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2015年4月の4件の記事

2015年4月25日 (土)

街角ヒーロー 《 バードマン 》

Birdman

 他にこれといったものがなかったというのもあるが、評判の《 バードマン 》を観てみた。
 そもそも、小便臭い横丁・路地裏のチンピラ相手に《 正義 》を振りかざす“ アメリカン・コミック・ヒーロー ”なんて、丁度日本で子供の頃さんざん観せられ続けてきた似たり寄ったりのテレビ・ヒーロー物と同様で、中学生になった途端、スッと迷妄から醒め、その子供だましのヒーロー=似非正義と矮小さをなじるようになって以来、未だに好きじゃないんだけど、そのなれの果てのってところのシニカルな一点で、観てみようという気になった。

 二回目上映で広い客席に観客はチラホラ。まあ、こんなものか。派手なアクションなんかを期待する客が集まるような類の映画じゃない。
 
 と、のっけから響き渡るきれの良いドラム=パーカッションの音が小気味好い。
 炸裂でもなく、ありきたりのロック風でもない繊細な抑制されたジャズ・パーカッション。・・・ミルフォード・グレイブスだともっと豊饒に紡ぎ出すのだろうが。些末なことかも知れないけど、このドラム・プレイヤーが画面に出る数回の場面・・・どうもおざなり。このシーンもっとリアルに作って欲しかった。只、この映画、途切れのない一回の長廻し撮影風が売りでもあるようで、それだと次から次へと流れてゆく場面と同時進行してゆくパーカッションの音とドラム・プレイヤーの叩き出す動作を合わせるのが技術的にますます煩雑になってしまう・・・仕方のないことなんだろうが。

 
 かつてハリウッド映画《 バードマン 》で主演して莫大な富を得たリーガン、その後はさっぱりで、とうとう起死回生の演劇=“ ブロードウェイ ”進出に賭けることに。舞台はブロードウェイのある劇場とその近辺。
 何奴も此奴も好きなことばかり言いやがって !・・・リーガンは本公演前のプレビュー公演にようやく辿り着いた頃にはすっかり嫌気がさし公演中止をすら決意する。それでも、何とか事のなりゆきで本公演までこぎ着ける・・・
要所要所で突然派手な翼すらそなえたバード・マンのかっこうしたごっつい体躯の男が姿を現し励ましたりコケにしたりする。この不可解な存在、クエンティン・タランティーノが脚本を書いた《 トゥルー・ロマンス 》のE・プレスリーを模したような風体の男も似たような存在だった。そこでは主人公クラレンスがプレスリー・ファンだったんだろうが、この映画じゃ、作者的にはリーガンの分身、追い詰められたリーガンの強迫神経症的産物ってところのようだ。《 トゥルー・ロマンス 》のE・プレスリーもけっこう派手だったが、このバード・マンいよいよ派手過ぎて恥ずかしいくらい。最後には、妄想が妄想でなくなってしまう矛盾的自己同一的存在となってしまう。

 予想してたものとちょっと異なった作品だったけど、その演劇的にひねった世界は決して悪くはないなと思った。 


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2015年4月18日 (土)

『 わたしの絵日記 』藤原マキ

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1999年といえば、正に世紀末。
 そんな暗雲立ちこめた時代の最中に、藤原マキはこの世を去った。
 享年58歳。もはやこの国の国民病として定着したガンに侵されて。
 
 彼女は、いわば知る人ぞ知るってところだけど、マンガ家・つげ義春の嫁さんになる以前は、1960年代、草創期のアングラ演劇《 状況劇場 》( 唐十郎・主催 )の代表作《 腰巻きお仙 》の初代お仙を演じた主演女優として知られた存在であったらしい。
 観たことはないが、横尾忠則の有名なポスターで、ぼくもその名前だけは知っていた。後に、李礼仙にその役を奪われ、それに憤慨して勝手に劇団を飛び出し、細い伝手を頼ってつげ義春の処に転がり込み、それ以来ずっと死ぬまで居続けたって次第。劇団の方じゃ、急に姿をくらました彼女を捜し回っていたという。彼女にしたら、してやったりってところだろうが。
 そもそも状況劇場といえば同時期のライバル、寺山修二率いる《 天井桟敷 》に殴り込みをかけたんで有名な血の気の多い劇団でもあったらしく、そこの一方の看板女優だったのだから、劇団じゃ当たり前の配役の変化であっても、激憤にかられても確かに違和感はない。その後、女優としてはさっぱり。もっぱらマンガ家つげ義春の女房として、一粒種が生まれてからは母親としての役割もこなす小市民的日々。只、何しろつげ義春なので、世間一般的な範に収まってる訳もなく、色々と苦心惨憺余儀なくされたようだ。そんな中、つげが彼女に絵をすすめ、彼女も一粒種の息子の成長を記録として残そうと着手したのがこの絵日記のオリジナル。つげの向こうを張っているような素朴なタッチが好い。


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 一月十五日 晴 風がつよい
昼過ぎ正助がお腹がいたいといゝだしたので、おとうさんはさっそくぶ厚い家庭医学書を読みはじめた。これはおとうさんの癖で、日常の小さな出来事もおとうさんにかゝると大事件になるのだ。宇津救命丸が残っていたので飲ませてみたらまもなく治った。今度はおとうさんが「 おへそ 」から水が出て気持悪いというので、絆創膏をはった。私は寝不足で目がチクチクするし、みんなコンディションが悪かったが、今日は小正月なので小豆粥にオモチを入れて今年の厄よけをした。


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 四月十五日 冬に戻ったような寒さ
オトウサンがとうとうおかしくなってしまった !
固い顔して電話帳を見ていたと思ったら、突然精神科に電話をかけたのだ。このひと月様子が変だったので、暗い予感があった・・・。
とうとう自分から助けを求めたようだ。
精神科では明日までがまんしろと云うが、ふるえているオトウサンを押さえていたら、可哀想で涙が出てしまった。どうしてあげることも出来ず、おろおろしてしまった。
夕飯の支度どころではないので、弁当を買ってきてすませた。
夜、オトウサンと正助が寝て一人になると、心細くて、まるで大海に漂う小舟のような、たよりない気持ちになってしまった。


 巻末に、つげ義春の《 妻、藤原マキのこと 》が載っている。
 長年連れ添っただけのことはあって、マキの姿を端的に浮かび上がらせている。
 彼の言によると、そもそも当時花形女優であったはずの藤原マキが彼の居所に転がり込んできた時、 

 「 生活に窮していて、借金もあって、逃げるように僕のところにころげこんできた」

 という。

 「五年ほどして子供(正助)が生まれ、正式に結婚しました。彼女も演劇はひとまずおあずけにして、育児に頑張っておりました。・・・・子供が一歳半のとき、彼女が癌を発病し、子宮を摘出する手術をしたのです。それはどうにか乗り越えたものの、そのショックで僕の方が癌ノイローゼになってしまったのです」


 癌ノイローゼから不安神経症に陥り、逆にマキに叱咤激励される毎日となったらしい。
 そこら辺のところはこの絵日記にも認められている。つげのマキ評の一番面白かったのが次の部分。

 「この絵日記では、ささやかな生活を大切にしているという雰囲気になっていますよね。でも、実際はそうでもなく、『 平凡なぬるま湯のような生活は嫌だ、太く短く生きたい 』というのが彼女の口癖でしたね。むしろ家庭に波風を立て、ぬるま湯を沸騰させたかったようでした。それは劇団にいたとき、しょっちゅう酒盛りなどの派手な雰囲気に馴染んでいたからなのでしょう。とにかく、僕のように平凡で静かな暮らしを好むタイプは面白味に欠けるのは確かで、家庭的な夫というのは、彼女にとっては女々しい男ということなのかもしれません。
 それで彼女が享楽的かというと、必ずしもそうではなく、根は純情で恥ずかしがり屋なのです。それなのに僕に対して突っ張った気性を見せていたのはどういうことなのか。案外弱さの裏返しだったのではないかと、そんな感じがするのです。僕に活力や強い男性を希がうのは、結局自分の支えを求めていたのではないかと思えるのです。」


 享楽的云々はともかく、マキの男性像って、典型的な戦前から連綿と存在し続けている家父長的なファザコン・タイプってところなんだろう。その彼女に欠落した部分は、しかし、つげだと真逆であって、それが無いものねだり的に相補的に機能してかろうじて成り立っているのだけど、それは又すこぶる一般的に溢れているカップルの有り様でもある。


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2015年4月11日 (土)

アベノミクス的惨澹にも春爛漫

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 廃墟にも春爛漫・・・この象徴的なコントラストに、すぐに想起されたのが梶井基次郎の、世相が次第に閉鎖的になりはじめた昭和初期1928年( 昭和3年 )の作品《 桜の樹の下には 》。


「 桜の樹の下には屍体が埋まっている!
  ( ・・・・・・ )

 いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。
  ( ・・・・・・ )


おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。
 馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて、その液体を吸っている。 」


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 「 春三月 縊り残され 花に舞う 」 

 大正時代を代表する社会主義者・無政府主義者の大杉栄の有名な一句。

 明治四十四年( 1911年 )1月24・25日、《 大逆事件 》で幸徳秋水等12名が死刑に処され、所謂“ 冬の時代 ”が始まった同年3月24日、神楽坂倶楽部において、事件当時獄中にあって冤罪を免れた大杉栄や堺利彦たちが集って《 同志茶話会 》が開かれた。その席上で大杉が読んだ苦渋の一擲(いってき)。

 中国(清)の義和団事件の際、欧米列強に互した当時の日本軍が、中国の馬蹄銀を着服したことを、幸徳秋水が当時の有名紙《 萬朝報 》で告発したいわゆる《 馬蹄銀事件 》で、時の長州閥権力の巨魁・山県有朋等に逆恨みされ、それが伏線となって《 大逆事件 》をでっち上げられたともいわれている。
 “ 清廉潔白な日本軍 ”って当時の明治政府が造り出した偶像的イメージの虚偽を幸徳が暴いてみせたのだけど、昨今、似たような官民あげての翼賛的フレーズのあれこれ氾濫したこの列島にあって、百年の時代をこえて尚も、権力の悪辣と恣意に対する一つの警鐘となっている。

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2015年4月 4日 (土)

映画明星から政治明星へ  江青

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  ( 延安にはいってからの、まだ若い頃の江青 )

  

 戦前の中国女優・阮玲玉や江青の名が並んでいたから買ってみた。

 《 中国明星物語 》  石子順 (社会思想社)  

 文庫本にしてはそれなりに詳しく書かれていて、とりわけ江青に関しては、上海から脱しての延安以降も認められていて参考になった。奥付は1995年となっていて、巷の書店や図書館にまだまだ江青がらみの出版物が多かったと記憶してるが、実際はどうだったろう。
 何しろ江青自身、康生と共謀して、文化大革命の時期に自分の都合の悪いものは総て隠滅してしまっていて、その実像に物的証拠を挙げながら迫るってのは容易なことではない。もっぱら生存する関係目撃者の証言に頼るしかないようだ。それもどんどん高齢化してゆくばかりの。 

 もっぱら悪評ばかりの江青だけど、最近は再評価されはじめているという。
 確かに、昨今の改革開放的惨状に対するアンチ・テーゼとして、毛沢東を“ 偉大な指導者 ”としてもう一度高々と担ぎ上げるには、“ 反革命 ”として断罪され死刑判決まで受けたままの江青=毛沢東夫人じゃまずいというところなんだろうか。それとも、元々の、改革開放路線反対派=反主流派が、つまり反-修正主義、反-走資派を掲げた、その実本来の自由・平等・友愛の社会主義とは無縁の文革時代さながらの一派が臆面もなくまたぞろ復活し始めているってことなのか。どちらにしろ、中国人民にとっては甚だ迷惑な現象だろう。
 
 この本を読むと、筆者の石子順、かなり江青およびその周辺の曖昧朦朧とした不可解な部分に猜疑の眼を向けている。
 四人組逮捕後の1981年、“ 江青裁判 ”で問われた罪状の一つに、“ 崔萬秋との密接な関係 ”があげられていて、これはまだ江青が藍蘋( ランピン )と名乗ってた女優時代の上海で、日本留学もしてて当時中国で有数の“ 日本通 ”として日本の作家の紹介等をしながら《 大晩報 》の付録《 火炬 》の編集長をしていた崔萬秋との関係。
 問題は彼が実は国民党特務・軍統局の悪名高い戴笠の覚えもめでたい、国民党の高級特務工作員、つまり蒋介石の国民党の高級スパイであったということだった。


 「 人は“ あばたの崔 ”と呼んでました。三十年代に早くも軍統特務機関に加わって(色んな人間を)買収しては軍統秘密情報員にしたてて文芸界の密偵に当ててました。“ 左 ”のスタイルで上海文壇に出入りし、その職業で偽装して、左翼作家連盟や地下党の情報を収集し、進歩的文芸戦線を分断・破壊していました・・・。“ 左連 ”に反対し魯迅先生を迫害した主要な黒幕の一人でした・・・ 」
 
     ・・・軍統特務・陳蘭蓀(チェン・ランスン)


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  ( 崔萬秋 国民党特務 : 中国 Baidu の崔萬秋の紹介(簡略)では、特務の一語もなく、有名な日本通で,日本の歴史や文学に造詣甚深とだけあって、あたかも台湾の政治家扱い。最近の中国の政治事情ってとこなのだろう。 )


 1934年10月、当時は張淑貞と名乗っていた江青は上海・中山(当時は兆豊花園通称ジェスフィールド・パーク)公園入口付近で国民党の警官に逮捕され、二ヶ月近く拘留された。そして転向し、釈放された。
 

 「江青がかつて国民党に逮捕されたとき、獄中で転向声明書を書かされて釈放された」

 
その際に認めさせられた転向および転向声明書のことを、当時共産党の地下工作に従事していた楊帆が1938年に延安に報告していたという。その時同時に、あるブログによると、江青の上海での私生活を、爛( ただ )れきって、正に「公共汽車」(=乗り合いバス : 今風に言えば“ 共同便所 ”ってところだろう侮蔑的表現 )だったようだと言及していたらしい。
 その年には、既に毛沢東と同棲生活を送っていた。
 つまり、一緒になった頃から毛沢東は江青の転向等を知ってて、労苦をともにした三番目の嫁・賀子珍( 賀子貞 )と別れ、結婚したってことになる。大都会・上海の洗練された女優の芳香・色香に惑わされたのだろう。当時の上海演劇界の重鎮的存在の一人であったらしい演出家・章泯も、それまでおしどり夫婦として有名だった自分の愛妻や子供たちを打ち捨てて江青との同棲に走った如く、上海の名だたる男たちを惹きつけた江青の肉体的魅力は特記されるべきだろう。
 党幹部悉く、江青との結婚に反対し、朱徳に到っては国民党の罠の可能性すら持ち出していたのを、江青と因縁浅からずの党の情報幹部・康生が、一人支持し取り持ったらしい。


 「 一九三八年、毛沢東は複数の女性関係があったほかに、アメリカ人ジャーナリスト、アグネス・スメドレーとの仲を咎められたことから、三番目の妻、賀子珍と不和になり、賀子珍はソ連へ行った。藍苹はそのチャンスに康生の力を借りて毛沢東に接近し、その秋、毛の愛人におさまった。彼女にまつわる悪い噂は全て康生の手によって握り潰され、毛沢東の離婚を待って、藍苹は毛沢東と正式に結婚し、江青と名を改めたのである。」

                   (譚璐美 著《 チャイニーズ・パズル 知られざる中国事情 》新潮社1994 )


 毛沢東と江青の欲望のほどを知って自身の野望の糧としたのか。康生は絵に描いたような前時代的な立身出世主義者、江青はこれまた典型的な成り上がり志向。まだ江青が母親の下にいた頃、母親が働いていた先の大人の家の息子が康生であった。そこで利害が一致しての共謀関係。


 ともあれ、上海の中山公園で国民党警察によって逮捕され二ヶ月( 一ヶ月とも言われてるけど、この本のを踏襲する )後保釈されて後に、崔萬秋と出会い、同郷なのもあって急速に関係が深まっていった。
 これを石子は疑っているようだ。
 以前彼女が教鞭をとっていた《晨更工学団》関係の奔走によって、当時教師として働いていた"基督教上海女青年会労工部"籍で釈放されたって表向きの流れとは別に、例え偽装転向であったにせよ、国民党特務の崔萬秋がそのまま放っておく理由もなかった。拘置署内で警官たちは酒食の席に江青を侍らせたりしていたほど、人気が高かったという。高級特務ともあろう者がそんな長所を見逃すわけもない。清く正しい雑誌編集者と舞台女優の関係に終始したと決めつける方が些か平衡性を欠いていないだろうか。その後、崔はことある毎に、誌上等で女優としての江青を褒め称えはじめる。


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  ( 康生 : さんざん毛沢東と江青の間であれこれ画策してきた、ソ連諜報局仕込みの凄惨・悪辣の凄腕情報局トップ。)

 「 崔は使い切れないほど活動資金を使っていた 」

 「 当時崔の家に行くと、いつも藍蘋( ランピン )を見かけた。彼女は時には私に茶を入れてくれたりした 」

                                                 ・・・特務の元締・沈酔の回想

                       
 以前触れた山崎厚子《 小説・江青 やわらかい鋼 》の江青=爛蘋子( ランピンズ : 腐ったリンゴ )的描写の由来はこの辺にあったようだ。
 山崎的には金にあかした贅沢三昧、奢侈の限りを尽くしたような放蕩的生活って訳だけど、江青の生活ってその実収入からして結構質素だったはずで些か違和感を覚えるものの、それ故に、男たちのところじゃ三昧に現(うつつ)を抜かしたのかも知れないってことは十分にありえる。それは又人間の性でもあろう。
 それにしても彼女は上海時代、一体どのくらい男たちの居所に転がり込んでいたのだろうか ?
 黄敬、唐納、章泯・・・
 江青の憧れの女優の実弟であり最愛の男、生まれ育ちの良い時代の寵児、高名な脚本家等との浮き名は、確かに、上昇志向もプライドも人一倍高そうな江青にとってそれなりに満足できるものだったろう。
  

 ここで気になるのが、まだ殆ど無名だった江青=藍蘋が、何故いきなり、劇団《上海業余劇人協会》でイプセンの《 娜拉 : 人形の家 》の主役ノラ役に抜擢されたのか、ということ。
 彼女はそれ以前、出来たばかりの《上海業余劇人協会》に席を置いていたわけでもないのだ。只、それまで係わってきた左翼系演劇の人脈の人々、例えば愛人の黄敬の主催していた《海鴎劇社》の伝手なんかも働いたのかも知れない。けど、それ以前、大した実績もなかったはずの女優の卵を、既に才媛として呼び声高かった王瑩なんかを押しのけて敢えて主役に据えるってのは些か不可解。
 ところが、実際に蓋を開けてみると、これがけっこう当たって、新進女優として評判を得てしまった。やはり、それを見込んでの劇団側の起用って流れだったのかも知れない。そこに、崔萬秋の見えない手練手管の糸がどのように発揮されたのか、あるいはされなかったのか・・・その辺りの面妖なところ、一体どうなってるのだろうか。


   
 ところが、これに更に四人組の一人、張春橋が加わる。
 当時の四人組逮捕後の《 北京週報 》(1977年)の中央委員会総会の報告として、

 「調査で確認された大量の証拠によって、張春橋が国民党のスパイであり・・・」

 と断罪された。
 江青と同じ山東省出身で、早くから国民党特務に積極的に係わり、抗日運動や反国民党的な活動をしていた人々を監視・密告していたという。
 1933年には、山東省・済南で国民党復興社のメンバーとともにファッシスト団体《 華蔕社 》を結成し、二年後に上海に赴き、崔萬秋の下で、崔が拠点にしていた《 大晩報 》の雑誌《 火炬 》誌上で作家・魯迅に対する攻撃を担当するが、魯迅によって彼の《 三月的租界 》なる一文で完膚無きまでに反撃されてしまう。
 翌年済南に再び戻り、復興社幹部の指示に従って、今度は中国共産党の根拠地・延安に入り込む。以前の経歴を押し隠し、まんまと党組織に潜り込むことに成功・・・
 崔萬秋の方は戦後も台湾・国民党として明白なのでともかく、張春橋も随分と若い頃から国民党特務としての経歴( キャリヤー )を積んでいたってことで、内戦・戦争状態だったとはいえ、党幹部まで登りつめることができたとは、中国共産党の失態ってことなのだろう。


 が、更にもう一人、その中国共産党の幹部であり情報局幹部として悪名高い康生が更に加わることで、その底なしのおどろおどろしさに暗澹としてしまう。何よりも驚かされるのが江青、崔萬秋、張春橋、康生たちって、皆、山東省の出身ってことだ。これだけ揃うと単なる偶然とは言い難い。今風に言えば“ 山東マフィア ”ってところだろうか。
 特務幹部・崔萬秋と共産党情報局幹部・康生って、本来なら完全に真っ向から敵対する存在なんだけど、どういう因縁なのか江青・張春橋の二人の後ろ盾ってところで共通している。勿論、延安以前の上海時代を担っていたのが崔萬秋、延安以降《 文化大革命 》崩壊までが康生って時間的ズレがあるので共存とまでは言えないが。
 康生は江青と毛沢東ともに係わって《 文化大革命 》を策謀した張本人の一人で、その間、二人の、とりわけ張春橋の経歴を知悉していたはずにもかかわらず、暴露し逮捕もせずむしろ共謀関係にあったということは、やはり、康生はもっぱら自身の立身出世的野望に邁進し続けたってことを意味するのだろうか。
確かに、魑魅魍魎・百鬼夜行世界の有様ではある。

                 
                                《 中国明星物語 》  石子順 (社会思想社)1995年

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