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2015年2月の4件の記事

2015年2月26日 (木)

最後の萬龍  2015  ( 門司港 )

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 雨のはずがどんより曇ったままひょっとして晴れるのでは、と淡い期待をすら覚えさせる天候に、久しぶりに萬龍に行ってみた。
 人通りもまばらな細い路地の片側にひっそりといかにも昭和の中国料理館って趣きの二階建て《 萬龍 》が佇み、半円形のショーウィンドーの中に色褪せた模造品が並んでいた。と、ガラスに一枚の貼紙が・・・
 

 『 閉店・移転のお知らせ 』


 と、大きな文字で記てあった。
 まじ !?
 三月吉日に、すぐ近くの新しい店舗に移転するという。
 ためしに角を曲がって確かめてみると、何しろほとんど人気のない通りなのですぐにそれらしい真新しい建物が目に入った。
 看板は出てない。
 ガラス戸から一番奥にカウンターが覗けていた。できた料理を出す所なのか、ラーメン屋の定番のそこで客が食べるためのカウンターなのかは分からない。勿論普通のテーブル席もある。
 広さは普通のラーメン屋のそれだ。( 二階席があるかどうか未詳 )
 意匠は今風。
 貼紙だと、店名は《 龍 》。
 正確には、《 中華 龍 》らしい。


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 《 萬龍 》に戻り、些か急な階段を昇ってフロアーに入ると、昼前にもかかわらず窓側に並んだ四角いテーブルは既に埋まっていた。そこが一番気に入った場所だったけど、しかたなく中央に二つある大きな円卓に坐る。中国料理屋の定番テーブルだ。椅子がそれぞれ六脚。さすがに色褪せてるが背もたれのビニール・レザーの幅が厚い。
 壁のあっちこっちに中国風の絵額が飾ってあってほどよい風情。
 ぼくとしてはもっと凝ったのが好きなのだが、地元客はそんなものを求めに来るのじゃないようだ。
 この店は、このテーブル席フロアーとは別個に更に奥に座敷部屋がある。料理屋風の座敷だったけど、依然一度だけ入った際は、時代を経た仄暗い雰囲気に、普通の料理屋のそれにはまずありえない種類の感興を覚え気にすっかり入ってしまった。もっとも、その後小奇麗に改装されてしまったような話も聞いたけど、定かじゃない。


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 ( 急な階段を昇りきるとガラス戸がある。入って左側に座敷部屋の上口がある。反対の右側が窓側で四角い四人掛けテーブルが五つ並んでいる。路地を隔てた向かい側の元料亭らしき小さな和式建物が覗ける。一応エアコンはあるけど、天井が高いのもあってかそれじゃ間に合わないようで、石油ストーブを二つ焚いている。)


 幾らもしない内にフロアーは客でいっぱいになってしまった。
 ここがやがて閉まってしまうのを聞きつけてやってきているのだろうか。
 地元客と観光客の年配者ばかり。
 観光客らしいおばさん組が、気の利いたセット・ランチを期待してたらしいのが、ラーメンとミニ・チャーハンなんて素朴なものばかりに戸惑っていた。小姐( ウェートレス )たちも皆年配者ばかり。建物の老朽化とともに家族・一族も皆相応に歳をくってきたためもあるのだろう。すると、新店舗《 龍 》には若い世代が入るってことになるのだろうか。


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 ( フロアーの右側に会計カウンターだあり、その後ろは給湯設備と下の厨房とつながった注文品用のか小さなエレベーターが備わっている。もっとも、見てると老小姐たちは階段を使って料理を運んでくる。中央の壁の背後がトイレになっていて、正に昭和のトイレの芳香。飾っている額絵が中国情緒をかきたてているけど、もう少し調度が欲しいところだけど、もはやなくなってしまうのじゃ・・・)

 レトロな門司港の象徴・代名詞のような存在だった《 萬龍 》、旅行写真家・藤原新也にも推薦されていた中華料理屋《 萬龍 》、その藤原新也がも一つ推していた中華麺館《 朋友 》が建物の老朽化のためにとっくにレトロ枠から外れ、今また《 萬龍 》が老朽化( 恐らく両方の意味で )故に廃店を余儀なくされてしまって、門司港にはもはや、役人どもがデッチあげた第三セクター的構築物しか、“ レトロ ”と名のつくものは存在しなくなってしまった。
 世の栄枯盛衰とは言うけれど、正に自民党半世紀支配の賜物、アベノミクス的惨澹の論理的帰結ってところだろう。

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 ( 路地の突き当りに戦前からの社用族御用達料亭「三宜楼」がそびえている。手前の角の「いろは寿司」はとっくに廃業し、一階だけミニ・レストランが借りているものの早晩老朽化が進行し「朋友」と同じ運命を辿りそう。もっとも、それ以前にわが「萬龍」は「朋友」同様崩してしまうのだろうか。だとするとその後跡地に何が立つのだろう。元の「朋友」の建物はレンタルだったらしいけど、「萬龍」は・・・。そこを左に折れて数件目に件の「中華 龍」が準備中。)

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2015年2月21日 (土)

我が内なる源郷的記号 《 餃子ロード 》 甲斐大策

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 ( 外は雪・・・飲んでいるのはチャイだろうかカフワだろうか。コバルト・ブルーの窓枠が好い。昭和の町屋にも、とくに商店にモダンな装いとして取り入れられていた。 )


この本を読んで先ず、最近の僕の好きじゃなくなった言葉、余りにあっちこっちでこれ見よがしに押しつけられ嫌悪感すら覚えるようになったステレオタイプ的修辞 " たかが~、されど~ "が、実にすんなりと脳裏に浮かんできた。
 で、“ たかが餃子、されど餃子 ”というわけだ。

 最近余りその動向を目にすることもなくなってその生死すら定かでない画家・作家=甲斐大策、パキスタンでハンセン病対策医療や井戸掘りなんかをやっている《 ペシャワール会 》の今年のカレンダーに彼の作品が載ってるのをブログで発見したぐらい。
 父親・巳八郎が元々画家だったのもあって習い覚えての画家志望だったんだろうが、早稲田在学中に考古学に興味をもちアフガニスタンに幾度も脚を運んでいる内、すっかりアフガンの地と人々に惹かれ馴染んでしまい頻繁に行き来するようになったという。彼のいう餃子文化エリアであり、その発祥にかかわる西域、砂漠とオアシスの黄色い大地。人なつっこいアフガンはじめ西域の男たちの男気に触発されたのでもあろう。
ついには、イスラム教徒にまでなってしまったり、ソ連軍が撤退した後の内戦の際にカブールの南百キロぐらいのパクティアのパシュトン系の小部族の尻にくっついて“ 義理立て ”で戦士(ムジャヒディン)として参戦までするようになる。
 タジク・ハザラの制圧した首都カブールに攻撃をしかけていたパシュトン系といえば権力欲の強いヘクマチアールがその代表格で、敵対する北部同盟・タジク系のヒーローが暗殺されたマスード。ヒーロー=マスードという観点からしたら、多数派だけどパシュトン=ヘクマチアールは悪役って図式。後、タリバンが勢いずいてくると、追いやられはじめたヘクマチアール、マスードと手を組んだりしていたはずが、老獪さを発揮してマスード暗殺を謀ったとかいう噂も。真相は曖昧なままもみ消されたきり。将来同じペルシャ語圏どうしってことでタジキスタン・" イラン "とも提携しかねないのを厭って米国が陰で糸を引いていた可能性も高かった。

 ペシャワール北西のアフガンとの国境の町トルハムだったかランディ=コタールだったか忘れたが、そこのターバンを巻いた親爺の雑貨屋の店頭にうやうやしくヘクマチアールの肖像が掲げてあったのには驚いてしまった記憶がある。
 「 真面かい ! 」
 余りにも旗色を鮮明にしていたからだ。それとは別に、当時ぼくの抱いていたヘクマチアールのイメージも悪役以外の何ものでもなかったってこともあった。己の権力欲むきだしに執拗にカブールに攻撃をしかけ多くの犠牲者を出し続けた張本人そのもの。ちょうど悪辣極まりない米国大統領ジョージ・ブッシュの肖像をこれ見よがしに掲げているのと寸分の違いもない暴挙に思えた。


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 ( 火焔山を背にした睡蓮洞の孫悟空なのか、ヒンドゥークシを背にしたオアシスのハヌマーン大王なのか ) 

 旧満州は大連・南山麓で甲斐大策は生まれ育った。
 六歳の頃、初めて覚えたのが焼餃子" 鍋貼(児)" というところから、汎アジア的餃子考がはじまる。戦前に大陸に渡っていた者たちやそこで生まれ育った者たちを、昭和の時代は、《 引き揚げ者 》の一括りで呼んだ。
 喪われた故郷・郷里の象徴として餃子( 彼は「餃」とだけ書く )、その餃子の絡んだ引き揚げてからの体験を記してゆく。
 
 
 「 はじめてのアフガニスタン訪問は、混乱の三ヶ月だった。風の丘陵をゆく季節移動民クチィ、長身で神秘的な空気をまとった青灰色の瞳をもつ山岳民族ヌリスタニ、蒙古軍団を思い起こさせるハザラ、謎深い部族社会の剛毅の気風を誇るパシュトゥン、騎馬の民トルクメンやウズベク、ペルシャの優雅さが漂うタジク、それぞれの民族がそれぞれの文化を保っていた。
 貧困は国を覆っていた。旅人にさえも民族間の差別と被差別が見えた。
 しかし、何よりも衝撃をうけたのは、人々の礼儀正しさである。その日の食にも困っている者が、どうしてそうあれるのか、と恐怖を感じるほどの礼節だった。
 
・・・『 ブズカシ 』が行われた日、静かな男たちが夕刻のチャイハナ(茶館)を埋めていた。そこで初めて『 オシャク 』と出会った。
 『 オシャク 』はウズベクの料理とアフガン人たちはいう。水餃に似て非なる、小麦粉と羊肉と韮の料理だった。」

 
 ペシャワールであっちこっちのアフガン人のレストランというか飯屋には入ったけど、オシャクやマントウなんてものには噸とお目にかかったことはなかった。勿論見てないところで食べられていたのかも知れない。
 もっぱら干ブドウや羊や鶏肉の入ったプラオの類、カバーブ、ナーン、チャイ。
 プラオは民族や店によって色々味が異なるようで、旧市街のバザールにあった店のプラオはなかなか美味かった。うろ覚えで二度目尋ねてみたら、何しろゴチャゴチャした迷路みたいな場所なので、杳として見つからなかった。


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 ( 中国旧民家と中国式清真寺モスク )


 「アフガン・トルキスタン第一の街マザール・シャリフは、その名が意味するように『 聖者アリーの廟 』を中心に生きている。人々はマザール(墓廟)と呼んでいた。
 凍った地面が緩み、そこここがぬかるむ中、廟の門前バザールは賑わいを増してゆく。
 人々は売り手になり買い手にもなり、絨緞、羊、山羊、鶏、卵、薪炭、刃物、野菜、果物、薬草等々、ありとあらゆるものを商う。
 ウズベクの名物料理、オシャクで評判の店は、廟に面した屋並びの一角にあった。
 店内は昼間から紅色、桃色、緑色、ブルーの蛍光灯の明りが混ざり合い、艶っぽい空気に充ちている。・・・・・・

 ある日の午後、長身の老人が、若い女性を伴ないこの店へやってきた。
 手入れの届いた美しい白銀のあご髭の老人は、濃紺地に朱色の牡丹柄の、女性は真紅の地に青やむ黒の薔薇や空想的な花と果実を染めぬいたチャパン(外套)をまとっている。トルクメンである。
 バッチャ(ボーイ)に赤いカーテンを引かせ、二人はピンク色の明かりをともした女性用の部屋へ入る。・・・・・・その女性の美しさには息を呑んだ。
 二人のもとへ運ばれていったのは、パラオ(ピラフ)とカバブ、オシャクとマントウ、そして茶だった。マザールに限らずアフガニスタンで最高の献立である。
 ・・・・・・
 
 オシャクは、掌半分ほどもある。刻んだ韮を小麦粉の皮で包み、充分に茹でてある。皿一面に平たく並んだ半月形のオシャクに羊肉のミートソースが被さり、さらにクルート(乾燥ヨーグルト)がかけてある。ガシュニチ(コリアンダーの葉、中国の香菜)を散らしたりもする。
 マントウは、丸めた羊の挽肉を薄い小麦粉の皮でくるんで蒸し、酸味の強いクルートをまぶしてある。巨大な鮮肉焼売と同じである。
 クルートは、小石のように堅い乾燥ヨーグルトを粉にし、スパイスとライム汁を加え、酸味鋭く仕上げたソースである。ライム汁に酢酸を加えている場合があり、激しい刺戟に咳こまされることも少なくない。」

 色鮮やかなチャパンは粋な外套で、ペシャワールのアフガンの店先に見つけては見入っていたものの、さてそれを日本に持ち帰ったとして果たして着る機会があるだろうかと考えてしまう。部屋の中で纏うか、飾っておく他ないように思えてしまう。
 ターバンにチャパン、白髭ときたら手には数珠なのだろうか。すらりとした長身のアフガンの老爺はなかなか絵になる。若い世代は、丈夫なモス・グリーンのフィールド・ジャケットを纏っているのが多かったけど、あれは必ずしも皆ムジャヒディーンという訳でもないのだろう。
 

 「実はオシャクやマントウを美味と感じたことがない。
 泥の上に坐っては大地の一部となり、騎乗して走れば中央アジアの空気そのままに風と同化してしまう、そして常に静かなトルクメンやウズベクが大好きである。そんな人々がこよなく愛する食べものを深く識りたかった。中国の餃にもしつながるのなら、その道筋や歴史も是非識りたかった。
 マントウときけば、中国の饅頭と音が同じである。しかし、蒸すことと発音の共通点以外どうつながるのだろう。・・・」

 
 「ヒンドゥークシの北側を故地とし、発酵度の大きい厚味のある円盤形のナンを食する人々はオシャクやマントウを愛している。南側に住むか、印度文化圏やペルシャ文化圏で発酵度の弱い薄手の長楕円形のナンを食する人々は、そのいずれにも素気ない。この事実に何が秘められているのか興味そそられる。」

 
 「 アジアを旅しながらこの数十年、すべての生活を水墨画に収斂できたら、との思いがつのっていた。その心を確かめたい、と一九九六年夏、初めて台北の故宮博物院を訪れた。
 ・・・・・・ 
 低く垂れこめて走る雲に天母一帯の明りやネオンが映える。
 若者たちが群れるアイスクリーム屋で再び卓を囲む。
 高、林二人の若者は、台湾人としてのアイデンティティが見つからない、という。葉さんは、どこでどう暮らそうと私たち、漢民族なんだから、と微笑む。永さんは、血も国籍もこだわらず、流れに身をゆだねた気がする現在がとっても心地良く、将来はもっと漂っていたい、といった。」

 
 ともかく、彼は西域=中央アジアが、アフガンが好きなのだ。
 大連から遥かヒンドゥークシを越えてつづく彼の内深く伏在する源郷・心象風景に触れるものがあるのだろう。己が源郷を求めて流離(さまよ)いつづける彼と、中国を追われた蒋介石=国民党とともに移り住んできた外省人たちの子孫であるだろう台湾人としてのアイデンティティーを容易に見つけられないでいる二人の漢族の若者とは、真逆な政治的力学に翻弄された経緯をもっているにしても、そう隔たった位置にいる訳ではない。
 それ故の彼等に対する親愛なのだろう。それは又、『 心象風景の喪失から出発している 』藤原新也等に通じるものであろうか。


   《 餃子ロード 》甲斐大策( 石風社 )

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2015年2月14日 (土)

湾岸伝説 悪魔の起源 : ジン

Djinn

 最近、ますます世界的にホットな火薬庫然としてきているのもあってイスラム諸国=中東を舞台にした映画がレンタル屋の棚に並ぶようになった。
 サウジアラビアの《 少女は自転車に乗って 》でも、たとえ少女といえども、外で男子と親しくしていたりすると世間から厳しく指弾されてしまう。男女は画然と区別される世界。 インドなんかでもそうらしいが、国外で育ち生活している女たちって、本国に戻るってのは余り気の進まないようだ。住んでいるのが欧米(日)先進国だったら、宗教的戒律も自ずからゆるく薄まってしまっても特に誰が咎め立てする訳でもなく、せいぜい頑固な年寄りが意固地な指弾を繰り返すくらいのものだろう。つまり、本国と違ってかなりの“ 自由 ”を享受しているからだろう。

 かつては、イスラム世界は、文化の華咲く一大文明国として薄暗いヨーロッパに文明の光を注ぎ、さまざまな影響を及ぼしつづけてきたのが、いつ頃からか次第に衰退してゆき凋落してしまった。現在じゃすっかり後進性=封建的圧政の権化と化して久しい。

 UAE( アラブ首長国連邦 )って、広大な砂漠世界=アラビア半島の、対岸にイランが控える湾岸の国。古(いにしえ)は、ラクダに乗った王子様、アラビアン・ナイト、空飛ぶ絨毯や魔法のランプ等のロマンチックな幻想譚の宝庫のような秘境であったのが、二つの大戦や石油の発見ですっかり幻想のベールは色褪せ、即物的に石油とイスラムだけが世界注視のホット・エリアとして揺らぐばかり。

 ニューヨーク在住のあるUAE夫婦カップル、なかなかうだつの上がらなかった夫が、故国での仕事で心機一転しようと、自分の仕事が順調にいっていたにもかかわらずがんじがらめの旧弊世界に舞い戻らなければならない事を露骨にいやがる嫁を無理矢理説き伏せ、故国UAEに戻るところから物語が始まる。
 舞台は時間の経過とともに靄が立ちこめ始め濛々と視界も定かでなくなってしまうアスファルト路を迎えに来てくれた家族の車で、新しく就職した企業が用意してくれた部屋のある建物に向かう・・・アラビック風のクラシックな内装の豪華な高層マンション“ ラクシャリー・マリーナ・タワー ”、しかし、これはかつて砂漠の悪霊・ジンがらみで呪われた建物が魔術によって現代的な意匠の高層マンションに見せかけられているのか、件の建物の跡に建てられた実在の建物なのか些か曖昧な代物。すべては濛々と立ちこめた靄によって仮構された幻影かも知れず、それが晴れると同時に一切が元の砂漠に戻ってしまう不確かさ。
 西側から観た現代の一片の砂漠の幻影譚。

 《 オーメン 》と《 シャイニング 》を足して二で割った感じの作りだけど、イスラム社会という未知性と制約に躓いてしまい、思わせぶりとジンの黒い影だけで恐怖空間を演出しようとしてすべってしまったってところだろうか。雰囲気は決して悪くはないだけに残念。
 たちこめる靄ってなかなかに幻想的な設定で、神秘めかしたホラー映画にはもってこいのシチュエーション設定。いわんや、砂漠の国=アラビアン・ナイトの世界であってみれば。只、主人公カップルが外人じゃなく同国人ってとこでもう一つ盛り上がりに欠けているのかも知れない。未知の領域・世界に分け入ったカップルってことでスリリングさが増し、観客の感情移入もし易くなってくるからだ。


監督 トビー・フーパー
キャスト : カリッド・ライト、ラザーヌ・ジヤマル、アイーシャ・ハート
制作・UAE( アラブ首長国連邦 )2013年


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2015年2月 7日 (土)

恋の巡礼旅 チェンナイ・エキスプレス

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 シャールーク・カーンの最新作って何なんだろう。
 インド映画( ボリウッド )にこのところ疎遠になってて、稀にネットでミュージック・ビデオを観るぐらい。それでも、ようやくインド映画もコンスタントにビデオ屋の棚にごく僅かだけど並ぶようになって、この二年前のシャールーク・カーン&ディーピカ・パドゥコーンの《 チェンナイ・エキスプレス 》を観ることが出来た。2007年の大ヒット作《 オム・シャンティ・オム 》で共演して以来久々のコンビ作らしい。昨秋の大ヒット作《 ハッピー・ニュー・イヤー 》でも共演してるようだ。

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 ディーピカはモデル出身だけあってスラリとした長身が魅力。ボリウッド界隈って、皆代々映画関係ってのが多い血筋で成り立ってる観があるけど、ディーピカは全く無縁で、むしろバドミントンでならした家系らしい。妹はゴルファーという。
 シャールークの方は早くから両親を亡くし、記憶違いでなければ確かパキスタンのペシャワールに実家があったはず。彼はイスラム教徒であるにもかかわらず、恋愛結婚の嫁さんはヒンドゥー教徒。イスラム=ヒンドゥーの恋ってドラマチックなインド映画の定番だけど、昨今の血腥い事件などみると分かるように、実際には少々じゃないくらい大変だったに違いない。年はじめのフランスでの事件、彼も心痛したろう。


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 この映画、見始めて驚いたのは、シャールークの代表作ともいえる《 DDLJ 》のパロディーそのもの。物語自体は、あっちこっちに支店をもつ人気インド菓子=スウィーツ屋を切り盛りしてきたシャールーク、慕っていた祖父の遺灰の半分を、祖母が聖地ガンジス川に撒き、もう半分を南インドの聖地ラーメシュワラムの海に撒くように祖母に頼まれる。脇目もふらずスウィーツ造り一筋に半生を捧げてきて気付けば四十歳になっていたシャールーク、この機会に一度見聞を拡げるため旅に出たいと祖母に訴える。祖母は優しく送り出してくれるが、その実、店の同世代の男たちとしめしあわせて、ラーメシュワラムとは反対方向の西海岸ゴアに赴き羽目をはずそうと企んでいた。が、南インドの最大の都市チェンナイ行きの列車《 チェンナイ・エキスプレス 》に乗ったことから、事態は予想を大きく外れ、想像だにしなかった展開となってゆく。


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 列車がホームを走り出すと、その列車に乗ろうと一人の娘ディーピカ・パドゥコーンが懸命に走ってくる。彼は列車の乗降口から手を伸ばし、彼女を引き揚げてやる。これは、《 DDLJ 》の有名なシーン以外の何ものでもない。撮り方もそれ。只、その後も次から次へと走ってくる男たちを同様に助けあげてやるってところがコミカル・パロディー。その男たち皆一様に凶相の大男で、実は逃げてきたその娘の父親=ボスの命令でその娘を連れ戻しにやってきていたのだった。その辺の事情を、子分たちがヒンディー語を分からないのを逆手にとって、娘がシャールークと《 DDLJ 》のテーマ曲にのせて唄い合うシーンもあって、笑わせる。子分に刀や拳銃をつきつけられ善良なスウィーツ屋シヤールークは恐怖におののきながらも、結局、その娘=ボスの屋敷に連れて行かれる羽目に。
 勿論後の展開も相似。
  只、チェンナイといえば、南の“ スーパー・スター ”ラジーニカント、彼に敬意を表してか、《 ムトゥ 》でのコミカル・シーンのパロディーや、最後に様々なラジーニカントの図像を背景に使った“ ルンギ・ダンス ”のダンス・シーンも挿入されている。このダンス・シーンは気に入っているけど、他は端折って総じておざなりの感が強い。それでも最後まで観てしまったが。


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