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2015年7月の3件の記事

2015年7月25日 (土)

小倉藩敗走の地・香春 ( 慶應二年長倉戦争)

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 ( 香春では稀な土塀( 風? )に囲まれた旧民家。香春藩時代を彷彿とさせる。 )

 慶応2年8月1日(1866年9月9日)、関門海峡を渡って怒涛の如く進軍してきた高杉晋作率いる長州軍に総崩れの幕府合同軍、本拠地・小倉では、一人置いてけぼりを喰った小倉藩、自身で自らの居城・小倉城に火を放ち、まだ幼かった藩主や奥方を先頭に、20数キロ離れた田川郡香春(かわら)に敗走した。


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 ( JR香春駅の外に出てみると、頂上辺からごっそり抉られた異貌の香春岳・一ノ岳が前方に聳えている。)


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 ( 香春岳中腹から国道201号と金辺川をまたいで灰色の巨大な工場にベルトコンベアーの構築物が伸びた異様な光景。住民にとっては威圧的な頭上の構築物ってところだろう。)

 

 そもそも小倉藩は家康の孫・小笠原忠真が、播磨明石から初代藩主として入国し、九州の諸大名を監視する譜代大名。関門海峡を隔てた長州藩とは、互いに目の上のたんこぶのような関係だったといえる。
 当時の元奇兵隊の老爺の言。


 「 長(州)藩ではあの様に関門海峡の守備を厳にして居たにも関わらず
  小笠原領分(小倉藩)では殆んど高見の見物をやって居ったのです。
  米艦の為に前田を砲撃された時などは態を見ろといった様なふうです。
  手を拍て山から笑って居ったのです。
  其時の苦々しさは今に覚えている程で
  隊長高杉などは
  己れ見て居ろと度々豪腹をにやくらかしたのであります・・・」
  
                     《 門司叢談 》高瀬信英


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 ( 駅前に魚屋もある鄙びた商店エリアもあったけど、橋を渡ったこのあたりが香春の町の嘗ての目抜き通りだったのだろう入口付近。橋を渡る手前にも別のチェーン店菓子屋があったけど、橋を挟んで対抗するように、橋を渡った側の入口にある地元の菓子屋チェーン店と三叉路に佇むいかにも昭和の風情の残った商構えの店舗。)


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 ( 一応シャッターは開いている店舗もごく僅かにあるが、営業しているのかどうかは定かでない。シャッター商店街にも該当しない超過疎。元々交通の要衝だった上に更に香春藩庁が出来た頃はラッシュで一層賑わっていたのだろう当時からすれば、正に落魄。)


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 翌慶応3年3月、逃げ延びた先の香春(かわら)に藩庁を移転し、香春藩となる。
 更に明治2年12月には、防衛上懸念ありとして、隣接する京都(みやこ)郡豊津に移り、豊津藩とす。
 長州軍に占領された企救郡(門司・小倉)は、その後もずっと返還されることなく、明治2年に旧幕府直轄地=天領の日田県管轄となってしまう。明治四年の廃藩置県で小倉県に戻る。

香春は古くから交通の要衝で、隣町“ 採銅所 ”には、東大寺建立の際に大仏製造に使われたという銅山ともども金山もあったらしい。そこで採った金なのか、敗走時、長年貯め込んでいた大量の金も持って逃げ、香春に藩庁や藩士の居所を作る資金にあてたという。

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 ( この町に多い赤煉瓦塀。この嘗ては商家だったのだろう屋敷も、明治維新以降土塀から流行の赤煉瓦に替えたようだ。)

 JR香春町の駅に降り立って駅名表示板を見てようやく迂闊にもここはもう小倉エリアじゃなく田川つまり筑豊エリアなんだと今更ながら気づいた次第。
 かつての石炭の町、筑豊。
 以前は石炭の町としてしか知らなかった田川・筑豊であったものの、この一揆の係わりの中で、香春町近辺が昔から地下資源・鉱物資源が豊富な土地なのを最近知った。
 幕末・明治初期頃だと、企救郡を越えた田川郡となり、南隣の京都(みやこ)郡を更にずっと南下したところに旧幕府直轄地=天領の日田藩(県)が控えていた。
 一揆の首謀者として捕らえられた新道寺の原口九右衛門や長野村の清右衛門ら六人(内一人は病死)が、変転する時代の流れに翻弄されるように、このエリア、小倉や香春、更には日田の獄をたらい回しされたあげく、最初の長州=維新軍の谷干城が約した“一揆衆の罪を問わない”の条項を反故にし、日田・二条河原で原田九右衛門だけ絞首刑に処され、他の者達は有期刑となって獄に繋がれることに。そこに既に後年展開されていった明治政府=明治維新の根本が露見していたってことだろう。


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 ( 田川よりに向かうと香春岳の麓に由緒あるらしい香春神社が高々と佇んでいる。)


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 ( 境内から望んだ香春の町並。セメント工場プラントのくすんだ異貌が違和というよりむしろ荒廃の象徴のように思えてくる。)


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 ( 高々二年という泡沫藩庁。石垣が普通の土塀よりも堅牢さを感じさせる。)


 駅に降り立つと、むこうに燻(く)すんだ巨大な工場とすぐ背後に迫った山の斜面に連なった渡り廊下風の構築物が一種異様に聳えていた。
 その住民達の頭上に鬱々と跨ってと伸びている何とも違和な威圧的構築物は、山の石灰岩を砕いて巨大なセメント工場に送るコンベアーの遮蔽物のようであった。そしてその連なった山々が香春岳といい、五木寛之の 《 青春の門 》の舞台の背景にもなったという。航空写真地図(yahoo・google)を見ると、一ノ岳の山頂部だけがかなり削り取られているのが分かる。香春岳は三ノ岳まであるらしい。
 駅からこの辺りは雑然としているものの、それから外れると定番の寂れるばかりの忘れ去られたような小さな地方都市的景観が連なっていた。帰って地図で調べて分かったのだが、その町並の連なりの向こうに、もう田川の町並みが控えていた。

 駅を出で左にその構築物を見遣りながら北に向かうと金辺川があった。
 川に沿って国道201号線が走り大型トラック等で溢れていて、こんな田舎町で、と思わず驚いてしまったが、幹線道路なので当たり前のことではあった。
 錆びた陸橋を渡ると、ようやく商店街らしき佇まいが拡がってきた。
が、地元の和菓子屋のチェーン店が二軒並んでかつて栄えていたであろう炭鉱の町としての繁華の残り香は辛うじて窺えたものの、その他は殆どシャッターが閉まったまま錆びついていて、商店街としては完全に死んでいた。
 香春岳の麓に鎮座した由緒あるらしい香春神社は、遥か平安以前の鉱物・鋳造で栄えた地域といえば、総じて渡来系の活躍した土地柄ってところが定式のようで、田川・香春のエリアも渡来系の人々が定着していたらしい。この香春神社に祀っている神も渡来系という。ブログでチェックしてみると卑弥呼にまで言及しているのもあった。
 幹線道路からちょっと奥へ入ると静かな農家と民家・旧民家の混在した町並が連なっていて、確かに逃げ落ちた先の藩庁=亡命政府の所在地らしく少ぢんまりとした佇まいではあった。御茶屋=藩庁跡の石標もあった。慶応3年3月から明治2年12月24日(1870年1月25日)までのたった二年ぐらいの藩庁ではあったという。

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2015年7月18日 (土)

タイのネームカード ( 旅先のグッズ )

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 ( TTゲストハウスの名刺 )


 バンコクでの定宿は《 TT 2 ゲストハウス 》だった。
 鉄道の起点・ホァランポーン中央駅に歩いて10分くらいの場所にあり、チャイナタウンにも近く、チャオプラヤ川も近いってことでその利便性の良さに自然ここになった。後になって、バックパッカー誌《 旅行人 》のバックナンバーが揃っているなんてのも若い旅行者には付加価値的魅力となったようだ。
 門限がここの一番の欠点だけど、それもカオサンのごとく一晩中ドタバタと騒さくなくて良いと喜ぶ旅行者も居るので相対的。


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 ( 名刺の裏側。周辺の地図。シープラヤ通りを真っ直ぐ下るとロイヤル・オーチッド・シェラトンとそのすぐ背後のチャオプラヤー川に出る。)


 最初ここからちょっと行った先の高速道路建設で立ち退きなった《 TT ゲストハウス 》本店に泊まっていた。とりわけリビング・ルームがTT 2 より広く、白人・日本人半々ぐらいで寛げた。ほどよい広さだった。TT 2は、いわばこの本店に溢れた旅行者が行くところだった。それだけ、本店が人気あったってことだろう。TT 2 だけになってからは、リビング・ルームが狭く、更に経営者家族の若い世代が取り仕切るようになってからだろうか、次第に人気に蔭りが見え始め、凋落の一途。一時、現地人宿になったとかいう噂もたったけど、現在でも営業はしているようだ。
 本店はかなり入り組んだ場所にあって分かり辛かった。TT 2 は、比較的分かり易く、雑貨屋の類が近くにいっぱい並んでいて便利。食物屋も店舗から屋台までそれなりに並んでいたけど、なかなかこれといった飯屋はないようだった。


 それでも、“ 偶には ”と些かいつもより奮発して歩いて5分もかからない濛々と排気ガスに煙(けぶ)るシープラヤ通りに面した元祖バンコク日本料理屋《 花屋 》本店に向かうこともできた。正装したタイ人客の間で、しょぼい形(なり)の貧乏旅行者・バックパッカーたちは、しかし微塵の気後れもみせず、当然の佇まいで、久方ぶりの正宗・日本食に、日本の週刊誌や新聞に没頭しながら舌鼓を打ち続けるのだった。尤も、これも次第にタニヤ近辺はじめあっちこっちに日本食屋や《 8番ラーメン 》なんかのラーメン屋が軒を並べ始めるにつれて、ありがた味も薄れてゆくこととなった。
しまいには、タイ人のタイ人による、タイ人のための日本食屋すら出没しだす始末。こうなってくると逆エキゾチシズムって訳で、あたかもジャパニーズ・フーズ・バーといわんばかりのカラフルでサイバーな意匠の店舗の前で、われわれ日本人旅行者は物珍し気に覗き込む外人観光客でしかなくない。その典型の《 Oishi 》、今じゃ、タイ全土に200軒もの店舗を展開する一大グループにまで成長したという。


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 ( シープラヤ通りの老舗日本料理屋"花屋"のネームカード )


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 ( 裏側。かつてはこの辺りはしゃれた佇まいの一角だったのが、交通量の爆発的増加で、通りの横断も危なっかしく、渋滞、騒音、埃、排気ガスで環境が加速度的に悪化したためにか灰色にくすんだ車ばかりが怒涛の様に疾駆する寂れた一角となってしまった。)

 
 一度だけ試みたマレーシア行の途次、中継点として滞在した、現在じゃ生首がそこら辺に転がっていかねない少々じゃないくらいに物騒なエリアになってしまった南タイの最大の都市ハジャイ。
 何しろ不案内そのもので夕刻到着し、適当に入り込んだのがこの《 パール・ヴィラ・ホテル 》。180バーツも取られてしまった。後で周囲をほっつき歩いてみたらもっと安い宿が何軒もあった。現在はどうなったか想像もつかないが、当時は漢字の看板がやたら目につく繁華ではあったけど雑然とした雰囲気の町だった。イスラムの町なのでマクドナルドはなく、KFCがあった。ケンタッキーはマック以上に脂っぽくて好きじゃなかったけど、何年かぶりに入ってみたら、やっぱし脂っぽ過ぎて辟易。


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2015年7月 4日 (土)

企救郡一揆的消息 長野・津田

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 明治維新の翌年、明治二年十月十八日に新道寺に端を発した企救郡(門司・小倉)一揆の際、それより二日前の十六日に、既に、企救郡南東部の津田・長野(現・小倉南)の村々では一揆蜂起の謀議が企図され、長野の護念寺で密議がなされていたという。
 それが新道寺よりも先に既に単独で蜂起していたのか、新道寺や他地域の百姓衆も津田・長野の決起謀議のことを既に知っていてそれに何らかの形で触発されての一揆蜂起だったのか、更に新道寺から北上してきた一揆勢と如何に合流・連合していったのかなんて肝心のところはつまびらかではない。
只、いずれにしても、当時、香春(かわら)に敗走・移籍した小倉藩の後に居座り治めた長州藩治下の企救半島にあっては、慶応二年の長州・小倉戦争以来、両藩に散々無理難題を押しつけられてきた百姓衆の怒りがいつ何時爆発しても不思議ではない状況であったということだろう。そんな津田・長野ってどんなところか確かめに行ってみた。


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 JRで日豊本線・下曽根駅で下車。
 新道寺とは同じ小倉南エリアで、津田・長野から平尾台の山々を間にはさんで南西方向に直線距離で7キロの距離。
 九州と四国の間の響灘・周防灘に面した東側には工業団地があるらしく、駅前にザ・モールなんかのショッピング・ビルが並んだ西側(南口)はいかにも郊外型店舗展開って感じの新興小都市の風情。ちょっとその通りの奥に入ると、さっそく農家風の家並みが民家の連なりの中に垣間見え、以前の姿が推測できてしまう。
 駅前の両側に真新しい店舗が建ち並ぶだだっ広い道路を下ってゆくと国道10号線に出、それを越えたあたりから津田の雑然とした町並が拡がっている。ポツンポツンと畑の残った住宅地だけど、国道10号線と直角に交わる駅方面から伸びてきた幹線道路を越えると長野エリアとなる。背後の丘陵まで田畑が拡がっているのが一望でき、長野は現在でも完全な農業エリア。長野と隣接した津田エリアの一角に塀に囲まれた旧い構えの津田姓の広い屋敷が静かに佇んでいた。旧大庄屋の津田家の流れなんだろうか。旧家風の建物は現在では貴重な文化遺産だけど、維持費用と手間が大変に違いない。


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 雰囲気は、のんびり田園地帯然とした新道寺・石原町駅辺りとは、小倉の市街地に近い分だけ雑然感が強い。トロピカル・アイランドとなって久しい日本列島の烈日をもろ浴びながら、廻りに建物など殆どない2・3車線道路をトボトボと一揆衆が決起したという護念寺目指して歩き続けた。
 ようやく丘陵の麓の木蔭の間にそれらしき建物が覗けてきた。
 田圃の向こう、低い弧を描いた緑の山肌の麓にへばりつくように黒瓦の家陰が連なっていた。以前なら、茅葺きの家並みであったろう。
 護念寺周辺の緑濃い丘陵があっちこっち迫っているエリアに入ると、ふと緑に萌えた竹林や木々の間の狭い隘路を辿って、筵旗や提灯を掲げ、手に手に竹槍や棍棒、鎌などを持った一揆衆の姿がふと垣間見えてしまいそうだった。


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この護念寺は、平康盛が、12世紀に豊前国司としてこの地に下向し、長野城を築いた折り( それ以前から地元に居た中原系長野氏による築城ともいわれているらしい )に禅宗の寺として開基し、後15世紀になって、長野城城主・長野氏が浄土宗西山派に改宗。以降長野氏の菩提寺となた由。城自体は道路を挟んだ向かい側の山稜にあったというが、この護念寺の裏山から縄文時代の遺跡が発見されたりしている。
 本堂の片側に長野氏の家紋が刻印された巨きな鬼瓦が二つ並べてあって、江戸時代本堂が藁葺きだった頃のものだという。


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 訪れた時、人影はゼロ。
 境内の端っこの焚火の跡から白煙ばかりがもうもうと立ち籠めていた。
 歩き疲れたのもあるけど、墓の数けっこう多く、一揆に因んだ墓標を見つけるのは諦めた。 低い山稜の中腹の木蔭に覗ける寺院は風情があって悪くない。整備された道路の向こうに俯瞰できる静かに佇んだ竹林・雑木の茂ったなだらかな稜線の幾重にも連なった山々ともども。
 この寺に集った長野・津田の一揆衆も積年の恨み辛みを粉砕せんと雄叫びをあげながら、その山々の間を縫った間道を通って、新道寺からの幾千もの一揆衆に合流していったのだろう。現在、そんな縁(よすが)一片だに窺えないものの、その竹林の鮮やかな緑の爽やかさが、時代を超えて彼らの息吹を伝えてくれそうだった。( ちゃんと調べてみたらそれなりに痕跡・消息が多々残っているのかも知れない )


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