«  ゴルムドから西寧への旅 1993 | トップページ |  西寧から古都・洛陽の旅 1993 »

2014年8月30日 (土)

  秋山清『 目の記憶 』(2) 関東大震災的ゆらぎ

1_6

 【 西鉄バスの「畑」で降りると分かりやすい。真っ黄色の床屋の前から奥に向かってひっそりと今津の町が連なっている。 ( クリック拡大 )】


 秋山清は門司の隣町にあった小倉中学を卒業し、東京へと出立した。
 この全集ではないけど、映画監督の鈴木清順との対談(鈴木清順・著《 夢と祈祷師 》北冬書房 )の中で、秋山が自身の青年論あるいは旅論ともいうべきものを披瀝している。

 “ 若い時にはたいていの者が漂泊してみたいという気分になった経験があると思いますけれど、それは自分の住んでいる社会に対する違和感とか反感のようなもので、それは本当は人間として大事にしなければいけないものだと思うんです ”

   
 「 九州の最北端、企救半島をはさむ向こうの海とこちらの海、それをつなぐ鹿喰峠を往復しながら、おい、と声をかければおい、とこたえる幼な友だちや、その道のまがり角の石の凹凸から雨のあとのぬかるみの具合までそらんじているほどの、自分と不可分になっている狭い村と海岸の家並、この生まれた土地から出てゆこうという思いが、動かせないもののように根をおろした。とつぜんであればあるほど、はげしくその方向に私を駆りたてようとした。長い時間のなかでなら尻ごみをすることも、とつぜんの思いつきであればこそ、つよく私を牽引した。」


 「 学校もつまらなかったし、ふと近づきかけた詩人らもつまらなかったし、もともと自分が何になるのか、何をなすべきか皆目わからず東京にいた私には、夕方から働きに行っていた京橋の第一相互館(第一生命保険会社)のエレベーターボーイの仕事の方がはるかに楽しくもあった。」


2

 ( クリック拡大 )

 「 七階まであった第一生命の建物は、そのころ東京一の高層建築、私は午後四時から九時半か十時ごろまで、そしてその時間の二分の一ほどをそのエレベーターの上げ下げ運転をしていた。そのころはボタンを押して自動的に上下するエレベーターはまだなく、ハンドルでうごかしていた。その建物の七階には東洋軒という西洋料理店があって、各階の事務所が五時か六時に退けても、そこの客を運ぶ仕事がおそくまであった。」


 まずは喰わねばならぬと、秋山は、最初、この頃は未だ無声映画全盛で映画の弁士になってみようとして警視庁に許可願いを出したのが、暫くして郷里の門司の母親から手紙が届き、地元の駐在から秋山が活動( 映画 )弁士になる申請をしたらしくその身元調査が東京から来てるから、何としても辞めさせろと強弁された旨したためてあって、村での評判ががた落ちになるから弁士だけは辞めてくれと懇願していた。
 結局弁士は断念したという。映画俳優自体がまだ河原乞食という旧い封建時代の観念・イメージから抜け出せてない時代の産物で、弁士も同様と見なされていたようだ。 
 同郷の知人の伝手( つて )でようやくエレベーター・ボーイの仕事にありつけ、日大法学部予科にも入学したが、別段とくに映画が好きってわけでもなかったにもかかわらず、そこでもなりゆきで映画会クラブに入ることにもなった。当時、向島にあった日活撮影所に見学に赴いたり、トルストイ原作の《 天父セルギー 》の旧い擦り切れたフィルムを何処かから借り出してきて映画会を催したりしたという。


13b

 【 鎮守の森、神社へ登る石段へと連なる通り。かつて秋山少年が相撲をとったという境内があるのだろうか。】


 「昼食を早目に終えた男女の事務員たちが、丸型のエレベーターにどやどやと乗り込んで来て、乗りきれずに外に立っているものもいた。私がハンドルをとって回そうとした時、電灯が消えた。『 停電だ 』といって入口のドアを開くと皆はぞろぞろ外にでた。その最後の人が出るか出ない時、ガッガッとはげしい上下動が来た、と思うと間もなく、つづけて物すごい横揺れになった。」


 「 やっとそのはげしい大揺れが静まった時、四階の床に這うようにして出ることができた。
 しかし、私はこれが大地震だ、などとてんから思いもしなかった。北九州に育った私には皆目地震の経験がない。東京に出てきてから小さな地震がたまにあり、私がびっくりすると『 これくらい、東京じゃ度々だァ 』と事もなげにいわれたが、どのくらい揺れたら『 地震 』なのか、私には見当もつかなかった。
 私がやっとエレベーターから四階の床の上に出た直後に、二度目の大揺れが来た。今度も物凄かった。鉄筋コンクリートの建物全体がぎいぎい鳴りわめく。大きな四角の建物全体が斜めにゆがむ。立つことなどとんでもない、これはどうなるか、とただ四つ這いのままで必死の思いだった。しかし私はまだ、家が倒れたり、津波が起こったりする地震が来たなどとは思いもしなかった。最初の、つづいて二度目の、大揺れが過ぎて、ああよかったと思ったとき、ふと女たちの食堂の入口があいていたその中を見ると、女事務員たちが抱き合ったり、坐り込んだりして泣き叫んでいる。
 誰かがしきりと窓の方を指差しているので、走って行ってみると、見えるかぎりの東京の街の上は土けむりが立っていた。窓の下ではそのころ多かった木骨、煉瓦づくりの洋風の建物が、ぺちゃくちゃっと潰れて、そこからも黄色い土けぶりが立ちのぼっていた。」

 「 九月五日、地震から第五日目、鍛冶橋の上から下の濠を見下ろしている大勢にまじって、男と見える死体が黄色っぽい水に浮かんでいるのを見た。腹がふくれて、下向きになって、肘を張り足をひらいて曲げ、蛙みたいな恰好だ。ちょうど満潮らしく水面が近くなり、シャツ一枚を着た死体の背なかが乾いていた。はじめて見る震災犠牲者の死体である。内外ビルや東京会館の潰れた下に死体があるなどといううわさをきいていたが、見たのはこれがはじめてだった。人々の指さすままに、遠くの方にもまだいくつか死体があった。」

14b

 【門司港・大里側と今津・周防灘側とをへだてる山稜。大正末、中学生秋山や現金収入を得るため後には生活そのもののために工場に働きに向かった漁師たちが行き来したという。 ( クリック拡大 )】


 1923年(大正12年)9月1日正午直前、突如マグニチュード7.9 の大地震が関東一帯を襲った。十万人の犠牲者を出した《 関東大震災 》だ。
 秋山は一人エレベーターの中で激しく揺られ鉄格子に必死にしがみついていたらしい。時代の先端をいく近代工法のビルで助かったのだけど、九州から出てきたばかりの、家族が東京に居るのでもない独居生活だったので意外と気が楽で、直後の帝都の惨澹たる惨状を確かめにあちこち会社の者や友人と徘徊して廻っていたようだ。人気も疎らな皇居の濠で風呂代わりに水浴びすらし、水量が思った程でもなく腰の辺りぐらいしかないので気抜したという。  
 それでも、震災二日目当たりから既に朝鮮人襲撃の噂を耳にしていて、その不可解な不合理性に小首を傾げ、厄介になった先の知人宅でも自警団への参加を頑なに拒み、むしろその不合理性を説き続けたのを周辺住民から睨まれてもいたという。


 「 朝鮮人が徒党を組んで日本人を襲撃して来る、という現実性の弱いうわさが、どうしてあんなに、混乱の中で風よりも早く、震動のつづく街々を駈け抜けたか。日頃の朝鮮人軽蔑をうらがえした恐怖のはげしさが、朝鮮人虐殺を辻々の自警団にくりかえさせたものであったらしい。
 そのころ日本に移住して来ざるを得なかった境遇の朝鮮人たちの生活は苦しく、日本人よりもずっと安い賃金で働き、だから集団して自分らの生活圏を守っていた。彼らは無理矢理に覚えさせられた日本語の、濁音が半濁音になる場合が多かった。バビブベボがパピプペポに聞こえ易いのである。街々の自警団は、至るところに関所をつくり、通りかかった人々に、名前をいわせ、行く先をきいて、その間に朝鮮人らしい発音をきき分けようとした。
 詰まったり、どもったりすればそれが朝鮮人だ、といって捕らえる。斬る、突く、殴る、あらゆる暴虐が加えられた。『 朝鮮人 』であることが殺してもいい理由になったのだ。東京の焼け残った山手の街街で毎夜その残虐がくりかえされた。戒厳令による軍の支配下で、その暗黙の下で、それが行われたのである。」


4

 【漁港の向こうの埋め立て工業団地にまたがる鉄橋。左側向こうに、阪急フェリーの船影が覘けている。 ( クリック拡大 )】


 「 ほんの一ヶ月前の夏休みの、郷里での小旅行の時の自己嫌悪で、はなはだしい不信を自分に向けさせた私であったが、この地震につづく朝鮮人の大量虐殺は、私の失望を日本人というものに向けさせた。小学校中学校とおしておしえられて来た、東海の君子国、のイメージはいっぺんにけしとんでしまった。
 まだ私は、鮮人来襲を流言蜚語させた者が、どこか支配権力の周辺に居ようなどなどと思い見ることも出来ない幼稚さでしかなかったが、『 朝鮮人 』であるということだけで彼らを惨殺できる『 日本人 』を、容易に納得出来なかった。」

 「 『 ぼくのここで是非言って見たい事は、あの地震と火事は、どうして何処から起こったものなのか、それはどうしても防げなかったものか。その時の流言蜚語はどこから降って何処から湧いたか。戒厳令は果たして当を得た処置であったか、その功罪は果たしてどうであったか。鮮人問題と支那人問題、付たり[ つけたり ; 口実 ]過激派と社会主義者。大災に発露した無産者の人情美、それにつけても有産者には人情があるものか。知識階級と無産者の謂か。新聞社の見識のない事と意気地のない事。国士どころか豆粕にも到らぬ軍人の粕。人間の粕。・・・弁護士会の決議文。当局官憲の流言蜚語。亀戸事件と機関銃問題。・・・』 “ 地震・流言・火事・暴徒 ” 山崎今朝弥《地震憲兵火事巡査》( 1924年 )
 憤りをもって、以上の事柄について書く、と宣言をして、そして書かれたのが山崎今朝弥のこれらの文章だった。
 この時山崎は、鮮人暴動を伝えた流言は当局官憲であると明言している。
 私の大震災の時の思い出は生まれてはじめて出逢った天変地異に好奇心をおののかせて、昼と夜と東京の焼跡を歩きまわったということとともに、これらの流言蜚語にあやつられた日本人の姿に憤りつつ落胆したという記憶である。それは暗く、巨大で、正体をつかみ切れずにその後の幾十年を私とともに今に至るまでとどこおっているが、山崎の書いたものは、その当時私に理解しがたかったことを理解させ、回想させ、私のひそかにもった不信と不安が、支配者権力へのもであったことを私に納得させてくれた。」

5

 ( クリック拡大 )

 「 山崎が痛憤をこめて書いた数々のことは、要約して、朝鮮人の蜂起暴動ということが当局の流言に基づくこと、その朝鮮人暴動を教唆したのが社会主義者であるといいふらしたこと、後に朝鮮人大量虐殺が世界的な話柄[ わへい ; 話題 ]となった時国内でその事実の隠蔽につとめた勢力もまた同じもので、その間国内の輿論[ よろん ]はいうまでもなく、法の正しい裁きの為に存在すべき弁護士団までが、人民の味方でなく、強力なる趨勢に随従したことを彼はもっとも憤っている。」


 関東大震災での朝鮮人暴動の流言蜚語の流布・扇動と大杉栄・伊藤野江と甥の宗一少年虐殺をはじめとする社会主義者、労働組合活動家、更に中国人虐殺を担ったのが警視庁( 当時の警視総監・正力松太郎麾下 )・軍部であったのは、今や歴史的定式。
 明治・大正・昭和、社会主義者たちの弁護を布施辰治とともに一手に引き受けていた弁護士・山崎今朝弥が、現在の自民党権力関係が長年弄してきた手口と殆ど同様の手口を駆使しつづけていた大日本帝国政府を皮肉りながら、当時示された数字を並べて“ 二人から一万人の間 ”って指摘して見せている。ここで言われている弁護士団って直接的には《 東京弁護士会 》であって、ここ数十年の彼らの姿を見ていても、殆ど当時と大差ないのが辟易するほどに見え透いてしまう。正にバーチャル民主主義・司法。この国の住民って何ともお寒い環境をあたかも東洋どころか世界に冠たる一等国の僥倖の如くに享受させられてきたってことだろう。


12b

 【海側から今津の町を一望する。 ( クリック拡大 )】


|

«  ゴルムドから西寧への旅 1993 | トップページ |  西寧から古都・洛陽の旅 1993 »

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事