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2016年12月の3件の記事

2016年12月31日 (土)

藍凧、青天に襤褸のごとく 『 青い凧 』(1993年)

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 甍と白煙、土埃舞う胡同の路上に子供達が遊び、驢馬車がポクポクと荷を引いてゆく。と、ある民家の門の中に、大八車で運んできた簡素な家具類を運び込む男達。新婚の樹娟と少竜の二人の新居に収めるためだ。その時、何処かから、ラジオのソ連の最高権力者スターリンの死を報じる声が流れてくる。1953年3月5日午後9時50分死亡・・・


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 1953年といえば、“第一次5カ年計画”の発布された新生(人民)中国発展の基礎となった年であり、日本では、京都・舞鶴港に、ようやく中国大陸からの引揚者一行を満載した帰国第一便が到着した年でもある。まだまだ戦争の残煙が色濃く烟(けぶ)っていた時代。
 親族や仲間、近所の親しい住民が集ってのいたって簡素な結婚式で、壁に掲げられた毛沢東の肖像に二人が一礼をし革命歌を唄うシーンって、四年前に中華人民共和国として独立し、ようやく建設の端緒についたという、まだまだ新生中国に夢と希望を抱いた溌剌の象徴なのだろう。
 小学校教師の樹娟(シューチュアン)と図書館司書の少竜(シャオロン)、そしてやがて生まれる鉄頭(大雨)の3人家族の、乾井という胡同を中心に物語が始まる。
 少竜はじめ、3人も伴侶が替わった女主人公、田壮壮監督の母親・于藍(ユイ・ラン)を模したといわれる樹娟の、揺れ動き続ける新中国=人民中国の時代の波に呑まれ、惨澹の憂き目憂き目が、その伴侶の変転の次第を語ってゆく。
 当然に文化大革命の大波にも呑まれ、3番目の党幹部の夫も紅衛兵らによる糾弾の最中凄惨に死を余儀なくされてしまう。因みに、最初の夫・少竜は、“百花斉放・百家争鳴”で有名な整風運動の波に足下を掬われ、強制労働キャンプ送りになってそこで事故死し、2番目の夫・李は、彼等の友人でもあったのが少竜を右派として密告した張本人で、良心の呵責に苛まれ、彼等に誠心誠意尽くし続けたあげく病死してしまう。第5世代監督たちの自家薬籠中的定番手法でもある。


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 以前紹介した《 盗馬賊 》(1985年)も結構面白かったけど、この《 青い凧 》(原題 : 藍風箏)も悪くはない。中国じゃ上映禁止のままという。今更言ってみてもはじまらないけど、社会主義的リアリズムって、社会主義国なら常道だったはずが、いずこのマルクス主義国家(権力)も目の敵にしてあれこれと弾圧に走ってしまう。狭隘なこと限りない。“革命”とは真逆。タイの諺で謂う“(一度)虎の背に乗ると(もう)降りられない”って奴なのだろうか。権力(主義)の慣性と論理だ。
 それでも、ブログ見ると、田壮壮、それなりに作品発表し続けているようだ。
 章子怡(チャン・ツィイー)が3世代・3役演じた《 ジャスミンの花開く 》原題:茉莉花開(2004年)に、彼も制作総指揮ってポジションで関わっていたとは知らなかった。
 この《 青い凧 》、基本、胡同を舞台に描いていて、土の路、土塀、黒瓦屋根、朦々と壁から烟る白煙、群れなし戯れる子供たちの姿や、土の路からアスファルトの道路への時代の変遷も情緒たっぷり。


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 田壮壮の両親は共に映画(俳優・制作)に携わってきた生粋の映画一家らしい。
 ところが驚いたことに、ここでもあの江青の影が禍々しくとぐろを巻いていた。
 母親の于藍が有名俳優・趙丹と共演した《 不屈の人々 》原題 ; 烈火中永生(1965年)に、自分も原作が気に入って撮りたかったのを横取りされたと怨んで、わざわざ撮影所までやってきて難癖をつけたという。2年後、文革の嵐が吹き荒れ始めると、早速、于藍と夫の田方ともどもに“反革命分子”のレッテルを貼られ追及され投獄されてしまう。詳細はつまびらかじゃないけど、そもそも江青の目の上のタンコブ=趙丹と共演したとばっちりもあったかも知れない。田方は獄死したが于藍は生き延びた。が、獄中の身体的トラブルで女優の路を断念し、制作の方に専念することになった。
 その時の体験がこの映画にも反映しているらしい。
 3番目の党幹部の義理の父親の邸まで押しかけてきた紅衛兵の一団に、義理の父親が指弾され持病の心臓病を発症してもそのまま追及集会場か何処かへ連れ去られようとするのを、見かねて止めに入った母親も紅衛兵たちに暴力を揮われ一緒に連れて行かれてしまう。まだ少年の鉄頭も何とか母親を取り返そうとするも多勢に無勢、思い余ってレンガを手に紅衛兵の一人に殴りかかりはするものの直ぐに袋叩きにされ、地面に臥(よこた)わったまま、ふと空を見上げると、木の枝に引っかかった藍い凧が風に小さくなびいていた。原題の《 藍風箏 》の藍って、母親・于藍の藍でもあるのだろう。
 しかし、遺憾なことに、江青の名も、名付けた者が、“青出於藍更勝於藍”から取ったらしい(別の説もある)。彼女の上海女優時代に使っていた“ 藍蘋(あおりんご) ”から発想したのだろうが・・・


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監督 田壮壮
編劇 肖矛
音楽 大友良英
樹娟 呂麗萍
少竜 濮存昕
李  李雪健
制作 北京電影製片廠(1993年)

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2016年12月23日 (金)

インド=ボリウッド 旅先のポストカード

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 旅先の見知らぬ街や路地裏で、ふと見つけた絵葉書(ポストカード)って、それが安っぽく通俗的なものであればあるほど、ポップでキッチュな味わいってものが醸し出されてて、つい手にしてまう。
 その典型がインドの神様絵葉書や映画俳優絵葉書だろう。
 かつてイラストレーター横尾忠則が彼の土俗的サイケデリック世界のモーメントとして好んで駆使してた世界でもある。
 部屋の戸棚の奥のぶ厚い封筒の中に20年近くの歳月( 一瞬ドキッとさせられてしまう言葉だ )を経た、まだまだ残っている何枚かを取り出してみた。


 ギータ・バリ

 1930年生まれの1965年死亡(天然痘が死因)故って訳でもないんだろうけど白黒写真に着色した何ともレトロな仕様で、発行所がボンベイ(デリーの住所も)ってのが、如何にも時代を感じさせてくれる。
 大部以前、グル・ダットと共演した《 バーズ 》(1953年)を紹介したことがあった。男まさりに剣を振りまわす愛らしいお嬢様役を好演してて、表情豊かなこの時代を代表する女優の一人らしい。でも、35歳で病死とは早すぎる。
 グル・ダット監督作品にはこの《 バーズ 》も併せて3回出演してて、この作品だけダット本人と共演。他の2作は、売れっ子男優デヴ・アナンダとの共演。
 まだパキスタンがインドから分離独立する前のパンジャブで生まれ、その後アムリトサルに長く住んでいたようだ。アムリトサルといえば、ヒンドゥーとイスラムの中間的な宗教らしいシーク教の本拠地で、彼女の父親もシーク教の宗教音楽歌手でもあり哲学者でもあったという。
もし長生きしていれば、1984年のアムリトサルにあるシーク教本山にたてこもったシーク教徒過激派をインド軍が襲撃し多くの犠牲者を出した“黄金寺院事件”を経験することになったろう。


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 ラタ・マンゲシュカル

 インド映画の女性プレイバック・シンガーとして有名過ぎるぐらい。
 唄った曲が何万曲というギネス記録すら持っているらしい。
 1927年生まれで、現在も元気で活躍しているようだ。
 彼女の存在を初めて知ったのは、イラン→パキスタンで一緒になったカメラマン氏に教わった時で、イランから西パキスタンの要衝クエッタに入ると早速レコード屋に走り彼女のミュージック・テープを買い求めていた。
 若い頃の彼女を知る訳もない当方だけど、聴かしてもらって、当時60歳代の彼女の歌声って、インド独特の文化的産物だなと感心してしまった。大御所然として悪くはないのだけれど、やっぱしも少し若いアルカ・ヤグニクの方が声が艶やか。
 
 1960年代、彼女は男性歌手マダン・モハンとコンビを組んでヒットを飛ばしていたらしい。マダン・モハンは中東イラク・クルディスタンのエルビル生まれのインド人で、7歳ぐらいの時家族と一緒にパンジャブに戻ってきたという。ガザール(宗教音楽)歌手であり、作曲家、音楽監督でもあって、シャールーク・カーン&プリティー・ジンタ主演の《 ベール・ザーラ 》(2004年)でも、ラータ&マダンと同世代の監督・プロデューサーのヤシュ・チョプラの思い入れだったのか、30年前に亡くなったマダン・モハンの曲をラタ・マンゲシュカルと他の男性歌手とのコンビで唄わせていて、中々雰囲気があって良かった。その音楽だけのメイキング映像が別途一枚、映画のDVDに封入されている入れ込みよう。
因みに、モハン、クルド育ちといってもイスラムじゃなく、ヒンドゥーらしい。


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 シュリ・デヴィ
 
 本物のボンベイの路上生活少年少女たちを主人公にしたミーラー・ナイール《 サラーム・ボンベイ 》(1988年)の映画館の場面で、少年たちが画面に映し出された人気女優のダンス・シーンに合わせて客席で踊り出すシーンがあった。その銀幕上でインド中を席巻した彼女の代名詞ともなっていたらしい“ハワ、ハワイー”を踊っていた女優こそが、シュリ・デヴィだった。彼女の名と姿を日本国内でマイナー・ヒットしていたその映画で初めて知った。
 劇中での歌や踊りって、何もインド映画だけのものじゃなく、邦画界も嘗ては東映の時代劇なんかもやっていたのはレンタル屋で確認できるだろう。そういえば、相当昔、どこぞの名画座で、高倉健・三国連太郎・北大路欣也・小林稔侍なんかが、埃っぽいスラム街で、ハリウッド映画を標榜したらしい歌と踊りのシーンがはじまり、マジすか!と暗い客席で両の眼が点になったのを記憶している。深作欣二監督の《 狼と豚と人間 》(1964年)だった。 
 
 1963年、南インド・タルミナドゥー州生れ。
 小さな頃から映画界に入り、ローテイーンの頃にはタミルや他の南インド諸州の映画に出演し、ブロックバスター・ヒットした有名男優ジータンドラと共演した《 ヒマトワラー 》(1983年)で、本格的なボリウッド(ヒンディー映画)・デビューを果たしたってことらしい。
 彼女の名を不動のものにしたのは、やっぱり1989年の《 チャンドニィー 》のようだ。
 ヒット・メーカーのヤシュ・チョプラが監督し、得意のダンスも人気を博した、80年代を代表する映画の一つともいわれているらしい。
 パキスタンはペシャワールの、もうなくなったが90年代初頭まだ営業していた《カイバル・ホテル》に泊まっていた日本人娘が、シュリ・デヴィの大ファンで、わざわざレンタル屋でその《 チャンドニィー 》のビデオ(当時はカセット式)を借りて、旧市のバルーチだったかパシュトンだったか忘れてしまったがその部族専用宿に泊まっていた長期滞在の日本人の部屋でみんなで観たことがあった。“チャンドニィー、オ・メレ・チャンドニィー”と唄いながら画面のシュリ・デヴィと一緒に踊り出してのを覚えている。

 2012年に、《English Vinglish》(邦題 マダム・イン・ニューヨーク)で、15年ぶりにカンバック。


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2016年12月10日 (土)

1995年 夏の北京

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 1995年7月上旬、夕刻に北京空港に到着。
 初めての北京ってのもあるけど、余り嬉しい時間帯じゃない。
 けれど、日記を読み返しても、どうにも記憶が甦らない。
 その六年前の、海外旅行から中国行から何から何までもが初めてだった上海空港の、すっかり夜の帳もおりた暗闇の中に、群がり蠢く薄明かりに照らし出された胡散臭げな男達が一斉に声をかけてきた時のリアルな迫力は記憶に刻まれているんだけど。
 それはタクシーの運転手たちだった。
 当時はまだ天安門事件の余韻醒めやらぬ時節で、その上、当時中国で相次いで邦人殺害事件も起こり始めていたこともあってか、首から大きな身分証を提げたおばさんたちが、運転手達の間に立って大丈夫かどうか受け合ってくれていた。面喰らい、心細くもありながらも、ままよ! とばかりその運転手のタクシーに乗り込んだのであったが・・・正に中国映画の、暗い夜闇の一コマ、影絵の世界であった。


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 が、もう中国自体がそんな状況じゃなくなっていた時代の北京ではあったものの、さっぱり不案内で、やはり一筋縄ではいかなかった。
 空港ターミナルからリムジンで北京駅まで行ったのはよかったが、目指す《 北京僑園飯店 》行の20番のバスの乗場が見つからず、あたりは次第に暗くなってくるし、仕方なくタクシーに乗る。とりあえず30元に値切った。
 ところが、天安門から前門へと進んだ後、まっすぐ運河の方に向かわず突然右折してから運ちゃん、延々と少し行っては通行人に路を尋ねまくり、その毎に毒づきつづけた。その知らぬ態の真偽の程は定かじゃないけど、地方からの出稼ぎ組だとあり得る話で、すっかり諦めた頃、するりと 《 北京僑園飯店 》の看板の前に止まった。
 入口に坐っていた青年に尋ねると、あっちに票処があるからあっちへ行けと言われ歩いてゆくと、《 国家教育委員会留学生招待所 》の看板があって、そこのガードマンに"駄目だ!"とけんもホロロに追い返されてしまった。先っきの青年を連れて行って試みてもやはり不可。 結局、その同じ通りの先にあった《 北京永定門飯店 》にチェック・イン。時計は10時を廻っていた。ドミトリーはなく、三人部屋を借りきりで何と、99元。泣く泣く100元札を一枚渡した。部屋は、ソファーにテレビ、テーブルも備わった中国宿の定番だったけど、上海の浦江飯店なんかと較べようもない代物。水浸しの狭苦しい共同のシャワー室に白人の泊客たちが素っ裸で押し合いへし合いしているのを見て辟易し、食事もとらず、パンツ一丁で寝てしまった。
 何とも蒸し暑い北京の夜ではあった。
 100ドル=821元


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 翌朝、早速ホテル横のバス停〈沙子口〉から、25路のバスで虎坊橋の《 遠東飯店 》を尋ねた。
 一番安い部屋で95元という。
 《 北京恵中飯店 》は見つからず、やむなく《 北京永定門飯店 》に泊まることに。
 尤も、5日分先払いで75元ってとこに落ち着いたが。
 今回の北京行の目的は、未踏の中央アジアに一歩踏み入れるための先ずはカザフスタンのビザ取得と、上海じゃ幾度も観ていたもののやっぱり本場北京での京劇鑑賞って訳だった。結論から先に言えば、大スカ! やっぱり北京だった!


 次の日は懸案の本場の京劇鑑賞ってことで、45路のバスで天橋まで行き、そこで乗り換え、王府井で降りて東単から王府井大街へ。王府井横にあるはずの王府井書店は無人の廃墟と化し、吉祥劇院のあるはずの金魚胡同の広い一角までもが、何と工事中。
 これが北京一の繁華街なのかと眼を疑った。
 青いシートと上空を舞う白っぽい工事の塵埃ばかり。
 天橋劇場も外壁が残っているだけ、あった首都劇場は京劇じやなくて現代劇の方だった。
 王府井近辺に行けば、庶民的な小さな京劇院もあるはずだったのが、一軒も見つからなかった。
 マジすか!
 雲南の州都・昆明の旧市街の壊滅的再開発さながらって訳で、訪れた時期が悪過ぎた。
 結局、前門にある前門飯店の中にある外人観光客御用達の梨園劇場で、テーブルで飲み食いしながらの白人観光客たちと一緒に、勿論後方座席には地元の中国人たちも陣取ってはいたけど、孫悟空なんかを観る羽目になって・・・心底情けなかった。


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 建国門にあるCITS( 中国国際旅行社 )ビルに行き、あっちこっちの旅行会社や事務所でカザフスタンのビザが欲しいのだけどと訊いて廻るも、何処も不可能で、自分でカザフ大使館に赴いて取りに行く他ないと言う。《 地球の歩き方 》を読んでみると、バウチャーを作ってもらってから自分で大使館に取りに行くという手筈のようで、どうもCITSビルに入っている旅行会社じゃまず無理。のっけから、本場の京劇も中国からのカザフ=中央アジアへのアプローチも頓挫し、今回の中央アジア行自体断念する他なくなってしまった。( 最終的には、雲南・昆明から空路バンコクって運びになり、東南アジア行に変更。)
 因みに、この建国門の大使館街の並木って柿の木で、随分と大きく、既に青い実が沢山なってて、秋にはさぞ壮観だろうが、やがて熟し始めると次から次へと落下して、舗道は潰れた柿の実で鬱陶しい事態になるのじゃないだろうかと、他人事ながら気になってしまった。


 この頃の北京はともかく蒸し暑く、窓の少ない風通しの悪いバスの女性車掌も犬のように喘いでいた。
 32、3℃にもなる部屋には一応四角いファンが置いてあったけど、首の回らない固定式だった。殆ど、つけっぱなし。
 近くの果物屋の店頭には、桃、西瓜、マクワ瓜、ハミ瓜、葡萄、リッチー(茘枝)、マンゴー、バナナ、プルーン果ては椰子の実まで並んでいた。茘枝はあっちこっちで売られ、旬なのだろう。中国桃(3斤で10元 : 1斤=600グラム)を買った。味は悪くはなかった。

 
 ハルピンは治安が悪く、最近留学生がよく殺されてて、陽が落ちると誰も外出しないと嘆いていたハルピンの日本人留学生は、最初ぼくにシェアーを求めていたが、結局、他の日本人と3人部屋をシェアーし、一人74元と言う。彼は毎回北京を訪れた際には、件の《 北京僑園飯店 》に泊まっていたのが、今回工事中につき閉鎖中で、やむなくこの《 北京永定門飯店 》に泊まることとなった由。来月には再び営業を始めるらしく、服務員の態度も良く、ワン・ベッド幾らだと言う。このホテルも、今月17日から修理のため営業停止らしい。
 もう、北京中が工事、工事、営業停止って最悪の状況だ。

 雲南コースに変更したため、部屋代の高い北京には長居は無用ってことで、北京駅に昆明行の列車チケットを買いに行った。
 向かって右側の入口から入り、左奥の外人客用の待合室の奥にある国際旅客のチケット売場で、申込用紙と10元の手数料を払って、所定の窓口に持っていってチケット代を支払う。
 硬臥=568元。
 ホテルが閉鎖になる前日の16日発。
 2泊3日(53時間)の旅で、夕方5時頃昆明に到着予定。
実は、乗った後になって、この列車が実はエアコン車両だったのに気いた。
 よく見ると、チケットに“空調”と記してあって、初めての中国エアコン列車体験となった。



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