アルジェリアの死と太陽『 最初の人間 』

1960年1月自動車事故で亡ったフランスの小説家アルベール・カミュの未刊の遺稿《 最初の人間 》の映画化したものという。カミュといえば、同時代の哲学者・小説家サルトルの“ 実存主義 ”と並んで”不条理の哲学 ”で有名だ。
『 ママンが、死んだ 』で始まって、久し振りに戻ってきた主人公ムルソーのアルジェリアの灼熱の太陽の光に駆られるように拳銃の引鉄を引き殺人を犯してしまう《 異邦人 》を昔読んだ記憶があって、一瞬の心の間隙を狙い澄ましたようにテロルへの衝動すら惹起するギラギラと眩く照り続ける中東・北アフリカ( マグレブ )の陽光って一体どんなのだろうと想像力を逞しくしたものであった。

が、この《 最初の人間 》は、原作は未読だけど、随分と《 異邦人 》とは雰囲気が異なる。
カミュの化身たる高名な小説家主人公ジャック・コルムリが老いた母親に会うため数年ぶりにアルジェリアに戻り、旧知の人々と旧交を温め、遥か昔の少年時代の記憶に想いを馳せ、終いには独立派のテロリストとして官憲に囚われたアラブ地区に住むアルジェリア人の友人の息子を救出するため伝手( つて )を頼って奔走する運びとなってしまう。しかし、決して自身の信念を曲げなることもしなかった息子は、その甲斐もなく、断頭台ギロチンの露と化してしまう。母親もフランスに戻ることを拒み、危険で血腥くなってきてはいるものの、やはり、住み慣れたアルジェリアに住み続けることを選ぶ。

時代設定は1957年夏。
前年、長年にわたって植民地支配してきたベトナムからの全面撤退したばかりのフランスは、南部マルセイユから地中海をたった600キロ南に下ったところにある北アフリカ・アルジェリアでもますます激しさを増してくる現地アルジェリア人たちの独立運動との熾烈な戦いの真っ最中。まだ悪名高い独立阻止の植民地主義者秘密軍事組織OASが登場する前。( OASといえば、奇しくも中・南米に網羅された悪名高いアメリカの反共的植民地支配組織=米州機構と同名 )
カミュがアルジェリア育ちとはこの映画で初めて知ったけど、それも彼の家族自体がアルジェリアに植民移民した入植者・労働者家族だったとは驚いてしまった。てっきりプチブル家庭ていどと思い込んでいたのが、この映画でも、父親が第一次世界大戦で戦死して後の貧しい家庭で育ち、生活のために幼少の頃からあっちこっちで働いている。何よりも彼以外彼の母親も祖母も叔父も文盲なのだ。そんな境遇の人々が移民労働者としてより良い生活を求めて大挙して押し寄せてきたのが植民地アルジェリアであった。程度の差こそあれ、大陸の植民地になだれを打って渡っていった日本の移民労働者たちも似たり寄ったり。この映画を観てるとかつての日本の植民地支配の姿が如実に浮かび上がってきて、その同一性と本質性に感心させられてしまう。

ジャック少年=カミュ少年は利発で、学校の先生も彼が上級の学校に進学することを家族にすすめるシーンがあって、これって、以前紹介した太平洋戦争直前の成瀬巳喜男監督作品《 はたらく一家 》の中に、雨中貧しい子沢山の貧困家庭に先生が訪れる場面があったのと同様、当時は、洋の東西を問わず、一握りの有産階級以外の大半の家庭では都市・農村関係なく皆少年時から家のためにも自分のためにも働きに出るのが普通の貧弱な経済構造的産物。戦前の日本では基本、尋常小学校卒だったらしい。貧しい家庭じゃ小学校もろくに通わず家の一人前の働き手として丁稚奉公やら見習い工員、少女は女中やら娼家の見習いってところだったようだ。
少年時代のアルジェリアの港町付近の描写、殊更耽美的って訳でもなく、淡々としたノスタルジアって趣きで、クラスの中で異質な存在性を漂わせた一人紛れ込んだようなアルジェリア人少年が、植民地の実相をそれとなく伝えている。そのアルジェリア少年こそ後にジャック少年の友人となり、高名な小説家ジャック・コルムリとなって帰郷し際には、独立派=アルジェリア民族解放戦線(FLN)の活動家として官憲に捕らえられた自身の息子の救出を依頼するようになるのだけれど。

宗主国フランスの植民地アルジェリア。
植民地時代のアルジェリア出身の人物にけっこう有名な人々がいるのに驚いた。
あのファッション・デザイナーのイヴ・サン=ローランはじめ、古いところではシャンソンの大御所エディット・ピアフの恋人だったボクシング・チャンピヨンのマルセル・セルダン、フランスを代表する思想家ジャック・デリダ、ルイ・アルチュセール等々。日本だと“ 大陸からの引き揚げ者 ”という括りだろうが、例えばこれも以前紹介した作家・甲斐大作なんか戦後引き上げてきて相当過っても育った大陸=植民地への思慕・憧憬は並々ならぬものがあるようで、幾つかの作品に結晶化されている。これは、その歴史的構造的関係とは別個に当事者の“ 出自 ”という根本的な処で容易に払拭できない質のものであるようだ。カミュ然り。
終盤、ジャック・コルムリはラジオに出演してこう宣言する。
『 分断でなく団結せよ !
だがテロには反対する。
通りで無差別に起こる爆発は
いつか愛する者に
襲いかかるかもしれない。
・・・私は正義を信じる。
アラブ人に告ぐ !
私は君たちを守ろう。
母を敵としない限りは・・・
母は君たちと同様
不正と苦難に堪えてきたからだ。
もし母を傷つけたら
私は君たちの敵だ ! 』
彼=カミュの言う“ 団結 ”とは、宗主国フランスからやってきた入植者(ピエ・ノワール)、つまり地主(コロン)や移民労働者たちと、被植民地住民としてさんざんな目に会い続けてきた地元民アルジェリア人たちとの融和的な団結のことであって、当時もアルジェリア民族解放戦線FLNを支持するサルトル等に批判されていたらしい。
例え、テロル自体じゃなく無差別テロの無差別性に対する批判のつもりであったとしても、所詮欧米列強の植民地主義的な侵略・搾取でしかない入植&入植者と被植民地側のアルジェリア人との間の宗主国フランス側の虫の良い融和策など独立派・FLNにとっては論外であったろう。
現実には、この頃、フランスは、アルジェリアに既に数十万人もの軍隊を投入していたという。結果1962年に正式にフランス支配から脱却し独立するまで数十万人もの犠牲者を出し、100年以上入植活動してきた百万人ものフランス人たちは大挙してフランスに戻る羽目に陥った。そこでの上記のカミュ=ジャック・コルムリの発言は余りにも入植者然とした御都合主義以外の何ものでもあるまい。

それにしても、フランスの南六百キロの地中海を越えたアルジェリアに対する植民地支配=入植者たちの姿って、日本の、日本海を越えた大陸での植民地支配=入植者たちのそれを明かして余りあり、相似というよりその同一性に今更のように瞠目させられてしまった。
とどのつまり、幕末に高杉晋作たちが抱いていたとされるアジアにおける欧米列強の悪辣な植民地主義的侵略に対する怒りと警戒の念って、その後の明治維新→大東亜戦争・太平洋戦争まで貫通した連綿なのか、それとも晋作・龍馬死後の明治維新において既に批判してきた当のものに自分たち自身が成り上がってしまっていたという180度の逆説的変容をきたしていたってことだろうか?
監督ジャンニ・アメリオ
原作アルベール・カミュ
脚本ジャンニ・アメリオ
製作 フランス・イタリア・アルジェリア合作 (2011年)
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