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2014年7月26日 (土)

 秋山清『 目の記憶 』(1) 近代にゆらめく藁葺の源郷

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 【炎天下の下、今津の町はひっそりと佇んでいた。】


 金子光晴や辻潤よりやや遅れての同時代人に、秋山清という詩人がいる。
 長年、出身地が小倉となっていたのでそう思い込んでいたら、最近、古本屋で入手した彼の回顧録ともいうべき赤と黒の装幀の《 秋山清著作集 9 目の記憶 》に、実はその隣の町、藤原新也の旧郷・門司だったのが記され、その幼少時からの回顧が延々綴られていて驚いてしまった。
 この辺りでは裏日本という呼称と同様のニュアンスの裏門司と呼ばれる瀬戸内海側に面した、旧[ ふる ]くからの漁業・農業エリアの一角、今津という小さな漁村に産まれ、少年期を過ごしたという。現在は資本主義的論理の定式といわんばかりに広大な埋立地=工業団地やフェリー・ターミナルが拡がり、幹線沿線は各種トラックが走る埃っぽい地域となってしまっているものの、その一つ手前の海沿いには鄙びた漁村が静かに横たわり昔ながらの風情の残香ぐらいはまだ漂っている。

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 幕末・明治維新の二度、門司=企救半島[ 鎌倉時代頃には門司六郷とも呼ばれていた小倉の東半分も含めたエリア ]は、戦役や一揆に騒然とした経験があり、この小さな漁村もその舞台となったかどうかは定かでないけれど、1904年( 明治三十七年 )産まれというから1918年( 大正七年 )の《 米騒動 》の頃は思春期。

 小倉の中学に入学した最初の夏休みに入った直後、全国を席巻していた《 米騒動 》の嵐が港湾都市・門司の町でも吹き荒れた。第一次世界大戦の後、ロシアで起きたロシア革命を阻止するための《 シベリア出兵 》のため米の値段が高騰してしまい全国的規模で暴動が発生してしまったのだ。

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 【かつての茅葺きがトタン屋根に変わった漁港・今津の景観。でも大半は普通の民家で、訪れたのが日曜だったのもあるけど、商店らしき( かつてのそれらしき痕跡のある建物はあった )ものは見られなかった。旧い佇まいの民家は数えるほどしかない。】


 「『 とうとう門司、小倉にも米騒動のブチコワシがやってきた 』というはなしを、はじめはある恐怖をもってきき、だがすぐそれが見たくなり、門司の伯母の家にいった。
 伯母の家の者たちの話では、ひるまのうちは何ごともなく見えるが、夕方からどこともなく人々が出てきて、しだいに集まって、米屋など目がけて石を投げたり戸が壊されたり、あの町この町とひろがってゆく。だから店はどこも大戸をおろし、ただじっとしているだけ、巡査なども手がつけられん勢いだが、やがてブチコワシはどこかに行ってしまう。そしてそれがもう幾日もつづいているのだ、ということだった。
 壊された戸やブチコワシが引揚げていったという跡を見ただけで、はげしい現場にはついに出逢わなかったが、校長のいったのとはちがった意味で日本の歴史の画期的な出来ごとであった筈だ。」


 直接、警察も座視を余儀なくされた騒然とした暴動現場の只中でのリアルタイムな体験はなかったものの、その痕跡に、少年秋山は民衆の怒りの何たるかをそれなりに体得していたのかも知れない。というのは、かくいう秋山清って単なる詩人ではなく、アナキズム系の詩人だったから。
 ダダイスト辻潤、アナーキーな金子光晴、アナキスト秋山清って並びだけど、勿論前者の二人ほどには有名ではない。知る人ぞ知るってところだ。大体、芸術家・アーチストたちって、アナーキーやアナキズム志向はけっこう強い。無制約的な創造って奴だろうか。因みに、あのAKB論争の常連のアイドル評論家の中森明夫すら、未読だけどアナーキストを主人公にした《 アナーキー・イン・ザ・JP 》なる小説を書いているようだ。

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 【旧い朽ちた民家の背後によこたわる埋め立て工業団地にかかった鉄橋。その鉄橋の向こうにフエリー乗り場が覗けている。】

 「 福岡県企救郡松ヶ江村大字今津、人家百三十ばかり、人口七百ほどの、瀬戸内海の周防灘に向かった漁民部落、半分ほどが藁葺屋根で、かまどや囲炉裏で燃やすけぶりは、ワラ屋根のてっぺんの両端から洩れて空へ立ちのぼる。二階のある家は十軒くらいしかなかった。中に只一軒赤煉瓦の大きな屋根の家があった。小川という物持ちで、酒や酢、醤油と漁網をつくる材料の苧[お]なども売っていた。」

 「 漁場は目の前の周防灘[ すおうなだ ]である。おだやかな内海で、漁のあるのは春から秋まで、冬は来年の準備で、漁夫たちは長閑な日をすごしたらしい。それがもう私が気づいたときにはいくらか変化が起こりつつあった。漁閑期ともいうべき冬の間を、日傭[ ひやとい ]取りの労働に出る人々がいた。仕事場は、三キロ沖合の島で石灰石を採っているそこに行くことが第一。近くの道普請とか、水田用の溜池の土手の工事だとか、せいぜい六十銭くらいが、一日労働しての日当であった。
 私がまだそんなことに気づかないほんの少し前までは、漁網の手入れ、延縄の用意、あるいは山の立木を買って伐り出して薪をつくる、とかいうくらいのことが男たちの冬の仕事だったという。つまり前の海[ 周防灘 ]での漁獲が減って、冬場をゆっくりしているわけには行かないという現象が徐々に迫ってきたのである。夏の夕方に船がかえって来る「エイ掛け」などは、私が気がつくようになった五、六年の間に、ほとんど漁獲がなくなってしまった。エイは胎生だから繁殖力が弱い、だから新しい方法でもって獲られてしまったのだ、と学校で校長先生がいったことがある。そしてそれは二度と回復しない。鰆、蝦、鯛、はも、ふく、そんなものの漁獲高はしだいに落ちて、漁をやめる家も出るし、漁をやめて門司、小倉( いまは共に北九州市 )に出てゆく家もあった。ずっと遠い炭鉱地に移ってしまった友だちの一家もあった。そして漁をやめた者たちは、峠の向うの大里あたりの工場に通いはじめたが、それがどんどん人数を増やしていった。急激にそのことが目立ってきたのは、青島攻略の戦争が始まってからのようだった。」

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 【 今津漁港の船溜まり。】

「 魚がとれなくなった、仕事があるので町に通う、というただそれだけのことが、私の部落の様子をあまり長くないうちにがらりと変化させた。部落にはまだ電灯が来ていなかった。それが山をこえて電線がやって来て、各家に電灯が点るようになったのは小学校四年のときだった。」

 「私の目は、ようやく、幼いときの漁村今津の一隅から、少しひろまって松ヶ江村という西側を山にさえぎられた海岸ぞい一帯の農村を知り、そして今は鹿喰峠[かじきとうげ]の彼方の北九州の工業地帯にたいして、ある自覚をもつようになった。
 子供から、子供でなくなろうという年齢にまで到達しつつあった。その自覚の最初のものとして、峠の朝夕を歩いて街の工場に往復する人々の存在があった。
 私の部落から峠にかかる中間に畑という百姓部落がある。ここの百姓たちは峠をこえて町に働きに行こうとはしなかった。私のいた部落だけが極端に貧しかったのである。」


 あたかも符丁のように『 魚が獲れなくなった 』ってフレーズ日本中あっちこっちで囁かれ始めてもう久しいけど、こんな大正時代の頃からだったとは初耳。門司=今津の場合、基本的には国策としての急激な工業化=築港や工場用埋め立て、排水などの環境変化のなしえた業[ わざ ]であろう。そして工場労働者へって、絵に描いたような資本主義的発展史。
 そして同じ頃、第一次世界大戦中、世界に蔓延し多くの犠牲者を出した《 スペイン風邪 》がこの日本列島にも押し寄せてきた。


 「 私のはるかな記憶のなかでは、シベリア出兵と米騒動がかさなっている。それからもう一つ、大流行の“スペインかぜ”がかさなっている。
 大正七年の二学期のある日、七、八人が休んだ。次の日クラスが半分ちかく空席となった。不時呼集の鐘がなって運動場に全校の生徒が集められ、教頭の松木先生からいい渡された。『 遠くスペインからはじまって世界中にはやっている流行性感冒が日本にも来て、本校も今日は欠席者が多い、今から一週間休校する。』
 一週間の休みか、いいなあ、とおもって飛んでかえった。」

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 【 秋山が中学生になって毎日通った鹿喰峠の背後にそびえる戸ノ上山。】

 
 「 スペイン風邪はほんとうにひどかった。私の村でも、まだ土葬も多かったころだのに火葬場に煙がたえないといわれた。門司や大里あたりは、もう火葬場で死体がさばけきらず、山積みになっているなどとうわさが流れてきたくらいだった。スペイン風邪というと私は白いけむりが峠の向うの火葬場から朝も夕方も昇りつづけた記憶がすぐよびおこされる。白いけむりが山裾から稲の刈りあとの水田の方へたなびいている光景とともに、ほとんどの家に病人が出ていた。その中で、祖父も母も私もついに罹ることがなくてすんだ。
 一週間すぎて、学校に出てみると、大方元気でやってきた。そしてカゼのはげしい話ばかりだった。中には一家八人のうち、彼一人が生きのこって、父母きょうだいが死んでしまったという同級生もいた。妹が死んだ、母が死んだ、というのも幾人かきいた。」


 1918年( 大正七年 )頃から数年の間世界中で猛威をふるったパンデミック《 スペイン風邪 》の感染者六億人、犠牲者は四、五千万人という。日本での死者は約四、五十万人。尤も、発生源はスペインじゃなく米国らしい。おりからの大戦で米兵が大挙してヨーロッパ大陸に渡り、病原をも運んでしまって世界的に蔓延してしまったようだ。門司は世界航路の港湾都市でもあって、海外から直接人々の行き来があるので尚更だっただろう。
 
 夏の盆踊りに近辺の部落からやってきた連中との掛合い盆踊りうたの競演が、戦後いつの間にやらレコードと拡声器[ スピーカー ]による木曾節や佐渡おけさに変容してしまったことへの嘆きの後、もう一つの夏の風物詩として村相撲に触れている。


 「 相撲も夏の行事であった。田舎の宮相撲とか草相撲とかいうのには、素人相撲ながらのしきたりがあった。各部落に相撲の頭取がいて、どこかの部落が主催で相撲をやるとなれば、近所部落の相撲の頭取に挨拶が来る。それがないと相撲取も行かない。そんなことがないように、赤飯など下げて、私の家の近所にいた頭取のところへ挨拶に来たのを幾度も見たことがあった。柄にもなく鹿爪らしい挨拶を交わすのを見て、あれっと思った。『 鋸[のこぎり ]の親方 』とかいって、先方の頭取から来た使いの若い男が中腰にかがめて口上を述べていた。
 その夏の盆の十六日、近くの畑の宮の土俵で相撲があり、見物の中にいた私が、とつぜん飛び入りをして皆をおどろかせてやった。私は少しばかり自信がなくはなかったので、頭取の家にあった締込みを借りてもって行っていた。その日は、ただ好き勝手に、まだはじめのうち皆がとび出て、行司もなしにやっている時の土俵に上っただけですましたが、案外強いというので、頭取の万五郎爺( 鋸の親方 )から、次の相撲に是非出るようにいわれた。」

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 「 その前のある日稽古をしているところに、相撲上手で知られた、そのころ四十五、六になる甚作という人が来て、私に自分のマワシと今響という名をくれた。『是非おまえにやる』といわれて面くらった。田舎の相撲では人気力士が土俵で勝つと紙につつんで『花』が投げられる。そのときの相撲で私に投げられた『花』が七円くらいもあって、これにもおどろいた。私は相当の人気力士だったらしい。」


 「 若い男が中腰にかがめて口上を述べていた。」ってのは、いわゆる任侠・テキ屋たちの“ 仁義をきる ”とか称されている挨拶口上に似た類のものなんだろう。これを見ると、必ずしも任侠関係の専売特許ってことでもないようだ。相撲って戦前の村落共同体ではオフィシャルな花形格闘技だったらしい。これっていわゆる奉納相撲ってやつだろうか。

       『 秋山清著作集 9 目の記憶 』 著・秋山清( 株式会社ぱる出版 )

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