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2014年8月の3件の記事

2014年8月30日 (土)

  秋山清『 目の記憶 』(2) 関東大震災的ゆらぎ

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 【 西鉄バスの「畑」で降りると分かりやすい。真っ黄色の床屋の前から奥に向かってひっそりと今津の町が連なっている。 ( クリック拡大 )】


 秋山清は門司の隣町にあった小倉中学を卒業し、東京へと出立した。
 この全集ではないけど、映画監督の鈴木清順との対談(鈴木清順・著《 夢と祈祷師 》北冬書房 )の中で、秋山が自身の青年論あるいは旅論ともいうべきものを披瀝している。

 “ 若い時にはたいていの者が漂泊してみたいという気分になった経験があると思いますけれど、それは自分の住んでいる社会に対する違和感とか反感のようなもので、それは本当は人間として大事にしなければいけないものだと思うんです ”

   
 「 九州の最北端、企救半島をはさむ向こうの海とこちらの海、それをつなぐ鹿喰峠を往復しながら、おい、と声をかければおい、とこたえる幼な友だちや、その道のまがり角の石の凹凸から雨のあとのぬかるみの具合までそらんじているほどの、自分と不可分になっている狭い村と海岸の家並、この生まれた土地から出てゆこうという思いが、動かせないもののように根をおろした。とつぜんであればあるほど、はげしくその方向に私を駆りたてようとした。長い時間のなかでなら尻ごみをすることも、とつぜんの思いつきであればこそ、つよく私を牽引した。」


 「 学校もつまらなかったし、ふと近づきかけた詩人らもつまらなかったし、もともと自分が何になるのか、何をなすべきか皆目わからず東京にいた私には、夕方から働きに行っていた京橋の第一相互館(第一生命保険会社)のエレベーターボーイの仕事の方がはるかに楽しくもあった。」


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 「 七階まであった第一生命の建物は、そのころ東京一の高層建築、私は午後四時から九時半か十時ごろまで、そしてその時間の二分の一ほどをそのエレベーターの上げ下げ運転をしていた。そのころはボタンを押して自動的に上下するエレベーターはまだなく、ハンドルでうごかしていた。その建物の七階には東洋軒という西洋料理店があって、各階の事務所が五時か六時に退けても、そこの客を運ぶ仕事がおそくまであった。」


 まずは喰わねばならぬと、秋山は、最初、この頃は未だ無声映画全盛で映画の弁士になってみようとして警視庁に許可願いを出したのが、暫くして郷里の門司の母親から手紙が届き、地元の駐在から秋山が活動( 映画 )弁士になる申請をしたらしくその身元調査が東京から来てるから、何としても辞めさせろと強弁された旨したためてあって、村での評判ががた落ちになるから弁士だけは辞めてくれと懇願していた。
 結局弁士は断念したという。映画俳優自体がまだ河原乞食という旧い封建時代の観念・イメージから抜け出せてない時代の産物で、弁士も同様と見なされていたようだ。 
 同郷の知人の伝手( つて )でようやくエレベーター・ボーイの仕事にありつけ、日大法学部予科にも入学したが、別段とくに映画が好きってわけでもなかったにもかかわらず、そこでもなりゆきで映画会クラブに入ることにもなった。当時、向島にあった日活撮影所に見学に赴いたり、トルストイ原作の《 天父セルギー 》の旧い擦り切れたフィルムを何処かから借り出してきて映画会を催したりしたという。


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 【 鎮守の森、神社へ登る石段へと連なる通り。かつて秋山少年が相撲をとったという境内があるのだろうか。】


 「昼食を早目に終えた男女の事務員たちが、丸型のエレベーターにどやどやと乗り込んで来て、乗りきれずに外に立っているものもいた。私がハンドルをとって回そうとした時、電灯が消えた。『 停電だ 』といって入口のドアを開くと皆はぞろぞろ外にでた。その最後の人が出るか出ない時、ガッガッとはげしい上下動が来た、と思うと間もなく、つづけて物すごい横揺れになった。」


 「 やっとそのはげしい大揺れが静まった時、四階の床に這うようにして出ることができた。
 しかし、私はこれが大地震だ、などとてんから思いもしなかった。北九州に育った私には皆目地震の経験がない。東京に出てきてから小さな地震がたまにあり、私がびっくりすると『 これくらい、東京じゃ度々だァ 』と事もなげにいわれたが、どのくらい揺れたら『 地震 』なのか、私には見当もつかなかった。
 私がやっとエレベーターから四階の床の上に出た直後に、二度目の大揺れが来た。今度も物凄かった。鉄筋コンクリートの建物全体がぎいぎい鳴りわめく。大きな四角の建物全体が斜めにゆがむ。立つことなどとんでもない、これはどうなるか、とただ四つ這いのままで必死の思いだった。しかし私はまだ、家が倒れたり、津波が起こったりする地震が来たなどとは思いもしなかった。最初の、つづいて二度目の、大揺れが過ぎて、ああよかったと思ったとき、ふと女たちの食堂の入口があいていたその中を見ると、女事務員たちが抱き合ったり、坐り込んだりして泣き叫んでいる。
 誰かがしきりと窓の方を指差しているので、走って行ってみると、見えるかぎりの東京の街の上は土けむりが立っていた。窓の下ではそのころ多かった木骨、煉瓦づくりの洋風の建物が、ぺちゃくちゃっと潰れて、そこからも黄色い土けぶりが立ちのぼっていた。」

 「 九月五日、地震から第五日目、鍛冶橋の上から下の濠を見下ろしている大勢にまじって、男と見える死体が黄色っぽい水に浮かんでいるのを見た。腹がふくれて、下向きになって、肘を張り足をひらいて曲げ、蛙みたいな恰好だ。ちょうど満潮らしく水面が近くなり、シャツ一枚を着た死体の背なかが乾いていた。はじめて見る震災犠牲者の死体である。内外ビルや東京会館の潰れた下に死体があるなどといううわさをきいていたが、見たのはこれがはじめてだった。人々の指さすままに、遠くの方にもまだいくつか死体があった。」

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 【門司港・大里側と今津・周防灘側とをへだてる山稜。大正末、中学生秋山や現金収入を得るため後には生活そのもののために工場に働きに向かった漁師たちが行き来したという。 ( クリック拡大 )】


 1923年(大正12年)9月1日正午直前、突如マグニチュード7.9 の大地震が関東一帯を襲った。十万人の犠牲者を出した《 関東大震災 》だ。
 秋山は一人エレベーターの中で激しく揺られ鉄格子に必死にしがみついていたらしい。時代の先端をいく近代工法のビルで助かったのだけど、九州から出てきたばかりの、家族が東京に居るのでもない独居生活だったので意外と気が楽で、直後の帝都の惨澹たる惨状を確かめにあちこち会社の者や友人と徘徊して廻っていたようだ。人気も疎らな皇居の濠で風呂代わりに水浴びすらし、水量が思った程でもなく腰の辺りぐらいしかないので気抜したという。  
 それでも、震災二日目当たりから既に朝鮮人襲撃の噂を耳にしていて、その不可解な不合理性に小首を傾げ、厄介になった先の知人宅でも自警団への参加を頑なに拒み、むしろその不合理性を説き続けたのを周辺住民から睨まれてもいたという。


 「 朝鮮人が徒党を組んで日本人を襲撃して来る、という現実性の弱いうわさが、どうしてあんなに、混乱の中で風よりも早く、震動のつづく街々を駈け抜けたか。日頃の朝鮮人軽蔑をうらがえした恐怖のはげしさが、朝鮮人虐殺を辻々の自警団にくりかえさせたものであったらしい。
 そのころ日本に移住して来ざるを得なかった境遇の朝鮮人たちの生活は苦しく、日本人よりもずっと安い賃金で働き、だから集団して自分らの生活圏を守っていた。彼らは無理矢理に覚えさせられた日本語の、濁音が半濁音になる場合が多かった。バビブベボがパピプペポに聞こえ易いのである。街々の自警団は、至るところに関所をつくり、通りかかった人々に、名前をいわせ、行く先をきいて、その間に朝鮮人らしい発音をきき分けようとした。
 詰まったり、どもったりすればそれが朝鮮人だ、といって捕らえる。斬る、突く、殴る、あらゆる暴虐が加えられた。『 朝鮮人 』であることが殺してもいい理由になったのだ。東京の焼け残った山手の街街で毎夜その残虐がくりかえされた。戒厳令による軍の支配下で、その暗黙の下で、それが行われたのである。」


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 【漁港の向こうの埋め立て工業団地にまたがる鉄橋。左側向こうに、阪急フェリーの船影が覘けている。 ( クリック拡大 )】


 「 ほんの一ヶ月前の夏休みの、郷里での小旅行の時の自己嫌悪で、はなはだしい不信を自分に向けさせた私であったが、この地震につづく朝鮮人の大量虐殺は、私の失望を日本人というものに向けさせた。小学校中学校とおしておしえられて来た、東海の君子国、のイメージはいっぺんにけしとんでしまった。
 まだ私は、鮮人来襲を流言蜚語させた者が、どこか支配権力の周辺に居ようなどなどと思い見ることも出来ない幼稚さでしかなかったが、『 朝鮮人 』であるということだけで彼らを惨殺できる『 日本人 』を、容易に納得出来なかった。」

 「 『 ぼくのここで是非言って見たい事は、あの地震と火事は、どうして何処から起こったものなのか、それはどうしても防げなかったものか。その時の流言蜚語はどこから降って何処から湧いたか。戒厳令は果たして当を得た処置であったか、その功罪は果たしてどうであったか。鮮人問題と支那人問題、付たり[ つけたり ; 口実 ]過激派と社会主義者。大災に発露した無産者の人情美、それにつけても有産者には人情があるものか。知識階級と無産者の謂か。新聞社の見識のない事と意気地のない事。国士どころか豆粕にも到らぬ軍人の粕。人間の粕。・・・弁護士会の決議文。当局官憲の流言蜚語。亀戸事件と機関銃問題。・・・』 “ 地震・流言・火事・暴徒 ” 山崎今朝弥《地震憲兵火事巡査》( 1924年 )
 憤りをもって、以上の事柄について書く、と宣言をして、そして書かれたのが山崎今朝弥のこれらの文章だった。
 この時山崎は、鮮人暴動を伝えた流言は当局官憲であると明言している。
 私の大震災の時の思い出は生まれてはじめて出逢った天変地異に好奇心をおののかせて、昼と夜と東京の焼跡を歩きまわったということとともに、これらの流言蜚語にあやつられた日本人の姿に憤りつつ落胆したという記憶である。それは暗く、巨大で、正体をつかみ切れずにその後の幾十年を私とともに今に至るまでとどこおっているが、山崎の書いたものは、その当時私に理解しがたかったことを理解させ、回想させ、私のひそかにもった不信と不安が、支配者権力へのもであったことを私に納得させてくれた。」

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 「 山崎が痛憤をこめて書いた数々のことは、要約して、朝鮮人の蜂起暴動ということが当局の流言に基づくこと、その朝鮮人暴動を教唆したのが社会主義者であるといいふらしたこと、後に朝鮮人大量虐殺が世界的な話柄[ わへい ; 話題 ]となった時国内でその事実の隠蔽につとめた勢力もまた同じもので、その間国内の輿論[ よろん ]はいうまでもなく、法の正しい裁きの為に存在すべき弁護士団までが、人民の味方でなく、強力なる趨勢に随従したことを彼はもっとも憤っている。」


 関東大震災での朝鮮人暴動の流言蜚語の流布・扇動と大杉栄・伊藤野江と甥の宗一少年虐殺をはじめとする社会主義者、労働組合活動家、更に中国人虐殺を担ったのが警視庁( 当時の警視総監・正力松太郎麾下 )・軍部であったのは、今や歴史的定式。
 明治・大正・昭和、社会主義者たちの弁護を布施辰治とともに一手に引き受けていた弁護士・山崎今朝弥が、現在の自民党権力関係が長年弄してきた手口と殆ど同様の手口を駆使しつづけていた大日本帝国政府を皮肉りながら、当時示された数字を並べて“ 二人から一万人の間 ”って指摘して見せている。ここで言われている弁護士団って直接的には《 東京弁護士会 》であって、ここ数十年の彼らの姿を見ていても、殆ど当時と大差ないのが辟易するほどに見え透いてしまう。正にバーチャル民主主義・司法。この国の住民って何ともお寒い環境をあたかも東洋どころか世界に冠たる一等国の僥倖の如くに享受させられてきたってことだろう。


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 【海側から今津の町を一望する。 ( クリック拡大 )】


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2014年8月16日 (土)

 ゴルムドから西寧への旅 1993

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 ( 西寧体育館の敷地内のテント小屋。一見カンフー的大道芸かと思いきや、実際は手品やブレークダンスの見物小屋。メイベル・チャン監督「北京ロック」中国題 : 北京楽興路を思い出す。)
 

八月にもかかわらず天候不順なチベットの麓の町ゴルムドから、青海省の省都・西寧(シーニン)に向かう。
 
 304次 客快 列車
 ゴルムド → 西寧
 8月14日 15:20発 → 17:35 着
 10車71座 ( 硬座 )
          71元 FEC
 
 列車は一時間遅れの4時20分に出発。
 シートはビニール張りの2×3。ぼくは二人掛け通路側。
 思ったほど混んではいなかった。
 通路を挟んだ反対側の席に、日本人が一人入ってきた。今日、敦煌からバスでやってきたという。ぼくも二日前に、柳園( 敦煌 )から中国の核実験場の噂のあった幻のロプノール脇やタリム盆地をボロ・バスにゆられながら新興の町ゴルムドにやってきたのだけど、景観はなかなかのものだった。何十キロにも及ぶかと思われた傾斜を延々とのぼって行く景色も凄かった。
 この列車の窓外にひろがる青海高原の景色もなかなか良い。
 その日本人がいる三人掛けのシートとその近辺に陣取った中国人の学生と思われる青年たちの食べている物( 買ったもの )が随分と豪勢で、中国では学生って特権階級的存在なのかと些か驚いてしまった。面白かったのは、その中の一人が、テーブルの上に彼らが置いたティッシューがあるにもかかわらず、通路の上で手洟( てばな )をかみ、その後自前のハンカチで拭っていたことだ。何やらその時の中国の置かれた位相ってものを明かしているようで興味深かった。それにしても、この列車、インドやパキスタンなみかそれ以上にやたら物売りが多く、後にも先にも中国の列車でこれほど物売りがひっきりなしに行ったり来たりしてるのを見たのはこの“ 304 ”次客快だけであった。これも《 改革開放 》の波ってやつだったのだろう。貧しかった者はまともな生活を、そこそこの生活だった者はも少し増しな余裕のある生活を目指して。

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 ( 敦煌→ゴルムドの間の景観 )

 
 翌朝、窓外に美麗な景色がつづいた。
 小さな湖の次に青海湖が現れた。
 思っていたよりもぼく好みの景観ですっかり気に入ってしまった。手前の草原の向こうに、黄土、そして碧い湖、更にそのむこうに砂礫の山々。

 西寧には11時半頃到着。
 駅の背後に巨大な礫山がドドッと立っていて、考えてみればこれは場所柄地理的にはむしろ当然なのだろうが、西寧では有名らしい北山(禅)寺=道観( 元々は仏教寺院 )のイメージからもっと中国風・山水画風の佇まいを勝手に想像していて面喰らった。
 オーソドックスな西寧賓館にチェック・イン。
 一楼=地階の四人部屋ドミトリー( 多人房 )。15元FEC。シャワーがなく、バス・タブで、ちゃんと湯は出た。カラーTVまで備わっていた。
 旧い建物で、広い庭にリンゴの木がいっぱい植わってて、赤や青の実がたわわになっていた。まだ早いのか実は小振りだった。中国のリンゴは日本のように品種改良の結晶のような代物と違ってプリミティブな本来の種に近く、実が堅く甜みが少ないのが多い。それはそれで喰えなくもない。

 この時季、海抜2200メートルの西寧は、天候は良くなく、肌寒い日も多い。
 地図に載っている八月の平均雨天日数が14・3で、月の半分が雨天。尤も、雨量はと言うと81・6ミリと少なく、せいぜいが降っても小雨か霧雨の類ってことになる。しかし、曇天続きであることには変わりない。

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 ( チベツト仏教寺院「タール寺」 クリック拡大 )


 郊外には有名なチベット仏教寺院タール( 塔爾 )寺があるけど、市内じゃ長江路から下って西大街→東大街→東関街へと向うと東関清真大寺イスラム・モスクがあり、この辺りはイスラム系住民が多いようで、薄い黒のベールをかぶった女性の姿も多々見られる。男は定番白い縁なしのまん丸帽。
 長江路から西大街に《 人民劇院 》があって京劇の看板が立っていたので夕方六時頃再訪すると、玄関の隙間から、京劇じゃなく派手なモダーンな衣裳の踊子たちが横一列になってダンスの練習をしていた。訳が分からず、そこを後にして通りの向かいにある《 人民電影 》に赴く。普通の映画館と二軒のビデオ映画館で構成されていて、一楼のビデオ映画館の方に入った。( 1・5元 )。香港映画の三本立てで、三本ともそれぞれ別々のシリーズ物のようだった。
 二本目がジェット・リー主演の《 笑傲江湖 東方不敗 》だった。
 普通のプロジェクターの割には随分と大きな建物で、日本の小さな映画館より広かった。只、所詮プロジェクターなので解像度が低く、画面も小さいので、うしろの方で観ていたぼくには、中国語の字幕がもう一つ判然とせず見づらかったし、館内は禁煙じゃなくてもうもうと紫煙白煙が漂っていて、長時間長居はできず退散。
 ジェット・リーと台湾女優ブリジット・リンの共演なかなかのもので、長崎・平戸すら出てきて、そこで日本の民謡をすらジェット・リーが唄って見せたり怪しげな日本語を駆使したりのはちゃめちゃな異国情緒溢れた、一種のロード・ムービーともいえなくもなく、この映画ぼくの好きな映画の一つとなった。ここがこの映画の初見の地であったのを今頃思い出した。
 館を出たのが九時過ぎで、西大街の夜の通りはネオンで輝いていた。回族( イスラム系民族 )の屋台がひしめき、大半がタレをつけたカバーブの店だったけど、何処も客で賑わっていた。深夜遅くまで営っているようだった。さすが青海省の省都だけのことはあった。当時60万人だった人口が20年後の現在では200万人と急増著しい。

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  (先のとんがった桃。日本ではまずお目にかかれない。ぼくにとっては正に孫悟空以来の中国神話世界の象徴。でも、桃太郎なんかじゃやはり同じ先のとんがった桃が描かれていて、日本でも昔はとんがっていたのだろうか。 )

 
 翌日の早朝、同室の日本人蘭州に発つ。
 朝食代わりに、東大街を途中から南に下る莫家街にある《 新業小吃 》のあんまん( 豆沙包子 )を一籠( 5個=1・5元 )食べる。適度の甘さでうまい。ここは甘味屋で、
ぜんざい( 紅豆羹 )0.8元、今では日本でも有名になった湯元1.3元( 白ごまや何かの入った餡 )なんかがある。
 水井巷で先の尖った桃を買う。4個=1・2元。西遊記の挿絵に出てくるような奴で、日本じゃまずお目にかかれない種類なので頻(よ)く食べた。味は日本の桃と変わらない。

 夕方、朝から降っていた雨があがったので、夕食後、南大街から南山路を西側へ南川河方面に向かい《 南禅寺 》を訪れた。
 少し高台にある泥煉瓦造りの寺院。
 かつての僧院らしき建物には民間人が入り民家として使われているようだった。建物はかなり朽ちた感じで装飾が独特なカラフルさのチベット系寺院。明代に創建され、清代に現在の形の粗景が作られたという。本堂らしき建物には真新しい黄金の仏陀像や観音像が安置してあり、信者たちが線香をあげ、燈明に火を点じたりしていた。そこの住職らしき坊主が茶色の法衣=袈裟をまとって経をあげていた。了(おわ)ってその法衣を脱ぐと、その下は何と青い工人服であった。ふと見ると、もう一人、ぼくを本堂に呼び寄せた若い方の坊主がいつの間にやら黒い法衣をまとい、長椅子に坐って流行の電子ゲームに興じていた。
 それにしてもここからの景観は良く、少し晴れた空の下、西寧の街の周囲の黄色の山々がずらり見渡せた。

 部屋の三つ空いていたベッドに皆真新しいリュックが置いてあった。ドイツ系の青年たちで、面白いことに、坊主頭、普通の短髪、長髪の絵に描いたような髪型の三人組だった。

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 ( 北山寺の新築か改築された堂の屋根の上。黒装束の道士の姿も。 クリック拡大 )


 八月十九日。
 今日も天候良く、前々から登ってみようと思って悪天候のためなかなか実行できなかった《 北山寺 》へ向かう。 北山の山頂近くに建てられた青海省で一番古い寺院で、北魏の頃創建されたという。
 天然断層の断崖を東西に抉って桟道回廊が伸び、洞壁に華麗な装飾や仏像群が網羅され《 西平莫高窟 》とも呼ばれているらしい。後代、道教寺院=道観となって今日に至っているようだけど、文化大革命の頃に破損でもしたのだろうか、ぼくが訪れた時は、真新しい( あるいは再建か大幅修復であろうか )堂が多く、ちょうどある堂の棟上げ式のようなものが催されていた。頭髪を頭頂で丸め大きな簪( かんざし )を一本真横に刺した、この道観の主宰者と覚しき黒衣をまとった長身の顎髭の中年男が、屋根の上から、真下に待っている信者や観光客、大工たちにアメやピーナッツを投げていた。その後、更にその上にある建物の門からも、今度は紙幣も含めて撒( ま )きはじめた。昨今は殆ど見られなくなったようだが以前の日本と同様の棟上げ式の光景は微笑ましいものであった。

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 ( 土産物屋の居間 祖先を祀った棚 調度やレイアウトが気に入って撮らさせて貰った。親爺さんは渋ったけど、嫁さんが愛想良く許してくれた。 クリック拡大 )


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2014年8月 9日 (土)

 アルジェリアの死と太陽『 最初の人間 』

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 1960年1月自動車事故で亡ったフランスの小説家アルベール・カミュの未刊の遺稿《 最初の人間 》の映画化したものという。カミュといえば、同時代の哲学者・小説家サルトルの“ 実存主義 ”と並んで”不条理の哲学 ”で有名だ。

 『 ママンが、死んだ 』で始まって、久し振りに戻ってきた主人公ムルソーのアルジェリアの灼熱の太陽の光に駆られるように拳銃の引鉄を引き殺人を犯してしまう《 異邦人 》を昔読んだ記憶があって、一瞬の心の間隙を狙い澄ましたようにテロルへの衝動すら惹起するギラギラと眩く照り続ける中東・北アフリカ( マグレブ )の陽光って一体どんなのだろうと想像力を逞しくしたものであった。

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 が、この《 最初の人間 》は、原作は未読だけど、随分と《 異邦人 》とは雰囲気が異なる。
 カミュの化身たる高名な小説家主人公ジャック・コルムリが老いた母親に会うため数年ぶりにアルジェリアに戻り、旧知の人々と旧交を温め、遥か昔の少年時代の記憶に想いを馳せ、終いには独立派のテロリストとして官憲に囚われたアラブ地区に住むアルジェリア人の友人の息子を救出するため伝手( つて )を頼って奔走する運びとなってしまう。しかし、決して自身の信念を曲げなることもしなかった息子は、その甲斐もなく、断頭台ギロチンの露と化してしまう。母親もフランスに戻ることを拒み、危険で血腥くなってきてはいるものの、やはり、住み慣れたアルジェリアに住み続けることを選ぶ。

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 時代設定は1957年夏。
 前年、長年にわたって植民地支配してきたベトナムからの全面撤退したばかりのフランスは、南部マルセイユから地中海をたった600キロ南に下ったところにある北アフリカ・アルジェリアでもますます激しさを増してくる現地アルジェリア人たちの独立運動との熾烈な戦いの真っ最中。まだ悪名高い独立阻止の植民地主義者秘密軍事組織OASが登場する前。( OASといえば、奇しくも中・南米に網羅された悪名高いアメリカの反共的植民地支配組織=米州機構と同名 )

 カミュがアルジェリア育ちとはこの映画で初めて知ったけど、それも彼の家族自体がアルジェリアに植民移民した入植者・労働者家族だったとは驚いてしまった。てっきりプチブル家庭ていどと思い込んでいたのが、この映画でも、父親が第一次世界大戦で戦死して後の貧しい家庭で育ち、生活のために幼少の頃からあっちこっちで働いている。何よりも彼以外彼の母親も祖母も叔父も文盲なのだ。そんな境遇の人々が移民労働者としてより良い生活を求めて大挙して押し寄せてきたのが植民地アルジェリアであった。程度の差こそあれ、大陸の植民地になだれを打って渡っていった日本の移民労働者たちも似たり寄ったり。この映画を観てるとかつての日本の植民地支配の姿が如実に浮かび上がってきて、その同一性と本質性に感心させられてしまう。

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 ジャック少年=カミュ少年は利発で、学校の先生も彼が上級の学校に進学することを家族にすすめるシーンがあって、これって、以前紹介した太平洋戦争直前の成瀬巳喜男監督作品《 はたらく一家 》の中に、雨中貧しい子沢山の貧困家庭に先生が訪れる場面があったのと同様、当時は、洋の東西を問わず、一握りの有産階級以外の大半の家庭では都市・農村関係なく皆少年時から家のためにも自分のためにも働きに出るのが普通の貧弱な経済構造的産物。戦前の日本では基本、尋常小学校卒だったらしい。貧しい家庭じゃ小学校もろくに通わず家の一人前の働き手として丁稚奉公やら見習い工員、少女は女中やら娼家の見習いってところだったようだ。

 少年時代のアルジェリアの港町付近の描写、殊更耽美的って訳でもなく、淡々としたノスタルジアって趣きで、クラスの中で異質な存在性を漂わせた一人紛れ込んだようなアルジェリア人少年が、植民地の実相をそれとなく伝えている。そのアルジェリア少年こそ後にジャック少年の友人となり、高名な小説家ジャック・コルムリとなって帰郷し際には、独立派=アルジェリア民族解放戦線(FLN)の活動家として官憲に捕らえられた自身の息子の救出を依頼するようになるのだけれど。

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 宗主国フランスの植民地アルジェリア。
 植民地時代のアルジェリア出身の人物にけっこう有名な人々がいるのに驚いた。
 あのファッション・デザイナーのイヴ・サン=ローランはじめ、古いところではシャンソンの大御所エディット・ピアフの恋人だったボクシング・チャンピヨンのマルセル・セルダン、フランスを代表する思想家ジャック・デリダ、ルイ・アルチュセール等々。日本だと“ 大陸からの引き揚げ者 ”という括りだろうが、例えばこれも以前紹介した作家・甲斐大作なんか戦後引き上げてきて相当過っても育った大陸=植民地への思慕・憧憬は並々ならぬものがあるようで、幾つかの作品に結晶化されている。これは、その歴史的構造的関係とは別個に当事者の“ 出自 ”という根本的な処で容易に払拭できない質のものであるようだ。カミュ然り。

 終盤、ジャック・コルムリはラジオに出演してこう宣言する。

 『 分断でなく団結せよ !
   だがテロには反対する。
   通りで無差別に起こる爆発は
   いつか愛する者に
   襲いかかるかもしれない。
   ・・・私は正義を信じる。
   アラブ人に告ぐ !
   私は君たちを守ろう。
母を敵としない限りは・・・
   母は君たちと同様
   不正と苦難に堪えてきたからだ。
   もし母を傷つけたら
   私は君たちの敵だ ! 』

 彼=カミュの言う“ 団結 ”とは、宗主国フランスからやってきた入植者(ピエ・ノワール)、つまり地主(コロン)や移民労働者たちと、被植民地住民としてさんざんな目に会い続けてきた地元民アルジェリア人たちとの融和的な団結のことであって、当時もアルジェリア民族解放戦線FLNを支持するサルトル等に批判されていたらしい。
  例え、テロル自体じゃなく無差別テロの無差別性に対する批判のつもりであったとしても、所詮欧米列強の植民地主義的な侵略・搾取でしかない入植&入植者と被植民地側のアルジェリア人との間の宗主国フランス側の虫の良い融和策など独立派・FLNにとっては論外であったろう。

現実には、この頃、フランスは、アルジェリアに既に数十万人もの軍隊を投入していたという。結果1962年に正式にフランス支配から脱却し独立するまで数十万人もの犠牲者を出し、100年以上入植活動してきた百万人ものフランス人たちは大挙してフランスに戻る羽目に陥った。そこでの上記のカミュ=ジャック・コルムリの発言は余りにも入植者然とした御都合主義以外の何ものでもあるまい。

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 それにしても、フランスの南六百キロの地中海を越えたアルジェリアに対する植民地支配=入植者たちの姿って、日本の、日本海を越えた大陸での植民地支配=入植者たちのそれを明かして余りあり、相似というよりその同一性に今更のように瞠目させられてしまった。
 とどのつまり、幕末に高杉晋作たちが抱いていたとされるアジアにおける欧米列強の悪辣な植民地主義的侵略に対する怒りと警戒の念って、その後の明治維新→大東亜戦争・太平洋戦争まで貫通した連綿なのか、それとも晋作・龍馬死後の明治維新において既に批判してきた当のものに自分たち自身が成り上がってしまっていたという180度の逆説的変容をきたしていたってことだろうか?


監督ジャンニ・アメリオ
原作アルベール・カミュ
脚本ジャンニ・アメリオ
製作 フランス・イタリア・アルジェリア合作 (2011年)


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