« 湾岸伝説 悪魔の起源 : ジン | トップページ | 最後の萬龍  2015  ( 門司港 ) »

2015年2月21日 (土)

我が内なる源郷的記号 《 餃子ロード 》 甲斐大策

2

 ( 外は雪・・・飲んでいるのはチャイだろうかカフワだろうか。コバルト・ブルーの窓枠が好い。昭和の町屋にも、とくに商店にモダンな装いとして取り入れられていた。 )


この本を読んで先ず、最近の僕の好きじゃなくなった言葉、余りにあっちこっちでこれ見よがしに押しつけられ嫌悪感すら覚えるようになったステレオタイプ的修辞 " たかが~、されど~ "が、実にすんなりと脳裏に浮かんできた。
 で、“ たかが餃子、されど餃子 ”というわけだ。

 最近余りその動向を目にすることもなくなってその生死すら定かでない画家・作家=甲斐大策、パキスタンでハンセン病対策医療や井戸掘りなんかをやっている《 ペシャワール会 》の今年のカレンダーに彼の作品が載ってるのをブログで発見したぐらい。
 父親・巳八郎が元々画家だったのもあって習い覚えての画家志望だったんだろうが、早稲田在学中に考古学に興味をもちアフガニスタンに幾度も脚を運んでいる内、すっかりアフガンの地と人々に惹かれ馴染んでしまい頻繁に行き来するようになったという。彼のいう餃子文化エリアであり、その発祥にかかわる西域、砂漠とオアシスの黄色い大地。人なつっこいアフガンはじめ西域の男たちの男気に触発されたのでもあろう。
ついには、イスラム教徒にまでなってしまったり、ソ連軍が撤退した後の内戦の際にカブールの南百キロぐらいのパクティアのパシュトン系の小部族の尻にくっついて“ 義理立て ”で戦士(ムジャヒディン)として参戦までするようになる。
 タジク・ハザラの制圧した首都カブールに攻撃をしかけていたパシュトン系といえば権力欲の強いヘクマチアールがその代表格で、敵対する北部同盟・タジク系のヒーローが暗殺されたマスード。ヒーロー=マスードという観点からしたら、多数派だけどパシュトン=ヘクマチアールは悪役って図式。後、タリバンが勢いずいてくると、追いやられはじめたヘクマチアール、マスードと手を組んだりしていたはずが、老獪さを発揮してマスード暗殺を謀ったとかいう噂も。真相は曖昧なままもみ消されたきり。将来同じペルシャ語圏どうしってことでタジキスタン・" イラン "とも提携しかねないのを厭って米国が陰で糸を引いていた可能性も高かった。

 ペシャワール北西のアフガンとの国境の町トルハムだったかランディ=コタールだったか忘れたが、そこのターバンを巻いた親爺の雑貨屋の店頭にうやうやしくヘクマチアールの肖像が掲げてあったのには驚いてしまった記憶がある。
 「 真面かい ! 」
 余りにも旗色を鮮明にしていたからだ。それとは別に、当時ぼくの抱いていたヘクマチアールのイメージも悪役以外の何ものでもなかったってこともあった。己の権力欲むきだしに執拗にカブールに攻撃をしかけ多くの犠牲者を出し続けた張本人そのもの。ちょうど悪辣極まりない米国大統領ジョージ・ブッシュの肖像をこれ見よがしに掲げているのと寸分の違いもない暴挙に思えた。


1

 ( 火焔山を背にした睡蓮洞の孫悟空なのか、ヒンドゥークシを背にしたオアシスのハヌマーン大王なのか ) 

 旧満州は大連・南山麓で甲斐大策は生まれ育った。
 六歳の頃、初めて覚えたのが焼餃子" 鍋貼(児)" というところから、汎アジア的餃子考がはじまる。戦前に大陸に渡っていた者たちやそこで生まれ育った者たちを、昭和の時代は、《 引き揚げ者 》の一括りで呼んだ。
 喪われた故郷・郷里の象徴として餃子( 彼は「餃」とだけ書く )、その餃子の絡んだ引き揚げてからの体験を記してゆく。
 
 
 「 はじめてのアフガニスタン訪問は、混乱の三ヶ月だった。風の丘陵をゆく季節移動民クチィ、長身で神秘的な空気をまとった青灰色の瞳をもつ山岳民族ヌリスタニ、蒙古軍団を思い起こさせるハザラ、謎深い部族社会の剛毅の気風を誇るパシュトゥン、騎馬の民トルクメンやウズベク、ペルシャの優雅さが漂うタジク、それぞれの民族がそれぞれの文化を保っていた。
 貧困は国を覆っていた。旅人にさえも民族間の差別と被差別が見えた。
 しかし、何よりも衝撃をうけたのは、人々の礼儀正しさである。その日の食にも困っている者が、どうしてそうあれるのか、と恐怖を感じるほどの礼節だった。
 
・・・『 ブズカシ 』が行われた日、静かな男たちが夕刻のチャイハナ(茶館)を埋めていた。そこで初めて『 オシャク 』と出会った。
 『 オシャク 』はウズベクの料理とアフガン人たちはいう。水餃に似て非なる、小麦粉と羊肉と韮の料理だった。」

 
 ペシャワールであっちこっちのアフガン人のレストランというか飯屋には入ったけど、オシャクやマントウなんてものには噸とお目にかかったことはなかった。勿論見てないところで食べられていたのかも知れない。
 もっぱら干ブドウや羊や鶏肉の入ったプラオの類、カバーブ、ナーン、チャイ。
 プラオは民族や店によって色々味が異なるようで、旧市街のバザールにあった店のプラオはなかなか美味かった。うろ覚えで二度目尋ねてみたら、何しろゴチャゴチャした迷路みたいな場所なので、杳として見つからなかった。


3
 
 ( 中国旧民家と中国式清真寺モスク )


 「アフガン・トルキスタン第一の街マザール・シャリフは、その名が意味するように『 聖者アリーの廟 』を中心に生きている。人々はマザール(墓廟)と呼んでいた。
 凍った地面が緩み、そこここがぬかるむ中、廟の門前バザールは賑わいを増してゆく。
 人々は売り手になり買い手にもなり、絨緞、羊、山羊、鶏、卵、薪炭、刃物、野菜、果物、薬草等々、ありとあらゆるものを商う。
 ウズベクの名物料理、オシャクで評判の店は、廟に面した屋並びの一角にあった。
 店内は昼間から紅色、桃色、緑色、ブルーの蛍光灯の明りが混ざり合い、艶っぽい空気に充ちている。・・・・・・

 ある日の午後、長身の老人が、若い女性を伴ないこの店へやってきた。
 手入れの届いた美しい白銀のあご髭の老人は、濃紺地に朱色の牡丹柄の、女性は真紅の地に青やむ黒の薔薇や空想的な花と果実を染めぬいたチャパン(外套)をまとっている。トルクメンである。
 バッチャ(ボーイ)に赤いカーテンを引かせ、二人はピンク色の明かりをともした女性用の部屋へ入る。・・・・・・その女性の美しさには息を呑んだ。
 二人のもとへ運ばれていったのは、パラオ(ピラフ)とカバブ、オシャクとマントウ、そして茶だった。マザールに限らずアフガニスタンで最高の献立である。
 ・・・・・・
 
 オシャクは、掌半分ほどもある。刻んだ韮を小麦粉の皮で包み、充分に茹でてある。皿一面に平たく並んだ半月形のオシャクに羊肉のミートソースが被さり、さらにクルート(乾燥ヨーグルト)がかけてある。ガシュニチ(コリアンダーの葉、中国の香菜)を散らしたりもする。
 マントウは、丸めた羊の挽肉を薄い小麦粉の皮でくるんで蒸し、酸味の強いクルートをまぶしてある。巨大な鮮肉焼売と同じである。
 クルートは、小石のように堅い乾燥ヨーグルトを粉にし、スパイスとライム汁を加え、酸味鋭く仕上げたソースである。ライム汁に酢酸を加えている場合があり、激しい刺戟に咳こまされることも少なくない。」

 色鮮やかなチャパンは粋な外套で、ペシャワールのアフガンの店先に見つけては見入っていたものの、さてそれを日本に持ち帰ったとして果たして着る機会があるだろうかと考えてしまう。部屋の中で纏うか、飾っておく他ないように思えてしまう。
 ターバンにチャパン、白髭ときたら手には数珠なのだろうか。すらりとした長身のアフガンの老爺はなかなか絵になる。若い世代は、丈夫なモス・グリーンのフィールド・ジャケットを纏っているのが多かったけど、あれは必ずしも皆ムジャヒディーンという訳でもないのだろう。
 

 「実はオシャクやマントウを美味と感じたことがない。
 泥の上に坐っては大地の一部となり、騎乗して走れば中央アジアの空気そのままに風と同化してしまう、そして常に静かなトルクメンやウズベクが大好きである。そんな人々がこよなく愛する食べものを深く識りたかった。中国の餃にもしつながるのなら、その道筋や歴史も是非識りたかった。
 マントウときけば、中国の饅頭と音が同じである。しかし、蒸すことと発音の共通点以外どうつながるのだろう。・・・」

 
 「ヒンドゥークシの北側を故地とし、発酵度の大きい厚味のある円盤形のナンを食する人々はオシャクやマントウを愛している。南側に住むか、印度文化圏やペルシャ文化圏で発酵度の弱い薄手の長楕円形のナンを食する人々は、そのいずれにも素気ない。この事実に何が秘められているのか興味そそられる。」

 
 「 アジアを旅しながらこの数十年、すべての生活を水墨画に収斂できたら、との思いがつのっていた。その心を確かめたい、と一九九六年夏、初めて台北の故宮博物院を訪れた。
 ・・・・・・ 
 低く垂れこめて走る雲に天母一帯の明りやネオンが映える。
 若者たちが群れるアイスクリーム屋で再び卓を囲む。
 高、林二人の若者は、台湾人としてのアイデンティティが見つからない、という。葉さんは、どこでどう暮らそうと私たち、漢民族なんだから、と微笑む。永さんは、血も国籍もこだわらず、流れに身をゆだねた気がする現在がとっても心地良く、将来はもっと漂っていたい、といった。」

 
 ともかく、彼は西域=中央アジアが、アフガンが好きなのだ。
 大連から遥かヒンドゥークシを越えてつづく彼の内深く伏在する源郷・心象風景に触れるものがあるのだろう。己が源郷を求めて流離(さまよ)いつづける彼と、中国を追われた蒋介石=国民党とともに移り住んできた外省人たちの子孫であるだろう台湾人としてのアイデンティティーを容易に見つけられないでいる二人の漢族の若者とは、真逆な政治的力学に翻弄された経緯をもっているにしても、そう隔たった位置にいる訳ではない。
 それ故の彼等に対する親愛なのだろう。それは又、『 心象風景の喪失から出発している 』藤原新也等に通じるものであろうか。


   《 餃子ロード 》甲斐大策( 石風社 )

|

« 湾岸伝説 悪魔の起源 : ジン | トップページ | 最後の萬龍  2015  ( 門司港 ) »

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事