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2014年10月 4日 (土)

 大正テロリスト・中浜鉄 ( ギロチン社 )  秋山清『 目の記憶 』

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 関東大震災における余波ともいえる、つまり帝都・東京の壊滅的震撼に便乗し朝鮮人・中国人、社会主義者・労働組合活動家虐殺、とりわけ当時活動家の頭目と目されていたアナーキスト大杉栄と妻・伊藤野枝、たまたま居合わせたたった六歳の甥・宗一少年のリンチ殺害に対する一部のアナーキストたちの一連の報復事件で、大杉栄の労働運動社の活動家と連携しながらも別様に権力に対するテロルを企てた《 ギロチン社 》の、中心的人物に、中浜鉄( 哲 )こと富岡誓( ちかい )なる人物が居た。


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  ( 門司港駅前から企救半島を縦断し周防灘沿いに大分方面に向かう県道25号から、「柄杓田分道」で直角に折れ、一路柄杓田漁港へ下ってゆく。季節と時間帯によって結構な点景が覗けることもあるらしい。西鉄バス「柄杓田行」終点。十人近い乗客全部老人で、元気な婆さんが殆どだった。停留所周辺には飲料自動販売機すらない。)
 
 
 「大正九年十年( 一九二〇―二一 )頃、門司市にあったその叔父の家で、ギロチン社事件で死刑になった中浜哲こと富岡誓さんと二、三度逢ったことがある。彼はこの叔父とは母が姉妹の従兄弟であり、その後私の問に答えて彼の死刑のときの実家や親族たちのおどろきと死体受取のことなども話してくれた。その中浜が早稲田大学正門前の露地にあった下宿屋に私を訪ねて来たのは、そんなかかわりからであった。
 中浜哲こと富岡誓、後にギロチン社の頭目の一人として大正十五年(一九二六)四月に大阪で死刑になった彼が、早稲田の下宿屋にとつぜん訪ねてくれたのは大正十三年(一九二四)の三月のある日の夕方だった。
 門司市の、叔母の嫁いだ羽島の家で、私は中学生の頃幾たびか富岡の誓( せい )さんと逢ったことがある。顔の色がくろく、らいらくな印象がのこっている。叔母のはなしだと、社会主義者だというけれど、気のおけないいい人だということだった。叔母にむかって明けすけに、女郎買のはなしなどして笑わせていた。だが私はその誓さんのことは小学校の頃から知っていた。」

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 ( 右の広い通りが県道25号線から下ってきた道路。人影は疎ら。漁港の岸壁にのみ釣客が溜まり人声が聞こえてた。)


 「私の村の隣村、福岡県企救郡東郷村字柄杓田(現・北九州市門司区字柄杓田)の富岡といえばすこしは知られた家で、彼はそこの四男か五男かであった。『 富岡誓さんには駐在巡査も歯がたたぬ 』といううわさであった。その当時の田舎の駐在巡査は大したもので部落の人たちはその機嫌をとることを大切にした。しかし柄杓田で若い者たちに争いごとなどが起ったときは、巡査のいうことよりも誓さんのいうことが通る、巡査がこうだといっても誓さんが乗込んでこうだといえば、そのように決まるんだ、というはなしが伝わっていた。私が小学校五、六年生の頃のことである。
 その昔の富岡の誓さんが、早稲田の下宿屋、今もある高田牧舎のところの道をはいって五、六軒目の華陽館という下宿に訪ねてきた。人が来た、というので二階から下りてゆくと玄関に立っていた。そのころ私は、京橋の市電の交叉点にある第一生命保険会社の夜のエレベーターボーイだった。夕方家にいたのはたまたま休日だったのだろう。 」

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 ( 同じ通りの片側に佇んだ黒塗りの旧造りの邸。丁度メイン通りを下ってきた突き当たりの角に位置するこの漁村のランドマーク的存在。 )


 「 灰色の厚ぼったいセーターをきてハンチングをかぶっていたと思う。いっしょに高田牧舎にいって夕めしを食った。そしてこういった。
 『 羽島の叔母が、あれが東京で何しているか、見てきてくれ、といったから一寸寄ってみたんだ。おれは近く満州から奥地に行く用事があって旅行するが、一年もしたら又やって来る、そのときこの下宿にたずねるから、他へ移ってもわかるようにしておけ。好きなことを一生懸命やることじゃな。』
 私はだまってうなずいた。彼は金を払っていそいで出ていった。私はその後、面識だけあって実際をほとんど知らない彼のことを知るようになったが、それは大方彼が死んだ後である。このときの突然の訪問は、私に今も二つのことを追っかけて思い出させる。
 中浜の大杉栄追悼詩『 杉よ ! 眼の男よ ! 』が書かれたのがちょうどこの頃だったということと、もう一つは私に高田牧舎のカレーライスを食わせた後、その晩の汽車で大阪に立ち、その翌日あたりに彼は実業同志会の武藤山治を訪ねてその応接間で捕らえられ、二ヶ年後に死刑となった、ことである。
 彼の残したものを読み、ギロチン社の仲間の倉地啓司との数回にわたる話しあいで私はそのようなことを確認した。倉地に当時の回想をきいたのは、太平洋戦争後四、五年もすぎてからだが、中浜が大正十三年初春頃ごろ着ていたセーターの色など、まったく記憶が一つだった。中浜は東京から大阪へゆく前のすこしの時間に、叔母との約束を果すべく私のいた下宿屋をたずねたものらしい。私と別れたすぐあと、倉地啓司といっしょに大阪へいったのである。
 私がとつぜん、四十六、七年前の、友だちの駆落ばなしにからんで中浜哲のことを思い出すのは、その人々が、近くはなかったけれど、親戚というつながりの遠い方にいたからである。」
秋山清『 目の記憶 』

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 『 高田牧舎 』とあるのは、知る人ぞ知る早稲田大学南門前に日露戦争頃から営業している当時からカレーライスやハヤシライスなんかもメニューにあったミルクホールで、現在も喫茶・レストランとして近辺では老舗として有名な店らしい。中浜も以前は早稲田予科の学生だったこともあってか、そこから五、六軒先の下宿『 華陽館 』に住んでいたようだ。


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 (  ギロチン社事件 東京日日新聞 大正十四年 )


 中浜鉄はアナーキストで、大杉栄や彼の主催する労働運動社の面々とも面識があったらしい。古田はともかく、浜鉄は大杉に尊敬というより男惚れしていたようで、《 杉よ! 眼の男よ! 》なる彼のもはやまみえることもない大杉に対する追憶と憧憬に溢れた追悼詩は有名( これはネットで簡単に見れる )だけど、中濱鐵著作集《 黒パン 》第一号所載の《 いざ行かん焉 ! 》に次の行( くだり )がある。


 「大杉が俺に言つたことがあつたけ ───
   たつた一人 !
   唯の一人でいヽから ───
   眞底から理解し合つた同志を得たなら、其の時こそ味のある運動を始めるこつだ !」

 
 心酔する大杉から言われ、ついに見出した同志が古田大次郎、そして結成したのが《 ギロチン社 》という訳だ。
 そこまで惚れた大杉がその嫁さんとたまたま居合わせた親戚の六歳の少年ともどもに、憲兵大尉・甘粕正彦等軍部に震災後のドサクサに紛れ、陰惨になぶり殺されたあげく、遺体を井戸の中に放り込まれ隠蔽をすら謀られたことへの怒り、更にその年の暮れに主犯の甘粕が受けた判決が少年を含んだ三人扼殺でたった“ 禁錮10年 ”という信じられない人嘗め判決に心底からの憤り。( 実際には三年後にはもう出所し、フランス遊学という出所祝い付き。)
 労働運動社の同様に怒り憤ったアナーキストたちと連携しながら、復讐という情念的発露に突っ走り、一大報復を企図したものの、その実際は、何とも当時の日本のアナーキストたちのテロリズムにおける稚拙さばかりの椿事の連続。


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 ( 日本中何処にでもある錆びたシャッターの光景だけど、ここはまだ営業しているようだった。)

 
 大阪で大杉たちの殺害を号外で知り、
「 よし、思い知らせてやる ! 」
と中浜は突然唸るように言い放ち、
「 勇ちゃん。君、行ってくれ給え 」
と、田中勇之進に、伊勢松坂の中学に通っている甘粕の実弟に対する報復を促した。古田大次郎は賛成ではなかったらしいが、二日後田中は決行。登校中の甘粕五郎を短刀で襲い失敗し逮捕される。
 震災当時戒厳令を敷いた関東戒厳司令福田雅太郎大将を労働運動社の和田久太郎が背中からピストルで狙撃したが、何と呆れることに、弾は薬莢だけの弾頭のない空砲。福田はちょっとの火傷を負っただけ。和田はその場で逮捕。翌年、もう一度博多で狙われたらしいがその時も福田は無傷だったという。
 又、《 ギロチン社 》の盟友・古田大次郎が大阪・第十五銀行の玉造支店小阪派出所を襲った際も、慣れない略奪行為に舞い上がって金の入った鞄を奪うとして行員と揉め誤って行員を刺殺してしまうミス。
 ピストルやナイフの扱いなんかの実戦的なセンスが余りにも欠如し過ぎているとしか思えない。中浜は軍隊に何年か居たらしいが電信兵だったらしい。何とも、余りに楽観的。
 尤も、古田は、その後その反省からか、同時に銀行襲撃事件以降彼らを取り巻く状況が厳しくなってきたのもあってか、他の仲間と協働し、ロシアのテロリストを模倣したように自ら爆弾を製造、谷中の共同便所を爆破し青山墓地やなんかで試爆した後、福田を狙撃し失敗した和田久太郎が収監された本富士署に爆弾を投げるが不発。
 小包爆弾を製造し、福田大将邸に郵送する。爆発したものの怪我人無し。東海道線鶴見川鉄橋にダイナマイト一本を仕掛けるが不発。銀座の電車軌道に爆弾しかけ爆発したが損害なし。
 世間は騒然としたかも知れないが、軍部・権力はまったく無傷。《 ギロチン社 》は壊滅。ピストルや手製爆弾じゃ例え成功したとしても知れてるけれど、彼らの稚拙さもさることながら、軍部・権力の悪運の強さってことに尽きるのかも知れない。が、その軍部・権力の悪運の強さは、やがて日本を第二次世界大戦そして灰燼的敗戦へと引き摺ってゆくことになる。


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 ぼくが面白いと思ったのは、逮捕され大阪の刑務所に収監された中浜鉄が、残った仲間にある作戦を提示したことだ。何と、『 脱獄計画 』。当時の東京朝日の見出だと『 公判廷爆破の陰謀計画 』となっている。

 「 福田大将を狙撃した東京の主義者と気脈を通じ大阪刑務所北区支所に収容されたギロチン社員を脱獄せしめる為北区支所及び裁判所の公判廷爆破の陰謀を企てた・・・
 被告の小西は一味を脱獄せしむる方法として

一、北区支所で特別面会の時ピストルを乱射してこの混雑に紛れ決行すること

一、公判出廷の途次を待受けて行うこと

一、公判廷で傍聴席から爆弾を法官席になげうちその混雑に乗じて行うこと

一、刑務所で一味の運動して居る時を見て控訴院の二階から綱をおろすこと 」

                                                 ・・・・・ ( 東京朝日 )

                      
 「 ・・・前記刑務支所と接続する天満警察署及び警察部特高課を爆破し、更に社会運動方面の捜査検挙を担当する当局者に危害を与えた後三越、高島屋両百貨店を爆破すべく計画したものである。」

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  ( 狭い地域の割には露地が網の目の様に張り巡らされている。中へ踏み入ると、ご多分に漏れず、廃墟然とした建物も少なくなかった。写真よりもっと狭い背戸と呼ぶべき露地裏も連なっていて、嫌でも生活が覗き見えてしまいそうだ。ちょっとした、つげ義春風世界を垣間見た面持ち。)


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 ( 田野浦にも黒塗りの旧式の建物があったけど、中々精悍。ここの漁港の脇に漁具用なのか真っ黒くタールを塗りたくったものが並べてあって、そのタールを使っているのだろうか・・・臭いが強すぎてありえないか。)


 映画そこのけのアイデアだ。結局実行には到らなかったけど、中浜は獄中でどんな思いでこの計画を練ったのだろう。復讐戦のほとんどが失敗に終わってしまって、このままじゃ大杉たちや朝鮮人・中国人・活動家たちの死に一矢だに報いることもできず獄房の中で慟哭悶々として己が生をすりつぶしてゆくしかない絶望的危機感と焦燥に苛まれた果てでの畢生の大阪刑務所脱出作戦だったのだろうか。 
 その後、盟友の古田大次郎が刑死し、むしろ自ら死を求めるように、自らを危うい立場に持ってゆこうと、それまで秘されていた英国皇太子暗殺や摂政宮ヒロヒト暗殺計画を公けにし( 実際には権力側が世間の耳目に触れるのを恐れもみ消したようだ )死刑判決に到った。他のメンバーこそいい迷惑だったかも知れないけど、そんな意志の下に結成されたギロチン社であったろうから、何としてもそのまま闇に葬らさせまいとする最後の一擲(いってき)であると同時に、何よりも盟友・古田の死に連座したかったのだろう。


 「『 鐵君 ! 』と呼ばぶれば
  『 何んだ ! 大さん 』と答へる
  『 ・・・・・・・・』

  『 大さん ! 』と呼べば 』
  『 何んだい ! 鐵君 ! 』と ───
  『 ・・・・・・・・』

  縦令( たとえ )言外の意味が他の誰にも
  皆目解らなかつたにせよ !
  兩人の間ではそれで充分だつたね !
  何時もそれ以上語る必要はなかつたね !
  夫れ以上語る言葉を
  俺達は何も持ち合さなかつたね !

  君の『 イエス 』は俺の『 イエス 』
  俺の『 ノウ 』は君の『 ノウ 』───」
            
          《 いざ行かん焉 ! 》 」


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 ( 見るからに真新しい郵便局も恵比寿神社も以前は別の場所にあったらしく、比較的最近この場所に移った様だ。メイン通りの突き当たりの丁度裏側にあたる。漁港だから大漁を願っての大きな鯛を抱えた恵比寿様なのか。)


 中浜は1926年4月に絞首刑に処された。( 表向きの罪状は恐喝。恐喝で死刑 ? ) その前月の3月には死刑を覚悟し、山崎今朝弥弁護士に辞世を記したハガキを送ったという。

『 弥生空、魏櫓枕( ギロチン )高く、霞往く、黒蝶ぞ我散る花に舞う 』

 “ 弥生 ”は春三月、“ 花に舞う ”とある。
 これは明らかに彼の心酔した大杉栄が、明治末の幸徳秋水等12名が刑死した大逆事件で、当時たまたま既に別の事件で獄中にあって大逆事件への連座を免れ、幸徳等の処刑の後に出所し、いわゆる《 冬の時代 》、石川啄木的には《 時代閉塞の現状 》の只中で大杉が唄った有名な一句、

 『 春三月 縊( くび )り残され 花に舞う 』

 を意識的に下敷きにしている。否、大杉への呼応であろうし、又、同じ意志を抱懐した幸徳秋水や宮下太吉等との一体化へに向けての雄叫びであったろう。


                                        参照 ・ 秋山清『 目の記憶 』( ぱる出版 )


                       
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 ( 天疫神社の本殿。狭い境内にこの本殿だけがポツンと佇んでいる。外来疫病を厭っての建立という。秋山清が少年時代に遭遇した学友たちの少なからずが罹って亡くなったという世界的に蔓延した「スペイン風邪」の頃も、多くの柄杓田漁民が、すがる思いでここに願かけに詣でたのだろう。)


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 ( 今津と同様、村の端っこの丘の上にある《 天疫神社 》からの柄杓田漁村の俯瞰 )

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 ( ここは海岸近くに並んだ民家の道路ギリギリに1メートルちょっとの高さの堤防が並んでいて、漁港の沖も防波堤が両側から包み込む様に伸びている。関門海峡の急潮流から些か離れている場所だけど、堤防の外は波が荒いのかも知れない。地元では、ここはカキの養殖で有名なところらしい。)


  (注) 白黒の写真以外は、クリックで拡大。

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