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2015年3月の4件の記事

2015年3月28日 (土)

マニアック 「 タイ・演歌の王国 」 

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 この本が出てもうかれこれ15年過つ。
 只、その後、パタリと後続が断たれ、書店の棚にタイの演歌どころかポップス関係の本すら見かけたことがない。確かに、この本はよく書かれてて、これを越えるとなると些かの努力と労力を必要することとなる。タイ流行歌=演歌・ポップス( ロックも含む )が好きな者にとっては残念なことだけど、現在は、しかし、インターネットで新曲もリアルタイムに聴くことができる上、ブログでタイ在住や国内で発表されている種々の記事や評論の類を見ることもできる。


 個人的にはルークトゥンよりもモーラムの方が好きだけど、そんなに聞き込んでる訳でもない。だから、じゃあ、誰が好きなんだと問われると、即答できず口ごもってしまう。以前だったら、チンタラーと答えたけど、あまりの変わり映えのしなさに食傷気味。
 チンタラーといえば、“ バード”・トンチャイとのデュオで一世を風靡した《 マー・タム・マイ 》、《 フェーン・ヂャー 》が流行った頃、ルークトゥン・モーラムをポップス風にアレンジしたものだけじゃなく、それ自身として唄うのが流行ったことがあった。
 タイ・タナウットやパーン・ナカリン。それにマイなんかは神話的ルークトゥン歌手プンプアンの曲を網羅したアルバムを何枚も出してたりもした。プンプアンの代表曲といわれている“ ローク・コーン・プン”も唄ってるけど、も一つ素っ気ない。プンプアンのはyoutubeでコンサートの映像が見れるけど情緒たっぷり。


 「 プレーン・ワーン( 甘い歌 )はルークトゥン歌謡の本流である。喉を聴かせるのがルークトゥンならば、ルークトゥンはプレーン・ワーン、というのが相場なのだ。」


 作者の大内はそう規定した。タイ・タナウットも全曲ルークトゥンってアルバムを出していて、元々がちょっと演歌っぽい要素が含まれていたから殆ど違和感がないし、総じてゆったりした曲調のものばかり。それ以前に、トン・パッカマイもルークトゥン歌手とテレビ劇で共演した折、ルークトゥンを唄っていた。まあ、ご愛嬌ってとこだったが。


 「 大雑把に、『 タイ演歌 』はルークトゥン歌謡とモーラム歌謡に大きく分けることができる。標準タイ語で唄われるルークトゥン歌謡は全国的な流行歌だが、モーラム歌謡はイサーン語( 東北タイ語、つまりラオス語である )で唄われる( それも『 歌 』ではなく、『 ラム 』という独特な唄い方をする )、モーラム・ファンはイサーンの人たちに限られている。」


 「 はっきり書いてしまえば、ルークトゥン歌手の公演はバンコクでは本当に少ない。標準タイ語で唄われる全国的なルークトゥンよりも、一地方の言語に過ぎないイサーン語のモーラムのコンサートのほうがバンコクで盛んだというのは、嘘のように聞こえるかもしれないが、これは本当の話である。」


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 貧しい東北(イサーン)から多くの人々がバンコクに出稼ぎに来ているようだし、何よりも乗りが好いので踊れる。ぼくのバンコクでの定宿のTT ゲスト・ハウスのすぐ近くの空地を利用したオープン食堂でも、ミュージック・ボックスから流れるモーラム曲にあわせてオバサンたちが昼真っからでも巨体を揺すぶりながら両手を拡げ踊り興じていたりしていて、沖縄以南の南国情緒ってものを痛感させてくれていた。
 ところが、イスラム国やイスラム原理主義者が音楽そのものを嫌うのとは又別様に、タイでも初期のバンコク王朝の権力者もモーラム・ケーンを疎んじ、例えばラーマ4世は『 ラオスのモーラム、ケーン吹奏を禁止する条例 』なんかを公布してたらしい。
 モーラムの場合、基本的には笙に似たケーンという葦筒で造られた吹奏楽器が対になってるけど、大内は1966年にタイ政府軍に射殺されたヂット・プーミサックの小説《 拝啓、封建貴族の皆様 》の一節を援用する。


 「・・・イサーン地方の民衆のケーンは、人生に挫けることのない闘争の歌の音色である。スピード感のあるリズム、ケーンの歌の堅忍不抜の調子は、真実の闘争の精神を呼び醒ます特徴をもっている。自然の残忍で無慈悲な干魃、彼が受けてきた社会的な抑圧・強圧は、まるきり彼に背中を丸めさせ屈服させることはなかった。それどころか、それらは逆に彼らのすべての闘争心をさらに堅固に育て、内部にまで染み込ませている」

 
 ところが、反骨精神はイサーン=モーラムだけの専売特許じゃなかった。
 ルークトゥンの中にもあった。
 
 「 当時( '94年 )タイでは『 懐メロ 』ブームが続いていて、まったく衰える気配もなかった。もうそれこそありとあらゆる昔のヒット曲を引っ張り出してきた。なのにカムロンの歌の埃をはたいて再録音した人は、ほとんどいなかった。その一人がエット・カラヴァオである。
 カムロンの歌の歌詞を一つでも読めば、なぜリバイバルしないのか、すぐわかる。彼の唄った歌は『 ルークトゥン 』の中でも、特異なものなのである。
 ・・・カムロン・サムブンナーノンが偉大だったのは、その時代性にある。彼が『 過激 』な歌を唄ったのは、戦後のピブーン・ソンクラーム、サリット両元帥の軍部独裁政権時代なのだ。批判的な知識人を一網打尽に刑務所に放り込んで『 飼い殺し 』」にしたのはよく知られている。とくにサリット時代は知識人が完全に沈黙させられた時代である。」


 「 カムロンはいろんなタイプの歌を唄いこなしたけれど、『 政治的 』な内容の歌が圧倒的な力でぼくらを幻惑する。唄ったカムロンは『 指導者閣下 』を罵ったとして、たびたび留置所に『 招待 』された。カムロンの歌には社会の下層の人たちの困苦を反映させた歌や映画挿入歌がたくさんある。」
 

 例えば、《 政治の呪文 》の歌詞は。

「 政治家の宣伝の声、口にするのはいい話ばかり / ・・・
 口には愛国を吹聴し、ぼくは聞いていて実に哀れに思う / 見えるのはただ彼の議会の中での大きな地位の奪い合い / 奔走しては徒党を集め、中華飯店・バーでにぎやかな宴会 / ときには徒党を組んで憎み殺し合う / タイの議員にはほとほとウンザリする / ぼくは全国の国民にお願いする / 汚職好きの不忠なこんな輩には投票せず、まだたくさんいる善人だけを選びなさい / そうすれば民衆は幸福になり、タイ国を繁栄に導くだろう」


 確かに、数十年過った現在でもタイの政治・国情は変わってないのは、昨今のタイのさまざまな事件で簡単に了解できる。古臭いように見えて、その実、真実をえぐってみせて普遍的。カラバオが尊敬する所以だ。


「 1960年ある日、サリット元帥が執務室で夫人が昼食を運んでくるのを待っている間、時間潰しに気を紛らわそうとラジオをかけ、チャンネルを合わせると、突然『 ムン・マン・チュア・ナック( おまえって奴は何て悪い奴だ ) 』という感情のこもった文句を強調した歌声が流れてきた。サリット元帥は思わず食事用テーブルの上にあったあらゆる物をひっくり返し投げつけ、ラジオを踏みつけるほど荒れ狂った。すぐに部下を呼んで、社会秩序を崩壊し、『 閣下 』を当て擦るような歌を流す『 共産主義 』放送局を直ちに調査して閉鎖逮捕するよう命じた。これには、どこの放送局もこの歌を流しており、サリット元帥の聞いていたラジオ局は自分の所属する軍部所有のラジオ局だったというオチがつく・・・」


 確かに、戦時中に東条英機大元帥がラジオをかけた途端、そんなフレーズが飛び込んできたとしたら、正に同様の反応をしたろう。むろん、もっと悪辣な手段に出たことは間違いない。カムロンのふてぶてしさ、痛快さの面目躍如ってところ。


 この本の面白いところは、わざわざ一章をもうけて、“ ハーン・クルアン ”、つまりルークトゥンやモーラムが唄われている背後で肌も露わに派手な衣装で踊っている娘たちのことを詳述している点。
 どこの国の歌謡舞台でも同様なバック・ダンサーはいるが、タイのこの演歌系列の場合、又ちょっとその様相を異にしているのに彼が感嘆し興味をもったってところから始まったようだ。タイの中流階級以上にはその下品さを誹られこそすれ好まれることはないけれど、下層の人々には、はっきりいって男たちには好評らしい。何しろ、二十一世紀になっても唯一《 不敬罪 》のある国柄、階級的優越にふんぞり返った権力輩に対峙するように、もっと頑張って欲しいとは、ビデオでしか見たことのないぼくであっても、つい思ってしまう。


   「 タイ・演歌の王国」 著・大内治 ( 現代書館 )


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2015年3月21日 (土)

門司港のグリスターン ?  グリシェン・カフェ

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 今日も曇空の下、それでも防寒着の類は必要なくなったのもあって、門司港リアル・レトロの象徴《 萬龍 》の後裔らしい《 龍 》はどうなったのか確かめに訪れてみると、派手な花環が店前に飾ってあった。
 丁度昼時、曇った窓ガラス越しに中を遠目に窺うと、いかにも食べ終わったといわんばかりの口元の客が一人出てきた。見ると玄関脇に[ 営業中 ]の表示。既に早めの昼食を済ませてたので中には入らず、元の《 萬龍 》の方に廻ってみると、昭和風レトロの建物はそのまま、ショウ・ウィンドーの奥に色褪せたメニュー・サンプルがひっそりと並んでいるだけ。ここもやがて《 朋友 》と同じ取り壊しの命運となるのだろう。只、場所柄、駐車場になり落ちるってことはないと思うのだけど・・・


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 と、以前この同じ《 萬龍 》の並びに、十字路を一つ越えて繁華街の方に戻る途中にカラフルに塗り立てたカフェが近日オープンのような看板を出していたのを思い出し、目と鼻の先のその古民家を強調していたカフェに脚を伸ばすことにした。

 コバルト・ブルーの壁にストロベリーかローズ・マーダーの赤いドア、その横壁にいかにも油絵風に塗りたくった看板が掛かっていて、《 古民家チャイハナ グリシェン・カフェ 》とあった。
 入ると、正に古民家改造の流行の仕様。
 板張床に白壁のやや低めの天井のフロアーは、入口周辺にあれこれ生花も配して、些か凝った造り。正にグリスターン花園って訳なのか。
 中に入ってすぐ気づいたのが、白壁に掲げられた幾点もの飾り気のない額に張られた同じ作者が描いたのであろう油絵。中央アジアを舞台に描いた、しかし、どこかで観た覚えのある作風・・・ためつがめつ傍に近寄って眺めると、隅に“ 大策 ”とあった。何と、甲斐大策のオリジナルだった。
 マジ !!
 現れたぞろりとした長衣の女性に確かめると、果たして甲斐大策のであった。
 どころか、数日前にこの店にやって来たという。
 表に飾ってある《 グリシェン・カフェ 》の看板も彼がわざわざ描いてくれたものらしい。但し、外のはコピーで、入口脇に飾ってあるのがオリジナル。一度観てみたかった甲斐の油絵を珈琲を啜りながら間近で鑑賞できるとは思いもしなかった。


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      ( トイレの中に飾った甲斐大策の男女像 。ひょっとして結婚式?)


 季節によって展示する絵も替えるという。
 甲斐の絵に関しては殆ど無知なので朗報・・・何よりも気軽に珈琲でも飲みながら観れるってのが好い。トイレに向かう狭い廊下の壁にも彼の写真なんかが貼り巡らされ、驚いたことにトイレの中まで、彼の小品が一点飾ってあった。
 基本、椅子とテーブルだけど、一カ所だけ、カーペット敷きのフロアーにアフガン製らしいパキスタンなんかでは滅多にお目にかかれなかった豪華な背もたれの附いた低い脚のチャールパイが何脚か置かれた一角もある。気分はすっかりアフガン・中央アジア。


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    ( 左側の一目で分かるカラフルな意匠のチャイハナ。まっすぐ行くと、左側に《 萬龍 》が静かに佇み、突き当たりには嘗ての社用族御用達料亭《 三宜楼 》が聳えている。)

 

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2015年3月14日 (土)

イラン的メランコリア 《 白い紙 》

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 30年以上も前の、まだサダム・フセインやホメーイニが生きていた、イラン・イラク戦争の真っ直中。当時、まだ少女だったはずの作者の実体験を元にしているのかどうか定かじやないけど、父親が"戦争医師"として最前線に狩り出されたため一緒にそこからちょっと離れた小さな田舎町に母親と引っ越してきた少女と同じ学校の生徒・ハサンとの束の間の淡い恋情と冷徹な現実。

 イランの映画はそこそこは観ている方だけど、ジャンルは異なるがここまで端的にイラン・イラク戦争=現実のイランに触れている作品にはお目にかかったことがない。小説の方も、イラン国内で、この作品と同様けっこう肉薄した作品もひょっとしてって期待したいが、それはまずありえないだろう。もし存在するとすれば、国外で発表されたものってことになる。
 イスラム原理主義国家=イランってレッテルからすると、映画は公共性の強いメディア故に統制が厳しいのだろうが、この小説も、日本留学中に日本語で書かれたらしく、ひょっとしてイラン国内ではまだ出版されてないのかも。
 

 戦時中の日本じゃ、基本的には、間違ってもこんな厭戦・反戦的な小説が出版されようもないが、実際には例外的に、ごく一部の小説どころか映画の方でも、この小説と似た設定・雰囲気の作品、決して皆無という訳じゃなかった。海千山千の老獪な監督たちがあれこれ“ 奸智 ”を搾って軍=権力の意に逆らう意志を巧妙に封じ込めた作品が、数多の戦意高揚映画にまぎれて、戦時の薄暗い映画館の闇の中で、チラチラと青白い焔をくゆらせていたのだ。


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 作者のシリン・ネザマフィは、1979年イランの首都・テヘラン生まれという。
 その翌年から始まり、八年後の1988年に終結したイラン・イラク戦争。
 戦争後期には、国境を越えて首都テヘランにイラクのミサイルが飛んで来るようになったので、その記憶はあっただろう。
 バック・パッカーたちは、当時テヘランの高台にポツンと佇んでいたヒルトン・ホテル( ? )の上層階にあったフランス料理レストランで、交換レート抜群の現地価格でフレンチ・コースに舌鼓を打ちながら、大きな展望窓越しに、遠くイラク方面から大きく弧を描いて飛んできたミサイルがテヘラン市内に落下する光景を対岸の花火の如く観覧していたという。正に、堕落したブルジョワの悦楽って趣きで、映画のワン・シーンのようだなと感心しつつ、些かの苦渋を覚えたその話しを、同じレストランの窓際のテーブルで聞いたのが1990年であった。終戦からまだ数年も過っていなかったけど、これ見よがしな派手な爪痕は目にしたことはなかった。僅かバザールの近辺の何処かにあったとかなかったとかいう情報を耳にしたことがあったぐらい。


 この物語じゃ、主人公の娘は、国境近くの小さな町に徴用された医師らしい父親を追っかけてきての仮住まい。しかし、ここもやがてイラクのミサイルの洗礼を受けるようになって、防空壕に逃げ込む回数も多くなってくる。
 同じ非常時的男女合同授業の教室で一緒になったハサン。
 ひょろんと背の高い若者で、医者志望。
 事のなりゆきでハサンとだんだん親しくなってゆく。
 イランに限らず、イスラム社会じゃ思春期に到ると、男女別々で、原則的に親しそうに話したりすることは御法度。昨今、この手の宗教的戒律に触れたために起きた事件、とりわけその大半が娘の側に集中した惨劇が毎週の様にニュースとなって世界を駆け巡っている。尤も、かつての日本も儒教的戒律として“ 男女七歳にして席を同じゅうせず ”だったし、明治維新後も小学校以上は男女別々。そんな封建的保守主義的習慣から抜け出せたのは、そう遠い昔のことではない。イスラム諸国にかぎらず、性差別なんてものからは現在もって男女共々、当事者が想っているほどには自由ではないのを鑑みれば、自由と平等への道程ってなかなか遠いようだ。


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 ハサンの母親が容態が悪く、テヘランから名医がやってきたと伝え聞いたハサンが、時折前線から戻ってくる主人公の父親に看てもらいに母親を連れてくるようになる。彼等の学校の先生も脚が悪くこの時とばかり押しかけてきた。その先生、戦況の不利からいよいよ迫り来る“ 兵役志願 ”の波から、優秀なハサンを何とか免れさせようと腐心する。ハサンは徴兵の対象にならない未成年。町から男たちの姿が消え去って、残るのは老人と未成年男児だけ。そこを狙って、アジテーターたちが“ 兵役志願 ”を扇動するのだ。かつて日本がそうだったように。
 ハサンの父親も目と鼻の先の前線で戦っていた。
 父親が兵士だとハサンは大学進学の推薦を得られると先生は説く。
 主人公の父親に、口を滑らせ、もしハサンの父親が戦死でもしたら“ 確実 ”に推薦されるとも。
 やがて、更に戦況が悪化し、主人公の父親医師も、後方のイスファハンに移ることになり、彼女たちも一緒に引っ越すことになる。久し振りに会ったハサンの様子がおかしい。何と、ハサンの父親が前線で逃亡したという。膠着した激戦の前線で、多くの兵士が逃亡していったその中の一人として。小さな町じゃ、早晩その醜聞が町中に知れ渡ってしまう。体調の思わしくない母親の不憫。ハサンは苦渋の選択を迫られた。否、もうそれしか残ってなかったのだろう。
 栄誉ある兵役志願。
 新兵を満載した緑色のトラックが次から次へと出発してゆく。ハサンも銃を片手に乗り込んだ。先生が遅れてやってきた。大学が受かったという吉報を携えてはいても、もはや事態はそんな予定調和をこなごなに粉砕し去っていた。どんどん遠ざかってゆくハサンに先生は叫ぶことしかできなかった。


  最初、淡い少女趣味的な恋愛モノとたかをくくっていたのが、次第に戦争の重苦しさが絡みついきはじめ、どんどんと加速度的にすべてが戦争の坩堝の中へと引きずり込まれてゆく。軽やかな女性的筆致が周到にシリアスな現実へと導いてゆく。
 前線といえば、この頃、かの“ 地図屋 ”富永省三氏が、あくなく地図的踏査を決め込んでまだまだ前線の緊張を残していたイラク国境近くの町アフワーズだったか、そこで官憲に捕まったのは有名。普通ならスパイ容疑で確実に牢屋へ放り込まれていただろうが、そこは氏の人徳、あっさり元来たエリアまで鄭重に車で送り返してくれたとか。この国境地帯は危険なエリアとして知れ渡っていたので大抵のパッカーは回避するのだけど、「 そこに地面があるから 」と定歩幅の測量マシーンと化した氏には実弾が飛び交ってないかぎりは青信号に違いない。


 「 白い紙/サラム 」  シリン・ネザマフィ (文藝春秋)


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2015年3月 7日 (土)

湾岸戦争的悪夢  ヒッチャー (2007年)

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 十年近くも過って、もう旧い部類に入ってしまったけれど、古臭さを感じさせない今観ても鬼気迫る面白いホラー映画だ。
 監督のデイヴ・マイヤーズ、広いパースペクティブで背景に描かれるニュー・メキシコの曠野や決めのショットなんかのメリハリは、いかにもミュージック・クリップなんかの制作ディレクターだっただけのことはある。この業界から来た監督って、ややもすれば映像に拘り過ぎてしまって冗長なものになりがちだけど、マイケル・ベイのアドバイスもあってかそんな癖に病んでいない。
 
 オリジナルのオランダの怪優ルトガー・ハウアーが主演した1986年の《 ヒッチャー 》は、ジャンルが“サイコ・サスペンス”となってるけど、確かに陰にヨーロッパ風のナイーブさを併せ持ったエキセントリック全開にハウアーが演じればそうなってしまう。けど、今回のジョン・ビーンも一つ骨太で、正に"(サイコ)・ホラー"の怪魔にぴったり。どっかで見たことがあると思ってたら、《 サイレント・ヒル 》に出ていた。
 

 〈 ストーリー 〉
 学生カップル=グレース&ジム二人がバカンスを利用して何処かに遊びにゆく途中、なりゆきでヒッチ・ハイカーを同乗させたのはいいが、とんでもない災禍に見舞われ、しまいには連続殺人犯カップルとして警察にまで追われる羽目に陥り、銃を構えた警官たちの眼の前で、男子学生のジムが惨殺されてしまう。怒り心頭に達したグレース、平然として立ち去るライダーに散弾銃を向け引き金を引く、一回、二回、三回・・・


 今回再び観てみて感じたのは、湾岸戦争=イラク・アフガン侵攻( 戦争 )後の、いわゆる“ ポスト=イラク・アフガン戦争 ”映画として位置づけることができるってことだろうか。勿論それを特定するセリフが出てくるわけじゃないけれど、ジョン・ビーン=ライダーの様相が、典型ともいえる米国映画で描かれてきた湾岸帰還兵の症候群・後遺症のそれだった。
 バカンスに向かう二人の学生カップル、グレース&ジムが日常的世界(銃後的平和)の象徴で、ヒッチャー=ジョン・ライダーこそ湾岸戦争帰還兵=デーモンという図式。
 ベトナム帰還兵ランボーの伝で言うと権力(軍)によって造られた殺人マシーンが帰国後、平和的日常あるいは平時的論理に適合できず精神的ハレーションをきたしての暴走ということになる。


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 ライダーによって二人の警官が殺害された小さな警察署で、本署から駆けつけ陣頭指揮をとるエストリッジ警部は、殺害の手口を確かめるや、直ぐに犯人はカップルじゃなく、別の人間だと直感する。背後から喉をナイフで掻き切った鮮やかな手口からして、学生ふぜいの到底なしえる業じゃなく、手慣れたプロの仕業だと。
 背後から音もなく忍び寄って喉をあざやかにナイフで一掻きするなんて、普通の兵士なんかがなしえる技じゃなく、訓練された特殊部隊員であって初めて可能だろう。殺害することに些かのためらいもない。それも機械的実務的に処理する以上に、病んだ精神を窺わせる嗜虐性すら漂わせて。
 もはや冗談でも"正義"を言えなくなったベトナム戦争以来の病んだ米国帰還兵ここにありって訳だ。そう見ると実にライダーの一挙手・一投足に納得がゆく。
 彼は嗜虐的な殺人衝動と同時に自殺衝動をも併せ持っていた。
 “ 死にたい ! I Want to Die ! ”
 カップルの男子学生ジムにもナイフを突きつけて言わせ、自分でも呟きつづける固着的フレーズ。
 ラスト・シーン近く、まだグレースが殺人犯だと思い込んで一斉にグレースに銃口を向けた警官たちがすぐ周りを取り囲んだトラックの助手席で、グレースが運転席のライダーの横顔に拳銃を押しつけ、トラックの後に鎖でつながれたジムを殺させまいと必死に哀願しているのを、肝心のライダーは、むしろ喜悦の表情すら浮かべ彼女をじらし引金を引かせようと挑発し続ける。
 ところが、幾ら口汚く挑発し続けてもグレースはジムを殺させまいと鳴き声をあげ懇願するばかり・・・とうとう業を煮やしてライダーが吐き棄てた。
 
「 ったく、役に立たない娘だ ! 」

 彼は何としてもそこでグレースに拳銃の引金を引いて欲しかったのだ。
 つまり、殺して欲しかったのだ。
 死にたかったのだ。
 そうすると警官たちの拳銃も一斉に火を噴いたかも知れない。それをも彼は読んで策謀んでいたに違いない。幸せそうな連中を全部道連れに、ひょっとすると可能な限り一人でも多くの者を地獄に引きずり込もうとしたのかも知れなかった。彼はヒッチした車の子供を含んだ家族全員を惨殺した。彼は自分が陥れられ背負い込まされ、そして押し潰されてしまった( 苛烈な )現実を、平和な幸せそうな米国社会にも背負い込ませ、帳尻を合わせようとした。それは彼、ライダーに最後に残された怒りでもあった。( それは、又、社会的テロルという側面をもつ )
 殺人衝動=自殺衝動のアンビバレンス。
 それは同じ一枚のメタルの表裏の関係でもある。
 生と死のせめぎあい・・・戦場。
 米国じゃ毎日二十人近くの帰還兵が自殺しているという。
 ラスト・シーンで、彼が、背後から散弾銃を構えて近づいてくるグレースを歯牙にもかけず悠然と道路を歩んでいこうとして、何発も散弾を喰らわされ、反撃の素振りも見せずに最後には頭すら吹き飛ばされてしまったのは、正にそれだった。
 平和な世界でジムと一緒に幸せを満喫していたグレースを殺人者に仕立て上げたのだ。自分が舐めた惨澹たる辛酸=不条理を、後方にあって平和を満喫し続ける米国そのものに投げ返し不条理の連鎖を策動したのであった・・・・・・不条理の連鎖。蔓延。

《 ヒッチャー 》 制作 プラチナム・デューンズ ( 2007年 )      監督・デイヴ・マイヤーズ


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