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2016年5月の2件の記事

2016年5月21日 (土)

生き辛い女達の戦後的ゆらぎ  原節子 《 めし 》 (1951年)

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 この林芙美子の原作《めし》は、1951年(昭和26年)、《朝日新聞》に春から約三ヶ月連載され、途中で芙美子が急逝し絶筆。川端康成や脚本の井手俊郎、田中澄江等の手によって改編・完結の体裁を経て、同年東宝で撮影。
林芙美子・成瀬巳喜男シリーズの第一作。
 主演の原節子、この年、松竹で、話題になった黒澤明監督《白痴》、小津安二郎《麦秋》を既に撮っていて、久し振りの東宝作品。

 
 舞台は同時代の大阪。
 成瀬の大阪ものは初見で、主演の原と上原謙は、周囲の反対を押し切って結婚し東京からやって来た結婚5年目の夫婦という設定。
 モノクロに溶けた大阪の、そして列島中まだまだ何処にでもあったろう、大正・昭和の時代の木造町屋の朝の光景からはじまる。
 二人の家の台所には、かまどとアルミ薬缶という前時代的産物で占められている。
 氷式の冷蔵庫もガス・コンロも見られない。ラジオすらあるかどうか定かでない。それでも当時としては中流下層くらいの生活レベルであったろう。
 早速、妻・原の諦念めいた独白が流れる。

 
 あの頃わたしを支えていた希望や夢は
 一体どこにいったのだろう。

 一年365日
 同じような朝があり
 同じような夜がくる。


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 のっけから、マンネリズムと夫婦間の関係の希薄化による倦怠期的様相を呈しがらも、その実、空虚という、すぐれて“戦後”の、基本的命題ともいうべき実存の問題。
 そこから飛び立とうとしての女の自立。
 それを、アンニュイなまでにのどかな朝の光景から、ゆったりとした原のナレーションで畳みかけてくる。

 円卓(ちゃぶ台)でタバコを吸いながら新聞記事に余念のない夫・上原をよそに、先ず、愛猫のユリに削り節(鰹節)のエサをやってから、待ちくたびれた上原とのみそ汁の簡素な朝食。
 茶碗によそった米飯(めし)に、そっと鼻を近づける。
 当時、まだ米の生産が不十分だったのか、外米(恐らく、タイはじめ東南アジアの米)を使ってたようで、和米とは異質の匂いに馴染めないのだろう。( 明治維新の初期から、もうこの国は、米事情が芳しくないと、東南アジア諸国の米を大量に輸入してきた。 )
 その原の外米臭の問いかけにも上原は応じる素振りも見せず、新聞に没頭したまま。
 うんざりして原は、食事中に新聞を読むことを諫める。
 嘗ては(否、現在でも)、列島中で見られた朝食光景に過ぎなかったろうが、新婚の頃なら考えられもしなかった小さな円卓を囲んで互いに面と向き合って会話をすることすら少なくなってゆくことへの失望。実存的焦燥と不安。

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 上原を送り出し、近所の住民と世間話を交わしていると、ひょっこり東京から家出して来た上原の姪の里子(島崎雪子)がすらりとした肢体に小さなボストン・バックを片手に現れる。
 そこから、マンネリズムに沈溺した日常に徐々に波紋が拡がってゆく。
 何日も長居してなかなか帰ろうとしない里子に、経済的逼迫、そして夫・上原と里子の仲に対する疑念等の軋轢が主婦・妻=原を攪乱し、二人に怒りの念すら抱いてしまう。
 アンニュイなはずの日常が、パラパラと足下から崩れ落ち始め、しかし原は、夫婦仲の再構築とは真逆の、自らの自立の途へとひた走ってゆく。


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 東京へ向かい神奈川の実家に戻ってしまう。
 適当な仕事にありついて一人で生きてゆこうとの算段だったものの、実家の空気は。意に反して、むしろ彼女に帰阪を促す。それでも川崎の職安に赴いてみると、建物の外までずらりと男女の失業者の列が群れをなしていた。思わず呆然としてしまう。その際、偶然再会した嘗ての友人の戦争未亡人も、

 「あと二ヶ月で失業保険が切れる」

 と、子供を抱えて女手一つで生きてゆくことの艱難辛苦を嘆いてみせる。
 この時期、日本列島は、戦後不況の最中、隣国朝鮮半島での米ソ冷戦構造的一環としての朝鮮戦争で、降って湧いた軍需景気ににわかに活気づいたはずが、冒頭シーンの大阪の二人の家に闖入してきた手かご二つの野菜売りのおばさんも、
 「主人がまだブラブラしている」
 と、不本意な物売りをつづけねばならぬ原因を愚痴ってみせていた。
 終盤、件の友人が駅前の路上で露店の新聞売りをしているのを見つけ、暗澹としてそこに明日の自分の姿を視てしまう。寒々とした現実に、“生きよう”とする原の決意・思惑は打ち砕かれそうになってしまう。否、その後の展開からは、打ち砕かれてしまったのだと解釈するのが自然に違いないけど、そこが突然の絶筆の為せる業で、当時、様々な結末的解釈が跋扈し喧しかったらしい。


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 結局、仕事の都合で、と称しながら迎えに来た夫の上原と共に、原は帰ることを選んだ。萎縮し、退嬰的感情にすっかり足下をすくわれた原は、楽天的な上原との慣れ親しんだ元の生活に戻ってしまうのだろう。
 まだまだ女の自立には時期尚早だったのか、苦杯を舐めて原は、しかし、すんなりと元の鞘に収まれるのだろうか・・・


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 この映画、思わぬ人物が出演していた。
 大正・昭和の作家・大泉黒石の息子・大泉滉だ。
 俳優なので映画に出てて当たり前じゃあるけど、成瀬の作品に出ていたとは思いもしなかった。
 大泉滉=大泉黒石といえば、林芙美子と些か接点のあった家族でもあった。
 大泉滉もだろうが、それ以上に滉の姉の淵(えん)が、林芙美子に養子話が出るくらいに可愛がられていた。
 親爺の黒石の方は、終戦直後の進駐軍の通訳も辞めて、既に山奥に隠遁してしまっていたのか。戦前子役をしていたらしい滉は、再び俳優稼業に舞い戻ったってところなんだろうが、飄々として若々しい。気の良い遊び人風って役柄がよく似合っている。
 尤も、これはつい最近知ったことだけど、黒石も、嘗て大正末に、日活から一作だけ、あの溝口健二と協働で映画作品を創っていた。《 血と霊 》なるドイツ表現主義的な、当時としては前衛的な意匠の下で作られたものという。但し、如何消失してしまったのかフィルムは現存してなくて幻の作品となっているという。


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2016年5月 7日 (土)

大正・昭和モノクロ的青春残酷物語 : 放浪記(1962年)

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 これまで観ようと思ってなかなか観れなかった監督・成瀬巳喜男&高峰秀子の《 放浪記 》(林芙美子・原作)、ようやくyou tubeで観れた。
 成瀬・高峰コンビといえば、同じ林芙美子の《 稲妻 》(1952年)や《 浮雲 》(1955年)が有名だしボクも気に入った作品だけど、他にもまだ林芙美子原作の《妻》(1953年)、《晩菊》(1954年)等があるようだ。成瀬+林芙美子に《 めし 》もあるが、これは主演が先だって亡くなった原節子。
 この《 放浪記 》、てっきりこの成瀬の作品だけと思ってたら、既に戦前の1935年にPCLで監督・木村荘十二と夏川静江のコンビで作られていて、戦後1954年にも監督・久松静児と角梨枝子のコンビの東映作品があったという。


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 モノクロの成瀬世界・・・観はじめてすぐに気づいたのは、主演の高峰秀子、随分と役を作ってて、顔の造作って云っていいくらいに表情を作ってるってことだった。よく作者の林芙美子にクレームをつけられなかったものだと感心してしまった。尤も、この頃芙美子はとっくに他界していたけど。
 恐らく、整った風貌のままの高峰じゃ、幾ら演じたところで、芙美子の居直ったような破天荒さを出せないと案じての造作だったのだろう。
 けれど、美貌の高峰の、両眉の下がった竹久夢二の描く女たちにも似た気怠さを漂わせた造作ってニュアンスもあったとしても、観客達は、生理的と云ってもいいくらいの感覚的な違和感を覚えてしまったに違いない。何よりも観客は、美貌のヒロイン=高峰秀子、あるいはいつもの高峰を観たかったのだろうから。 
 で、案の定、当時、それが故にか、余り興行成績は芳しくなかったようだ。
 無論、興行成績と作品の質・魅力は別なのは言を待たないが。 

 森光子の劇場版《 放浪記 》の方は超ロング・ラン作品で有名で、昨年その後を受けての仲間由紀恵の舞台《 放浪記 》の方は、どうも高峰と同様、美貌女優ってところで、評判今ひとつだったらしい。まだ若い仲間由紀恵のすらりとしたあの肢体と容貌で、森光子と同様なそのままの演出と役作りしてたんじゃ、確かに懸隔があり過ぎて、違和感ハンパ無いって奴だろう。
 つまり、高峰が、スクリーン上で極端に作った芙美子じゃなく、普段のままの高峰の相貌で演じたとしても、やっぱし、観客は、違和感を覚えてしまったに違いない。
 勿論、作者・林芙美子の実貌に拘る必要もない。けど、《 放浪記 》の面白さ・魅力って作者・林芙美子のキャラクターと不可分なのだからってところでややこしくなってくる。美形女優にはやっかいな役なのかも知れない。


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 冒頭の、町外れの街道をまだ幼い芙美子と行商の両親三人がトボトボ歩く姿は、ふと高峰三枝子主演の《按摩と女》(監督・清水宏)や、少し毛色は異なるが韓国・パンソリの旅芸人親子の遍歴記《西便制ソピョンジェ》( 監督・林 權澤)を想起させる。
 林芙美子の放浪人生の源点なのだろう。
 


さいはての駅に下り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入りにき


雪が降っている。私はこの啄木の歌を偶(ふ)っと思い浮かべながら、郷愁のようなものを感じていた。 
林芙美子《 放浪記 》(新潮文庫)


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 戦後の作品だけど、戦前の場合によっては明治・大正の頃のものも混じっていたろう行く先々の町の佇まいがモノクロ的陰影に映え、やがて成長した芙美子=高峰秀子の登場となる。ベテランの加東大介に、当時新進気鋭の仲谷昇、宝田明。後者の二人の若い時の演技って初めてお目にかかった。
 確かに若々しい。
 仲谷・宝田ともに喰えない文人で、芙美子がミルク・ホールの女給をしながら支えてやってたのが、結局ウザがられ捨てられてしまうってお決まり。後年チャラいイメージの強かった宝田明も、うだつの上がらぬ作家然とした鬱屈した演技で悪くはない。
 平成の現在でも、似たり寄ったりの泡沫的あるいは青春残酷物語的カップルは無数に居て葛藤・愛惜悲惨を繰り返し続けているのだろう。

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