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2015年6月の3件の記事

2015年6月27日 (土)

 プノンペン=カンボジア ( 旅先のグッズ )

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 ( ソリアのフードコートの500リエルのクーポン券 )


 あれは2003年だったか、オープンしてまだ間もないカンボジアは首府・プノンペンのデパート《 ソリア 蘇利亜購物中心 》のフードコートで喰ったフルーツ・サラダあたりにあたったのか体調を崩し急遽バンコクに戻ったことがあった。医者の言によると細菌性か寄生虫。尻注射と抗生物質を貰ってなんとか回復したが、流行のデング熱やアメーバ赤痢なんかじゃなくて良かった。

 長距離バスの発着所の近くに突如聳えた小綺麗な、しかし、たいして大きくもないビルだったけど、その前に佇み初めてそこがオープンされたばかりの、恐らくポスト・ポルポト以降最初のカンボジアのデパートであるのを知った。
 エスカレーターが初めての人々ばかりで、キャー、キャー笑い声や悲鳴をあげながら乗っかる若い娘たを眺めているのが面白くて仕方なかった。中には、何かいかがわしいものでも見る様な怪訝な眼差しを向け、脇の階段に向かう娘もいた。フードコートも同様だけど、こっちは有料で満員という訳にはいかなかった。それでも、日本食の類まで揃っていた。当時はまだ最上階は工事中で、その下の階に《 BBバーガー 》なる地元のファースト・フード屋があった。味はまあそんなものだろう、というレベル。さすがにこっちは日曜日は知らないが、いつも閑散としていた。
 

 シアヌーク通りにある《 ラッキー・スーパー 》に併設された《 ラッキー・バーガー 》とプノンペンのファースフード屋の双璧ってところだろう。《 ラッキー・バーガー 》の方は大きな窓硝子越しに地元の新聞売り・物売りからバイクタクシーの運転手ストリート・チルドレン、ヒマをもて余した野次馬たちが、動物園の檻の中を好奇心剥き出しに覗き込むので、余り心臓の強くない僕なんざ食べ終わるとそそくさと正面の出入り口からじゃなく横のスーパーの方へ抜ける通用口の方から逃げるしかない。まともに正面から出た日にゃ、シャールーク・カーンかデ・カプリオでも現れ出たみたいにドッと一斉に駆け寄って来られてしまうからだった。でも、あれから十年近く過って事情も随分変わったろう。
 何故かマクドナルドは未だ上陸していないようだけど、同じ米国系の《 バーガー・キング 》はとっくに営業を始めてるらしい。いづれ大資本の外資系のファースト・フード屋が参入してくるんだろうけど、ここは何としても地元勢に頑張って欲しいものだ。勿論政治力や武力の奸策を用いてじゃなくて実力で。

 今年、イオンモールがオープン。上々の人気らしく、さっそく周辺のクメール系の店がその煽りを喰いはじめてる由。
 その上、マレーシアを中心にアジア中で展開しているデパート・パークソン、中国では相次いで閉店ラッシュということらしいけど、その内プノンペンに進出するという。いよいよ環境厳しくなってきたプノンペンのデパート事情だけど、《 ソリア・デパート 》、ポスト・ポルポト以降の第一号デパートとしての面目を何としても保って欲しいものだ。


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 ( プノンペンのメインストリート・シアヌーク通りにあるMTVのネームカード )


 当時プノンペンに限らずカンボジア中に店頭に大型のテレビを何台も並べてビデオを流して客を呼ぶビデオ・カフェの類が流行っていた。
 夜の帳が降りるとようやくポルポトの悪夢から醒めようやく町作りが始まったばかりといわんばかりの佇まいの広々とした街頭にずらり並べられた小さなテーブルに、大半が子供から大人までの男たちが坐り、それぞれに飲物をチビチビ啜りながら、前方に何台か並んだテレビに見入る光景があっちこっちで見られた。夜の社交の場ですらあったようだ。それぞれのテレビが皆別々のビデオや番組を流していて正に多重放送。かつての戦後の日本の一時期を風靡したらしい街頭テレビとは些か趣きを異にする。ポルポトたちに殲滅されてしまった映画が未だ十全に回復されていないこともあって、代用映画館でもあった。
 香港製の真っ黒い風貌の閻魔か鍾馗を彷彿とさせる裁量神のテレビ・シリーズが当時カンボジアで人気で、このビデオ屋でも流され現地民の子供から大人までが熱心に見入っていた。


 そんな庶民的なビデオ・カフェと一線を画した様に、首府プノンペンの中産階級相手の
個室のビデオ・カフェとでもいうべき店がシアヌーク通りに数軒あった。おそらくこの《 電影街視聴中心 MTV 》が最後まで残ってたように思えるが、大きなオーディオ・スピーカーや装置が完備し、低いテーブルにソファー、クッションまで備わった六畳から多人数用の大部屋までが並んでいて、ドリンクや軽食の類もオーダーできる。サービスの冷水も必要ないくらいに冷房が利きまくっていた。共用のトイレもカンボジアとは思えない小綺麗さ。
 ビデオといっても当時はビデオ・ディスクの走りの大き目のレーザー・ディスクがずらり揃っていて、その中から自分で選んでカウンターに持ってゆき、個室で視聴する方式。カウンターには受付嬢が何人か居て、レーザーディスクをセッティングしてくれたり、オーダーしたメニューを運んできてくれる。たしかにゆったりと外の暑熱と喧騒を遮断した映像世界に没入はできるのだけど、タイの映画館と同様やたら冷房が利き過ぎていて、氷の入った炭酸飲料水なんかとても飲む気にはなれない。ビールって手もあったけど、赤ら顔で真昼のプノンペンの通りをほっつき歩くってのはどうも。現在まだ存在してるとしたら、もうDVDかブルーレイになってるだろう。                    

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2015年6月20日 (土)

世の果ての不死の旅 《 アフリクテッド 》  

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 特に秀作って訳でも、面白いって訳でもないけど、バックパッカー的体裁をとっているつてところで一種のロード・ムービーとして興味を惹いた。

 ふとある日、惟(おも)うところあって、デレクは何年も務めていたIT企業を辞め、世界を旅することを決意する。   
 若年性クモ膜下出血をひき起こし易い先天性の脳動性脈奇形という難病を抱えていたデレク、絶望と不安故にか、そんなものに縛られた“平穏無事”な人生なんてまっぴらごめんとむしろ払拭し、世界の果てまでを自身の脳裏に焼き付けておこうと投企した。畢竟(ひっきょう)それは所謂自分探しの旅。
 自分探しの旅なんてフレーズ、久し振りに脳裏を過ぎった。
 確かに横尾忠則のインド紀行以来、バックパッカーたちって多かれ少なかれ、少なくとも初発はそんなものだったんだろう。やがてやれ旅行写真家だ旅行作家だと、藤原新也や沢木耕太郎の本片手にアジア行を決め込んだ若者たちがアジア中に溢れかえることになってからも。


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デレクとクリス。 

 幼なじみのクリスは映画関係の仕事に従事していて、一緒に旅する運びとなった。普通の旅と違うのは、クリスが撮影用のカメラを何台も駆使しながら、旅の先々で撮った動画を彼らのブログ《 ends of the earth 》にアップしてゆくという凝った行き方。昨今旅先でブログに記事や画像・映像をアップするなんて常道だが。まあ、実際は、それを口実にしての流行のPOV( Point of View shot: 主観ショット )、つまり手持ちビデオ撮影映像。
  
 ロード・ムービー=ホラーなんて図式が出来てもう久しい。
 確かに、普通の人々、青年たちが、旅先で、ひょんなことから、想像だにしない体験=辛酸を極めたあるいは身の毛もよだつ恐怖の坩堝に叩き込まれてしまうなんて、新聞やテレビのニュースで誰もがさんざん見聞きしてきた定番。
 映画じゃ、それをよりドラマチックに演出し恐怖を掻き立てて一本のホラー作品に作り上げるのだけど、見知らぬ町に辿りつき、そこで怪しげな人物や出来事に遭遇してゆくってのは、やはり、ホラーやミステリーの基本。“事件”はごめんだけど、“遭遇”の妙味のご相伴にはありつきたいってのが、大半の旅行者・バックパッカーたちの性向。 

  ところが、デレクのこのまことしやかな下手をすれば死に至ってしまう持病、やがて遭遇してしまう予期せぬ出来事から始まる不可解な疫病あるいは変異を韜晦し紛飾するためのあくまで“振り”に過ぎなかった。
 旅立って七日目のパリで行き会ったオードリーという女の部屋に淡い期待を抱いて縺れ込んだはいいが、いきなり打撃を喰らって昏倒。目覚めると身体のあっちこっちに傷跡が・・・。
つまり、そのオードリーなる女は実は吸血鬼=バンパイアーで、デレクはそれ以来様々な奇妙な身的現象と変容に悩まされることになる。あげく、幼なじみのクリスにまで手を下し殺してしまう。
 すがる思いでパリに戻り、オードリーを捜し出して何とか解決策を得ようとするのだが、既に国際手配されていたデレクにスワットが銃弾の雨を降らせてきた。すっかり変容していたデレク、彼らを一人一人屠ってゆく。丁度、同じPOVスタイルのスペイン・ホラー《 REC2 》で主役のスワットたちがバンパイアーに銃弾を浴びせるのと真逆。設定もヨーロッパで旅の最初の国がスペイン。
 観てると様々なホラー映画が浮かんできた。
  《 28日後 》や、世界を彷徨うバンパイヤーってところで《 モールス ( ぼくのエリ 200歳の少女 )》も。《 モールス 》では吸血鬼少女エリの世話役の疲れた初老の男が哀愁を漂わせ、それは又北村龍平監督作品《 ミッドナイト・ミート・トレイン》のエイリアンの餌として深夜地下鉄で乗客を日毎屠りエイリアンが食べやすいようにと車内で食肉業者宜しく解体までしてくれる心細やかなもてなしの心をもった男の悲哀に連なってゆくのだけど、この《 アフリクテッド 》の世話役たるクリスには自身の血まで差し出したその献身ぶりとは裏腹に杳として哀愁めいたものは感じられない。それは専ら映画自体の作りが今一だったせいだろう。
 それでも、後半のスワットとの応酬のシーンは、手持ちビデオカメラの特性を巧く使ってそれらしく見せ、それなりに面白く観れ、決して駄作って訳じゃない。


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 デレクとクリス、主役でもあると同時に監督でもあって、本名らしい。
 デレクは中国系で、面長な顔を縦横に歪め実に表情豊か。
  《 ミッドナイト・エキスプレス 》じゃないけど、本当、旅先じゃいつ何時どんな事件に巻き込まれるか分かったものではない。デレクにはトンだラッキーセブンで、クリスも非業の死をとげ、デレクは吸血鬼となり、不死という不幸に見舞われることに。
 ショットガンで自身の後頭部を吹き飛ばしてもすぐに蘇生し、さりとて血を吸わなければ禁断症状に苦しみ心身ともに爆発し巷の人間たちを見境無く殺戮しまくってしまう。
 正に受苦。
 それでも、やがて、人を殺めることの罪の意識も、量が質を作り出すように次第に薄れてゆき、むしろ技巧的効率性に病み、殺戮と吸血に愉悦をすら覚えかねなくなってゆくのだろう。そしてエリの如く、世界の果てまで当て処もなく彷徨いつづけ、辿り着いた何処かで200歳の誕生日を迎えるに違いない。

 監督・主演 デレク・リー、クリス・プラウズ
 撮影    ノーム・リ
 制作   2014年 ( カナダ・米国合作 )


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2015年6月 6日 (土)

  企救郡一揆的消息 新道寺

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 明治二年の門司・小倉で勃発した《 企救郡一揆 》の震源地たる新道寺、その新道寺の一揆農民が最初に集結した場所が“ 天疫神社 ” という。ところが、地図で調べてみたら、何と新道寺近辺には三つも天疫神社があった。で、新道寺自体の散策とを兼ねてその三つの天疫神社を訪ねてみることにした。

 そもそも天疫(てんやく)神社って何なのか・・・というのは、秋山清や中浜鉄の生まれ故郷の門司の漁村にもそれぞれにちゃんと建っていて、その数少々じゃなく、それでいてこの企救半島一円以外の地では見られない名称の神社ってことで、思わず首を傾げてしまった。 安直にブログで確かめてみると、果たして元々は“ 疫神社 ”だったのを後になって何らかの事由で“天”が頭につけられたようだ。疫病の流行を厭(いと)って悪疫退散を願っての建立ってことらしい。村単位の建立故にか、確かにいずれも鳥居と祠だけの小さなものが多い。


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 一揆の終着端=門司から震源地=新道寺への遡行。
 JR門司港から城野駅で本数の殆どない日田・英彦山線に乗換え色褪せたワンマンの二両編成に乗る。典型的なローカル線。窓も燻(くす)みきっている。城野を出たあたりから段々と両側に緑の山稜が迫りはじめる。その間の谷間、平野の真ん中を色褪せた二両編成が走ってゆく。決して狭くないそれなりの広さの田畑が拡がった平野だけど、幕末当時はどうだったのだろう。


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 門司港駅から10個目の今春に無人化になったばかりの石原町駅で下車。
 駅舎自体は結構旧いものらしいけれど、余りにも小さいためもう一つピンとこない。
 駅の外に出ると、ゆったりとした静かな佇まいの小さな町で、農協の大きな建物ばかりが目立ってしまう。
 ちょっと行くと酒や醤油の造醸所の建物がなけなしのランドマークのように佇んでいて、ご多分に漏れず大きな構えの薬局が朽ちたまま無惨な姿を晒していたりする。かつての"斜陽化"の痕跡。以前はそれなりにあったはずの商店の姿が殆ど皆無。すぐ背後に低い山稜が迫り、赤瓦屋根の多い旧い佇まいを残した民家と農家が混在し連なった町並は、それでも郷愁めいたものを感じさせ、気の利いた茶店の類すらないけれど、ゆったり散策してみたい向きには好適な場所だ。 


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 山沿いの道幅の狭い旧道(国道322号)沿いに歩いてゆくと、寺院が二つ並んでいる。その内の一つ大応寺の横にある小さな平屋建ての公民館の真裏に最初の天疫神社があった。但し、公民館の背後1メートルあるかないかの距離に石段と石鳥居・祠だけ。公民館は建てたいが、さりとて天疫神社を廃棄する訳にもいかずの狗肉の策なのか。
 もう一つは、線路を挟んだ真向かいの丘陵の中腹にあった。
 急な石段の上、コンクリート風の妙な建物で、そのも一つ上に亀虎山新道寺という寺院があり、脇に広い霊園がある。
 最後のは、そこを下り、500メートルほど南下した田圃のど真ん中。
 横に井手浦川が流れる木造の亭か集会場のような建物があり、その背後に祠が祀ってあった。屋根はしっかりしていたものの造り自体は簡素。雰囲気はここが一番好いし、両側の丘陵の真ん中辺りに位置していて、原口九右衛門たち一揆衆が結集するにふさわしい。


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 その三番目の天疫神社から更に500メートルほど南下し国道322号を駅側に越えてちょっと行ったところに東谷興農会館があり、その庭先の植込みの間に高々と原口九右衛門の顕彰碑が聳えていた。もともとその手のものには官製であれば尚更興味の欠片ももたない当方も、さすがについ覗いてしまった。敷地の隅の雑木の間にひっそりと佇んでいた。九右衛門の人柄を想わせる。百数十年過ぎていても、この新道寺・東谷の人々は、一揆衆の犠牲となることを厭いもせず悠揚と死に赴いた彼を誇りに思っているのだろう。
てっきりその碑が墓でもあるのだろうと勘違いしていたら、九右衛門の子孫が東大野八幡神社近くに在しその屋敷の中で彼の墓を守り続けているとのこと。


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 別段、一揆当時の何が残っている訳でもなく、只新道寺村の雰囲気を確かめたかっただけのことだが、やはり百数十年の時間の経過は如何ともし難く、数十年前までは店舗もそれなりに展開し商っていたろう昭和の残滓すら殆ど払拭してしまった自民党半世紀支配。もはや新たな一揆を企図するには余りにも老い過ぎ解体されてしまった平成末の新道寺ってところだろうか。


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 ( 田圃のど真ん中に佇む三番目の天疫神社の脇を流れる井手浦川。背後に平尾台の山稜が連なり、そこから流れ出た水が井手浦川となってこの新道寺・東谷の平野まで注いでいる。同じく源流の平尾台あたりは時折水晶が見つかる立花川と合流し、井手浦川→東谷川→紫川となって小倉の街を流れ関門海峡に注ぎ出る。背後の石灰石採取のためすっかり切り崩された断面も露わな平尾台の峰峯。 )


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 ( 天疫神社の祠。そこそこの広さをもった境内に、かつて原口達一揆衆が手に手に竹槍や棍棒を持って集結しあげた決起の鬨の声が響き渡るのをじっとその祠は見守っていたのだろうか。その数年前には、長州勢に追いやられ、もっと先の香春に逃げ落ちてゆく途次一休みする小倉藩の偉いさんやら甲冑姿の侍たち、その後を追う城下町の町民たち、あるいは同じく這々の態で辿り着いた幕府軍諸藩の兵士たちの哀れな姿を、更にはひょっとして深追いしてきた長州軍の殺気に充ちた姿を眺めやっていたろうか。)



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