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2016年10月の2件の記事

2016年10月24日 (月)

大泉黒石+溝口健二=血と霊(1923年)

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 先だってネットでめったにおめにかからない大泉黒石に関する記事があって、確かめてみると、何と大泉黒石が原作の映画に関する論文であった。
 マジ? と、驚き、更にその映画のメガホンをとったのが、誰あろう溝口健二とあって二度びっくり。
 映画のタイトルは《 血と霊 》。
 その黒石の原作もその一つとして小説集が出されていたという。
 その短編集の目次には、知っているもの、既読のものも含まれていたけど、《 血と霊 》はまったく未知の作品で、その次に映画化される予定であったらしい《 絨緞商人 》は《 黒石全集 第7巻 》に入っていたものの未読。


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 ( 大泉黒石 。誰にそそのかされたのか、俳優としてデビューしようとして日活にアプローチしたという。)

 
 このサブタイトルが同じ“――大泉黒石の『血と霊』――”なる中沢弥の二篇の論考、一作目が《分身と憑依》(1999年)で二作目が《遺伝と感応》、小論ながら、周辺的なところをよく調べていて色々参考になった。
 その流れで、映画評論家・四方田犬彦すらもこの映画を、溝口健二と大泉黒石の両面からアプローチした評論《 大泉黒石と表現主義の見果てぬ夢 ――幻の溝口健二『 血と霊 』の挫折――》(月刊新潮 2015年9月号)を発表していたのを知った。
 この四方田の雑誌にしては長目の論考の冒頭、2007年1月に東京・パルテノン多摩で、とっくにフィルムの消失してしまったこの幻の映画の、数少ない残存スチール写真やシノプシス(あらすじ)等を総動員して復元を試みた企画があったことを紹介している。1923年(大正12)の無声映画作品だった故に、活動弁士とピアノ伴奏まで駆使したものだった。


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 ( 映画「血と霊」のスチール写真 )
 
 
 ぼくも以前このブログで、中薗英助の《 何日君再来物語 》の絡みで、1939年の中国映画《 孤島天堂 》(監督・蔡楚生)の何者による如何なる意志の下にか定かではないけれど、珍妙な風に前後関係を編集し、あるいは主演の黎莉莉が、当時上海・中国で流行っていた“何日君再来”を唄ったシーンが消去された不可解極まるフィルム構成を、せめて前後関係でもってところで再構成=復元を試みたことがあった。この時は、まがりなりにも一応フィルムは欠落巻はともかく存在しビデオにすらなっていたので可能だったけど、その肝心のフィルムが無いとすると如何ともし難く、スチールとシノプシスや原案たる黒石の同名小説を頼りに復元・再構築してゆくというのは本当至難の業。要は“群盲象をなぞる”の類だからだ。

  
 大正12年(1923)というと、黒石の全盛時代、現在じゃ名監督の一人として名高い溝口健二はこの年にまだデビューしたばかり。いわば日活(向島)の期待される新進気鋭の新監督ってところ。折から、二年前1921年に公開され映画関係者に強い衝撃を与えたドイツ(表現主義)映画《 カリガリ博士 》の余韻がようやく国内映画関係者の間で熟成しはじめ自分たちの“表現主義”的な作品の創出って気概も高まりはじめた時節であった。ジャンル的には恐怖・探偵映画。恐怖映画の始祖・プロトタイプと現在でも目されているらしい。 


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 ( 「カリガリ博士」とフォルムを異にした「血と霊」の美術セット。)

 この頃日本の映画界変動の時節だったようで、それまで歌舞伎と同様いわゆる女形が女役を演じていたのが西洋並みに女優を起用するようになり、後年の映画監督・衣笠貞之助の如くそれまでの女形俳優から脱却して一挙に監督に転じたりした者まで出てきた。
 この映画《 血と霊 》の主演女優・江口千代子もその娘役・酒井米子も女優。
 酒井米子は色々話題豊富な女優だったらしく、新劇の方で活躍していたのが芸術座で島村抱月が彼女に懸想したと松井須磨子にねたまれ確執となって力関係でか遠ざかり、世過ぎに一時芸者すらして映画会に入ったいう。
 外の映画会社が次々と新しい状況に対応した体制造りに入っていってゆく中、一歩遅れた日活(向島)も転機とばかりの一投石だったようだ、当時何を思い至ったのか仲間の口利きで映画俳優になろうと日活に接近した黒石、待ってましたとばかり既にベストセラー作家だった黒石を、俳優としてじゃなく、早速脚本部に採用してのなりゆき。
 大泉黒石=辻潤なんて交友圏には石井莫はじめ演劇関係者なんてざらで、その伝手なんだろうが、そういえば辻潤すらが舞台に立ったことがあったのだから、そう奇矯なことがらでもない。いわんや黒石って日露のハーフ故に息子の大泉晃より一枚上手のイケ面だったから尚更。只、長州出自の割には随分とバタ臭い風貌の日本歌謡歌手・藤原義江はその欧州帰りってところが売りだったのだろうしあくまでオペラ歌手ってところで付加価値だったにしても、大画面に現れる映画俳優としては、まだまだ違和感があり過ぎてなじまないと判断されたのだろう。息子の晃はクォーターなので大部白人臭も薄らいでいて、戦時下にあっても堂々と名子役としてデビューできたのだろう。
  
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 ( 演劇界で増井須磨子と覇を競ったという酒井米子。この後も何作か溝口健二の作品に出ることになる。)

 
 まず映画の冒頭、スクリーンに、つぎの文言が提示されたという。


 「 『 霊の生活は血の中にあり 』と旧約聖書にあるが、血の中には恐らくある種の神秘が潜んでいる。しかしそれは一切の聖餐礼が不可解であるやうに、私たちの智恵や判断ではとても解釈のできないものである。」

 
 黒石、時間的余裕がなかったからか、流行りの《 カリガリ博士 》を意識してか、同じドイツの作家・ホフマンの《 スキュデリー嬢 》を元に独特の黒石世界を展開してみせた。
 中沢的には“分身と憑依”、“遺伝と感応”であり、四方田的には“孤児流謫”、“異邦人の血の宿命”ってとこなんだけど、二人とも黒石の十八番ともいえる中国志向(シノワズリー)を指摘し、四方田はこうも言っている。


 「 黒石が強調しているのは、長崎が歴史的に形成してきたエスニックな多元性である。江戸時代に鎖国政策の中にあって唯一例外的に、清国人とオランダ人の居留を許可してきた都市という事情が、この地にコスモポリタン的な雰囲気をもたらした。黒石にとって長崎を語ることは、混血児としてのみずからの起源を語ることに他ならないことだった。《 血と霊 》という小説は、こうして、『 土地の精霊 』 都市の固有性を前提として成立した作品である。」


 《 カリガリ博士 》の大胆な独特の象徴主義的意匠(セット)とは又一種別様の暗鬱な不安神経症的なフォルムにおしなべられた空間(セット)の下、長崎の中国人宝石商と日本人女流画家の織り成す赤々と血塗られた秘話。
 当時の《 キネマ旬報 》に内田岐三雄の映画《 血と霊 》の要約がある。


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 ( 鳳雲泰を演じた水島亮太郎)


 「それは或る街の出来事であつた。何の目的で行はれるのか犯人は誰であるのか解からない不思議な殺人が毎夜の様に街の人々を戦慄させてゐた。併し或る夜、宝石商人鳳雲泰の弟子牛島秀夫が、彼れは鳳の娘・アシと恋仲であつたが、鳳の死体を担いで街を通った事がある。そして牛島が犯人として捕へられてからは殺人がパッタリ止んだので人々は牛島こそ犯人であると思った。併しその後、矢張この渦中に巻き込まれた杉貞子といふ画家が獄中に牛島を訪ねた時に彼れの語るを聞けば、真の犯人は鳳自身である。鳳は宝石に対する極度の誘惑を感じた。それは鳳の母からの遺伝であつた。宝石に対する誘惑は遂にその所有者を殺して迄も、宝石を得んとする行に出たのである。而して、最後には鳳も酔漢と争つて却て己れの死を招いたのであつた。」


 当時は文字通りまだ異国情緒たっぷりだったろう長崎は中国人街“籠町”を舞台に、連綿と続く人間的業の紅蓮の炎燃え盛る相克図。
 映画評論家・四方田犬彦はこの映画の失敗をこう分析する。
 

 「 溝口健二による《 血と霊 》の脚色と監督に欠落していたのは、原作者がかくも拘泥した長崎という都市のローカリティであり、エスニシティであった。」


 「 溝口健二は原作小説を単純に、猟奇殺人をめぐる探偵物語であると了解した。彼は表現主義の衣装や舞台装置に興味こそ抱いていたが、それが敗戦( 第一次世界大戦 )直後のドイツ人の集団的な心象に起因するとはまでは考えがいたらず、西洋から到来したモダンな流行という程度にしか理解していなかった。そのかぎりにおいて、表現主義は探偵小説と同様、モダニズムの意匠にすぎなかった。」


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 ( 主人公の牛島を演じた三桝豊)


 当の黒石自身はこう反省の辞を記している。

 「 ・・・私は日本の俳優達が、未だ表現派といふものに理解がないのを惜しんだ。今度の『血と霊』に於ても失敗は明らかに此点に多く存ずるのだと思って居る。それは無理な注文かも知れないが、俳優としても、もう少し斯うした方面に理解があって欲しいものだ。此頃第二の作品にかかってゐる。作者としても可成り馴れたりするから、今度製作にかかる時にはこれよりもっとよいものが出来ることと自信して居る 」

《活動倶楽部》(1924年1月号)

 すっかり黒石その気になって次作《 絨緞商人 》の自身の小説をもっと映画化に即した脚本に仕立てようと構想を練ってでもいたような口吻だけど、権力による盟友・辻潤の生命すら危うくした関東大震災の故にか、残念ながらそれは成らなかった。


 尚、先の復元を試みたパルテノン多摩でのプロジェクトで監修を務めた溝口の研究家らしい映画評論家・佐相勉《 1923 溝口健二 『血と霊 』》 1991年刊(筑摩書房)でも、佐相は復元を試みていて詳しいらしい。


 監督 溝口健二
 原案 大泉黒石
 撮影 青島順一郎
 装置 亀原嘉明
 制作 日活向島

 杉貞子(画家)       江口千代子
 鳳雲泰(宝石商)      水島亮太郎
 鳳アシ(雲泰の娘)    酒井米子
 牛島秀夫(雲泰の弟子) 三桝豊
 お里(乳母)         市川春衛


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 ( 大正の映画雑誌《活動倶楽部》)


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2016年10月 8日 (土)

崩壊の淵のパンドラの箱  路傍のピクニック

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 「 アスファルトは一面にひび割れていて、亀裂に雑草が生い茂っていた。だがそれはまだおれたち人類の草だ。そら、あの左手の歩道にはもう黒い棘草が生えている。あの棘草で、ゾーンがはっきりと自分の境界を引いているのがわかる」


 「 幅五十キロメートルの無人地帯。科学者と兵隊以外はいっさい近寄らせない・・・・・・どうやらことの始まりは、ストーカーたちがゾーンからそれ相応のものを持ち出してきたときだった 」


 「 あれはたしか〈電池〉だった・・・そう、たぶんあれから始まったのだ。ことに、それが分裂して殖えることがわかってからだ。疫病が必ずしも疫病ではないらしい、いや、疫病どころか、どうやら宝かもしれないということになったのだ・・・だが、今ではそれが何なのか──疫病なのか、宝か、地獄の誘惑か、パンドラの箱か、それとも悪魔なのか──だれにもわかっちゃいない・・・だが徐々に使い道が見つけられた」


 確かに、タルコフスキーの映画《 ストーカー 》(1979年)の世界と雰囲気は似ている。
 しかし、「二十年間、さんざんな目に遭い、数十億もの人間が死んでいった」という昨今流行でもある〈崩壊世界〉の只中で、ストーカーたちの溜り場=酒屋《 ボルジチ》において繰りひろげられる酒・女・金(ゾーンから持ち帰った品物の取引)そして喧嘩までが、終末論的なペシミズムというより、むしろ居直ったニヒリズムとでもいうべき楽観主義的様相を呈している。やがて巨大惑星が地球と衝突するというラース・フォン・トリアー監督《 メランコリア 》(2011年)の切羽詰まった終末論的供宴って趣きは見られない。

 ストルガツキー兄弟自身が、タルコフスキーの《 ストーカー 》は、自分たちの作品とはまったく別物と断言していたらしいけど、願いが叶うという《 黄金の玉 》こそが二つの作品の共通するテーマなのだろう。
 当時の絶対的現実、全体主義=ソ連の抑圧的なモノトーンな灰色世界からの脱却。
 唯一ソ連共産党独裁権力こそが人民の幸福=夢を実現できるというとっくに破綻し尽くしたドグマへの疑義あるいは否定。
 つまり、この夢・願望の叶う《 願望機 》=《 黄金の玉 》って、その単純過ぎるほどの記号化ってところなんだろうけど、同時にそれが西側=資本主義・民主主義の側のイデオロギーとしても幾重にも絡まってさながらゆらめくプリズムのごとく。如何様にも脚色できる面白い主題に違いない。


 映画の方じゃかなり的(まと)を絞った作りになってたけど、原作の方は(SF)小説的奔放さで、来訪者あるいはゾーンからもたらされた色んな事物・事象を網羅し、未知の力と罠の隠された崩壊世界を演出している。例えば、その中の一つに、“ 突然変異を誘発するゾーンの作用”って奴がある。


 「 だれか一人(理髪師)が移住・・・たとえばデトロイトへ移住したとする。そこで理髪店を開業するが、思いもかけない異常なことがはじまる。客のうち九十パーセント以上が一年の間に死んでしまう。つまり交通事故に遭ったり、窓から転落したり、ギャングや強盗に斬殺されたり、浅いところで溺死したり・・・デトロイトで災害件数が増え・・・送電線の故障による火災の頻度が二倍にはねあがり・・・・・・来訪地域からの移住者が住みついたところは、都市であろうと田舎であろうと異変が起こり、その件数は、異変発生地域に住みついた移住者の人数に正比例している。・・・そういう作用を及ぼすのは。来訪そのものを体験した移住者に限られているという 」


 如何にもって感じのムードを盛り上げるにはかっこうのエピソード。
 これだけでも、物語・映画ができてしまいそうだ。しまいには、ゾンビー現象すら派生し、ストーカー=レッドのとっくに死んだ親爺さんもご多分に漏れず姿を現し、すっかり彼の家に住みついてしまう。只、ゾンビーのゾンビーたる由縁の、生前の如く生き生き・溌剌の欠如した生ける屍状態。
 映画と違ってやっぱしSF小説世界、予算がかかる訳もないアイデアの凝った設定・小道具満載で中々面白い。けど、あのタルコフスキーの仄暗い物陰や水底にひっそりとゆらぐ“来訪”的痕跡、静謐な荒廃世界も独特で捨てがたい。
 尚、ストルガツキー兄弟が映画化したかった《 路上のピクニック 》のシナリオも、アルカジイ・ストルガツキーの手によって、もろ《 願望機 》(群像社)というタイトルで出版されているという。
 

      《 ストーカー 》(オリジナルは「路傍のピクニック」) 
     アルカジイ&ボリス・ストルガツキー 訳・深見弾 (早川文庫)

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