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2014年5月 2日 (金)

 《 共喰い 》

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 観ようと思って結局観に行けなかった青山真治監督作品《 共喰い 》、レンタルビデオ屋の棚にようやく見出し鑑賞。彼の《 サッド・バケーション 》は既にビデオで観ていたものの、それとは筆致が些か異なっていて、主人公たる青年の性的鬱屈と蹉跌( それだけなら、邦画だけでも数多あるけれど、似た設定に黒木和雄監督《 祭りの準備 》 1975年 がある )、とりわけ《 性 》を基軸に明治維新以来のこの国の抑圧的負性(差別と暴力)を抉ってみせるという政治性に若干驚きを覚えてしまった。ぼくが青山について無知で、巷で彼が大島渚の後継者とか言われていたのを知らなかった故の驚きに過ぎないけど、明治維新の震源地の一つ長州=下関が舞台というのが何とも逆説的。維新革命から革命を引き抜いた、革命なき明治維新=明治新政府から第二次世界大戦を過て現在に至るこの国の論理的帰結。

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 この映画《 共喰い 》の主人公・遠馬の母親・仁子( 田中優子 )は、( 下関は対岸の門司港共々その置かれた軍事的重要性から米軍の集中的爆撃に苛まれてきた地域ではあったが、何処で被災したのかは定かでない )戦時中の空襲で負傷し左手首から先を失っていて、主人公の父親と一緒になる前、別の一緒になる予定だった男の母親に差別的な侮蔑的言辞を弄された。

 「 まさか手のない子供が産まれてくるんやないやろうね ! 」

 怒って仁子は、その手首のない腕先をその母親の口の中に押し込み、

「 あんたのその舌、胃袋まで押し込んじゃろうか ! 」

と啖呵を切ったという。
 尋常一様ではない所作だけど、元々の気の強さと相俟って、負傷以来の絶望と怒りの鬱積であったろう。この作品観ていて思い出したのが、件の大島渚の1969年作品《 少年 》( 脚本:田村孟 )。当時列島中を席巻したらしい実在の“ 当たり屋 ”一家を主人公にした物語で、少年の父親が戦争中に胸と片腕を負傷し、まともな職にもつけず、当時流行っていた走行中の車にわざと触れ怪我したと大騒ぎしては示談金を騙し取るという何とも死線ギリギリの危うい稼業に活路を見出して、それまで母親が一手に引き受けていたのがとうとう少年まで当たり役のお鉢が回り、その日以来、母親同様少年の身体に生傷の絶えることがなくなった。
 北海道での仕事の最中、避けようとした車が木に激突し、運転手と一緒に乗っていた少女が額から真紅の血を流して犠牲になってしまう。自分と同じ世代の少女の死に少年は激しく動揺し、いたたまれなくなってしまい、とうとう両親が警察に逮捕され、それまで頑なに口を割ろうとしなかった少年が施設に送られる途中だったか列車の中でふと窓外に見た雪景色に白い額に血の滴った少女を想い出し、警察に白状してしまう。

 そんな色々なメタファーが、この昭和の終焉に時代を設定した平成もいよいよおしつまろうとしているこの作品《 共喰い 》にも共通というよりむしろ照応の感すら覚える。只、《 少年 》の方は主人公があくまで少年( そして少女 )であって、その抒情性が《 共喰い 》とかなり異なりはする。
 大島の《 少年 》には巨大な日の丸と遺骨箱の山が少女の死の後のシーンで出てくる。一家の泊まった安旅館の部屋の中の唐突な光景だけど、青山の《 共喰い 》ではそんなあからさまな映像は出てこないものの端的に腕先を失った母親の口から、元夫である主人公の父親・円を殺害して後の刑務所での面会シーンで恩赦に絡めて、『 あの人 ( 天皇ヒロヒト )』、『 あの家 』とも、更に『 あの人より先に死にとうないち思うてきた 』と明瞭な言葉として吐露される。

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 下関といえば松田優作の生まれ育った鬱々とした、保守的で閉鎖的なイメージが強いけど、それは又、この国自体のあり様でもある。原作者の田中慎弥もそこで生まれ育ち現在もそこで“ 引きこもり & ニート生活 ”を送りながら執筆活動を続けているという。
 写真見ると如何にも鬱々とした日々の刻まれた幽閉された魂とでもいうべき相貌の持ち主で、それが芥川賞受賞後、AKBの大島優子が彼のこの小説を読み感想文を書いた機縁で対談までし、AKBのコンサートにも足を運んだりしたりと彼の閉塞生活にも微かな春風が吹き込んだようにも見える。
 
 主人公の母親の仁子は、夫、つまり彼の父親がセックスの際、快感が高まってくると相手の女に暴力をふるう癖があって、妻である彼女も無惨な痣が残るぐらい殴られ続け、心底憎悪していた。それでもすぐに離婚しなかったのは、彼が仁子の手首から先のないのを嫌って暴力をふるっていたのじゃなく、ひたすら自身の快楽の追求のためということを知っていたからだった。それでも主人公の弟妹になるはずの二人目の子供を身籠もった時、夫の胤( たね )を“ 悪の種子 ”といわんばかりに長男一人で十分と堕胎し、離婚した。それも川一つ離れたすぐ近くの川縁で魚屋を一人営み、主人公も頻繁に日毎通っていた。稀に父親も、ウナギ釣りにその魚屋のすぐ脇の川縁で彼と一緒に赴くこともあったようだ。
 このウナギが一つの性的メタファーとして扱われていて、その生活廃液等が流れ込み汚染された川、主人公はそこで釣れたウナギを嫌悪し決して口にすることはなかったものの父親の方は、平気で精力増進に一人貪った。以前父親が彼にそんな川を女の( 潤んだ )性器に例えたことがあり、魚屋の母親がさばいた魚の臓物が流れ落ち、主人公が風呂場の自慰で垂れ流した精液もその川に流れ込み、人間的欲望の排泄物で滑りきった谷間=川底で白濁したそれを喰らいあるいはそれにヌルヌルとまみれながらうごめくウナギは、主人公や父親の性的欲望=精液と愛液にまみれたペニスの象徴でもあるのだろう。正に循環であり、共喰いに違いない。
 そういえば、《 老子 》にこんな一節があった。

 谷神不死。是謂玄牝。
 玄牝之門。是謂天地根。
 綿綿若存。用之不勤。

 “ 玄牝之門 ”は女陰ってところだろう。

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 主人公には千種( ちぐさ )という一つ年上の恋人が居て、神社の神輿( みこし )を収めた倉庫で毎回逢瀬を重ねていた。ある時セックスの最中に自分の父親と同様の暴力的な衝動に駆られ懼れ狼狽してしまう。既に父親が頻繁に通っている近所のアパートの娼婦に対して暴力をふるっている設定になっているらしい。
 彼は父親と父親が新たに貰った水商売の若い女の嫁=義母との三人暮らしで、年から年中顔に痣を作ったままのその義母に、何故暴力をふるわれてるのに別れないのかと詰問してみても、わたしの身体が凄いらしいのよ、とまんざらでもないような素振りに返す言葉もなくなってしまう。頭の弱い女なんだなと決めつけていたら、子供を身籠もったと彼に告げて暫く過った祭りの日、一人去ってゆく。父親が件の娼婦が漏らしたらしい主人公のベッドでの表情を散々あげつらって笑いものにしたのを腹に据えかねてか、義母に逃げられたことを告げる。血相を変えた父親は雨の中を飛び出してゆく。大部して子供たちがずぶ濡れになって駆けつけてきた。逢瀬を一方的に約した千種の事であった。父親が千種を神輿の倉庫に連れ込んだという。急いで傘をもって神社に走って行く彼を、途中で、雨宿りしていた父親が呼び止めた。何事もなかったかのようないつもの口調で喋り始める。
   
 「・・・のう遠馬、そいやけお前も分かろうが、我慢出来ん時は誰でもよかろうが、割目やったら何でもよかろうが、のォ・・・あっ、お前まだあの娘殴っとらんそか、のォ」

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 罵声を浴びせ神社に突っ走ってゆくが後の祭り。薄暗い神輿倉庫に千種が一人散々殴られ犯されて身動きも出来ずに横たわっていた。暗くなって母親の店に千種を連れて行き、「殺してやる」と踵を返そうとするのを母親が止める。あんたじゃ無理、と言い放ち、包丁一本片手に蕭々と去って行く。
 人気のない一角での主人公に対する甚兵衛姿の父親が自分の局所をこれ見よがしに押さえながらの上記の間延びしたセリフ廻しだけど、普通これはちょっとあぶない精神的危殆に瀕したオヤジってところ。( 尤も監督の青山は原作者の田中との対談の中で、そんな有り様を“ 酩酊感 ”と表現している )でもこの映画では、この父親のざっくばらんなキャラクターの日常的な所作に過ぎず、そんなメンタリティーの持主たちって戦後は時代を経るにつれて微少になってきたろうが、戦前は決して少なくはなかったようだ。それが又同時に、作者の政治的意図でもあるのだろう。
 

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監督 青山真治
脚本 荒井晴彦
原作 田中慎弥《 共喰い 》
音楽 山田勳生、青山真治
撮影 今井孝博
編集 田巻源太
製作 スタイルジャム ( 2013年 )

遠馬  菅田将暉
仁子  田中裕子
千種  木下美咲
円   光石研
琴子  篠原友希子

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