を喰らい、血を啜った。パドマは彼らの“ 意識原理 ( 注 : 西洋でいう魂 )”を解放し、地獄に落ちることのないようにしたのである。」


 「 東ベンガルのある国を、若い非仏教徒の王が統治していた。彼の宮殿は六つの堀に囲まれ、八つの門口があった。そして千の眼をもつ猫と不思議な光を出す宝石をもっていた。
 王の臣下は数多く、王の力は強力だったが、彼の統治はひどいものだった。
 パドマはこの王を制するために出かけると、マンドーラヴァーを大通りに立たせ、猫の顔をした生き物に姿を変えるように命じた。
 パドマは神通力によって八万一千の兵士を集め、それぞれに弓と矢を装備した。
 王は殺され、王国は征服された。王の守護神であった五欲の女神たちは、仏教に改宗させられた。 」


「 パドマはブッダガヤーから十六キロほど離れたところにある『 冷たい白檀 』という墓地に赴いた。彼は五年間、死体を座として瞑想し、そこにとどまった。彼は死者に供えられた食物を食べ、屍衣をまとった。
 人々は彼を『 屍琳の神 』と呼んだ。
 彼が初めて説法をしたのはここであった。
 それはダーキニーたちに説いた大究竟への九乗教判のプロセスだった。
 飢饉が襲って来たとき、多くの死体が供物も死装束もなしに墓場に放置された。
 今や偉大なるグルとなったパドマは、死肉を清浄な食べ物に変えて食し、死体の皮が彼の衣となった。
 彼は墓場に住む霊たちを服従させ、従者とした。」


 人々が背負ったカルマ、そして果てしない輪廻の系譜。
 このグル・リンポチェ=パドマ・サンバヴァの伝説の書は、ずっとこの調子で、阿弥陀仏の化身=グル・リンポチェが、人々の業=カルマの紅蓮の蜘蛛の糸を断ち切らんと、ためらいもなく次から次へと血塗れになってポア的斬刀を打ち振るいつづける。あげく、その屍肉を喰らい、鮮血をまで飲み干してみせる。
 思わず、ゾンビー映画で主人公たちが、牙を剥いて襲っいかかってくる成仏できずに彷徨うばかりのゾンビーたちを、これでもかこれでもかと屠りつづけるシーンを想起してしまう。勿論映画では、人肉を喰らい血を啜るのはゾンビーの方だけど、ゾンビー映画って、結局、そういうエンターテインメント風に俗化されたポアという意味合いの了解性の上に成り立ったものなのが分かってしまうが、それはともかく、さらに一国の軍隊をすら、同様に軍隊を造りだし、攻め滅ぼしてしまう。
 これって、密教的・神話的比喩、暗喩として解する質のものなのだろうが、オウム真理教=尊師・麻原彰晃の犯してきたといわれる一連の所謂《 サリン事件 》を彷彿とさせる。
 彼らの教学本にこう記してある。

 
 「 例えば、ここに悪業をなしている人がいたとしよう。そうするとこの人は生き続けることによって、どうだ善業をなすと思うか、悪業をなすと思うか。
 そして、この人がもし悪業をなし続けるとしたら、この人の転生はいい転生をすると思うか、悪い転生をすると思うか。
 だとしたらここで、彼の生命をトランスフォームさせてあげること、それによって彼はいったん苦しみの世界に生まれ変わるかもしれないけど、その苦しみの世界が彼にとってはプラスになるかマイナスになるか。プラスになるよね、当然。これがタントラの教えなんだよ 」
                 《 ヴァジラヤーナコース 教学システム教本 》

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 ちょっと逸脱するけど、旧約聖書的な堕落した人間たち、あるいは都市などの特定共同体に対する“ 神の怒り=殲滅と破壊 ”なんかは、仏教的なニュアンスと些か相違して、専制的絶対神的性格剥き出した直裁そのもの。規模も違うが、神が作ったものを神が灰にしてしまうだけのもの。
 あくまで魂の救済であるポアは、その技法をマスターしたグル(師)のみができるものらしい。尊師・麻原は、自らそれを任じ、信徒に実行させたという話だけど、事件から既に相当過った現在でも、これを論理的に超克できる思想・論理を、攻撃対象となった自民党半世紀支配のニッポン=“ 米国の傀儡権力 ”( オウム側の認識 )の側は当時も、現在も持ち得ていないし、これからも持ち得ないだろう。専ら強権的な力による押さえ込みに終始するばかりだろう。
 只、オウムの場合、地下鉄サリン事件等のように権力それ自体ではなく不特定多数をターゲットにしたのでは、本来のポアの概念と齟齬・矛盾が生じてしまっている。
 この余りにも明々白々な初歩的なミスを何故敢えて犯さねばならなかったのか?
 事件の2日前、坂本弁護士一家殺害事件等での強制捜査が近づいたためリムジンの中で麻原を含んだ幹部たちで謀議した攪乱工作って話になっているようだけど、随分と極秘裏に広大な毒ガス工場建設をやらかした緻密性にしては、単純な政治的・軍事的な面からしても何ともいい加減。そこが謎の部分で、肝心の点でもあると思うのだけど、杳として闇のまま。

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 サリンといわれている致死性ガスによる大量虐殺を前提とした行動の割には、つまりその後間髪入れずに次々と本格的な行動に移るのでなければ、警察・諜報機関などの手がのび身動きできなくなって頓挫してしまうのは時間の問題で、そんな矢継ぎ早な行動も起こせなかったし、社会不安を煽ってじっくりその影響が社会全体に及ぶのを待って次の行動に出るのであったら、当然に権力の包囲網と強制捜索をも念頭においていたはずなのだから、当然に第二の行動が為されていなければならなかった。杜撰は通用しないほどにオウムはそれ以前の様々な事件で元々権力に睨まれていたのにもかかわらず。不可解の一語に尽きる。あんな派手な一連の行動が出来た事自体も。

それに、当時オウム真理教が自衛隊のヘリコプターが、対ゲリラ戦あるいは対暴動民用に使用する電磁波による精神攪乱兵器をオウムに使っていると抗議していて、彼らの出版していた雑誌でも言及していた全くその質も規模もそれとは違う本来の電磁波によるマインド・コントロール兵器、それは当時世界的に騒がれてもいたもので、被害にあっていた人々のブログもあっちこっち散見されるようになっていたその兵器を権力( この国のなのか米国のなのか定かではないけど )が彼らに使っているという意識・言及が、( その後も裁判などでも)微塵も見られないのも何とも不可解。
マインド・コントロール兵器は、遠隔で被害者の脳波から心理・思考がリアルタイムで分かってしまい、被害者の視覚に映じるものも同様に見え、且つ心身の動きをも操作できるという代物なのだから。この奇妙さは双方向的に成り立ってしまう。

 ともあれ、そもそもオウム真理教=尊師・麻原は、宗教的専制政治=神政支配を目論んでいたようで、これだと例え実現できたとしても自民党半世紀支配と較べても、単なる横並び以上には出れまい。
 それにしても、ダライ・ラマ、事件当時吃驚仰天したろう。
 密教的解釈を逸脱して、政治的な現実行動原理としてしまったという訳になるのだろうが、中国からの自治回復あるいは独立運動に影が差し、中国権力側が一層厳しい眼差しを向けるようになったであろうし、その口実にはなったろうから。 

 《 訳者前書 》にもこうある。
 「 だから読者はグル・リンポチェの、神秘と奇跡的な事跡に満ちた、この神話的要素の強い物語を表面的に、あるいは字義通りに理解するのではなく、その隠された意味合いを注意深く読み解くことが重要であろう。」


「 パドマはいろいろなものに姿を変えては、諸魔を調伏しつづけた。
 ときに、よくいる乞食のなりをしたり、ときに八歳の童子に、または稲妻や風に、ときには女たちと戯れている美男になり、また鳥や動物、虫にもなったり、それから医者や金持ちの慈善家であったりもした。
 海で人を助けるために船と潮風に変わったり、火を消すために水になったこともある。 」

 《 パドマサンバヴァの生涯 》 W・Y・エヴァンス-ヴェンツ 
                   訳・加藤千晶+鈴木智子( 春秋社 )

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