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2016年2月の2件の記事

2016年2月20日 (土)

2010年代的古装武侠映画的リアリズム  《 倭寇的綜跡 》

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 監督・脚本の徐浩峰は元々《 逝去的武林 》、《 道士下山 》等の所謂“武侠”小説の著者として有名だったらしく、トニー・レオンとチャン・ツイイーの共演した《 グランド・マスター 一代宗師 》(2014年)でも脚本を手がけている。
 《 グランド・マスター 》とは監督は異なるものの、静的で重厚な雰囲気は似ている。
 独立派苗族から服部半蔵まで入り乱れるチン・シウトー( 監督 )・ツイ・ハーク( 脚本 )の香港映画《 東方不敗 》と同じ時代の明朝後期《萬暦》年間が時代設定で、豊臣秀吉の《 朝鮮出兵 》の頃。既に倭寇は下火になっていたらしい。


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 《 倭寇的綜跡 》、邦題は《 刀のアイデンティティー 》。
 “綜跡”とは足跡あるいは追跡。あまり見たことないけど、日本語でも使うらしい。
 テーマはもろ倭寇的産物ともいうべき“倭刀”。
 初期の倭寇の頃は日本は戦国時代で刀も長刀が多く、それまでの中国軍には馴染みのない武器だったようで、既存の戦闘大系の盲点をつかれ劣勢を余儀なくされていたらしい。一つ前の宋の時代から、一部の武人・文人たちは日本刀の美麗さ(彼等から見ればエキゾチックな魅力でもあったろう)を賞賛し愛玩していたというけれど。
 その後、戚継光・俞(ユ 愈から心をとった字)大猷の二人の将軍が、倭寇対策を練り上げ、撃退できるようになった。
 とりわけ、戚継光(チィ・ジーグワン)将軍の倭寇の長刀をコピー(倭刀)し、それを倭寇たちに対して使うという毒には毒をもって制する戦術、そして幾人もが一組となって盾や槍を組み合わせた隊勢=鴛鴦陣は有名だったようだ。この映画でも、コミカル部分担当の感のある朝廷軍の一隊がその隊勢を具現してみせている。


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 倭寇や北方平定に力のあったにもかかわらず中央に貶められ慚愧の念を残して没した戚継光の、倭刀の後継者二人が倭刀(法)の流派としての公認を求めて、武芸の諸流派を束ねる四大門派の前に現れる。
 さっそく四大門派の長老たちに、倭刀の作りの良さは認めつつも“邪道”と断じられてしまう。尤も、劇中での倭刀、反りのない真っ直ぐな直刀で、切っ先もきっかり直線斜め。江戸時代の日本刀より長いのが特徴。実際の中国で流布していた倭刀は日本刀とは形状・装飾が些か趣きを別にしたものであっても、基本ちゃんと反りはある。苗刀とも呼ぶらしい。
 監督の徐浩峰があくまで日本刀とは別種ってところで“つくった”(創作)のだろう。勿論実際にそんな直刀も少数実存していたのかも知れない。
 二人の手にした鍔(つば)のない、木製の柄・鞘に収められた倭刀は長大に見え、奇異な感じさえ覚えさせる。それが又、“邪道”=倭刀のイメージを一層高めてしまう。
 が、ほんの十数年前までは、悪辣・邪悪の権化のように世人に恐れられ忌み嫌われていた倭寇を撃退してくれた象徴ともいえるものであった。
 倭刀(倭刀法門派)を公認され世に伝播してゆくということは、畢竟、人民を顧みず、後宮から一歩も出ようとしない萬暦帝と朝臣輩のなせる業・奸計に陥れられた戚継光(および戚家軍)の雪辱をそそぐということでもあった。


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 四大門派との小競り合いで、中年剣士の方は負傷し捕らえられてしまうが、残った青年剣士があれこれ奇計を労し四大門派の長老たちを悩ませる。
 停泊中の船の中に、ジプシーの踊娘を人質に立てこもってしまうのだけど、実は、青年に一目惚れした娘が、彼にいわれて船の入口に降ろされた布幕の手前に椅子に腰掛け倭刀の長鞘を両手で持って、四大門派の手の者が入り込もうとすると、その者めがけて鋭く突き出すよう命じる。普通の娘に兵士・剣士に対抗できるだけの技量がある訳もないのだけど、それを正当化するために、事前に、その娘の身体能力を見定めるくだりを挿入している。
 下っ端兵や剣士たちがいとも容易に倒されてゆくのはともかく、肝心の達人(高手)までもが呆気なく倒されタンカで運ばれてゆくってのは些か興醒めもの。


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 戚継光の極意"如影如響"の内の"如響"、幕を通して侵入者の発する音に意念を集中して鞘を突き出すって棍術ならぬ鞘さばき。まじかよ !・・・と、小首を傾げながらも、まぁー確かに、妙に力んだ男のものよりたおやかな女の肘打ちの方が威力があるって論理でゆけば一理はある・・・等と自らを納得させてはみたが。
 誰もがここで白けたり鼻白(はなじろ)んだり果ては憤懣を覚えたりのようで、中国ブログなんか見てみると、「ブラック・ユーモア」の文字まで並んでいた。
 それでも、最後は弓矢を構えた隊列に囲まれ、万事休す。
 青年、倭刀を片手にトボトボと姿を現す。
 翌日、四大門派の居並ぶ一角に、倭刀を携えた二人が颯爽と向かう。
 双峰六合槍の達人・裘(きう)冬月老人と倭刀青年が対決する。
 何の駆け引きもない対面の戦い・・・一閃、老人の短躯の双槍が青年の長刀を叩き落とす。青年、観念し、トボトボとその場を後にしようとするのを、元四大門派の冬月老人、倭刀法を認めようと告げる。居並んだ他の長老たちも肯う。
 かくて、二人の倭刀法門派樹立の宿願成就。


 ジプシー娘と朝廷軍のコミカル性が、取って着けたようで今ひとつ違和感が残るものの、総じて中々リアルで面白く出来ている。古装武侠片といえば、飛んだり撥ねたりのワイヤー・ワーク全盛の昨今だけど、'67年の伝統的本格《 龍門客桟 》の胡金銓(キン・フー)監督のとは又異なる2010年代的伝統的本格的リアリズムは、悪くない。


 《 倭寇的綜跡 》  監督 徐浩峰(2012年) 中国映画


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2016年2月 6日 (土)

小倉=長州・企救郡百姓(農民)一揆 ノート (1)

Photo

   ( 谷 干城 )


 明治2年、長州軍に占領された小倉藩・企救郡で勃発した《 小倉・企救郡百姓(農民)一揆 》、幕末・明治維新的騒擾の相次ぐドサクサ故にか、不明な点が多い。


 そもそもが、無血一揆だったにも拘わらず、更に長州・維新軍(県令・佐藤寛作)側が“罪を問わず”として収束したにも拘わらず、首謀者とされた幾人もが捕縛され、あげく原口久右衛門は絞首刑、他は有期刑を受け、長州役人と癒着しその悪儀を農民たちに糺されていた当の庄屋たちはといえば絵に描いたように微罪で茶を濁されてしまって、“御一新”明治政府・権力の本質を早々と露顕してしまった事件であった。
 ところが、以前当ブログにおいて、この一揆に触れた《 維新のゆらぎ 門司&企救半島的騒擾 》(2013年9月13日)の中で、一揆勢が赤坂で待機していた長州・維新軍の指揮官・谷干城(たに たてき)が“一揆衆の中から犠牲者を出さず”と約したと、《 義民・九右衛門と企救郡百姓一揆  著・田郷利雄 JF 》の記述を引用したのだけど、他の関連本やブログを見てみると殆ど谷干城の名はなく、せいぜいが〈 干城隊 〉の名が明記されているぐらい。
ひょっとして、谷干城と長州の譜代武士団=干城隊を混同してしまっての典拠だったのかと些か不安を覚えてしまった。 

 谷干城って土佐藩出身の維新軍・迅衝隊(土佐藩)の幹部だったようで、同じ土佐藩の坂本龍馬に心酔し、近藤勇が逮捕された時強行に斬首刑を訴えたり、西南の役の際の熊本城死守、あるいは後年足尾銅山事件で田中正造を支援したのでも有名らしい。
 しかし、既に会津は平定されていたとはいえ、何故に同じ維新軍とはいえ谷や彼の部隊が長州軍占領中の旧小倉藩企救半島に居たのだろうか。
 もう一度、《 義民・九右衛門と企救郡百姓一揆 》の記述を確かめてみると、


 「 ・・・一揆勢の主流が、今村・到津・菜園場・荒生田の各村へ行き、城野方面へ戻ってきたところで、門司半島をぐるりと一周してきた支流と合流しました。
 そこへ、長州藩兵を率いて赤坂村に駐屯していた谷干城が、その二個小隊を率いて、九右衛門らと談合にはいりました。
 余談になりますが、谷は、後年(明治十年)の西南戦争のおりに、政府軍の司令官として熊本籠城して、西郷隆盛の薩摩軍の猛攻に耐え、勝利を明治政府軍にもたらした男でした。
 谷は、次のことを約束して、一揆勢の気持ちを鎮めました。
 ○ 一揆衆の中から犠牲者を出さぬよう、一揆の責任を不問にすべく、山口藩庁に働きかける。
 ○ 一揆衆が言いたいこと・訴えたいことがあれば文書に差し出すように。それを藩庁に必ず届けて、不満が残らないように私が努力する。
 一揆衆は、それぞれ自分の村へ、自分の家へ帰って行きました・・・」


 が、実際は、後日、首謀者として原口たちは長州藩小倉本陣に出頭命令が出され捕らえられてしまうのだけど、《 明治初年 百姓一揆 》(編・吉永愚山)所載の《 高瀬日記 》にはこう記されている。


 「 十九日夜半 又一方
  蜷田(になた)の方に戦備を整へたる長州より 大石雄太郎現はれ 一統に向つて 漸々理解  を試み犯罪者を出さず 円満に始末すべしとの事と成り 一統も一応引上げた。

   廿日
  此日小倉より 鎮撫役人現はれて理解をなし 大石は一統の聞書を携へ 民政庁に  於て協議の上 山口に急行した 是に依て一統も暮方引上げた」
   
  
 この出典に倣った感じのこんなものもあるにはあるのだが。


 「・・・このようにして一揆は企救郡全体に波及拡大したため驚いた長州藩の民生取捌所(鎮撫局=占領軍の民事行政総括所)は19日の深更(夜12時頃)鎮撫のために出動して説得を始めました。最近、当時の長州騎兵隊士官の写真が発見されたそうですが、それには五番砲隊の隊長『大石雄太郎』という人が写っていました。深夜の横代原に集結した一揆の面々を前に『皆の願いの筋は必ず山口の藩庁に伝え民を助ける民生に務める』旨云い含めて『今夜は解散してそれぞれ家に帰るように』と説得したのがこの大石雄太郎でした。」

                                                 《 新企救風土記 》(著・松本洋一)


 大石雄太郎とは谷干城の別名ってことだったってことになるのだけど、改めてブログ確かめても一向に出てこない。
 そもそも谷干城、明治2年には土佐藩での軍制改革の命を受けていてもっぱらに奔走していたろうし、翌3年には藩財政再建の任にもつき板垣退助なんかと激しく対立することにもなったのを考えあわせると、旧小倉藩=企救半島になんかで長州の占領政策なんかに関わっているなんてちょっと考えられない。
 長州軍関係の事情に疎いのであれこれ手短に確かめてみたら、やっぱり、所属はつまびらかじゃないけど、長州軍側に大石雄太郎の名は散見された。その大石雄太郎なんだろう。
 

  
 もう一つ、《 北九州のあれこれ 》の< 明治時代1 >を参照してみよう。


 「 横代村に到り、一旦引き下がっていた一揆は、そこに留まっていました。干城隊隊長は村役人や庄屋などの不正を調べると説得し、犠牲者は出さないことを条件にして、一揆を解散させました。」
                                        
                                               
 とある。名前は記されてない。
 あれこれ錯綜していて、どうも今ひとつすっきりしない。
 まあ、これが“ 歴史 ”ってもんだろうが・・・


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