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2016年9月26日 (月)

あれからシリアはどうなってしまったんだろう? 

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 ( 洗礼者ヨハネの生首が隠されているといわれるウマイヤ・モスク ダマスカス)
                                                                       1993年の5月の下旬、まだ、シリアが隣国ヨルダンとは仲が悪かったので互いの国境を通過して入国するってことは出来ず個人旅行者たちは煩雑なルートを余儀なくされていた頃で、それでもトルコ西部アンタクヤからすんなりシリアへバスで入れた。
 当時は、まだアサド(父親のハーフィズ)独裁政権は安泰だったようで、国内のあっちこっち、トルコのアタチュルクと同様、アサド大統領の写真がこれ見よがしに掲げられていた。独裁政権故に、反政府勢力との軋轢そしてやがては内戦は論理的帰結ってやつだろうけれど、当時はシリアの政治状況に疎かったてのもあって、到底国を二分にして焦土と化してしまうような内戦状態になるとは予想もできなかった。
 現在の、息子のアサド(バシャール)大統領の治世になっての内戦も、ありとあらゆる外国勢力の干渉・工作が一層事態を複雑化し、し烈化させ、あげくIS(イスラム国)まで参入しての混沌ぶり。住民の半数近くが避難民と化している、って話しもあるらしい惨澹。


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 ( アレッポのホテルの名刺 ・・・ここに泊まったのかは定かではない )


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 ( アレッポの市内 )


 1993年5月の下旬、トルコ西部アンタクヤからシリアに入ろうと、アンカラのオトガル(バス・ターミナル)でアンタクヤ行のバスを探したが、すべてのバス会社が4日先まで“フル”だった。ともかくつまらない町アンカラで、後4日も待つなんてありえない。
 で、すぐ近くのコンヤの町に突っ走った。3時間で60000TL(トルコ・リラ)。
 着いた先の小雨まじりのコンヤのオトガルで、HASというバス会社のアンタクヤ便が見つかり、高いと思いながらも外に手段はなく、130000TLも払った。
 夜の10時半発、真夜中の2時頃叩き起こされ、手に小さなパック・ジュースを押しつけられた。山々を越えようやく左手に朝陽を見遣りながら国境の町アンタクヤに到着。
 すぐアレッポ(HALEP)行のチケットを買う。
 たった3時間の距離でしかないのに100000TL。
 法外ものだけど、外のバス会社も同じ。ちょっと時間があったので、市内をぶらついてみたら、チャイ屋の数が本当に少ない。異様なくらいチャイ屋と少年の靴磨きが溢れていたイランからトルコに入ってすぐのクルドの町ドゥバイヤジットって、トルコじゃ例外的存在だったのが分かった。現在はどうなってのか定かでないけど、当時は本当に異世界とクルド的現実の混淆・溶融した正に境界世界的な風光明媚さが漂っていた。
 10時頃出発し、ボーダーで大部時間を喰ってしまったが、シリア側のイミグレの建物の中に銀行があって、100ドルを両替。1ドル=42シリア・ポンドで、計4200ポンド。闇なら1ドルが50までゆくこともあるらしかった。


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 ( ウマイヤ・モスクの脇の骨董品屋の名刺 )


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 ( ダマスカスのバザール )


 アンタクヤまでは当時の日記があったけど、丁度そこで紙数が尽き、後はシリアに入ってから、適当なノートを買えばいいと思ってたら、結局これといったノート類も見つからず、メモ帳に必要事項なんかを記すだけになってしまった。ところがその紙片、いつの間にか紛失してしまって、記憶に頼るしかないのだけど、20年以上も前の、とくに二日ぐらいしか滞在しなかった古からの商業都市アレッポに関しては、泊まった安ホテルの名前すら覚えていない。
アレッポのホテルの名刺は一枚持っているんだけど、それが泊まったホテルのものか自信がない。
 色褪せ朽ちた感じの中庭のある旧い佇まいがゴシック・ホラーの舞台にぴったりのそれなりの広さのホテルだったのだけは記憶にある。オーダーすると部屋まで運んでくれたアレッポ風の朝食も喰えた。
 思ったより庶民的な旧く薄暗くて細長いスーク(市場)も悪くなく、ただ、ビザの期間が短いので長いが出来ないだけで、本当はもう少しゆっくり観て廻りたかった町であった。
 何年か前にも日本人女性記者が死亡してたらしいアレッポはそもそも昨今激戦地のようで、ネットの最近撮られたアレッポの市街写真を見ると、もろ戦火の真っ只中といわんばかりの惨澹たる廃墟群・・・嘗てのアフガンを見る想いがする。

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 ( 泊まったホテルの近くの博物館のチケット。さすがだな、と思わせた。 )


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 ( ホテル近くの路地裏 )

 
 アレッポからはダイレクトに、紀元前から“アル・ファイア”(アブラハムの時代)と呼ばれた四千年都市であり、中東の真珠とまで賞されたい古都ダマスカスへ。
 何しろ、バベルの塔を想わせる中腹までびっしりと民家で埋め尽くされた砂礫の、カインとアベルの原初(ユダヤ・キリスト教世界における)殺人事件物語の舞台となったカシオン山や、妖女サロメに求められ切り落とされた洗礼者ヨハネの生首が隠されているという伝説のウマイヤ・モスクが当時(その頃は、ローマ神殿だったのか)から延々とそこに佇み続けているのだ。
 王宮の背後に、イランやトルコ、パキスタンのどの国のモスクとも相貌を異にするウマイヤ・モスクは、正に異貌のモスクの感すらあって独特の神秘的雰囲気を漂わせていた。信者・観光客も少なくなかった。ローマ、キリスト、イスラムの三宗教の寺院として君臨してきたのだから、きっと地下には、相応の秘められた諸々が埋伏されているに違いない。
 
 オープン・カフェが如何にも中東、それもその中心地・ダマスカスって感じで、水パイプやバック・ギャモンに興じるターバン、白長衣の現地人たちに混じって、それぞれの会話に余念のない白人風って皆胡散臭く、皆何処かの国のスパイかなんかに見えてくる。ぼくもその中に混じって、背後間近に聳えた砂礫のカシオン山を見遣りながら、旧約世界に想いを馳せ一人悦に入ったものだった。

 宿はオトガルに比較的近い“サラーム・ホテル”。                 
基本現地人向けの安宿で、プノンペンのキャピトル・ホテルと同様、建物全部じゃなくて、その一角を占めているだけ。皆フレンドリー。ドミトリーは四人部屋で、窓の外に狭い庭があって、ビワの樹が一本生え、オレンジの実がなっていた。
 ドミの泊り客は米国人やまだエチオピアから独立したばかりの出稼ぎのエリトリア人等。廊下にストーブが置いてあって、隣国ヨルダンの首都・アンマンが冬寒いのは知ってたけど、改めて驚いた。入口脇のレセプションに客用の冷蔵庫があり、大抵の泊り客(現地人)は水を入れていて、コーラやなんかを入れているのは外人ぐらい。
 すぐ隣のリビング・ルームじゃ、備え付けのテレビで、現地人たちが日本の“風雲たけし城”を嬉しそうに観ていた。現地語のナレーションが入っていて、人気番組のようだった。    
このホテルは、安宿の多いらしい旧市内じゃなく、新市街の方で、すぐ近くに博物館なんかが並んだ、しかし、大通りからちょっと入った横丁にあって、近くのマンションかアパートに住んでいるナウくカラフルな衣裳に身を包んだ少女たちの艶やかさには思わず目を見張ってしまった。それに較べ、少年たちのだささといったら。この極端な落差って何なんだろう。   
 壁面が高くなるにしたがって両側から通りにせり出して作られている建物の間、つまり路地に一歩分け入ると、もうそこは四角い台車いっぱいに色鮮やかなアプリコットやビワ、サクランボの実を満載した物売りなんかが、ちょっとひとつ喰ってみろ、と人懐っこくすすめてくる路地裏世界。やっぱり、インドでもそうだけど、中東世界も石造りの路地裏世界が蠱惑的。
                                      
宿のすぐ近くにあったバザールや住民たちって、今頃どうしてるんだろう。     
 まだ同じ場所に同じ佇まいで存在しているかどうかも甚だ疑わしく、当時少年だった者ももう子供がいてもおかしくはない大人のはずで、フランツ・ファノン以来半世紀近く過って、尚も解放・自由への途は遠いようだ。


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