« ポスト“ ポル・ポト ”的泥濘 《 なぜ 》 | トップページ |   企救郡一揆的消息 新道寺 »

2015年5月23日 (土)

異教神とキリスト教伝説 処女の泉 ( ベルイマン ) 

Vs_b


 ベルイマンといえばマックス・フォン・シドーって殆ど対のイメージが強い。
 北欧や西欧じゃ彼のかなり面長な顔ってやはり異貌の類に入るのだろうか。
 日本人から見ると、北欧という今ひとつ馴染みの薄い関係もあって、彼のその長顔が一層異貌の趣をもって独特の雰囲気を漂わす俳優として印象づけられている。ベルイマン作品で有名になってから、ハリウッド映画にも頻(よ)く出るようになってからか、もっぱら悪役の記憶の方が強い。北欧=精密機械というイメージもあって、緻密・精妙な殺人者役に更に重厚さも加わって独特の迫力とリアリティーを醸し出す存在として重宝がられもしたのだろう。


 この1960年の《 処女の泉 》じゃ30歳前後、白黒画面の上に髭面で、も一つはっきりしないけど、確かに肌が艶やかで典型的なゲルマンの風貌。
 16世紀のスウェーデンって設定で、彼はそこのある農園なのか領地なのかの主( あるじ )で、大箱から剣や革製鎧なんかを取り出すシーンもあって、( 元 )騎士だったのかとも想わせる・・・ひょっとして北方十字軍の血筋だったのかも、と。
 そもそもスウェーデンにキリスト教が入ってきたのが10世紀頃で全土がキリスト教化されたのが12世紀といわれている。その同じ12世紀頃、早々とスウェーデン、デンマーク、ドイツ騎士団なんかのカトリック勢力が結託して北ヨーロッパ・バルトの異教諸国に侵略し異教徒たちに改宗を迫る北方十字軍が結成され、以後数世紀の間激しい戦闘が繰り広げられていたという。
 
 この16世紀のスウェーデンって、当時北欧一帯を席巻していたデンマークの支配から独立を勝ち取る独立運動が激しかった時代でもあって、デンマーク王クリスチャン二世が独立派を騙し惨殺した《 ストックホルムの血浴 》なんて有名な事件も起こっていたらしい。
 そんな政情不安なんて微塵も感じさせない、地方の鄙びた牧歌的な田園地帯に佇む一軒の大きな農場の主の家族のたった一日の物語。
 早朝養女のインゲリが起きだし竈に火をつけ天上の排煙を兼ねた明り取りを開ける。日毎の日常的所作・・・そして思い出したようにその開閉柱にすっかり大きくなった身重の身体をすりつけるようにしがみつき、古代神オーデンに何ごとかを祈念する。同じ頃母屋では、主人夫婦がキリストの祭壇の前でその日の一家の平穏と無事を祈る。徐(おもむ)ろに妻のメレータが火の灯った蝋燭の熱雫を自分の手首に滴らせる。慌ててテーレが止めようとするが、今日は金曜日、キリストの殉教の日だと言って受苦の一端を分かち合おうとしてみせる。敬虔なキリスト教徒って表象なんだろう。イスラム・シーア派にもマホメットの孫イマーム・フセインの殉教を偲ぶ自傷的行事アシュラが有名で、キリスト教にも草の根レベルで行われていたようだ。
 夫婦は近隣にある教会に一人娘のカリンに寄進の蝋燭を運ばさせようと、下働きの養女インゲリを供につける。
 中世って、日本もそうだったけど、一歩町・村の外に出るとそこはもう闇の世界。茂みや林の陰に何が隠れているか分かったものではない異界でもあった。小川の側の小屋でインゲリがそこから先が森なのを怖がって一歩も動こうとはせず、仕方なくカリンは彼女に小屋に留まるように言って一人で森の中に分け入っいく。
 ところがインゲリの心の内を見透かしたようなその小屋の奇怪な男は、彼女に力を授けてやろうとすり寄ってくる。怖くなってインゲリはその小屋から森の方へ逃げ出す。意味ありげで曖昧な笑みを浮かべたその男は呪術師、あるいはひょっとしてオーデン神の化身そのものなのか。


Vs_c


 一人馬に乗った娘カリンは森の中で羊飼いの少年を含んだ3人組と出会う。世間知らずの気立てのいい娘カリンは持参した弁当を彼らに振る舞ってやる。すっかり胃袋の満たされた男たち・・・体力と気力が回復してくると、眼前の萌えあがらんばかりの初々しい処女に本能と欲望が溶解し、生娘カリンに襲い掛かる。犯されよろよろとその場から逃げようとするカリンを更に羊飼いたちは追いかけ撲殺してしまう。
 その一部始終を、森に逃げ込んだインゲルは最初から木陰に潜んでじっと凝視していた。一瞬カリンを助けようとしてか大きな石を手にしたものの、思い直し、固唾を呑んで黙視しつづけた。

 その夜遅く、一向に戻らぬ娘たちを心配していた夫婦の農場に、件の羊飼い一味が一晩の宿を乞うた。主のテーレは快く迎え入れ熱いスープと暖かい暖炉のある部屋をあてがってくれた。一味のリーダーの男がその家の妻メレータに、買ってくれないかと一枚の立派な晴着を手渡す。メレータはすぐにピンときた。今朝娘のカリンが着ていった彼女のお気に入りのドレスだった。一味に悟られないように上手く取りなし、部屋の外から閂を閉め、テーレにそれを見せる。テーレはこっそり戻っていたインゲリに事情を聴きだし、一味がカリンを犯し殺害しカリンの衣服まで剥ぎ盗ったことが明らかになる。
 テーレは大箱から剣と革製鎧を取出すが、インゲルに話を聞いて、インゲルに湯を沸かさせ、一本の小ぶりな樺の樹を力任せになぎ倒す・・・自分の一人娘が残虐に殺されたのに、何故にこの若い樺樹だけはすくすくと伸びていれるのか、一人娘の無残な死に対する怒りと絶望を、そのまだ若い樺の樹にぶつけるように。そしてその樺の小枝で湯を自分の裸体に叩きつけはじめる。アニミズム的な清めの儀式なんだろうが、騎士的な長剣から屠殺刀( 実際は剣 )に持ち替えるのに清めとは如何なる意味合いなのか定かでない。 
 寝静まった羊飼いたちを一人一人屠ってゆき終いには少年すらを壁に叩きつけ殺害してしまう。
 農場の者全員でカリンが殺された場所に赴く。下着姿のまま死に果てた娘の屍を前に、テーレは神に怒る。一人娘の無残な死とその復讐のためテーレが羊飼いとその一味の少年をすら殺害するのを止めることもなかった神の沈黙を・・・しかし、やがて、テーレは悟ったように、神にカリンの殺された場所に石造りの教会を立てることを約する。そしてカリンの屍を抱き上げると、その地面から泉が湧き上がり滔々と流れ始める。


 キリストの受難の金曜日、それはまたテーレ一家の受難の日でもあった。
 朝、妻のメレータがテーレが止めたにもかかわらず、自らの手首に燈明の蝋燭の熱雫を滴らせ、受難の一端の追体験を試みたために引き込んでしまった惨禍なのだろうか。
 一見、北欧の敬虔なクリスチャン一家の受難物語だけど、実際は、北方十字軍や北欧アニミズム的異教の様々なメタファーに彩られていて、無知なボクには理解にも自ずから限度があるものの、ゴルゴダの丘でイエス・キリストが受難したのと相似な図式で組み立てられているのは分かる。十字架上でイエスが杳として救いの手も姿も現さなかった神に、とうとうイエスは罵りの言葉すら洩らし始める。それも無意味と悟ると、それが自分の物語=救世主神話を全うするための演技であっても再び神に帰依してみせたのと相似な図式。
 そしてその底流に、在来・既存の北欧的アニミズム的異教を排撃・淘汰してゆく北方十字軍=キリスト教伝説があって、この映画では、もっぱらオーデン神が取り沙汰されている。
 オーデン神って元々戦争と死の神らしい。
 この映画じゃ戦争はともかく、死ばかりで綴られている。 
 そもそも冒頭に養女インゲルがオーデンの神に祈っていたのは、むしろ呪詛ともいうべき、娘カリンへの嫉妬と憎悪によるカリンの“不幸”だった。だからオーデン神は彼女の願いをまたとない形で叶えてくれた訳だ。それに引き替え、イエス=神は、一人娘カリンの死そしてその犯人たる羊飼い一味(少年も含む)の復讐的殺害という惨劇で応えてくれた。( これって、単純に考えれば、やっぱりメレータがイエス・キリスト=神の祭壇の前で祈念イエス・キリストの受難を言って自らの手首に蝋燭の熱雫を垂らした行為 → 祈念=願い事 → その故での祈念の成就って運びに過ぎなくなる。些かブラック・ユーモアが効き過ぎているように思えるが、メレータの雫滴行為をテーレがすぐ止めようとしたのが些か唐突に過ぎ、このニュアンスは決して論外にはできない )


Vs_a
 
 
 インゲルが夜中こっそりと舞い戻ってきてテーレに見つけられた際、インゲルは自分がカリンの不幸=死をオーデン神に願ってきたこと、羊飼いたちにカリンが犯され殺害されている時も願っていたとまで告白してしまう。しかも、羊飼いたちの罪業をすら、オーデン神が彼らを使ったに過ぎず彼らに罪はないと取りなす。勿論、怒りと絶望の淵に立たされたテーレが聞く耳を持つゆとりなどあるはずもなかったけれど、このインゲルのとりなしは、例の小川脇の小屋の中で轟きを聞いた際、怪しげな親爺さんが応えた言葉に拠ってる。
 
 「 三人の死者たちが北に向かっているんじゃよ 」
 
( 三人が“ three wemen ”なら運命の魔女ってところなんだろうが。)
 三人の死者=三人の羊飼い。この伝だとインゲルは少なくともあの親爺さんを呪術師くらいには評価をしていたってことになる。一切は、自分がオーデン神に願ったから起こったのだから、責任は自分にある、とインゲルは言張った。その一途な潔(いさぎよ)さは、しかし、その時のテーレの琴線に触れることもなく、湯浴びして身体を清めた後、最初手にしていた長剣から屠殺刀に持ち替え復讐劇に及ぶのだけど、この辺りの北欧の宗教的・習俗的ニュアンスは定かでない。
  

 この一連の流れって、この映画じゃまったく触れてないけど、同じ16世紀(1520年)に覇権国家デンマークに支配されていたスウェーデンの独立派を、デンマーク王クリスチャン二世が騙し討ちにしたスウェーデン史にも有名らしい《 ストックホルムの血浴 》事件のメタファーがいやでも想起されてしまう。
 クリスチャン二世は先ず大司教に身体に油を塗って清めてもらってから、かかる虐殺計画を実行したという。独立派を騙しストックホルム王宮に誘い込んだ後大扉を閉め次々に虐殺していったのだけど、そういえばジェット・リー主演の中国映画《 ウォー・ロード》でも蘇州城に太平天国軍を騙して誘い込み殲滅するシーンがあった。
 
 聖油による清め=樺の枝葉で湯を自身の身体に叩きつける清め。
 王宮の大扉の閉門=客間の扉に閂をかける。
 
 嫌でも《 ストックホルムの血浴 》のメタファーとして見えてしまう。
 クリスチャン二世はキリスト教の大司祭にキリスト教的儀式として清められるが、テーレのはキリスト教的ニュアンスは感じられず、日本の習俗神道に通底するようなアニミズム的異教的ニュアンスが強い。これは、復讐の鬼と化したテーレがキリスト教徒としての範を逸脱して異教的=オーデン神的な方途に走ったことの表象なのだろうか。

 この映画の基本テーマは神の不在という。
 神は存在しない、という意味じゃなくて、その時に神は居なかった、神としての所作を示さなかったというぐらいの意味なんだろうか。いわゆる神の沈黙。
 ベルイマンや脚本のウラ・イザクソンがクリスチャンなのか無神論者なのか定かでないけど、ともかく、カリンは強姦され殺害され、その事を知って逆上した父親テーレはオーデン神に駆られ三人の羊飼いを殺害したのだろうし、その間イエス・キリスト=神は静観し隠れたまま沈黙を決め込んだ。確かに不在には違いない。オーデン神の面目躍如というところか。
 が、自身の罪深さに後悔の念を覚えたテーレが、怒りにまかせてイエス・キリスト=神を指弾ししたものの、十字架上のイエスの時と同様、一向に神はウンともスンとも応えもせずひたすら沈黙を守り続けた。やがて、イエスがそうしたようにテーレも、改めて神に帰依し、自身の罪を贖うために娘カリンの屍の側に石造りの教会を、自分の手で立てることを誓う。
 怒りと憎悪を愛で包む、正にキリスト教物語の完結ではある、一見。
 通俗的キリスト教物語なんて無数に転がってるんだろうけど、キリスト教が淘汰したはずの異教・オーデン神を前面にもってきたり、当時だと抜き差しならなかった《 ストックホルムの血浴 》的メタファー等に鑑みると、そんな単純な焼き直しの伝説物語なんかじゃないってことだろう。


監督 ベルイマン
脚本 ウラ・イザクソン
撮影 スヴェン・ニクヴィスト
主人 テーレ   マックス・フォン・シドー
妻  メレータ  ビルギッタ・ヴァルベルイ
娘  カーリン ビルギッタ・ペテルソン
養女 インゲル グンネル・リンドブロム
         1960年(スウエーデン)


   


|

« ポスト“ ポル・ポト ”的泥濘 《 なぜ 》 | トップページ |   企救郡一揆的消息 新道寺 »

旅行・地域」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

映画・テレビ」カテゴリの記事