小倉=長州・企救郡百姓(農民)一揆 ノート (1)

( 谷 干城 )
明治2年、長州軍に占領された小倉藩・企救郡で勃発した《 小倉・企救郡百姓(農民)一揆 》、幕末・明治維新的騒擾の相次ぐドサクサ故にか、不明な点が多い。
そもそもが、無血一揆だったにも拘わらず、更に長州・維新軍(県令・佐藤寛作)側が“罪を問わず”として収束したにも拘わらず、首謀者とされた幾人もが捕縛され、あげく原口久右衛門は絞首刑、他は有期刑を受け、長州役人と癒着しその悪儀を農民たちに糺されていた当の庄屋たちはといえば絵に描いたように微罪で茶を濁されてしまって、“御一新”明治政府・権力の本質を早々と露顕してしまった事件であった。
ところが、以前当ブログにおいて、この一揆に触れた《 維新のゆらぎ 門司&企救半島的騒擾 》(2013年9月13日)の中で、一揆勢が赤坂で待機していた長州・維新軍の指揮官・谷干城(たに たてき)が“一揆衆の中から犠牲者を出さず”と約したと、《 義民・九右衛門と企救郡百姓一揆 著・田郷利雄 JF 》の記述を引用したのだけど、他の関連本やブログを見てみると殆ど谷干城の名はなく、せいぜいが〈 干城隊 〉の名が明記されているぐらい。
ひょっとして、谷干城と長州の譜代武士団=干城隊を混同してしまっての典拠だったのかと些か不安を覚えてしまった。
谷干城って土佐藩出身の維新軍・迅衝隊(土佐藩)の幹部だったようで、同じ土佐藩の坂本龍馬に心酔し、近藤勇が逮捕された時強行に斬首刑を訴えたり、西南の役の際の熊本城死守、あるいは後年足尾銅山事件で田中正造を支援したのでも有名らしい。
しかし、既に会津は平定されていたとはいえ、何故に同じ維新軍とはいえ谷や彼の部隊が長州軍占領中の旧小倉藩企救半島に居たのだろうか。
もう一度、《 義民・九右衛門と企救郡百姓一揆 》の記述を確かめてみると、
「 ・・・一揆勢の主流が、今村・到津・菜園場・荒生田の各村へ行き、城野方面へ戻ってきたところで、門司半島をぐるりと一周してきた支流と合流しました。
そこへ、長州藩兵を率いて赤坂村に駐屯していた谷干城が、その二個小隊を率いて、九右衛門らと談合にはいりました。
余談になりますが、谷は、後年(明治十年)の西南戦争のおりに、政府軍の司令官として熊本籠城して、西郷隆盛の薩摩軍の猛攻に耐え、勝利を明治政府軍にもたらした男でした。
谷は、次のことを約束して、一揆勢の気持ちを鎮めました。
○ 一揆衆の中から犠牲者を出さぬよう、一揆の責任を不問にすべく、山口藩庁に働きかける。
○ 一揆衆が言いたいこと・訴えたいことがあれば文書に差し出すように。それを藩庁に必ず届けて、不満が残らないように私が努力する。
一揆衆は、それぞれ自分の村へ、自分の家へ帰って行きました・・・」
が、実際は、後日、首謀者として原口たちは長州藩小倉本陣に出頭命令が出され捕らえられてしまうのだけど、《 明治初年 百姓一揆 》(編・吉永愚山)所載の《 高瀬日記 》にはこう記されている。
「 十九日夜半 又一方
蜷田(になた)の方に戦備を整へたる長州より 大石雄太郎現はれ 一統に向つて 漸々理解 を試み犯罪者を出さず 円満に始末すべしとの事と成り 一統も一応引上げた。
廿日
此日小倉より 鎮撫役人現はれて理解をなし 大石は一統の聞書を携へ 民政庁に 於て協議の上 山口に急行した 是に依て一統も暮方引上げた」
この出典に倣った感じのこんなものもあるにはあるのだが。
「・・・このようにして一揆は企救郡全体に波及拡大したため驚いた長州藩の民生取捌所(鎮撫局=占領軍の民事行政総括所)は19日の深更(夜12時頃)鎮撫のために出動して説得を始めました。最近、当時の長州騎兵隊士官の写真が発見されたそうですが、それには五番砲隊の隊長『大石雄太郎』という人が写っていました。深夜の横代原に集結した一揆の面々を前に『皆の願いの筋は必ず山口の藩庁に伝え民を助ける民生に務める』旨云い含めて『今夜は解散してそれぞれ家に帰るように』と説得したのがこの大石雄太郎でした。」
《 新企救風土記 》(著・松本洋一)
大石雄太郎とは谷干城の別名ってことだったってことになるのだけど、改めてブログ確かめても一向に出てこない。
そもそも谷干城、明治2年には土佐藩での軍制改革の命を受けていてもっぱらに奔走していたろうし、翌3年には藩財政再建の任にもつき板垣退助なんかと激しく対立することにもなったのを考えあわせると、旧小倉藩=企救半島になんかで長州の占領政策なんかに関わっているなんてちょっと考えられない。
長州軍関係の事情に疎いのであれこれ手短に確かめてみたら、やっぱり、所属はつまびらかじゃないけど、長州軍側に大石雄太郎の名は散見された。その大石雄太郎なんだろう。
もう一つ、《 北九州のあれこれ 》の< 明治時代1 >を参照してみよう。
「 横代村に到り、一旦引き下がっていた一揆は、そこに留まっていました。干城隊隊長は村役人や庄屋などの不正を調べると説得し、犠牲者は出さないことを条件にして、一揆を解散させました。」
とある。名前は記されてない。
あれこれ錯綜していて、どうも今ひとつすっきりしない。
まあ、これが“ 歴史 ”ってもんだろうが・・・
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