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2015年1月10日 (土)

解放と遺恨 《 至福千年 》堀田善衛

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 年明け早々、フランスの風刺週刊紙《 シャルリー・エブド 》のパリ本社が、イスラム原理主義者に襲われ12人もの死者を出した事件、その宗教的口実はともかく、実際の背景にはイスラム=中東⇔キリスト教=ヨーロッパという近代以降の欧米列強の中東に対する植民地主義支配・搾取の歴史があるし、更にもっと以前中世の十字軍の中東侵攻でのトラウマもあるだろう。とりわけ二人の兄弟はアルジェリア出身らしく、以前紹介したフランスの作家カミュの映画《 最初の人間 》でもフランスのアルジェリアに対する苛烈な植民地支配が描かれていて、そんな植民地支配をむしろ批判的に扱ってきただろう風刺週刊紙《 シャルリー・エブド 》を襲うって多重相克的な相関図こそが正に現代なのだろう。
 そもそもイスラム=キリスト教は元々ユダヤ教ともどもの一神教的兄弟宗教で、その唯一絶対神的ドグマと全体主義的本質における同一性から相互の近親憎悪も強い。その三宗教だけで地球の人口の半分を占めている。ユダヤ教はともかく、キリスト教徒とイスラム教徒は現在進行形で現在も増加しつつあるという。この世に禍が絶えない由縁だ。


 堀田善衛って現在の若者たちには余り馴染みのない名前だけど、'50年代に《 広場の孤独 》で芥川賞をもらい、以降リベラルな作家として60~80年代に活躍した。
 戦時中、中国にいて、敗戦とともに国民党の宣伝部に徴用されたという経歴の持ち主。 東宝怪獣映画《 モスラ 》( 1961年 )の原作を書き、フランスの実存主義哲学者サルトルとも親交を持ち、60年代に発起人の一人として“ べ平連 ”つまり《 ベトナムに平和を! 実行委員会 》を発足させたりしていた。《 方丈記私記 》、《 ゴヤ 》、《 定家明月記私抄 》等の代表作があり、あのスタジオ・ジブリの宮崎駿が敬愛してやまないらしい。
 
 
 「 十一世紀以降、徐々に変化が訪れて来ていた。先ず人口の増加である。ドイツの農民たちは、スラブ人の住む東方へ移民をしはじめ、低地諸国や北フランスでも、沼沢地や海の干拓に着手し、森の伐採をしなければならなかった。都市には紡績業が発達し、農業地帯での人口が集中しはじめた。沿岸と河川を利用する広域貿易も開始され、それ以前の世紀には見られなかった、裕福な階級が成立した。 」


 「 十九世紀以降の工業とは事変り、この当時の、せいぜいで三人か四人の徒弟たちによる家内工業では、そうそう多くの人々を収容し切れたものではなかった。大陸的な経済活動に対しての抵抗力は、ほとんど零であった。あらゆる市の立つところには乞食が氾濫し、戦争のない時期の失業兵士たちは群盗団を形成し、特に全フランスがその跳梁に苦しまねばならなかった。」


 「 時代の力学というものは恐るべきものである。その渦中にあっては、ほとんどの人々がその力学の向かう方向に対して盲目であらねばならず、宗教的理念が精神活動の大部分を占めている時代にあっては、如何なるものであれ、一つの方向を示し得る人は、たとえ聖者ではなくても、亜聖者的な存在となり、救済者と目されるにいたる。そうしてこの場合に、奇蹟を行う人は聖職者ではなく、ただの平民、あるいは教会から脱落した托鉢僧や、これも教会とは切れた隠者、行者であり得る可能性が増して行くのである。普遍教会からの教学から見て、こういう『 選ばれし人 』たちの異教性は明白である。
 かくて、あてどもなく、今日のことばで言っての疎外されたる人々に、何であれ、一つの方向を与える『 選ばれし人 』の必要性はますます高まり、その使命は、社会の全体的変革という革命的終末論に合流して行くのである。遠い過去から、地下思想として伝承されて来た初期キリスト教徒たちの、教会にとってはほとんど忘れ去られた筈の終末論的世界幻像が、一つの社会的神話としてそれを必要とした人々に与えられることになる。
 苦しみは贖われるであろう。神にふさわしからぬものを打ち懲らせ、されば最後の『 聖徒のの王国 』は到来するであろう・・・。」

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 「 十一世紀に入って、叛乱は主として教会領となっていた都市で起こった。ライン地方のケルン、北仏のカムブレイ、ユトレヒト、ブラバント、そしてライン地方と低地諸国、北フランスでは何度も繰り返されさえした。教会の課する重税が理由の主たるものであり、もう一つには、教会側の経済問題についての無知識、無理解に由来していた。交易については高利貸しのことしか念頭になく、商人らついては危険な社会変革者としか見なかったのである。これらの叛乱は、主として都市の商人によって組織された。司教や大司教さえが殺された。」


 「 西暦1095年、クレルモン公会議の最終日十一月二七日、法王ウルバヌス二世が、その後の歴史において第一回十字軍と呼ばれる東征を、集っていた枢機卿、大司教、司教たちのみならず、多くの諸侯や騎士たちに訴えた・・・
 しかし、この法王の呼びかけは、法王の期待をはるかに上まる、莫大かつ革命的な大反応を起こした。それはキリスト教世界の、根柢からの、真に驚くべき巨大なエネルギーを引き出す結果を来したのである。」


 「 ウルバヌスの狙いは、第一にビザンティウム( =東方教会 )の補強をはかり、不信者を小アジアから追い出し、その結果として東方教会がローマの懐に戻れば、それはローマの優越をより一層確実なものとし、キリスト教世界の統一に資すること、第二には、無用な好戦性を発揮して社会の溶解状態に拍車をかける貴族たち、彼らの出身地であるフランスにおいて特に顕著であった状態に歯止めをかけ、彼らの軍事的エネルギーに別のはけ口を与えることによって、荒廃した土地と領民にしばしの休息を与えることであった。 」
 

 「 法王はこれらの遠征に参加する者に、報酬として二つのものを提出した。一つは、信仰に関して、敬虔なる騎士は、これまでに彼が犯した罪について罰を一時的に赦免さるべきこと、遠征の途上、あるいは戦いに死せる者は、あらゆる罪を赦免されたる者なること、というものである・・・
 二つ目は、きわめて地上的あるいは物質的な報酬である。すなわち、人口の過剰は何も農民たちに限られたことではなく、戦乱によって土地を喪った貴族も少なくはなく、また些少の土地をもっていたにしても、その領主の次男以下には、嗣ぐべき何物も残されては居なかった。彼らもどこかへ行かねばならぬ運命にあったのである・・・法王が南方、アジアの地において、新たなる領地を約束したとあれば、それが《 乳と蜜の流れる 》『 約束の土地 』を喚び起こさぬ筈はなかった。」


 「反響は、ほとんど狂熱的と呼ぶべきほどのものであった・・・《 神、夫(そ)を欲し給ふ 》と叫びつづけた。この声が、十三世紀にいたるまで、ほとんど二百年にわたって繰り返された、民族大移動とアジアとの戦乱の起点であった。と同時に、それは今日まで続く、中近東に対する西欧の攪拌作業の開始点でもあった。」


 「 法王の呼びかけに応じた諸侯や諸領主たちは、彼の麾下の騎士たちとその家臣の遠征目的のために、何が必要であり、何が不必要であるかを、冷静かつ現実的に勘考して、ゆっくりその準備を進めていた。
 しかし、小予言者たちによって、あたかも魅せられたかのようにして集合して来た流民たちは、軍事的素質はもとより持たず、彼らが共有するものは、その性急さと激越な感情だけである・・・
 男も女も、時には大家族の全員が、子供たちをも含んでその家財のすべてを荷車に乗せてやって来、その膨張過程で、修道院から逃亡をして来た旧修道士や、男装をした女、ありとあるやま師的なならず者、盗賊、強盗団などまでが入って来た。それはあたかも社会の下層全体が蛇行をし、ヨーロッパを南東に移動するかの観を呈した。」


 「 彼らの耳には、ビザンティウムのキリスト教徒を助けたいという法王の訴えなどはまったく聞こえていず、そんなことに如何なる興味も関心もなかった。彼らはただひたすらに、激情をもってエルサレムに達し、これを反キリストから奪いかえしてわが物とすることをのみ、念じていたのである。」


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 「 しかし、不幸なことが、すでにして蛇行が開始されたその直後に、ヨーロッパの森と平原の処々においてこの集団によって惹き起こされた。・・・
 それはまずフランスの都市ルーアンで開始され、他の都市へ移って行った。ユダヤ人たちは改宗か、死か、と迫られたのである・・・
 ヴォルムズの町では、司教はついに押し切られて、シナゴーグは荒らされユダヤ人地区は掠奪にまかされた。洗礼を拒否するものはその場で殺された。司教館に収容されていたユダヤ人たちは、司教によって洗礼されるか、引き出されて殺されるかを選ばねばならなくなり、全住民が集団自殺を行った。」


 「 二日にわたる困難な突撃戦の結果、七月十五日、この都( =エルサレム )は占領された。
 最初に入城した者は、タフールの群れであった。ありとあらゆるイスラム教徒が、男も女も子供もすべて虐殺された。“ ホロコースト ”である。」


 「 また別の無名の年代記作者は、さらに詳しく書いている。
 『 都に入城した巡礼たちは、ソロモン神殿内にまでサラセン人を追い詰め、皆殺しにした。そこではわが兵士たちは、足首まで血につかって進むほどの大虐殺が行われた。ついで十字軍兵士は町じゅうを走り廻り、金銀や馬、驢馬などを奪い、裕福な家々を荒らした。かくて、わが兵士たちは歓喜にみちた幸福に酔い、嬉し泣きに泣きながら、われらの救い主イエズス=キリストの聖墓に詣で、キリストに約束した彼等の義務を果たしおえた。 』」
 

 「 この頃の年代記には、Tafursという、神秘的とでも言うべきか、意味不明の語がしばしばあらわれる。
 『 ・・・裸足で、顔じゅう毛むくらじゃで、袋用の粗麻布を身にまとい、からだじゅう傷や爛や汚物に蔽われ、木の根や草を食べ、時には敵の屍体を炙って食う。彼らの通過した地帯は、徹底的に蹂躙され、荒廃の極に達した。彼らは剣や槍を手にするにはあまりに貧しかったので、鉛で重味をつけた棍棒や、先の鋭利な杖、ナイフ、手斧、シャベル、鍬、石弓などを武器とし、敵と戦うについては歯を剥き出しにし、あたかも生きている奴も死んだ奴も食ってやると言わぬばかりであった。 』
 これがTafursであった。」

 巻末の解説で川西政明がこう記している。
 1945年(昭和20年)の3月9日の深夜、米軍の爆撃が始まった。
死傷者は十万以上。
 3月18日、堀田善衛は早朝洗足の家を出て深川に赴いた。一面の焼野ヶ原に無数の死体が転がっていたという。その時、ひょんな出来事に遭遇した。


 「 九時ころであった。ほとんどが外車の乗用車の列が、永代橋のほうから富岡八幡宮へとやってきた。天皇の行幸であった。そこにいた人々が土下座して、天皇に詫びるのを堀田善衛は見た。この瞬間に彼は自分の『 身体が凍るような思いをした 』( 方丈記私記 )のである。政治、軍事の最高責任者として天皇には結果責任をおう義務があると彼は考える。ところが帝都が焼かれ、十幾万もの市民が殺傷された責任を天皇はとろうとせず、逆に焼跡に土下座し、帝都を廃墟にしてしまったことを詫びているのは日本の国民なのである。それは無限にやさしい、『 日本人の優情 』といったものであろうか。彼はそれこそ『 無常観の政治化 』とでもいうべき現象ではないかと思う。そして胸に手を当てて考えてみれば、自分にも同じ『 優情 』があるのだった。こういう国民感情の上に立ってはたして新しい日本は存在できるのか。このとき堀田善衛のなかに歴史への不安感が芽ばえたのである。」


 「 《 至福千年 》では千年王国の予約の夢に憑かれたキリスト教徒の狂熱が、反キリストどもを討ちはたすことを見据えて書いていく。そのとき堀田善衛の胸中にあったのは、西欧の中世の歴史にあった狂熱への絶望であり、『 この作品を、私はある諦念をもって書いた 』というところに心情が吐露されている。」


 「歴史への不安感から出発した堀田善衛は、乱世のなかにこそ『 私 』を確立する道があること、その乱世でこそ普遍的な自然、理性、運命観を確立できることを見極めたのである。」


 《 至福千年 》堀田善衛作品集( 講談社文芸文庫 )


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