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2016年1月の3件の記事

2016年1月24日 (日)

藤原新也=指原莉乃  《 SWITCH 》 2月号

 


 藤原新也・原作の映画《 渋谷 》(2009年)にAKB48の大島優子が出演(脇役)していたのは知っていたけど、今月発売の《 SWITCH 》の表紙に、新也の撮った同じAKBグループのHKT48の指原莉乃の写真が掲げられていた。

 彼の代表作《 東京漂流 》の新たなバージョンともいうべき《 新東京漂流 》の一環らしい。所謂、眼力(めじから)のあるリアルな指原の表情ではあるが、
 
 『 窓のカーテンを開けるといつも見ていた街が無くなっていて、荒れ果てた風景が遠くまで続いてた』
 
 ・・・つまり、《 9・11 》~《 3・11 》によって脳裏に刻印された“ 世界の崩壊の瞬間 ”のゆらぎ的蒼貌ってことのようだ。

 
 《 藤原新也 新東京漂流─若者のすべて 》と銘打ったフォト・ストーリーの中の巻頭の一枚で、指原当人もツィッターで本来は本文のページ写真の一枚に過ぎなかったのが撮影後急遽表紙を飾ることになった旨報告してたように、新也自身が気に入ったのだろう。
 その巻頭写真の一頁前の《 プロローグ 5分後の世界 》で、その指原の理由をこう述べている。


 「 今は個人ではなく群が顔となる時代だと思う・・・やはり尽きるところ時代を開拓したAKB48でしょ。そのセンターである指原莉乃を撮るということです。」

 「 ぼくはAKB48はその群成する人々の時代の危機回避のシェルターだと思ってる。二〇〇一年の9・11から・・・・・・世界は五分後にはとつぜん何が起こるかわからない時代になったし、それと同時進行的に若者の生活環境もむちゃくちゃ苛酷になっている。避難場所が必要なんだね。」

 
 そして、ガンコ親爺・新也すらも、ご多分に漏れず、指原のところを、
 “ きれいに撮ってあげたいという親心を誘う子ですね。”
 と正直に吐露している。
 むむっ、指原の思う壺ではないか。
 AKBのある種の人気娘は握手会なんかで手練手管を弄するらしいけど、指原の場合、トラウマを内に抱えた傷ついた乙女的オーラを漂わせるだけでむしろファン・オタクたちの方から歩み寄ってくる仕儀のようで、指原自身彼女の在籍しているHKT48の人気今イチなメンバーたちに“ 手を差しのばしたくなるような ”オーラの得策を説いてもいるようだ。
 アキバのAKB劇場での10周年記念のコンサートの終わった後の、前田敦子と大島優子の元センターの二人が並んだショットもある。こっちは普通に微笑ポーズ。


 「 リビングの窓の外に広がる
  荒れ果てた風景から
  君たちの時代ははじまった。」
 
 から始まる写真群の後に綴られた《 ドキュメント 荒野の窓 》だけど、確かに、開け放たれた窓の向こうにくすみ朽ち果てた廃墟が連なってたりする昨今の国内地方の定番光景ではあるが、それ以上に《 9・11 》から特に米国・ハリウッド映画で顕著に見られるようになった風景でもある。
 ニユーヨーク・ツインタワー崩壊ってそれまでの米国支配的秩序の象徴の崩落ってイメージを世界に刷りこませたかも知れないけど、そもそもベトナム戦争の頃から、何時そんな事態が派生したとしても不思議ではなかった、むしろ半世紀近く殆ど何も起こらなかったのが奇蹟に近かった。ベトナム人たちの心のおおらかさを証すばかり。
 あれでもし、ペンタゴンの将軍たちが企んだように(ベトナムに)核兵器でも使用していたら、もっと早く《 9・11 》的事態が招来されていたのかも知れなかった。そんな十分に考えられる論理的帰結=惨禍であっても、ペンタゴンにとっては、米国市民二千万人ぐらいの死は想定内の予め組み込み済みの一連の悪辣らしい、と何処かで読んだか観たかの記憶がある。
 つまり、蛙の面にションベン、何のこっちゃいって寸法らしい。
 その上での、昨今の国際テロ騒ぎって訳だ。
 
 終わりの方に、指原が監督したHKT48の映画の番宣もどきのミニ・インタビューがあって、ロジヤー・ムーア張りの指原の四方山話まで掲載されている。

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2016年1月 9日 (土)

タイ中世の業(カルマ)的因果応報譚 《 クンチャーン、クン・ペーン 》

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 昨年、東アジア専門らしい門司港レトロ図書館で放出品として幾冊か貰った東南アジアの文学関係の書籍の中に、《 タイ国古典文学名作選 》 冨田竹二郎・編訳(1981年) という薄茶に焼けた一冊があった。

 タイの古典といえば韻をふんだ記述の長編が多いようで現代語に抄訳したものだけど、有名なワニ伝説《 クライトーン 》と、タイ・カンボジア国境のコ・コン(島)に碑まである中世黒魔術伝ともいうべき《 クンチャーン、クン・ペーン 》の二篇だけは、ぼくもその名前だけは知っていた。
 その両作とも映画化されていて、《 クンチャーン、クン・ペーン 》の方は《 クン・パーン 》(2002年)のVCDを持っていた。英語字幕のないバージョンなので、詳細なところまでは理解できなかったのが、今度この本を手にして、だいぶ分かってきた。


 オリジナルの物語に接して驚いたのは、映画でも確かに黒魔術を駆使する妖魔然とした騎士の割には、肝心の時になると国王パンワサーにやけに従順で、何とも煮え切らないのが鼻についてしょうがなかったが、オリジナルでも同様だったことだ。正に封建的秩序の申し子というべきなのか、タイの王制的桎梏の故なのか。
 そしてそれ以上に、幾ら“ 英雄色を好む ”的な封建主義的世界であったとしても、ともかく主人公のクン・ペーン、情けないくらいというべきか、病的なくらい女に手が早い。師事した和尚にその性向を指摘され諫められても自身で如何しようもない正に業・・・《 大菩薩峠 》の机龍之介の隠微・陰惨さこそ希薄だけれど相似。さながら、仏教的な転輪する業の紅蓮の焔と宿縁の相克図。
 
 
 アユタヤ近郊のスパンブリーに伝わってきた伝説を、19世紀前半、国王ラーマ二世~ラーマ三世自らが、当時詩聖といわれたスントーン・プーなんかと協同で編纂し韻をふんだ詩形式の物語に仕上げ完成したという。( 岩城雄次郎によれば、それ以前、アユタヤ時代に既に作られていたのが戦乱で焼失してしまってたらしい。 )
 タイの王族は文学に関わる者が少なくなく、初期は宮廷の専有物のようであった。映画も然り。現在でも、王族が監督や俳優、あるいはプロデューサーとなったりしている。


 クン・ペーンのクンは貴族の官位だけど、富豪クンペーンのクンは名前の一部に過ぎないようだ。そもそも二人は、も一人の美女ワントーン(幼名ピムピラーライ)も含めて、スパンブリーで一緒に子供時代を過ごした幼なじみであった。端整な顔立ちのクン・ペーンの幼名はプラーイケオ。金持ちのボンボンのクンチャーンは幼少の頃から短躯の禿オヤジ面。クンチヤーンのこの姿はちょうど《 西遊記 》の猪八戒のようなポピュラーな定番となっているらしく、これ以上ない対称的な人物造形だろう。

 更に、三人とも早く父親を亡くしてしまう筋立て。
 富豪のクンチャーンの父親は押し入った匪賊に殺害されるが、クン・ペーンことプラーイケオの方は、豪勇でならした国境守備隊長の父親=クン・クライが国王の野牛狩りでの不手際を理由に理不尽な刑死に至らしめられ、母親に連れられてクワイ河で有名なカーンチャナブリーに逃れる羽目に。
 
 やがて、プラーイケオが十五歳になって向学の念にもえはじめると、大蜜柑寺に入れられ、読み書きだけでなく呪文や法術まで習う。それが後年の黒魔術戦士クン・ペーンとなる機縁となるんだけど、そこから更に、生まれ故郷のスパンブリーの蝉林寺でも修行を積むことに。
 タイ正月(ソンクラーン)、蝉林寺に参詣に来た信者に混じって、プラーイケオが修行しているのを聞きつけた美娘ピムピラーライが、山ほど献上食を携えて現れたのを機縁に、ピムピラーライを中心にプラーイケオ=クン・ペーン、クンチャーンの果てしない恋情色欲・因果応報の相克劇が転輪することとなる。


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 美貌のピムピラーライ、結構気が強く、強引に結婚してくれと言い寄ってくるクンチャーンを「禿頭 !」呼ばわりして散々罵ったりする割には、惚れている当のプライケーオが迫ってくるとシャイな未通娘を決め込み、侍女のサーイトーンが間に入って取り持つのだが、この年増(それでもまだ二十歳代らしい)の侍女が曲者で、まだ十歳代のイケメンのプラーイケオにちょっかいを出そうとし、当のプラーイケオも当然のように乗っかってしまう尻軽さ。
 この説話じゃもっぱらクンチャーンがそのユーモラスな容貌・体躯そのままにコミカルな役割をふりあてられていて、偶々自分のベッドに近づいてきた年輩の侍女すら勝手にピムピラーライと勘違いして強引に手籠めにしてしまう。侍女の方はお手がついたと、ちゃっかり妾(めかけ)の一人に成りおおせてニンマリ。
 
 基本、美男のクン・ペーンと美女のワントーン( ピムピラーライ )の恋路をクンチャーンが嫉妬と欲望に駆られ権謀術策の限りを尽くしてゆく作りで、結局国王まで動かすクンチャーンの悪辣な手管にワントーンは彼の閨房に自ら居座りを決め込んでしまう。クンチャーンの間断ない攻勢もあろうが、それ以上にクン・ペーンの頻繁な女出入りに疲れてしまったのか。
 ところが、クン・ペーン、再び魔術を駆使し、クン・ペーンの閨房から嫌がるワントーンを強引に連れ出し、遠くに逃げてしまう。確かに、クンチャーンは悪辣な手段で彼女を我がものにしようとするけど、一旦自分のものにしてからは鄭重に扱ってくれる。そもそもが彼女にぞっこんで、何不自由ない生活も保障してくれる。
 そのワントーンが、クンチャーンの家に戻されて、クン・ペーンの息子を産む。
 プライガームという名で、クン・ペーンに似て美男子だけど、やっぱし女たらし。クンチャーンは嫌がらせ三昧。やがて黒魔術を習得し、長く牢に入っていたクン・ペーンと一緒に、アユッタヤー国王パンワサーのために、チェンマイの国王を黒魔術で捕らえ、その褒美にクン・ペーンはカーチャナブリーの領主=プリ・スリンに叙され目出度しめでたしっと思ったら、クンチャーンまたぞろ国王に直訴する。
 大概には辟易した国王、三人を呼び寄せ、ワントーンに訊ねる。
 
 「 ワントーンよ、お前は一体クンチャーンと一緒に暮らしたいのか、それともプリ・スリン(クン・ぺーン)と夫婦でいたいのか ?」

 が、ワントーン、煮え切らず曖昧な返答をしたため、“二心の女”として国王の逆鱗に触れ、その場で、“斬首”の刑を言い渡されしまう。クン・チャーン親子の救援活動もむなしく、ワントーンの首は刎ねられる。
 一大恋愛叙事詩なんだろうが、ともかく肝心のヒーローのはずのクン・ペーン、才色兼備だけど女出入りが激し過ぎ、最初は一途だったヒロイン=ワントーンも二人の間で争奪の憂目に晒され続けている内、倦み疲れ優柔不断になってしまっての悲劇。
 

 この中世末の物語の面白いところは、クン・ペーンだけじゃなく息子のプライガームも黒魔術を駆使する魔術・呪術師って設定。親子で魔術合戦すらやらかすのだ。
 日本の有名な英雄物にそんな魔術・呪術を駆使する話は余り聞いたことがない。安倍晴明はそこまで国民的ヒーローじゃないし、菅原道真は余りの慚愧と怨嗟の念故に生霊となったに過ぎず術を駆使した訳じゃない。
 如何にもタイ人好みな題材で、昨今のタイ・ホラー映画そこのけに、かなりエグい場面もある。山賊の17歳の娘ブワクリーに自分の子供を身籠もらせ、ある夜、娘と盗賊全員を魔術で眠らせておいて、短刀で娘の腹を切り裂き、男胎児を取り出して布にくるみ、そこを抜け出してある寺院に逃げ込むと、黒魔術の儀式に則って、胎児からクマーン・トーン( 金嬰丸 )、つまり神通力をもった無色透明な使役霊を作り出す。
 残虐な場面だけど、

 「 短くはあったが、それでも肌を許し合った、いく夜のあついあだ情けを思うと、短刀を持つ手さきがしぶった。しかしおれに毒を盛った女だ・・・」

 等と幾分の平衡性を持たせている。
 クン・ペーンはいっぱしの黒魔術・呪術師的戦士として、名馬と宝剣、金嬰丸の三つが欲しかった。それを求めての途上の出来事で十全に意図的。
 最終的に彼は黒魔術師的三宝、宝剣=ファーフーン(天雷)、名馬=シーモーク(朝霧)、金嬰丸を手中に収める。それらを得ての更なる活躍って訳だけど、何処か雰囲気がジョン・ブーアマンの1981年の監督作品《 エキスカリバー 》と通じるところがある。所謂“ アーサー王の聖杯探求物語 ”で、円卓の騎士や魔術師マーリン、魔女モルガーナ(モーガン)すら登場してくるんだけど、聖杯探求という些か宗教的哲学的なテーマの有無が異なるだけ。
 
 この冨田竹二郎・編訳の名作選の中の《クンチャーン、クン・ペーン》はあくまで抄訳で、全訳だとかなりな厚さになるので求むへくもないのだろうが、一冊本くらいの現代訳のを読んでみたいものだ。まあ、何本か作られているらしい映画って手もあるが。
 

タイ叢書 文学編13 《 タイ国古典文学名作選 》 冨田竹二郎・編訳 
                1981年発行 (井村文化事業社)

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2016年1月 1日 (金)

イニシエーション・ラブ - 遭(あ)うは別れのはじめパラドックス -

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 松田優作のねっとりとしたところを長男・龍平が受け継いだとしたら、如何にも好男子の弟・翔太は両親の良いところをほど良く頂いたってところなんだろうか。
 元AKBの前田敦子と共演したこの《 イニシエーション・ラブ 》、人気があるのかレンタル屋の棚に20本近く並んでいてもいつも全部貸出し中だったのを偶然一本だけ残っててやっと借りて観れて、野性味溢れた異端児の子であっても、やっぱし二世の育ちの良さってものはあらそえないんだなとつくづく人間存在の物質性・環境性ってものに思い至らせられてしまった。

 乾くるみの原作 《 イニシエーション・ラブ 》( 2004年 )はミステリーという。
 けれど、堤幸彦のこの映画に関しては、それをミステリーというには少々こじつけが過ぎよう。
 物語の基本は遠距離恋愛。
 もはや遠距離恋愛の帰趨・顛末って直-関係の希薄化による別離が常識。
 そこを逆手にとって時・空間的もつれの如く仮構した物語ってとこで、意味ありげに時間を表示してみせる流行の時間(=空間)的トリック的手法を使っている。が、映画の進行プロセスにミステリアスな如何なる場面もない。最後の方で種明かし的にそんな仕掛けをこじつけ的に明示しただけ。どんでん返し、といえばそうなんだろうし、もはやいずこの映画でも駆使され尽くした定番・常道の感さえする手法だけど、殆ど終幕のドサクサ紛れでの種明かしで、「エエッ! 何っ!」って感じじゃあミステリアスな映画とは言えない。これも映画宣伝のためのネタの類に過ぎなかったのだろうか。
  
 
 この映画、何か2004年の韓流映画《 僕の彼女を紹介します 》に雰囲気が似てるようにも思えた。“死”の匂いに溢れた感傷性の強いメロドラマで、前田敦子の“純情”を前面に押し出したようなむせび声が一層悲哀感を漂わせているからそう思わさせたのか。
 この声色・口吻は以前、NHKで放送された《 あさきゆめみし 〜八百屋お七異聞 》(2013年)で主演のお七を演じた時も前田敦子が使っていた。
 この《 イニシエーション・ラブ 》のヒロイン繭子は、ともかく、“純情”なイメージを纏わされ、それが最後のドンデン返しで意表を衝く効果を発揮するって仕掛けになっている。腕白娘然とした前田敦子と“純情”性は馴染まず、《 苦役列車 》でも原作者の西村賢太に柏木由紀の方が良かったと駄目出しされたぐらい。尤も、土壇場で明らかになるむしろ女の現実主義的な“ したたかさ ”にも、本当は前田敦子はも一つ馴染まず、もっとあっけらかんとしたわがまま娘ってところ。もちろん、女優たるもの、自分の性向と真逆な役回りであっても見事に演じきるってんじゃなければ一人前とは言われない。

原作はA面・B面の二部構成らしく、この映画でも踏襲している。
 前半は合コンで前田と小肥りした森田甘路が出会ってから恋仲になってしまう静岡編。
 前田=繭子の、も一つ合点のいかぬ不可解さを残した諦念じみた優しさにおしなべられ、悪戯っぽい大きな瞳をギラギラさせた笑み顔のクローズ・アップが不気味さすら喚起し、純情の装いの奥の正体を覗かせて違和感を掻き立てる手法だったのか。これ見よがしな笑みのこの不気味なシーンが唯一“ミステリアス”といえば言えなくもない。
 後半は森田が会社命令で出向した東京編。
 前半の終盤で小肥り体型からの脱却を目指すことを誓ってからの後半の幕開けで、早速、もはや小肥り体型とは無縁の、すらりとした肢体のイケメン松田翔太に交替。
 途中のプロセスを省略した変容って慣行的手法の了解性を逆手にとってのトリックという訳だ。案の定松田が同僚の都会的な洗練された女(木村文乃)とできてしまい結局繭子と破局してしまう。が、松田が繭子に暴力を揮って別れた際の罪悪感にとうとういたたまれなくなって、結局繭子に会いに向かうのだけど、そこで出会ったのは元の自分ならぬ小肥りした森田甘路と熱愛中の繭子であったというどんでん返し。つまりダブル二股。


 本当はダイエットしていなかった森田甘路ってわけだが、B面=東京編の最初にすらりとして凛々しいイケメンの松田翔太の姿が画面に現れた時、これもつい、かつてタイのバンコクの映画館で観たアンディー・ラウ(劉德華)主演の香港映画 《 ダイエット・ラブ 》(原題:痩身男女(2001年) を思い出してしまった。特殊メイクでめいっぱい肥え太ったアンディーがダイエットしてすらりとした痩身のイケメン、本来のアンデイー・ラウになってしまうってコミカル・ムービーだったけど、そん時驚いたのは、すらりとした本来のアンディーとなって画面に登場した時、館内の少なからずの娘たちが溜息を洩らしたことだった。中国系が多いバンコクではあるがタイの若い娘たちにそんなに人気があるとは考えもしてなかったので、映画の内容はともかく、印象的なシーンだった。
 

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