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2016年6月17日 (金)

小倉=長州・企救郡百姓(農民)一揆 ノート (3)

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  《 義民・九右衛門と企救郡百姓一揆 》によると、前夜、庄屋・村役人(長州藩)との談判が決裂したため、翌明治2年11月18日早朝、田圃のど真ん中にポツンと佇む新道寺の天疫神社に集まっていた同村の一揆衆に、周辺の石原町、高津尾、井手浦の一揆衆も加わって、筵(むしろ)旗を先頭に、一路、小倉本陣(慶応2年から長州藩が支配)へ向けて田川街道(秋月街道)を北上するのじゃなく、逆に、南下したという。
 勢いのまま小倉本陣まで雪崩をうって突っ走ってゆくのが一揆だと単純に思い込んでたら、当時企救郡、ひいては小倉藩中に怒りと憤りがくすぶ゛り溢れていたのもあってか、あるいはひょっとして、慶応2年の長州・小倉(幕府)戦争に触発され蜂起した小倉藩・京都(みやこ)郡周辺の農民一揆の際、鎮圧の小倉藩軍によって一揆衆の幾人かがあるいは銃殺されあるいは斬首され通りに晒首になった生々しい記憶が残っていてその反省もあってか、出来る限りの村々の農民の糾合を目し、一つ一つ村々の庄屋や村役たちの屋敷を打ち毀し焼き払いながら、勢力を増やしていったようだ。意外と冷静。
 
 
 「 天疫神社に会した新道寺・石原町・高津尾・井手浦の四村の百姓衆は、九右衛門・治平・新蔵を囲むようにして、やがて、田川街道を呼野に向かって南進し始めました。木下村・市丸村・小森村を通るにつれて百姓衆の合流が増え、三百を軽く超えていきました。
 一揆勢は、その後、呼野から、頂吉・中谷の両村を通過し、正午頃には山本村に達し、人数は数千とふくれ上がりました。・・・」   


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 この、呼野→頂吉(かぐめよし)→中谷というコースを見た時、この辺りの地理に詳しくないぼくは、グーグル地図を参照し、殆ど山林ばかりの頂吉を、現在でこそアスファルト路も通っているけど、幕末の余燼くすぶる明治初年頃にまっとうな道路など整備されていたとは思われず、頂吉の農民を糾合してそのまま踵を返し、元来た田川街道を戻ってどんどん北進していったのだろうと決めつけてしまったものの、中谷ってのが単なる地名じゃなく、ある長さを持った谷筋でもあるのを知って、ようやく当時は険しかったろう頂吉エリアを貫通する山道を通って、道原→山本→中谷(村)へと下っていったってことが了解できた。

 この辺り、明治の中頃、新道寺や石原町の比較的広い平野の拡がる東谷と、この頂吉の峠から狭い山間を縫って道原・春吉・中谷に続く中谷、辻三・合馬の西谷と三つのエリアに行政区画的に再編成されたという。只、それ以前、つまりこの一揆の頃、少なくともそれぞれの谷筋的な呼称・区分が先行して流布していたのかどうかは定かじゃない。
 “中谷”ってところに如何も引っかかりを覚えてしまうのだけど、それはともかく、その険しい山道を通って幾百人もの一揆衆が長州藩本陣のある小倉目指して邁進しつづけた。


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  ( この山間に隠れるように頂吉の集落はある。)


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 ( かつて一揆衆はこんな山間の路を通っていったのだろうか )
 

 その頂吉(かぐめよし)を確かめてみようと、一時間に一本の、《 田川・後藤寺 》行快速バス(西鉄)に乗ってみた。
 小倉駅辺りから、一時間ちょっと。
 快速とはいっても、殆ど各駅。
 古の秋月街道の上を走ってゆくのだけど、これって、嘗て、慶応2年、関門海峡を渡って攻め込んできた近代装備の長州軍にあれよあれよと押しまくられ、小倉城を自焼し、幕府合同軍ともども、脱兎の如く逃げ出した小倉藩の侍・偉いさん達が、隠し持っていた大量の金塊を馬車に載せて走り去っていった敗退の道でもあった。小倉城下の町民達すらもが大八車に家財を満載して追従し、当時、この街道は、正に敗残ラッシュだったという。
 
 
 平日の午前だったが、乗客は疎ら。
 市街地内を走るバスは総じて年配者で埋まっているけど、この筑豊エリアになる田川・後藤寺行快速バスはのっけからせいぜい5、6人。
 バス・センターのある中谷あたりから、景色は田園地帯のそれに変わりはじめた。
石原町に入ると、もう通りに面して農家が並び、呼野から先は、勾配も急になり、左右に民家が殆ど見えなくなって、突然山間の幹線道路の一角に停まった。
 《 頂吉越 》と表示されていた。
 頂吉(かぐめよし)のエリアは、その広い幹線道路を跨いで渡った先から。


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 バスの向かった先数十メートルのところ、ポッカリ峠の土手っ腹に穿たれた金辺トンネルを尻目に、その秋月街道=国道322号線を渡って、頂吉峠へと向かう。片側一車線のアスファルト路の両側には山林が迫り、背の高い竹林が風に大きく揺らいでいた。
 幾重にもくねった山道をのぼり、そして下りはじめたところに、地図じゃ、《 高倉神社 》と記してあったのが、完全な廃墟が静かに横たわっていた。入口の石鳥居に続く石段の上に倒れた木の枝やらが瓦礫のごとくうずくまり、境内一面雑草が生い茂っていた。それでも、奥の祠には、時折誰かが捧げるのか供物の果物が妖しく電灯に照らし出されていた。
 これから訪れるはずの頂吉村の命運を物語っているように想えてしまった。


 ところが、実際に、先ずは上頂吉の方に踏み入れてみると、幾軒かの小規模な耕地と農家がひっそりと佇んでいるばかり。むしろ、山村と呼ぶのが似つかわしいくらい。中には戦後農家の定番、嘗ての茅葺き屋根をトタンで覆った独特の屋根も。
 細い舗装路を進んでゆくと、路上に何塊かのウンカ(浮塵子)の類が揺らいでいた。傍に寄ると何とも禍々しい大きな黒っぽい蚊の群。思わずのけ反ってしまった。片手で払いながら先へ進んでいくと、丁度のアングルに農家が見えたので立ち止まってカメラを構えた。ふと見ると、カメラを持った手にそのごっつい大きな蚊が手に止まっているではないか。慌てて、大きく手を打ち振った。運良く刺されはしなかったものの、とんだ洗礼だった。
 途中少年がトコトコで出てきて物珍しそうな眼差しで挨拶をしてきたぐらいで、片側に水路の流れる舗装路の先は無人の山中に分け入ってゆく細路となっていた。


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 その上頂吉から一般道を下ってゆくと左の藪の向こうに、嘗ての頂吉村を水没させて造った貯水池→ダムに連なる緑に映えた水面が覗けるようになった。その水面の底に水没した頂吉村・・・規模は比較にならないが古くはエジプトのナイル上流のアスワン・ハイ・ダムや中国・長江の三峡ダム、国内じゃ《蜂の巣城》事件で有名な下筌(しもうけ)・松原ダムなんかが思い出された。果たして、ダム建設=頂吉村の水没の際、《蜂の巣城》なみに揉めたりしたのだろうか?
 ネットを見ると、そもそもは明治後期、九州の玄関口、同じ企救半島のつけ根と先端の位置関係にある、国策的一環としての国際港・門司港の水不足解決のためにダム化が企図されたものという。一揆の来た途を今度は水が流れてきたという訳だ。
 因みに、この頂吉近辺の山間を水源とする水は良質で、戦前から門司港で給水した外国船でも評判がすこぶる芳しいものであったという。 

 やがて雲がちな空を写して青灰色に映えた水面がシュールなくらいに静寂に包まれたに鱒淵(頂吉)ダムの姿が現れた。たいして大きくもないダムだけど、遠くに真紅の橋が覗けていて、一層シュール感を醸し出していた。


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 そこをどんどん下りつづけて、ようやく下頂吉の集落に到着。
 上頂吉と変わらず10軒あるかないかの小集落。嘗て一揆のあった幕末・明治維新の頃には、山間の集落といえども頂吉村全体で100戸以上あったという。こんな小さな集落でも、他の村々同様遺棄された廃墟が横たわっていた。
 集落に少し入ったところにある新四国霊場の札所《念佛寺》の小さな祠堂の石段に坐り込み、本道から分かれ下頂吉に伸びた前の舗装路の路傍に生えた菖蒲の紫花を眺めながら、持参のパンを囓りかじり、この頂吉村や隣村道原に平家の落人たちが隠れ棲みつき現在でもその末裔達がひっそりと暮らしているという話しを聞くにつけ、頂吉村の人々の悲喜こもごもに想いを巡らせてみたり。
 
 が、集落の奥まで歩いてみると、最後の民家の背後に、威圧するように大きく聳えた最前の《鱒淵ダム》が灰色の要塞の如く立ち塞がっていた。到底、山間の隠里の趣きとは云い難く、まぶしく緑に映えた雑草を刈る草刈機のモーター音が、そんな一抹の追慕と相俟って、明治維新以降150年後の平成末的風景として揺らいでいるのであった。


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