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2016年4月の3件の記事

2016年4月28日 (木)

旅先で買った本 an Historical Guide to Afghanistan

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 アフガニスタン、二十数年前も、現在も、基本的に状況は変わってなくて、相も変わらず多くの難民達が、隣国のパキスタンやイラン、あるいはもっと遠隔の地で、うんざりしながら何時果てるとも知れぬ権力闘争の終焉するのをじっと待ち続けている。
 
 ちょうど米英(主導)がサダム・フセインのイラクに侵攻した第一次湾岸戦争の頃、パキスタンは北西辺境州の州都・ペシヤワールの、まだ存在していた《カイバル・ホテル》にぼくは滞在していて、サダル・バザールのロータリーにサダム・フセインの顔を印刷した反米ポスターがずらり貼り巡らされているのを見て、てっきりパキスタンは米国一辺倒と思い込んでいたので驚いてしまった。政府・権力は米英支持のポーズはとりつつも、イスラム勢力にとってはやっぱりイラク=イスラム教国攻撃を容認する訳にはいかないのだろう。
 規模は小さかったものの、《カイバル・ホテル》前のサダル通りを旧市街に向かって、サダム支持=反米のデモ隊も示威行進をしていたのが印象的だった。


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 これがアフガンとなると、もっとあれこれ様々な勢力・要因が混沌・錯綜してしまって、容易に解決の途が見出せないまま、少なくとも“ソ連のアフガン侵攻”からしても、もう数十年が過ってしまった。ソ連軍撤退後も組んずほぐれつの暗闘死闘を繰り返したマスード、ヘクマチアール、ドスタムたち。
 英国・ソ連・米国が、アフガニスタンを己が版図に組み入れようと画策・侵略してきたのがアフガン近代史。強大な敵国を相手に最後まで頑強に抵抗をし続けてきた不屈性。それが故にの、今度は底なしの内部的鬱屈と抗争。
 アフガニスタン高地に春が訪れるのは一体何時のことだろう。


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 この本、米国女性が書いたアフガニスタンのガイドブック《an Historical Guide to Afghanistan》(1970年)の第2版(1977年)を買ったのは、2回目か、3回目のペシャワール滞在の時だったろうか。
 以前は見なかった新しく引っ越してきたアフガン書店の、余り人気のない店内で見つけた。他の今ひとつ脆弱な造本の本が多い中、些か古めかしさを禁じ得なかったもののしっかりした造作で、奥付を確かめてみると、何と日本製とあった。
 
 “ Printed by JAGRA,LTD.,Tokyo : Japan ”

 観光局や博物館の気付の刊行物扱いなので、しっかりとした印刷技術と何らかのオフィシャルな成りゆきで、わざわざ日本の印刷関連団体による印刷・造本となったのだろう。   
 著者の1927年インド生まれの米国人・ナンシー・デュプリー、今だ健在のようで、カブール大学のアフガニスタン・センターの理事を務めているらしい。
 ブログ見ると、1962年に外交官の妻として初めてアフガンを訪れ、数年後、アフガンを再訪した際、高名な考古学者ルイス・デュプリーと遭遇し恋いに陥って、前夫と別れ、一緒になってから、本格的にアフガニスタンの文化や歴史を実地で学ぶようになり、幾冊ものアフガンに関する著作を出版することになったようだ。内戦中は、ペシャワールで難民関係の仕事に就いていたらしい。
 カバーに著者ナンシーの写真がついてるが、ウィキペディアに掲載されている写真は随分と歳を喰っていて、年齢を計算してみたら90歳近かった。心底アフガンに憑かれたのだろう。僕等より一世代前の、まだアフガンにすんなりと入れていた時代の甲斐大策なんかその典型。僕等の世代の旅行者にもアフガン好きは多かったし、あれこれアフガン行を謀らんでもいた。

 当時、そのアフガンのガイド・ブックがなかった。
 《 ロンリー・プラネット 》のアフガン編が出たのは大部後で、しかしながら、このナンシー・デュプリーのガイドブック、あくまで文化・歴史(考古学)を基準にしたガイドブックで、各地の特産物の紹介はあるけど、旅行者の欲しがるアコモデションズ(宿泊・食事)なんかの記述はない。それでも、遺構の図版や庶民・景観のカラー写真を含めて500頁近い力作で、アフガンの地図を拡げながら、アフガン各地の文化や歴史的考古学的な四方山を一つ一つ辿ってゆくには恰好の一冊。(僕の場合、英語辞典も必帯だけど)


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2016年4月20日 (水)

艶陽天 CHAO CAFE

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 門司港にはトルクメン(新疆ウイグル族)料理を謳う《 グリシェン・カフェ 》があるが、今回、企救郡農民一揆衆が辿っていったルート(小倉)をチェックする途中で偶然見つけた、大通りに面した露地角に静かに佇んだ小さなベトナム料理の店、《 CHAO CAFE 》を訪れてみた。
 バスも頻繁に通り交通量も少なくなく、向かい側には小綺麗で大きなビル( 実は某大学校 )も立っているんだけど、何しろアベノミクス的帰結としての地方敗残化の波を受けて、活気ってものが消失していて、春の陽光燦々と注ぐ中、何とものんびりとした佇まいって訳で、確かに、モンスーン地帯のベトナム風味って、かえって違和感がないのかも知れない。


 この店も、ご多分に漏れず、そんな朽ち果てようとしていた老朽化した民家を改造して作ったもので、路地裏側の方にも、同様な仕様のカフェがある。只、《 グリシェン・カフェ 》が古民家ってのを強調しているのに較べ、こっちは普通に改造した店舗。
 店の背後の横丁周辺って、昼尚静謐って云ってもいいくらいに静かに朽ちゆく廃墟群が佇んでいる。僕的には、むしろそんな世紀末的な、否、ミレニアム的な光景を借景にして、殆ど人通りのない表側にテーブルを出したオープン・カフェなんかがリアルで面白いと思うのだが・・・。


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 店の外にも中にも、カラフルなランタンを吊している。
 スペースもテーブル数も《 グリシェン・カフェ 》と同じくらいで、壁には小サイズのモノクロのベトナムらしい写真をずらり掲げて雰囲気を盛り上げようとしているけど、《 グリシェン・カフェ 》ほどのこだわりは見られない。あくまで、ベトナム人女性が作るベトナム料理に主軸を置いているのだろう。オーナーの中年男性が一々説明をしながらの配膳。
 レジ脇の棚に、ベトナムの蓮茶なんかも並べてあり、サービス茶にも使っているようだ。
 

 ベトナム料理といえば、先ず《フォー》(米麺)で、鶏肉の《フォー・ガー》(720円)を注文。
 久し振りの生パクチーもレモンと一緒に別皿で運ばれてきて、テーブル備えつけのニョクマムとタイ製チリソースで味付け。同じ米麺のタイのクオッティヨとは又別様の風味が懐かしい。
 さすがに、本場ベトナム並に、別皿にハーブや何やらの緑野菜をてんこ盛にして出してくるって訳にはいかないようだ。日本じゃ価格的に無理なのだろうし、ハーブに慣れない日本人には却って余計に違いない。
 ハノイの旧市街で食べたフォーには、春菊が入っていて嬉しかったが、日本のベトナム・レストランなんかじゃどうなんだろう。 


 一応のメニユーは揃っているようだけど、甘味の方は殆どないようで残念。
 例のアルミ・フィルターのベトナム珈琲もあって、価格が少し高め設定なので、コンデンス・ミルクを使っているのかも知れない。今度は、フランスパンのサンドウィッチを試してみたい。
 専ら隣国カンボジアでばかりで、ベトナムじゃ喰ったことなかったけど。


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2016年4月 9日 (土)

小倉=長州・企救郡百姓(農民)一揆 ノート (2)

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 ( 城野の天厄神社周辺の街並み。農家風の大きな構えが比較的多い。)


 前回は、新道寺村から端を発した一揆衆が小倉城下近郊まで押し寄せてきて、鎮撫のため慶應二年の長州・小倉=幕府合同軍の戦いでも有名になっていた赤坂・延命寺に駐屯していた長州・維新軍の二個小隊(干城隊といわれている)が派遣され説得工作を試みたという経緯の内の、その長州・維新軍の隊長に関する曖昧さにちょっとに触れてみたのだけど、今回も、その周辺的な、と同時に、長州・維新軍と一揆衆が出会い対峙した場所について見てみたい。


 「 一方、紫川沿いを北上して、それから西進した一揆衆が、今村・到津・菜園場・荒生田(あろうだ)の各村へ行き、城野方面へ戻ってきたところで、門司半島をぐるりと一周してきた支流と合流しました。
 そこへ、長州藩兵を率いて赤坂村に駐屯していた谷干城が、その二個小隊を率いて、九右衛門らと談合に入りました。・・・」
( 義民・九右衛門と企救郡百姓一揆 著・田郷利雄 )

 

 この一揆に関してぼくが最初に目にしたものが、この著作(解説書)で、てっきり、小倉藩・幕府合同軍と長州軍の戦いでも要衝の地であった赤坂村(関門海峡に面した海岸付近)に駐屯していた長州維新軍干城隊が、城野(赤坂から直線距離で四キロ前後)近辺で、一揆衆(数千から一万人以上)と出くわし対峙したのだと解釈していた。
 ところが、他の解説や研究・論考の類に接するにつれ、この件でもやはり事はそれほど明快ではないことが分かってきた。


 「 新道寺村に於ける群衆は、・・・・・・山本村に達する頃は、時既に昼九ツ時、現今の十二時にして、惣(総)勢千数百人となれり。夫(そ)れより合馬、能行、長尾、祇園町、上南方を過ぎ、城野、今村両手永(手永=小倉藩の行政区画。)の人数に合し、志井村を経て、横代村に到りしは、夜の九ツ時(深夜)なりき。大庄屋廣吉次助の住宅は放火せらる。此(この)時赤坂延命寺に屯営したる山口藩干城隊二個小隊出兵し、言動最も叮嚀にして、百方説き諭し、群衆も亦之に服従し、暴行を停止す。 」

           《 企救郡誌 》 : 『小倉藩政時代記』 内山円治(石原町)

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 ( 竹馬川。全長10キロと短く、標高約500メートルの足立山に源流があるらしい。クリックで拡大。パノラマ仕様 )

 城野は、小倉城から直線距離で3キロ、赤坂から5、6キロぐらいの位置にあって、横代は更にそこから南東に2、3キロ下った一帯。現在でも森林地帯や田畑が多く残っていて、真ん中を周防灘に注ぐ竹馬川が流れている都市部と農村との境に位置する郊外エリア。東には、新道寺より先に蜂起したらしい津田・長野エリアが控えている。
横代の大庄屋・廣吉次助って長州・維新軍と癒着して悪名高かったようで、一揆衆に屋敷を焼き払われ灰燼と化してしまった。
上の内山円治の時代記に限らずぼくが目にした関係著作の殆どが城野じゃなくて、横代を長州・維新軍と一揆衆が遭遇し対峙した場所と認定している。但し、同じ横代にしてもかなり幅がある。一万数千人といえども、精々が月明かりと松明を頼りした真っ暗闇の田園地帯の移動故に、明確な把握は難しいかったのか。それでも、村々の庄屋屋敷・役宅を襲っていったのだから、正確は無理でも、おおよそは可能だろう。最も、江戸末期をそのまま踏襲した明治初期、それもドサクサ故に、細分化された地域名なんてまだなかったのかも知れない。
 前回引用した高瀬日記(著・伊藤保親筑=筑前秋月神主)にはこう認められている。


 「 十九日夜半 
  蜷田の方に戦備を整えたる長州方より 大石雄太郎現はれ 一統に向かつて
  漸々理解を試み 犯罪者を出さず 円満に始末すべしとの事と成り 一統も一応引き  上げた 」


 蜷田(になだ)は、横代と城野の間のエリア。
 そして別の解説書の次のような記述もある。


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( 竹馬川の支流・稗田川)


 「 明治2年11月19日のお昼頃には石田から志井・堀越・横代に到着して、・・・」


 「・・・このようにして一揆は企救郡全体に波及拡大したため驚いた長州藩の民生取捌所( 撫民局=占領軍の民事行政総括所 )は19日の深更( 夜十二時頃 )鎮撫のために出動して説得を始めました。最近、当時の長州奇兵隊士官の写真が発見されたそうですが、それには五番砲隊の隊長『 大石雄太郎 』という人が写っていました。深夜の横代原( 当時は広かった竹馬川の川原か、またはその周辺の広場、現在の農事センター辺りではないかとは地元の人の話 )に集結した一揆の面々を前に『 皆の願いの筋は必ず山口の藩庁に伝え民を助ける民生に務める 』 旨云い含めて『 今夜は解散してそれぞれ家に帰るように 』と説得したのがこの大石雄太郎でした。」

《 新企救風土記 》 松本洋一 : 『 企救郡百姓一揆 』 その3

                  
                  
 長州維新軍・干城隊とは、小倉(企救半島)を占領した長州藩の民生取捌(とりさばき)所管轄の治安軍ということになるのだろう。単純に占領軍という訳じゃなかったようだ。それはともかく、川原というからには護岸はされてなかったに違いなく、現在の農事センターの位置から竹馬川って200メートルくらいの距離で、この辺り支流の稗田川も流れ込み、長州・干城隊って竹馬川(あるいは稗田川)を越えて一揆衆一万数千人に対峙したのか、それともひょっとしてその川を挟んで向かい合ったのだろうか。当時は定かでないが、現在は当然コンクリ護岸を附された川幅30メートル(下流だともっと広いようだ)あるかないか。
 焼き払われた大庄屋・廣吉次助の屋敷は、そこから4、500メートル南の(現)横代口付近、現在は横代市民センター辺りにあったという。この横代口から南方には、もう田園風景が広がっている。


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( 広い敷地の横代農事センター。一揆衆が合流し気勢をあげ、長州軍と対峙したといわれる。)

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 ( 田園地帯との境に佇む横代市民センター。一揆当時、大庄屋・廣吉次助の屋敷があった辺り。)   

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 ( 横代口。すぐ向こうは田園地帯。一揆勢もそこから横代に入って来たのだろうか。
奥に覗けるTOTOの工場の建物の向こうはもう長野エリア。津田・長野の一揆衆が結集した護念寺は現在でも静かに佇んでいる。横代口から護念寺まで直線距離にして約2キロと意外と近い。)

この時の情景を描いたものがあった。
 佐野経彦(明治13年小倉で創始した神理教の教祖。著作も多いらしい。)が認めた《 菊の野分 義民原口九右衛門伝 》。


 「・・・横代原には、木蔭を便りて、鯨波(げいは ; ときの声)を作りて待受けるに、本陣(長州・維新軍)勢は喇叭(ラッパ)笛太鼓の調子をそろへ、下原へ勢をそろへ、 物になれたる大石雄太郎は、小隊を並べ、一揆にむかへ、一度に空砲を発したるに、音山にひびき、山彦にこたえ、小鳥寝ぐらを放れて立さわげる羽音、空らをぞ轟かしつける。此の時大石雄太郎は小隊より離れ、半丁許(ばか)り前に踊り出て、筒を止めさせ、小旗を捧げ、踊り出、一揆の御百姓へ申、身は長門国山口の士族、止む事なき訳より、当地に渉り、小笠原家の領地をおかせしに非ず。諸国の兵毛利長門守御親子に罪無きを作り、攻寄て討亡ぼし、此日本を外国人に踏汚させむとせしより・・・
 ・・・願の筋は聞届けた。此大石が身を投打て、願申。許多の人数はいらぬ故、思のまま仮名にてよろし、一ツ書にして、差出されよ。今日の出来事、頭取、組長の決して調べの無きやうに願置きと、物和かに諭されければ、大方郡中の一ツ集り、幾千人の其中より・・・」

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 ( 横代農事センターの脇を流れる稗田側の支流。それとも疎水? )  

 「筒を止めさせ」は、大石が大砲隊の隊長だった事もあって空砲とはいえ大砲を撃ったのかと驚いてしまったが、一揆農民勢側は精々が竹槍や鎌の類、おまけに殺傷沙汰は起こしてないのも承知していたろうし、四民平等を謳った“ ご一新・維新”であってみれば、まずあり得ない。とはいえ、長州軍が小倉藩・徳川合同軍と戦った所謂長倉戦争から3年くらいしか過ってなく、長州軍はそのままずっと居座り続けていたので、部隊構成に変化がある可能性は少ないと見るのが常識的だとすると、戦争体勢は取らなかったにしても威嚇用として一丁くらいは大砲を引いて来たのかも知れない。基本は鉄砲だろうが。
 佐野経彦のこの書は、佐野自身が直接見たものでなく、目撃者たちから聴いたものを元に書いたようで、ブログかなんかで、記憶違いなんかもあるらしいということであったけど、中々臨場感があって面白い。尤も、抜粋箇所を読んだだけで、文献そのものは未読。

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